それからの3日間はますます上の空で過ごす瞬間が増えた。
何があっても金曜日に響かせまいと、一生懸命仕事を片付けるのだが、
気がつくと別のことを考えている。
それは隣の席の孝太郎にも伝わった筈だが、何だかもうお手上げ気分で見ているようだ。
疲労がたまっていると思われたらしい。
「まどか、今週は休日出勤しないで、うちでゆ〜っくり休んでくれ。」
ハゲ課長にまで言われる始末。ま、ありがたいお言葉だけど。
やっと金曜日になった時には、まどかの気持ちも何だか疲れて来ていた。
”忙しいのに都合をつけてくれて有り難う。
また○ンダリン・オリエンタルホテルのロビーで、7時に待っています。神待里。”
何度も確認したメールを、ついまた確認する。
服装はさんざん考えた挙げ句、胸元がカシュクール型に打ち合わせになって、
ウェストでベルトを結ぶタイプのニットジャージーの黒のドレスにした。
ネイルもパンプスもベージュに統一して、シックな大人風に見えるだろうか?
まさか、地味なおばさんに見えないわよね?
「今日はまたお洒落してますね。どっか行くんですか?」
たちまち孝太郎に見破られる。
「うん、たまには友達にでも会う事にしたの。おいしい物でも食べようって。」
にっこり微笑みを返す。口元が緩まないように気をつけなきゃ。
「じゃあ、お先に失礼します。良い週末を!」
まどかの声に課長が一瞬顔を上げて、ああ、と呟いた。
金曜の夜のホテルのロビーは一層華やかだった。
スーツや思い思いの服装でドレスアップした客が、次々にすぐ下の階に吸い込まれていく。
ここに来てからお化粧を直し、ほんのかすかにパフュームをつけて、38階のロビーに戻った。
今度は、歩き回らずにソファに座って待っていることにする。
ああ、でも落ち着かない、ドキドキする。なんと言って挨拶したらいいんだろう。
うまく言葉がでるかしら?全く、このわたしが上がるなんて・・・。
フロントパーソンの背中に広がる夜景を見ていると、下の階から生ピアノの演奏が流れてくる。
何の曲かしら・・・?
「まどかさん・・・」
低いささやき声がすぐ近くで響いた。
気がつくと、もう神待里がそばに来ている。
思わず、ソファから立ち上がった。
「今晩は。」
こうして間近で実際に彼の顔を見ると、この3週間会いたくて、
会ったら言おうと思っていた言葉が全て消えてしまった。
本当にまた会えたんだわ。
自分の中に封印していた思いがまた、どっとわき上がってくる。
ああ、もう、これはダメ・・・。
まどかは心の中で呟き、彼の顔を見て何とか笑みを浮かべると、
「お帰りなさい」と言った。
神待里の方も少し黙っていたが、照れたように笑うと、
「やっと会えましたね」と、言葉を押し出した。
「ええ、お忙しかったでしょう?」
「かなり。でも、もう終わりました。
来週の月曜に東京オフィスに出社するまでは何もありません。
久しぶりにゆったりした週末を過ごせそうです。」
「そうですか。」
「さて、何を食べたいですか?
実は、ここから少し行ったところのレストランを予約してあるのですが。
何でも一軒家を改造したところで、小さな庭がついているんだそうです。
それとも、何か他に希望がありますか?」
「いえ、是非行ってみたいわ。」
「良かった。実はよくわからなくて、今回は弟に助けを求めたんですよ。
僕も行ったことがないんです。では、行きましょうか。」
玄関に出るエレベーターの中で尋ねてみた。
「弟さんは日本にいらっしゃるのですか?」
「ええ、今はいます。そのうち紹介しますよ。
尤も初めて会うと、ちょっと驚くかもしれないけど・・・」
ど、どんな人なのかしら?
ホテルからタクシーでほんの少し行ったところに、そのレストランはあった。
古い西洋館風の邸を改造した造りで、入り口から入ると建物の中は意外に広い。
庭の見える席に案内される。
庭にも幾つかライトが設置してあり、夜でも景色を楽しめるようになっていた。
「素敵なお店ですね。」
「気に入ってもらえて良かったです。」
少しほっとしたような笑顔を見せた。
「東京では、これからどこに滞在されるんですか?」
「滞在だなんて。まずは家に帰りますよ。
両親もブラジルから戻ったばかりで家の中が落ち着かないから、
最初はホテルで休んで、日曜日にはひとまず親の家に帰ります。
弟も帰っているだろうし・・・」
「皆さん、喜んでるでしょう?」
「そう、両親ともすごく喜んでる。
僕は高校もNYの寮にいて、小学校少しと、中学、大学だけ実家に居て、
またNYに行ってしまいましたから。
世話を焼きたがってるんですよ。ちょっと怖いくらい・・・。」
口ではそう言っているものの、彼もそれが嬉しいようだった。
仲の良い家族なんだわ、きっと。
「お仕事はどうです?」
「あ?ええ、相変わらずです。要領が悪くて・・・」
「あのすみれ銀行の副社長とは、父が昔知り合いだったんですよ。」
「誰かから、何となく伺いました。留学仲間だったとか・・・」
「そうです。その後、父は商社マンとして中南米の専門になり、
すっかり道は分かれてしまったようですがね。
父は見た目もちょっと日本人離れしていて、
日本に帰ってくると英語で話しかけられることもあるみたいです。」
へえ、何だか楽しそうなお父さんなのね!
まどかは思わず、声をたてて笑ってしまった。
どうにか緊張がほぐれてくると、今度はやたらに笑いたくなってくる。
何でこんなに浮かれてるのかしら?
ただの知り合いなんだから、いい気にならないようにしないといけないんだけど。
しょうがないわ、うれしくてたまらないんだもの。
食事が済んでから、少しだけ庭を散歩した。
白や青の小さな花や、刈ったばかりの芝の匂いが夏の気配を漂わせているが、
風だけは湿気を含んで少し冷たい。
金曜の夜なのでテーブルは満席だったが、庭を歩いている人はそう多くはなかった。
「向こうで、何度もあなたの事を考えました。」
ぽつん、と言われて、まどかはひんやりした庭の道でかっと熱くなった。
「あなたは、僕のことを思い出してくれましたか?」
「もちろんです。」
「そりゃ、そうですよね、強烈な出逢いだったから・・・」
と、笑い出す。
あの夜の廊下での出逢いのことを思い出すと、今でも身がすくむ。
わたしは、全裸で出逢った時の彼を思い出していた訳じゃないんだけど、
彼の中では一生忘れてもらえそうもないわね。
と、ちょっとショボンとして下を向いた。
「実は、あなたに渡したいものがあるんです。
こう言ったら、また警戒されちゃうかな?
レストランで渡そうかとも思ったんですが、
できれば回りに誰もいない時に渡したいな、と思って。
良かったら一杯だけ付き合ってもらえませんか?」
「ええ、わかりました・・・」
ダメだ、ここから一緒にジャンプして、飛び降りてくれますかって言われてもやっちゃいそう。
抵抗できそうもない。
ああ、何バカなこと考えてるんだろう。ジャンプなんて!