AnnaMaria

 

続・裸でごめんなさい  16. すれ違いの夜

 

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「部長、今日はもうよろしいですか?」



安川部長は田代専務に渡す書類をチェックしているところだった。

傍らに、榎本ルナが立ってこの書類を待っている。

「お、まどか、今日は早いな。
 何かいい約束でもあるのか?」

「ええ、すっごく良い約束があるので、できれば遅れたくないんです。」

「そうか、じゃ、ゆっくり楽しんで充電して、また明日から仕事してくれ。
 お疲れさん。」

「お疲れさまです。」

ルナにも声をかけられ、まどかはちらっと手を挙げ、
まだ隣席にいる孝太郎にもうなずくと、久しぶりに定時に近くデスクを立った。


「今日、専務は例の取引先と会合だったよな」

「ええ、先方のご希望で、神待里さんも同席されることになっているんですが・・・」


部長とルナの会話のしっぽを背中に、部屋を出る。

明日から、隆がNY出張に行く。
だが、今夜は専務と共に、取引先との会合に出席する予定で、
会食はいつ終わるかわからず、残念ながら会えそうもない。
予め、それを知っていたので別の約束を入れてしまったのだ。


はああ、しかし
別の約束って、こんなのしかないのかしら・・・わたし。

初めて訪れるレンガ色のビルの前で、まどかはため息をついた。
ビルのエントランスをくぐって、エレベーターに乗り、目的階のボタンを押す。


サニーサイド・アカデミー。

悪いけど、ダサい名前ね。


「いらっしゃいませ」

「今日、こちらで英語のサンプルレッスンを予約した、栗原まどかですけど・・」

「栗原さま、お待ちしていました。では、あちらの部屋でお待ち下さい。」


ああ、英語って大学の時にやって以来、避け続けて来たら、
あんな形でやってくるなんて・・・

まどかはぴかぴかの隆の笑顔を思い浮かべた。

くぅぅ、しかし、始めるしかないのね。よし、トライだ!

バッグを反対の手に持ち変えると、決然と教室の中に入っていった。




「神待里さん!」


隆がホテルのロビーで、田代専務の姿を探していると、足元のソファから
榎本ルナの声がした。


「ああ、榎本さんも一緒だったのですか。
 田代専務はどちらに?」

「実は今日、取引先の取締役のお身内に急なご不幸があって、
 社員の方、みなさん、そちらに出向かれるようなんです。
 先方からうちとの会合は暫くの延期をと、申し入れて来られました。
 専務も一応、顔を出すことになって、急遽そちらに行っています。」

「そうでしたか。急な事で大変でしたね。」


そんな事情ならやむを得まい。
どうして連絡をくれなかったか、の言葉がまたも隆の口をつきかけたが、
替わりに微笑んだ。


「明日からNYにおいでなのを承知していながら、ご連絡できなくてすみません。
 昼間、専務と一緒の外出先で連絡を貰って、
 そのまま、この近くのお寺に直行してお焼香をして来たんです。

 気がついたら、もう待ち合わせの時間で、
 慌ててタクシーに飛び乗ってここに来てしまいました。
 色々ご予定がおありだったでしょうに、本当にごめんなさい。」


黒いスーツ姿のルナに素直に頭を下げられては、もちろん責める言葉など出ない。


「いえ、却って僕は助かりましたよ。では、明日から出張なのでこれで失礼します。
 田代専務によろしくお伝え下さい。」


軽く会釈をして、踵を返そうとすると、

「あの・・・!」

隆がもう一度振り向いた。


ロビーのシャンデリアの明かりを背に受けて、長身の隆のシルエットが際立っていた。
今夜はダークスーツをぴしりと着こなし、一部の隙もない雰囲気だったが、
軽く微笑んだ表情は、あたりの雰囲気をとたんに柔らかくする。

ルナは、顔が赤くなるのを感じたが、どうしても言わずにおれない。。


「あの、明日早いのは重々承知していますが、お食事だけでも一緒にどうでしょう。
 わたし、すごくお腹が空いてしまって・・・」


「榎本さん・・・」

「どこかで食事をなさるのでしょう?
 でしたら、今ではいけませんか。 どうか先輩のよしみでもう一度だけ付き合って下さい。
 そんなに長くお引き留めしません。本当に約束しますから・・・」


どうしてもダメですか?と畳み掛けられると、
隆も強いてと振り放すことができなくなった。


「わかりました。ご一緒しましょう・・・」


また、ふわりと微笑をうかべると、隆が先に立って歩き出した。

向きを変える時、スーツからかすかにフレグランスが立ちのぼり、
ルナは一瞬、息が止まりそうな気がした。



そのまま、二人でホテルのダイニングの展望レストランに行き、
向かい合って座るまで、隆は終止無言だった。


「すみません、無理を言って。
 それに考えたら、明日からずっと洋食続きですね。ここじゃない方がよかったかしら?」


隆の笑顔にはほんの少し苦いものが混じっていたが、どうせ、ここまで来てしまったのだ。
楽しい食事にした方がいい。


「いえ、構いませんよ。僕はいつでも、何でも食べられますから。
 それに、NYにも和食の店や寿司屋が多いのはよくご存知でしょう。」

「ええ、私がいた頃より、ぐっと増えたと、母が言っていました。
 ずいぶんおしゃれな和食屋さんも多くなったらしいですね。」


二人の良く知っている街の話題になり、しばらくは情報を交換することになった。



「神待里さんは、帰国されたばかりと伺いました。
 ずっとあちらでお仕事をされるつもりだったのでしょう。
 久しぶりに帰国されて、日本に対して違和感がありませんか?」


やや思いがけない質問に、隆はルナの顔を見た。
この質問をしたことを、瞳が迷っているようだ。


「たしかに僕にとって、日本での生活はほぼ11年ぶりです。
 でも仕事で何度か行き来していたので、街や人に違和感はあまりありません。
 NYでも、日本企業との仕事が多かったので、仕事内容が180度変わったわけでもない。
 僕が違和感を持ったのは、もっと学生の頃ですね。」


隆は軽く問うような眼差しで、ルナの方を見た。


「僕も仕事を始めたばかりの頃、お前の英語はわかりにくいから担当者を替えろ、とか
 アジア人に面倒を見てもらう気はない、と何度か言われたことがある。
 相手から金をもらって仕事をする以上、選択権は向こうにあるから、そのための努力はしました。

 ただ、日本人であることを捨てる気も、グローバルなビジネスをあきらめる気もない。
 半分ずつというより、両方の感覚を持ったまま、やっていこうと。
 これは、強みにもなるんですよ。」


ふと目を上げて、ルナに優しい微笑をなげかけた。


「田代専務はもちろん、あの会社の沢山の方が、
 榎本さんの細かい気配りや、能力の高さをほめていましたよ。
『今どきの日本人の女の子には珍しく』という形容詞も聞きました。
 
 つまり、人に気を配る優しさは、榎本さん自身の中にあるんです。
 日本人だからじゃない。
 『日本人はみんな周りに気をつかう』なんて幻想だって、
 仕事をしていればよくわかるでしょう?」


隆はおかしそうに笑った。


「その言葉はすごく嬉しいですけど、
 自分から敢えて、周りに気を遣おうと努めているところがあるんです。
 日本で暮らしていくなら、自分を主張するばかりじゃなくて、
 相手の立場を考えよう、って。」

「アメリカで仕事をしても、その考え方は生きると思うけどな。
 榎本さんが日本だろうと、アメリカだろうと、世界のどこに居ても、
 思いやりのある、優しくて有能な日本女性だということは変わりませんよ。
 でも、もう一度言いますが、それは榎本さんだからなんです。」


もっと自信を持ちなさい、ね?と隆が目の前のワインをルナの方に掲げ、
軽く乾杯をしてグラスを空けた。

ルナは心がふわっと軽くなったようだった。

自分のありのままを、こんな風にわかってくれる人がいる。
ほっとして、心に喜びが満ちてくると同時に、
隆の微笑がたまらなく輝いて見えた。



「自分のことを丸ごと愛して、理解してくれる人のいるところが、
 結局は自分の居場所になるんじゃないかな。
 そんな人との出会いを大切にしたらいい。」

「そんな人に・・・出会えたかと、思ったんですが・・・ 。
 もっと早くお会いしたかった」


ルナの小さなつぶやきはそこで途切れ、少し気まずい空気が漂った。
うつむいたまま、言葉はつい口からこぼれてしまう。


「栗原さんとお付き合いされていたこと、全然知りませんでした。」

「プライベートな事だし、取引先の人なので、
 お互いの仕事に差し障りがあるといけないと思ってましたから。」

「そうですね、まるで気が付きませんでした。
 あの、結婚・・・されるのですか?」


立ち入った質問に、隆の眉が少し上がったが、


「僕はそのつもりです。」


その言葉に、思わずルナが顔を上げ、


「僕はって、まだお返事をもらえていないんですか?」

「さあ、どうかな。あなたにお話することではありません。」


隆の顔から表情がさっと消えて、何を考えているのかそこからはうかがえなくなった。
ルナははっとして、あわてて言った。

「・・・ごめんなさい。とても立ち入ったことを聞いてしまいました。
 許して下さい。」

「いえ、大丈夫ですよ。では、そろそろ行きましょうか。」


隆の手が伝票を取り上げかけると、ルナが上からそっとその手を押さえた。


「失礼を申し上げて、ごめんなさい。
 どうか怒らないで・・・。

 今日は付き合って下さって有り難うございます。本当に嬉しかった。
 わたしには、あまりこんな風にお話を聞いて下さる方がいないんです。

 もし、あの、ほんとに時々でいいですから、
 ごくたまにでいいですから・・・また、食事でも一緒にして、
 わたしの悩みを聞いてくれますか?」


真剣なまなざしだった。
それだけに、どうしても頷くことができなかった。

隆はしばらく、じっとルナを見ていたが、ほんの少し微笑むと

「行きましょう。」

と声をかけて、今度こそ、伝票を手に取って立ち上がった。



清算を済ませて、ホテルのレストランのフロアを歩いていると、
廊下の向こうから、すみれ銀行の副社長と田代専務が、並んで歩いてくるのが目に留まった。
二人とも、会葬用の服装をしている。


「おお、神待里の息子か!奇遇だな。」


副社長が陽気に声をかけてきた。


「親父に似ないで男前だな。ふん、腹の立つやつだ。
 デートか?」


傍らのルナを見やって、冷やかすように言う。
もう少し酒が入っているようだ。


「いえ、そうではありませんが・・・」

「照れるな!デートじゃなきゃ、何で今頃、連れ立って歩いとるんだ。
 だったら、彼女をおっぽって俺とこれから飲みに出かけるか?」

「明日午前中の便で、NYに出張するのでなければ、お付き合いするのですが・・・」


隆の言葉に、副社長は豪快に笑い飛ばして、


「無理するな、無理するな!俺だってそこまで人非人じゃないわ。
 お嬢さん、すみませんな。今日は邪魔しませんからご心配なく・・・」


とルナに声をかける。
ルナが恐縮して「いえ・・・」と小さい声で応え、顔を上げると
後ろに控えていた田代専務と目があった。

専務はすぐに状況を理解したようで、副社長に向き直ると、


「副社長、こんな場所ですが、紹介させて下さい。
 彼女は僕の秘書を務めてくれている、榎本ルナです。」

「お、田代さんの秘書?
 いかんな、神待里君、取引先の女性に手を出しては・・・。
 田代さんもこんな色男から、大事な秘書を隔離しとかないと危ないじゃないですか!
 え、そうだろ?わはははは・・・」


副社長の誤解がますます進んでいくのがわかったが、
隆もルナも田代専務も、事態を説明する気力をもはや失っていた。


「悪いな、神待里くん、今日の分はいずれ埋め合わせする。
 では、副社長、お清めにもう一杯行きましょう。」


田代専務が二人に手を挙げて、副社長をうながし、廊下の奥へと消えていった。


「すみません、神待里さん。
 副社長に誤解されてしまいました。」


消え入りそうに俯くルナの言葉に、


「大丈夫ですよ。元々、人の話をあまり聞かない人なんだ。
 思い込んでいるところに説明しても、耳に入らないでしょう。
 榎本さんのせいじゃありませんよ。では、ここでお別れしましょう。」


笑って取りなすと、ホテルの外のタクシー乗り場までルナを送り届けて、
車に乗り込む姿を確認すると、携帯を取り出した。


まどかの番号を押す。


「・・お客様は現在、電波の届かないところにおられるか、電源が入っていません。」

ため息をついて、携帯を閉じる。


すれ違ったままだが、今夜はもともと会えない予定だったのだから、と自分に言い聞かせる。
まどかの約束がいつ終わるかも定かではない。


友達とおしゃべりでもしているのかな。


まどかをつかまえるのを諦めると、一転、明日の準備のことを考えながら、
隆は帰る方角に足を向け直した。




ルナは、タクシー乗り場まで隆と一緒に歩きながら、
彼の胸元からかすかに漂い出すフレグランスを、また嗅いだ。

食事中にも、何の香りをつけているのか、よっぽど聞こうかと思ったが、
それはとても親密な間柄のみに許される質問だからと思い直し、
何とか問いをのみ込んだ。

彼の付けている香りだけでも求めて、自分の側に置いておきたい。
でも、それは意味のない行為。
あの香りは、彼がつけて初めて完成するもの、でなければ、
瓶に詰まったただの化粧品の類いにすぎないし、
聞いた所で、この人が答えてくれるとも思えない。

この人はこんなにもわたしの心を掴んで離さないのに、
わたしは彼の心に、ほんのわずかなかすり傷さえ残していないのを思い知らされる。


黙って並んで歩いてくれている、この人の心は限りなく遠い。
今夜一緒に過ごせなかった彼女のことでも思っているのだろうか。
わたしのことは、なんとしつこい、邪魔な女だと思ったに違いない。


嫌われてしまったかしら・・・。


でも、たとえそんな風に思われても、
専務が来られないことを先に伝えるべきだったにしても、
やっぱり一目散にこのロビーに来てしまった。

だって、二人きりで彼に会えるのだもの。
あの姿がロビーを横切ってこちらへ歩いてくる姿を見ただけで、
もう座っていられない程、わくわくした。

わたしを見つけた途端、ほんのわずか問うような眼差しを見せたが、
それも一瞬ですぐに、あのしびれるような笑顔に変えてしまった。


わたしは何をしているのだろう。
彼の恋人が誰なのか、彼の口から確かめたかったのかしら?
思い違いであってくれたら、とほんの少し淡い希望を抱いていた。


この思いはどこへ行くのだろう・・・・


暗いタクシーの後部座席でふと気がつくと、
バッグを握りしめたルナの手の甲に、涙が幾つぶもころがり落ちていた。

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