AnnaMaria

 

青いプロフィール 3

 

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夏が過ぎ、秋が過ぎても過酷な研修日程はあまり変わらなかった。

二人で会える、時間はごくごく限られていたが、
それでも綿貫のハードスケジュールを縫って、
出逢う時間をわずかずつ重ねていた。

綿貫の会社での状況は相変わらず厳しい。

羨望や嫉妬、好奇の目を向けてくる者はいても
綿貫を理解し、風から守ろうとしてくれる者はそれほど多くない。

競争の厳しいプロの職場なのである。




8ヶ月を過ぎて、ようやく研修期間が終わり、
綿貫は希望通り、広告の企画制作部門に残ることができた。

ここからは、クライアント別にチームを組み、
クライアントの要求する仕事をこなしていく。

「広通」のような巨大な代理店では、
社内で競合相手のクライアントを抱えるのは珍しくない。

お互いのクライアントの秘密を社内で漏らすことのないように、
フロア分けや部屋割りが組まれ、
社内でも当然、競争する空気が生まれることもある。


チームの頂点は部長にあたる、クリエイティブ・ディレクター。

現場の指揮はプランナーがトップでとり、
コピーライター、アートディレクター、アシスタントプランナーなどで
チームを組み、実際の制作をこなす。

Gデザイナー、カメラマンなどは、仕事毎に外の制作会社と組むことが多い。





「お前、いつも大変そうだなあ・・」


社の玄関先で、のんきそうに声を掛けてきたのは、同期入社の小松だ。

毎年10人程度しか取らない、アート職で採用された男で
綿貫とは違う意味で、新人営業研修で苦労していた奴だった。

広告への一通りの知識と興味はあるようだが、
書式に沿って文章を書いたり、
営業での細かい気配りや、先を読むような小才はなく、
かなり頻繁に先輩に怒鳴られ、注意を受けているのを目にしていた。

目指すフロアへ、エレベーターを一緒に上がりながら、


「お前だって大変だろう・・・」


綿貫がそうやり返すと、人のいい笑いを顔いっぱいに浮かべて、


「ま、そうなんだけど、
 俺はできてないからしょうがないんだ。
 お前は飛び切り出来がいいのに、
 何でよってたかって文句ばかり付けられるのか、わからんよ。」

「俺もできてないんだよ・・・」


直人が軽く笑い返す。

エレベーターを降り、デスクに近づいても小松は憂鬱そうだった。


「いやあ、このクライアント先について、
 必要事項をまとめて資料にしろって言われたんだけど
 一体どうやってまとめたらいいのか、まるで見当がつかない。

 何度、出しても先輩がため息をつくんだよ。
 申し訳なくてな・・・。」

「ちょっと見せてみろよ。」


綿貫が手を出すと、小松は素直に資料をのせた。


「ここから必要事項を拾ってまとめて、
 企画書に添えられるものにしろって言われたんだが、
 どれが必要かって言われてもなあ・・」


のんびりした声に、綿貫は苦笑を漏らした。


「で、どんなのを出したんだ?」

「これだ。」


うわっ!


綿貫も小さく声を出してしまった。

コンパクトな資料とはほど遠い、凝ったグラフィックの表紙のもので、
その表紙の大胆さにまず度肝を抜かれる。

ページをめくると、中に美々しくグラフや表がレイアウトされ、
脇にその説明書きが申し訳のように添えられている。


「これじゃ、逆じゃないか。」

「先輩もそう言うんだが、一体何が逆なんだ?
 グラフは見易くしたぞ。
 どこをどうしたらいいのかわからないから、
 つい表紙に力を入れてしまった。」


小松は照れくさそうに舌を出す。

綿貫は具体的な資料の作り方を簡単に説明した。

短い言葉で、重要なものから並べ、最初に短い目次を付ける。
グラフや表は数字の推移を表すためのものに絞り、
全体で3枚できれば2枚以内にまとめる。


「そうか、助かったな。」

「できあがったら一度見ようか?」

「それは嬉しい。じゃ、メールで送るよ。」




こんなきっかけから、忙しい時間を使って、
時々、小松の企画書の資料作りを手伝うことになった。

先輩に何度提出しても、ボロボロに言われる点だけは同じだったので、
具体的に誰かの役に立てることが楽しかった。

小松は研修期間中も度々アートワークのアシストを任され、
複数のプロジェクトと組んで仕事をすることもあり、
綿貫より目立たないせいもあって、
色々な情報をもたらしてくれた。


「S社のCMプランナーをやってるKさんはS社の係累だ。」

「今、K社の広告のコピーでヒットを飛ばしている、Wさんは元は総務出身。」

「TさんとEさんはとんでもなく仲が悪く、
 企画のプランを盗んだ、盗まないで、
 会議室で胸ぐらの掴み合いになった」

「営業の○○さんがお前の熱烈なファンらしい。
 企画の○○さんがそのせいでカリカリしている。」


ゴシップの域を出ないものもあるが、知らずに仕事をしていると
とんでもないところから火の粉をかぶりかねない。

小松もそれを知っていて、綿貫の携帯に
ごく短いメール通信を送ってきた。




小松の個人的なスケッチブックを見せてもらう機会があり、
ぱらぱらめくっただけで、あまりの上手さに正直驚いた。

静物、グラフィック、デッサンと様々なものがあったが、
リアリティ、色使い、構図共にずば抜けていて、
素人の習作には到底見えない。


「小松って絵がむちゃくちゃ上手いんだな・・・」


綿貫が驚いて褒めると


「まあな、他に取り柄がないんだよ。」


と恥ずかしそうに頭をかいた。



広通ダブル受賞で入社したものの、逆風にあおられ続けの綿貫と
絵やデザインの感覚はずば抜けているが、
一般常識や書類仕事が極端に苦手な小松。

全員がライバルの目をむけ合う同期の中で
あぶれ者同士のお互いを見いだし、救われた思いを抱いていた。

夏に書店のフロアで偶然会った江田夏希も、屈託なく綿貫に接した。


あの直後は

「あんなきれいな彼女がいたなんて・・・この!」

などと、からかうような言葉を通りがけに囁いたりしたが、
忙しい中、すれ違う時にVサインを出したりして、
綿貫の緊張を解いてくれた。




綿貫は一緒に仕事をしているチームの役に立とうと、
要求に完璧に応えるのに、まず全力を注いだ。

それ以外に参考になりそうな資料や
クライアントの市場情報を整えておいたりしたが、
チームの誰かから要求があるまでは、
決してそれを見せず、出過ぎた真似と取られないようにした。

チームの面々に、
自分だけが目立つスタンドプレーをするつもりがないことを
まずわかってもらわなければならない。

メンバーも次第に綿貫を重宝に思って、
用意した資料を使ってくれたり、
次に欲しい情報をそれとなく要求されたりして、
少しずつ、チームの中の信用を得ていった。

ぶっきら棒な話し方をなるべく改めるように努めていたが、
こればかりは性格もあってすぐには直らない。

自分の意見を聞く気のない者に聞いてもらうには、
それなりの話し方が必要なのは痛感したが、骨が折れた。

しかし、こうした目に見えない努力のお陰で、
綿貫の周りでは少しずつ風向きが変わってきた。





「木下って人、知ってる?」

「ああ、大学の先輩だ。あの人がどうかしたのか?」


珍しく小松と行きあったところで、思わぬ名前が出た。


「若手なのに優秀だと、Sさんが買っている人だ。
 何かでお前の話が出たら、ぴくりと反応したというか、
 何か真っ直ぐじゃない感じがしたんで気になったんだ。」


そうだろうな・・・。

逆風の一部が彼から出ていたとしても驚かない。
しかし、小松にそこまでの事情を明かすわけには行かなかった。


「その木下って人、お前のいるS&G社のチームに加わるかも知れないぞ。
 気をつけろよ。」


綿貫は内心、嫌な予感がしたが、
仕事の相手を選べる立場になどない。


「ああ、知らせてくれて有り難う。」





それから2週間ほどすると、小松が知らせてきた通り
綿貫のいるチームに、木下が加わることになった。


「綿貫、木下はお前の先輩だそうだな。
 ここでのメンター(社内での相談役)的な立場にもなってくれる人だから、
 聞きたいことがあれば、どんどん彼に相談しろ。」

「わかりました。」


チームのクリエイティブ・ディレクターが、木下を紹介した後、
綿貫を呼んで、話をした。


「よろしくお願いします。」

「こちらこそ、よろしく。」



一緒に仕事をしてみると、木下は実に優秀だった。

彼の豪放な明るさがチーム内に前向きな雰囲気をもたらし、
彼の細心で周到な部分が、ミスを防ぎ、制作の完成度を高める。
綿貫は感心していた。

が、3週間程経ったある日、
クライアントとの打ち合わせの日に綿貫が出勤すると、
チームの部屋がガランとして、製作中の版下やゲラまでがない。

出勤の定時より30分以上前だし、
打ち合わせまで、まだ1時間近くあるので、
メンバーが来ないのは理解できても資料がないのが不審だった。

何となく胸騒ぎがして、
チームの一人のアート担当の先輩の携帯に連絡をした。


「綿貫、打ち合わせがS&G社に変更になったんだぞ。
 昨日、メールをチェックしなかったのか?
 あと、30分で始まる、早く来い!」


大慌てで取る物も取りあえず飛び出し、息せき切って走り通すと、
何とか、打ち合わせの時間に間に合うことができた。


何故、こんなことが起こったのか。

道々考えてみたが、今回のクライアントの直接の窓口である木下が
連絡をし忘れたとしか、考えられない。

実際に昨夜、どの時間にどの扱いのメールで変更が告げられたのか、
確かめる暇がなかったが、
仕事に厳しい木下がこんなことをわざとやるとは
綿貫には信じがたかった。

今回だけ何かの行き違いだろうと、自らを納得させる一方、
今後は気をつけて、別の形でのチェックを殖やそうと誓った。





かおりが綿貫の社内での状況を知ったのは、偶然だった。

大学の同じ学部の友人たちと集まる機会があり、
その中の一人が広通の人事部に配属されていて、
帰り道に

「ちょっと・・・かおり」

と、端へ呼んでから、


「あなたの彼のこと、知ってる?」

「彼がどうしたの?」

「社内で大変みたいよ。
 
 ただでさえ、『広通賞』ダブル受賞者っていうので、
 最初はちょっと妬みを買っていたんだけど、
 最近は同じチームの先輩と、もひとつ上手く行ってないみたいで・・・」

「そうなの?
 態度がぶっきらぼうな人だから、誤解されやすいのかも・・。」


かおりが取りなすように言うと、


「何でも同じサークルの先輩が一緒のチームで
 その人と合わないみたいなことを聞いたわ。
 私の知り合いは、その先輩の方が『大人気ない』って言ってたけど・・・。

 心当たりある?」


木下のことに違いないと、かおりはすぐにわかった。

うちの大学のサークルから広通に入社したのは、
最近ではあの二人だけだ。

友人の情報が不確かで、限られたものである故に、
一層、じりじりとした不安感が広がっていった。


何が起きているのかしら?・・・


こんな事をするのは、とも迷いながら、
その友人にもう少し詳しい状況をつかんでくれるよう、
つい頼んでしまっていた。


「わかったわ、任せて。
 余計な事だけ言って、心配させてごめんね。」


友人はそう言って請け合ってくれた。



次の週に、またその学部の友人から連絡があり、
仕事帰りに待ち合わせをする事になった。


「実はね・・・」


友人は言いづらそうに切り出した。


「あなたの彼、難しい立場に立たされているみたい。
 例の先輩と何度かトラブルがあって、
 かなり険悪になってるみたいなの。
 
 その先輩がまた、あなたの彼のメンターの立場でもあり、
 同時に、彼の企画への適性を判断する立場でもあるみたいなの。

 このままの状態が続けば、
 彼は企画から外されることもあり得るって・・・。」


かおりはショックを受けた。

学生論文ながら、「広通賞」をダブル受賞して、
在学中の夏休みからジョブトレーニングに通っていたところで、
そんな状況になっているとは、想像さえしていなかった。

単に営業研修の日程が厳しく、あまりの忙しさに
自分に連絡する暇さえ無いのだと思い込んでいた。


「それってどういうこと?」


かおりは、なるたけ感情を押さえて尋ねた。


「広告製作はオリジナリティが必要だけど、
 絶対的なチームワークも要求される。
 顧客との円滑な意思疎通も必要だわ。

 あなたの彼は、その先輩とのトラブルで、
 協調性がないと判断されかねないの。」


かおりはもちろん、直人がどんな仕事を望んでいたかを
よく知っていた。

最初から企画に入れるかどうかわからなくても、
いつか必ず広告制作をして、自分の感覚を試してみたいと
ずっと望んでいた筈だ。

その直人がそんな立場に追い込まれているとは、どういう事だろう。


木下さんかしら・・・。


かおりの中で、一つ思い当たる部分があった。

木下から好意を告白され、キスを迫られたことがある。
それに木下は、直人の自分への態度がなっていないと、
彼をよく言っていなかった。

元々は直人の優秀さをとても買っていたのに、
だんだんと論理的な理屈と鋭さを増した彼を
認めながらも、どこか疎ましく思っていたのだろうか。

自分のことが原因だと思うのはうぬぼれ過ぎかもしれないが、
気持ちに刺さった棘の一つにはなるかもしれない。


「どうしたら、いいのかしら・・」


つい、かおりは声に出してしまった。

友人はちょっとびっくりした顔をしたが、


「会社の中のことだもの。外からはどうしようもないわ。
 あなたから、彼を元気付けてあげられるといいわね。」


気の毒そうに、そう結んだ。





かおりは、何度か直人にメールを送ったり、
深夜に電話をしてみたりしたが、
中々連絡が取れない。

綿貫の状況が全く読めない今、ほんのわずかでも力になりたい。

だが忙しいのに、あまりしつこくしても、
返って負担になるかも、と不安に逡巡する毎日だった。





秋も深まってから、思わぬ機会が訪れた。

大学の就職部から、広告研究会の面倒を見ていた教授を通し、
学部生に仕事の状況を知る機会を与えてやって欲しいと、
サークルの卒業生と在学生の交流会が行われることになった。


「直人は来られそう?
 三池教授がすごく期待していたわ。」


珍しくつながった携帯電話越しの声に、かおりはどきどきしていた。


会えるのなら、何でもいい・・・。


「いや、どうしても無理だな。
 その日は大分前から塞がっている。」


直人の声にも、残念そうな調子がわずかににじんだ。

自分のためではなく、世話になった教授と、
広告業界にいる自分が出席できない申し訳なさを考えての言葉だろう。


「そうなの・・・」


かおりは落胆した調子を隠せなかった。


「教授には俺からよろしくと伝えてくれよ。
 何か俺にできることがあれば、
 させてもらうとも言っておいてくれ。
 
 かおりはぜひ行って、在学生と話をしてくるといい。」

「わかったわ。」


後で話を聞かせてくれ、と結んで、電話は切れた。





交流会が開かれたのは、大学の教職員が使用する、
学内のミーティングルームのような場所。

簡単な飲み物と軽食が用意され、在学生が20人強、
卒業生が10人程集まった。


早めに着いて、かおりが顔見知りの卒業生たちと言葉を交わしていると、
レンガ張りの暗い廊下から、大きな体がふいっと入ってきて、


「よう・・」


とこちら向きに分厚い手が上げられた。
木下だった。

かおりは少し動揺したが、久しぶりに会う懐かしさもあって、
すぐに会話が弾んでいった。


「今は忙しいのか?」

「いえ、秋の展示会も終わったし、
 冬のセールまで一息つけそうで丁度良かったです。
 木下さんは忙しいんでしょ?」

「ああ、信じられないくらい忙しい。
 だが、広研の交流会に広告業界に就職した人間が
 ひとりも来られないんじゃ、教授に申し訳ないからな。」


綿貫が来られないことを暗に批判しているのだろうか。

でも、彼がどうして来られないか、
同じ職場である、木下が一番知っている筈だろう。

口から出かかった名前を何とか呑み込み、
かおりは木下に柔らかい笑顔を向けた。


木下は相変わらず、長身でがっしりしていて頼もしく
話をしても上手くて、しかもユーモアがある。


「広告は面白いぞ。

 芸術じゃなくて、金儲けのためにやってる所が
 結果が見えていいのさ。
 広告マンの勲章は、製作した広告が賞をもらうことじゃなく、
 担当したクライアントの売り上げが急伸することだ。

 効くのか効かないのかよくわからない商品ほど、広告効果が高い。
 例えば・・・」


現場にいる人間ならではの、具体的事例を次々にあげて、
在学生たちにわかりやすく説明していく。

学生に馴染みの企業、馴染みのCM、馴染みのタレントの話などを交えて、
木下の弁舌は実に巧みで、飽きさせない。

かおりも在学生に混じって、一緒になって声をあげて笑ってしまった。

かおりの笑顔を目にすると、木下の顔が一層柔らかくなり、
頬の上に笑いじわがよって、大きな目が細くそばめられる。

途中から、かおりの方を向いて話してくれているような錯覚さえ
起こしてしまいそうだった。




「木下さん、すっごくお話が上手になりましたね。」


木下は少し不満そうな調子で


「前は下手だったってことか?」


年上の男のすねたような様子に、かおりは笑いをかみ殺しながら、


「違います。前から上手だったけど、一段と冴えてたってことです。
 まるで腕利きの広告マンみたい。
 誰だって、ころっとだまされちゃいそうですね・・・。」


交流会からの帰り道、駅までの道を並んで歩きながら、
かおりは率直に褒め言葉を述べた。

木下は思いがけず嬉しそうだった。


「それって褒めてるのかけなしてるのかわからないぞ。
 口のうまいペテン師みたいな言い様じゃないか。」

「うふふ・・。そう意味も少し、あるかも。」


かおりは思わず笑ってしまった。
木下も一緒になって笑いながら、かおりに向き直った。


「かおり・・時間はある?
 どこかで一杯やって行かないか。」


仕事帰りの卒業生に合わせて企画された会は
夜の6時半から始まって、今は9時半をかなり回っていた。


「今日はもう遅いです。明日も仕事がありますから。
 木下さんもそうでしょ?」

「俺の時計で言えば、まだ夕方にもなってない。
 だが、それをかおりに押し付けるわけにもいかないが・・・。
 
 せっかく会えた美人の後輩を、
 このまま、むざむざと離すのも惜しいな。」


木下は冗談めかして言うと、表情を改めて、


「懐かしいんだ・・。
 最近は仕事ばかりの付き合いだったから。」


木下の正直な口調にほろっとした。


「そんな風に言ってもらうと、何だかすごく大昔の仲間みたいですね。」

「そんなことはないが・・・」


木下は諦めきれないようだった。


「じゃ、これはどうだ?
 今日は諦めて、かおりを送っていくから、
 今度一度だけ、飯を付き合ってくれよ。」

「・・・・」


かおりは木下の顔を見たが、
いつも通りの笑顔の大男がいるだけだった。


「久しぶりに会えた今日をあきらめるから、
 その代わりに一度ぐらいダメかな?」


木下の調子は自信がない子供のようだった。
かおりはほろりと笑いをこぼし、思わず首を縦に振っていた。


「いいのか?」


木下はかおりが承知したのを、最初驚いたような顔で見た。

そしてその後は、また頬の上に笑いじわがより、
人懐っこく目が細められた。


「じゃあ、俺の携帯の番号を教える。
 かおりの番号を聞いてもいいか?」

「ええ」


かおりは携帯を取り出すと、自分の番号を表示させて、
木下に渡す。

彼がその場でボタンを押し、ピピッと受信音が鳴る。
木下が、顔をあげてかおりを見、にっこり微笑んだ。


何だか、クマさんみたいな笑顔ね。


かおりを送って行こうという木下を、
十分ひとりで帰れる時間だと何度も言うと、
木下は、あっさり引き下がって今度連絡をする、と言った。


「来週は何曜日が都合がいい?」

「木曜日は予定があります。あと月曜日は残業になることが多いですね。」

「そうか。俺は金曜日が一番都合がいいんだが・・・」


かおりは一瞬ためらったが、


「わかりました。では、金曜日に。
 何か急な約束が入ったら、知らせて下さい。」

「わかった。遠慮なくそうさせてもらうよ。じゃ!」


木下はそう言って屈託の無い笑顔を向けると、
大きな背中を向けてホームを遠ざかっていった。
 

木下が遠ざかってからも、かおりはしばらく、そこに佇んでいた。

自分に深い作為があるわけではない。
別に彼に何か頼もうとしている訳でもない。

ただ、何年ぶりかに会った先輩後輩として、
少し話をする機会を持つだけだと、何度も自分に言い聞かせた。

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