AnnaMaria

 

青いプロフィール 6

 

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一時、好転し始めたかに見えた、綿貫の仕事の状況は
今や再び、悪化の一途を辿っていた。

養成のために、ベテランコピーライターと新人が組んで仕事をするのは当然だが、
綿貫のいるチームが大きかったので、
メインのコピーライター兼アシスタントプランナーの下に、
木下と綿貫がペアで入り、企画の作業を行う事になっている。

仕事の先の読める木下が、効果的にベテランをフォローし、
一方で新人綿貫のメンター(社内での相談役)をも勤めている筈なのだが、
メンターどころか、二人の間に信頼関係は一切育たなかった。


木下は、決して意図的には見えないように、
綿貫にクライアントの情報を回さなかったり、
うっかり、決定事項を知らせ忘れたり、
最悪の場合には打ち合わせの時間を連絡して来なかったりした。

綿貫のこなした仕事も、ベテランの先輩に直接渡せる場合はいいのだが、
木下の目をくぐると結果も評価も伝わらず、
暗闇の中を手探りで仕事をするような状況に陥ってしまう。


最初のうちは、木下の故意を信じず、綿貫の方から歩み寄ったり、
色々な雑事を手伝おうと申し出たりしたが、
他の先輩と違って、木下の態度が全く折れてこないので、
だんだん、綿貫も無力感が募り、不信感だけが高まっていく。


「この前、○○さんに依頼された件はどうなったのですか?」

「ああ、あれはもう終わった。気にしなくていい。」

「どういう決着がついたのですか。」

「お前が知らなくていい事だ。」


にべもない返事。

綿貫とチームの他のメンバーとの間に、
常に木下の影が透明な膜のように張り巡らされ、
あらゆる道を塞がれていくような思いがした。

これほど、露骨な拒否に遭ったのは初めてだった。

こいつは、ここまで了見の狭い奴だったのか。
それとも、単に俺が疎ましいのか・・・。


木下から感じるのは、強烈な縄張り意識。

企画の俺の仕事の範疇を
新人のお前なんぞに踏み込ませてたまるか・・と。

上司である、アシスタントプランナーに訴えようかとも考えたが、
自分たちをペアにしたのは彼である。

仕事のペアと気が合わないから、変えてくれ、などと
簡単に頼めるものではない・・・。

だが、自分が依頼を受け、提出したアイディアが、
先輩の目に触れてもいないのを知って、さすがに綿貫が詰め寄った。


「木下さん、どういうことですか。
 ○ ○さんから頼まれて仕上げたものです。
 あちらが見てもいない、というのは何故です?
 今日、あの件はどうなったのか、と聞かれました。」

「お前が心配しなくても、ちゃんと修正して、直接、上に提出しておいた。
 あのままじゃ、とても使い物にならないからな。」


吐き捨てるように言われると、返す言葉がない。


やむなく、自衛の為に、綿貫は自前のネットワークから細々と
情報を取ることを始めた。

まだ、それほど、社内に味方も友人もいない立場ではあったが、
アート職の小松や、同期の江田夏希にまで頼んで、
少なくとも、大きなスケジュールだけは落とさないようにと努める。

自分たちのスケジュールが、
何度か他から問い合わせられることを知った上司が
ようやく、木下と綿貫の現状に気がついて、
木下を呼び、情報の開示を義務付け、
企画の仕事も綿貫から直接、自分の方に渡すルートも付けてくれた。

以後、木下もさすがに目立つことはやらなくなったが、
二人の間に生じた軋轢は、どうにもならない所にまで来ていた。




夕方、ごくわずかな休憩時間に、
綿貫がベンディングコーナーでコーヒーを買おうと
小銭を投入していると、
近くでコーヒーを飲んでいた男が声を掛けて来た。


「君が綿貫か・・・?」


直人は、別のチームのプランナーであるその人を
どこかの企画会議で目にしたことがあったが、名前は知らなかった。


「はい、そうですが・・・。」


やや、身構えて返事をすると、


「大分、苦労しているようだな。
 いや、何も言わなくていい。」


40代半ばだろうか?

日に焼けた、スポーツマンらしい顔に、
鮮やかなストライプのシャツの袖を肘までまくり、
よく灼けた腕に、大ぶりの銀の時計が鈍く光っている。


「多かれ少なかれ、誰もが経験することだが、
 君は特別、大変な目に会っているかもしれない。」


そう言って、直人の方に顔を向けた。

夕刻の休憩室を兼ねたコーナーには、
遠くの椅子にまばらな人影があるだけだ。


「君の論文も読んだし、君の素描きしたアイディアも見た。
 もちろん、まだまだだが、その食いつく姿勢がいい。」

「はあ、ありがとうございます。」


直人は何と応えたらいいのか迷ったが、
取りあえず、そう返事をした。


「俺はプランナーとして現場にいるから、人事権はない。
 だが、いつか、君と仕事してみたいと思っている。
 
 尤もその時まで、企画に残っているかどうかなんて、
 お互い、わからないけどな。」


笑うと、浅黒い肌に一面にしわが広がった。
こんな風に温かい笑顔に向けてもらうのは、久しぶりだ。


「君を欲しがっている奴は結構多いんだぞ。
 欲しがる理由は色々かもしれないけどな。
 俺は待っているから、頑張って自力で這い上がって来い。」


綿貫は不覚にも、胸の中がじわりと熱くなった。


「お名前を伺ってもいいですか?」

「おお、いかん!
 新人から見ると、社内の親父は全部同じに見えるだったな・・・

 ほら。」

そういうと、ごつごつした手で、自分の名刺を綿貫に差し出した。


「中原というものだ。また会おう・・・。」


中原は飲み終わったカップを捨てて、綿貫の肩を手をぱんっと叩くと、
じゃ、とフロアを遠ざかって行く。

広通、広告プランナー、中原一之としるされた手の中の名刺を、
肩に残った温かい感触と共に読み返した。





かおりは、行こうか行くまいか、直前まで悩んでいた。

何度も断りの電話を入れようとしたのだが、
一度受けてしまった約束を踏みにじるのはとためらっているうちに
今日になってしまった。

ため息をつきながら、鏡の中の自分に向かって笑顔を向けてみる。


大丈夫よ、ただ、食事に行くだけ。
これが最後だと言っていたもの。
何でもないわ・・・


自分に向かって頷くと、待ち合わせ場所に向かった。





木下がかおりを連れていったのは、
最近、新しく出来たばかりのレストランだった。

会員制を謳っているが、会員優先ということで、
一般のお客を受け入れないわけではない。

オーナーは、まだ若く公務員出身という異色の経歴を持つ、
ベンチャー起業家らしい。

店の空間はシンプルで、料理も気取らないカジュアルな雰囲気だったが、
店内によく目を凝らすと、そこここに、TVや雑誌で見かける顔が
ちらちらと見受けられる。

芸能人ばかりでなく、いわゆる文化系の有名人もいるようだ。


「なんだか、少し秘密のレストランみたいですね。」


かおりがそっと木下にささやいた。


「いや、そうでもないさ。
 オーナーが自分の人脈を使って、色んな客を集めているらしい。
 その客目当てに、また別の客が少しずつやって来るという仕組みだ。
 その仕組み自体は、珍しいものじゃない・・・。」


料理はほとんど、木下が注文した。


「シャンパンを付き合ってくれるか?」

「はい。もちろん・・」


木下は笑顔でメニューを閉じると、ウェイターに渡し、


「またいつ、かおりが『うん』と言ってくれるかなんて、
 到底わからないからな。」


陽気そうに付け加えて、

「乾杯」と小さくグラスをあげて、
おいしそうに金色のシャンパンを飲んだ。


「知り合いがここの会員でね。
 仕事の関係もあって、是非来てみたかったんだが、
 最初は知り合いの紹介でないと、予約が取りにくいんだ。
 
 予約してくれって頼んだら、きれいな女性と一緒なら、
 という条件を出されたんだよ。
 でないと、店の雰囲気が悪くなるからって・・・。
 勝手な理屈だよなあ。」


木下は説明した。


「だから、是非かおりに一緒に来て欲しかった。
 来てくれて本当に助かった。
 感謝するよ。ありがとう・・・」


テーブルで頭まで下げられて、かおりは手を振って狼狽した。

そんな・・・頭まで下げてもらう価値なんてないわ。


かおりは自分の胸の中に潜む思いに気づいて、暗澹とした。

こんな事をして、彼の為になるかどうかわからないのに。
わたしは何をしてるんだろう。


彼の為じゃないのに、おしゃれをして、
彼じゃない人に、微笑んで、
彼じゃない、別の男性と一緒に食事をしている。

でも、もしほんのわずかでも彼の話が聞けたら・・・。

ほんのちょっとでも、
この人が彼に対する気持ちを和らげてくれたら。
せめて、彼をどう思っているかだけでも聞けたら、

その為なら、何でもするのに・・・・。


かおりの白い美しい顔は、料理の皿を前に、
屈折した思いにやや沈んで見えたが、
木下は素直に、テーブルの向かいの美女に見とれていた。


かおりはただ、きれいなだけじゃない・・
どこか切ない、胸の奥をぎゅっと絞るような表情をする。
男に色んな夢を見させる女だ・・・


木下は食事をしながら、思っていた。


この女が自分の為だけについて来てくれたら、
何でもできる気がする・・・。
この女なら、自分と一緒に苦労してくれるんじゃないだろうか・・・・


「どうかしました?」


木下が珍しく黙り込んで、ぼうっとしているのを
かおりが不思議そうに問いかけた。


「いや・・・。
 こんな美人と、また飯が食えるなんて、
 夢みたいだと思っただけさ・・・。」


木下は笑ってごまかしたが、自分の中の真剣な思いが
段々抑えられなくなっているのを感じる。

向かいのかおりは、少し困ったような顔をしている。


こんな小細工を弄すべきではなかったかな・・・。


木下は、これからのことを考えると少し憂鬱になった。


どうしよう、今出てしまおうか・・・。



かおりは、目前の木下が何か考え込んでいる風なのが気にかかったが、
それぞれ抱えていることが沢山あるのだろうと、
敢えて触れずに、黙ってテーブル越しに微笑みかけた。

木下はかおりの笑顔にはっとしたようで、
大らかな顔に似合わない、少年のような表情ではにかむと、
急に顔を一面に赤くした。


まあ、木下さんて、こんな顔もするのね。
いつも頼もしい先輩だと思っていたのに・・・。


かおりは、何だか未知の木下を見たようで、少し驚いたが、
素振りには出さなかった。





ゆっくりとコースが進み、最後のコーヒーを飲んでいると、
奥の個室らしい部屋のドアが開いて、華やかな笑い声が響き、
それと共に10人程度の一団が中から吐き出されて来る。

そのうちのひとりが、木下に目を留めると


「おお、こんな処で会ったな。
 お前も来ていたのか・・・。」

「ああ・・」


木下は面倒臭そうに答えた。

後ろから続いて出て来た、
大胆な幾何学プリントのワンピースの女性もちらりと木下に笑いかけ、
別の、ふわふわしたトップスを着込んだ女性は、
盛んに後ろを向いて、誰かに話しかけている。

簡単な返事をしながら、一番後から出て来た顔を見て、
かおりは頭から冷水を浴びせられたような気分になった。

綿貫が最後に部屋から出て来て、ドアを閉め、
足早にこちらに向かってくる。

通路から見え易い木下の顔を認めると、簡単に会釈をしてきたが、
ついこちらを振り向いてしまったかおりの顔を見ると、
驚いて、一瞬息を呑むのがわかった。


「直人・・・」


かおりは思わず、立ち上がりそうになったが、
先に出口に進んでいた先輩が呼んだ。


「綿貫!・・・」

「はい」


直人は、かおりと木下を見直すと、もうそのまま、
表情を消して背中を向け、足速に歩き去っていった。

かおりは立ち上がって、通路に出ると、


「直人・・・待って。」


と呼びかけた。

出口近くで待っていた先輩が、かおりが立ち上がって、
直人の方に来ようとし始めたのを見て、にやりと笑い、


「綿貫、取り込み中か?
 やっぱ、イケメンだな。

 先方が外で待ってる。
 俺は先に出てようか・・?」

「いえ、何でもありませんから・・・・」


その言葉と共に、さっさとコートを羽織ると、
かおりの方を振り返らずに、先輩と共に店を出ていった。



かおりは通路に立ったまま、木下へゆっくりと振り向いた。
木下の顔には何の表情も浮かんでおらず、極めて冷静だった。


「ご存知だったの?」

「何を?」

「・・・彼が・・・ここにいる事を・・・」

「どうかな。興味なかったから。」


嘘だと、かおりは思った。

わざと鉢合わせを?まさか・・・何の為に。


まあ、とにかく座れよ、と木下の声が響いた。


「今日は、俺の食事に付き合ってくれてるんだろう?」


その言葉にはっと我に帰ると、しおしおと、また席に戻る。


胸がどきどきしているのが、聞こえないかしら・・・。


「実はね、今日は俺の誕生日なんだよ。
 それをかおりに祝って欲しかったんだ。
 それもあった。」


木下の淡々とした口調が続いた。
かおりはまだ、動揺から立ち直れなかったが、
木下の前で、これ以上直人に固執するわけにも行かない。

少し震えの残る声で、


「どうしてそれを、もっと早く言ってくれなかったんですか?
 それなら・・」

「それなら、承知してくれた?
 違うだろ。逆に絶対承知してくれなかっただろう。

 でも、仕事でこの店を見たかったのも本当だ。
 ちょっと訳ありで、プライヴェートで来てみたかったんだ。」

「いえ、何か贈り物を用意できたのに・・・」


木下は、少し表情をゆるませて、微笑んだ。


「その言葉はすごくうれしい。
 でも俺の一番欲しいものは、もらえそうにないから、
 こうやって会ってくれたのが、俺にとって最高の贈り物なんだよ。

 ありがとう、かおり・・・」


木下にじっと見つめられて、かおりは何も言えなくなった。


わかっていた筈なのに・・・・

木下さんの気持ちをわかっていた筈なのに、
わたしは、どこかで利用しようとしていた。

そんなこと、とっくに見抜かれて、
逆に直人に追い打ちをかけるような結果になってしまいそうだ。
自分の浅はかな行動が、ひたすら恥ずかしい。





店の外に出た木下は、少し不安そうな顔に見えた。


「かおり、今日くらい、送らせてくれるだろう?」

「いえ、本当に一人で帰れますから・・・
 ごちそうさまでした。
 素敵なお店に連れてきて下さって有り難うございます。」

「じゃあ、帰りがてら、
 もう少しだけ散歩に付き合ってくれないか・・」


木下はそう言うとかおりの返事を聞かず、
先に立って、夜道を歩き出す。

仕方なく後を追ったかおりは、
日比谷通りから皇居のお壕端の道を、木下と並んで歩くことになった。




通りの向かいに、微かにピンクを帯びた薄茶色の大きな劇場があり、
ホールには柔らかい灯りがともっている。

観客はまだ中の美しい空間で夢を見ているのだろう。

並びには、戦前に建てられたと言う、
日本には珍しくどっしりした壮麗な建物が幾つか並び、
ビルの正面にはめ込まれたギリシャ風の柱群が、
夜の照明にライトアップされているのを、ぼんやり目にした。



「かおりは意外と酒が強いな・・・」

「それ程でもありません。木下さんは全く顔に出ませんね。」

「ああ、もったいないとよく言われる。
 容れ物が大きいからかな・・・。」


木下が笑いながら言った。

お壕端の柳の木々は、まだあまり芽吹いておらず、
暖かい季節の優しい雨のような葉のそよぎは見られない。

お壕の水面は夜の空気に黒く沈んでいる。
いまだ、春には遠いのだ。


直人は自分たちを見て、何と思ったろうか・・・・


さっきの直人の、何も映していなかった瞳を思い返すと、
今にもこのまま、ここから走って追いかけたくなってくる。

こんな気持ちで一緒に散歩したって、木下に申し訳ないばかりだ。



「あの・・・」

「わかってるさ。
 いつだって、かおりはあいつしか考えていない。
 それはとっくに分かっていた筈なんだ。」


傍らから聞こえる声は落ち着いていた。


「すみません・・・。わたし、ここから帰ります。」

「あわてなくても、あと5分もすれば、地下鉄の入り口に着く・・・」


木下の低い声が、アスファルトの冷たい歩道に響く。


何だか、いたたまれない・・・。


今夜、木下に付き合ったことを心底後悔していた。

冷たい空気が髪をなぶるのを感じながら、黙って歩き、
そうだ、と思いついて、木下に向き直り


「木下さん、お誕生日、おめでとうござい・・・」


いきなり、強い風のように大きく揺すられ、体が持っていかれた。
驚いた唇に別の乾いた感触が強く押し付けられて、息もできなくなる。

手を振り回して逃れようとしたが、
がっちり抱きとめられていて、微動だに身動きさせない。

唇の上の熱い感触は、何度も何度もかおりの唇を貪婪に擦っていき、
苦しくて、息ができなくて、パニックを起こしそうになる。






「う、うう・・」


かおりの呻き声に、やっと唇が離れたが、
体は木下の大きな体にがっちり包まれたまま、動けなかった。


「は、離して・・・」

「いやだ」

「木下さん・・・」

「かおり、
 今だけでいいから、俺を見てくれないか・・・」


太い腕の中に縛られたまま、かおりは顔をあげた。


木下は怒ったように、荒々しい目をしている。

逆光の中で、顔の半分が影になり、かおりにはますます恐ろしく見えた。
さっきまでの木下とは、まるで別人だ。


「お前の気持ちは知っている・・・」

「じゃあ、どうしてこんなことをするの?」


腕の中に抱きすくめられたまま、眼差しだけで抵抗した。


「お前は俺の気持ちを知らない・・・」

「・・・・」


かおりは唇を震わせた。

知っていたつもりだった。

知っていたくせに、こんなところまで来て、
木下にこんな真似をさせてしまった。

でも、この人はもう踏み外したりしないと、どこかで信じていた・・・。
わたしは何て甘いんだろう。


「お前は・・・俺の気持ちがわかってない・・・・。
 あいつの顔を見る度に、忌々しくて、憎らしくて、
 引き裂いてやりたくなる。
 
 俺が大事に思っている女にあんな言葉で、あんな態度で、
 お前が扱われる度に、自分が踏みつけられるより辛かった。
 
 どうしてあいつなのか。
 俺でなくてもいい。
 かおりのことを大切にしてくれる、誰かもっとマシな男だったら、
 あきらめがついたのに・・・。

 何故なんだ?」


木下の言葉の悲鳴のような調子が恐ろしかった。


「離して下さい・・・」


身をよじると、やっと木下の腕がゆるんだ。
歩道にやっとのことで立って、強い調子で見つめると、


「彼が・・・好きなんです。
 彼のためだったら、どうなったって構わない。」


木下の顔が急に表情を失った。
能面のような顔は怒りをあらわにしたものより、さらに恐ろしく見える。


「それで・・・大事な彼の為に、
 かおりは俺に、一体、何をして欲しかったんだ?」

「別に何も・・・」


木下が、かおりの腕を乱暴につかんで顔を覗き込み、


「嘘だ。
 誰かから、あいつが俺にいじめられているとでも聞いたんだろう。

 かおりはあいつの為なら、
 自分がどうなったって構わないんだろうからな」


木下の目が光った。
大きな手がかおりのあごをつかみ、木下の顔が近づくと、
かおりは横を向いて、顔をそらした。


「俺だって、かおりが今日会ってくれるなら、
 どうなったって構わない気持ちだった。
 あいつに思い知らせたら、
 このまま、そっと帰そうと思っていたんだが・・・」


横を向いて、目をそらせたかおりのあごをつかんで、
強引にこちらを向かせる。

狂ったような目の光に射抜かれてしまいそうだ。


「俺はお前が欲しい。
 ずうっと前から・・・。どうしても。」


直人のものではない唇が、頬が、自分の頬の上を滑るのを感じる。

熱い息が頬にかかり、耳にかかり、
首筋へと下がって行った時、小さく叫び声をあげてしまった。

木下は構わず、かおりをもう一度抱きすくめた。


ずっと焦がれていた女。
俺の腕の中にいたって、あいつの事だけを考えている女。


身動きできないかおりの震えを直接感じとると、
ようやく木下が腕をゆるめた。

おびえたかおりが、後ろに一歩下がろうとする手を、
ぐっと握って引き止める。


「悪かった・・・。一度だけで良いと思っていた。
 俺のどうしても欲しいものの代わりに、思い出が欲しかった。」


「ごめんなさい・・・木下さん・・・」

「何をあやまる?謝るのは俺の方だ。」


木下はかおりの手をもう一度だけ強く、ぎゅっと握ると、
やっと離してくれた。

だが、苦い顔で横を向くと、


「あいつといて、お前が幸せになれるとは、
 今でも思えないけどな・・・」

「木下さんには、わたしの気持ちはわからないわ。」


わかりたくないよ・・・という呟きが聞こえた。


気まずい沈黙のまま、再びほとほとと壕端を歩き始める。



前方に地下鉄の入り口が見えてくる。

木下が振り向いて、かおりの顔を見た瞬間に気持ちが固まった。


「木下さん、わたし、ここから車を拾います・・・」

「どこへ行く?
 あいつの接待は、まだ当分終わらないぞ・・・
 先方のご指名だったからな。」


いいんです、と、口の中で答えながら通りに駆け寄り、
日比谷通りを流すタクシーに向かって手を挙げる。


「待て、かおり!」


空車のタクシーがたちまち近づいてきて、ブレーキを鳴らした。
ドアに向かいながら、


「木下さん、今日はごちそうさまでした。
 素敵なお誕生日にできなくてごめんなさい。
 ここで、お別れします・・・。」

「待てよ!」


木下は、かおりの後を追って、タクシーに乗り込もうとしたが、
かおりが「離して・・」と言うと、あきらめて手を放した。

窓越しに小さく頭をさげると
そのまま前に向き直る。


「お客さん、どこへ行きますか?」


直人はどこにいるのだろう?


彼の体が空くまで、どこか知っている場所で、
一晩中でも待っていよう・・・。


「新宿に向かって下さい。」





直人の胸の携帯がブルブルと震えた。

丁度テーブルの端にいたので、そのままそっと席を外し、
少し離れた通路で、着信も確かめずに電話に出る。


「綿貫です。」

「わたしです。これから新宿に向かって、どこかで待っています。
 終わったら何時でもいいから、連絡して・・」

「ダメだ。本当にいつ終わるかわからない・・・。
 今日中に終わるかどうかも。
 いいから、もう帰れ。」


直人が今いるのは、四谷の店である。
既に10時を大きく回っていると言うのに、かおりの言葉は無謀だった。


「いえ、待ってるわ。
 どこか、明るいファーストフードのお店にでもいるから心配しないで・・。
 どうしても、今日直人に会いたいから・・」

「ダメだ、帰れよ。あぶないじゃないか。」


いつになく、聞き分けのないかおりの言葉に怒りすら湧いて来る。


「大丈夫。よく気をつけるから・・・
 お願い、連絡して。」


待ってる、と、祈るように繰り返した。

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