AnnaMaria

 

青いプロフィール 7

 

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かおりは震えが止まらなかった。

唇や体に残る、木下の感触が生々しく蘇るたびに、
取り返しのつかない事をしてしまった、
と言う後悔がきりきりともみこまれて来て、
手がかたかたと震え出す。


今さら、どんな顔をして直人に会えばいいの?
何と言えばいい・・・。

わたしを見て呆れたに違いない。
顔も見たくないかもしれない。
ここから連絡をして、やっぱり帰るべきかしら・・・。

いえ、木下さんと一緒のところを見られてしまったんだもの。
ちゃんと説明しなくては・・・。

それより何より、直人に会いたい・・・。
どうしても今会って、抱きしめて欲しい。
体に残る感触を消し去って欲しい。

ああ、でも、わたしにはもう、そんな資格はないのかしら。

木下さんは最初から、直人があの店に来ることを知っていたに違いない。

どうして?
わたしに復讐するため?
それとも直人を苦しめる為?

自分を苦しめている男との食事の誘いにやすやすと乗った女。
お前の付き合っているのはそんな女なのだと、
直人に知らせたかったのだろうか。

その通りよ・・・。
最低だわ。

木下さんに、何かを頼むつもりなんかじゃなかった。
ただ、直人をどう思っているのかだけでも、
聞けたらいいと思っていた。

何故、そこまで直人を苦しめようとするのか。
わたしも同じサークルの後輩として、
二人が鋭く対立する理由が知りたい・・・。

最悪の形でそれは適えられたわ・・・。

わたしのせいで、直人を憎んでいるのだと、
見るたびに、引き裂いてやりたいという告白。

そんな人に隙を突かれてしまったことを告げれば、
絶対に許してもらえないだろう・・。

それでも今後、木下さんが
直人にもっと酷く当たるかもしれない。

その理由はわたしなのだと、
わたしがバカな事をしたせいなのだと謝らなくてはならない。

直人がこんな苦しい状況で、尚、頑張っているのに、
ああ!わたしは何てことをしたんだろう・・・





深夜のファーストフード店の暗いあめ色の天井で、
大きなファンがゆっくりと回っている。

かおりの想いもさっきから同じ所を、
くるくると、ただ空回りしていた。


「誰を待ってるの?結構、時間経つよね。」

「どなたかと待ち合わせされているのですか?」

「あの・・・失礼ですが、待ち合わせの方は、まだ来られないようですね。
 よかったら・・・」


何人かの男が、代わる代わるかおりの席にやって来ては、
同じような台詞を吐く。

どの位待たなければならないか、考えもしなかったし、
誘ってきた男たちには視線さえ合わせずに、黙って首を振る。

自らの審判をひたすら待ちながら、
ただただ消耗していった。





「ねえ、綿貫さんは『広通賞』をダブル受賞して、
 ここの内定もらったんでしょ?」


綿貫の隣にいる、グレーのぴらぴらしたトップスを着た春田という女性。
こちらを覗き込むようにして、話しかけてくる。

苗字は違うが、クライアントである経営者一族の直系の娘らしい、と
アート職の小松が教えてくれていた。

まだ20代前半に見えるのに、自分の意見をずけずけ言い、
周囲が何も言わないところを見ると、本当のようだ。


「関係があるかどうかは、わかりません。」

「そりゃ、あるに決まってるわ!
 そんな優秀な人、会社だって逃す筈ないもの。
 すごいわねえ・・・」


意味ありげな流し目で、にじり寄って来られても、
端の席にいる綿貫には、これ以上逃げ場がなかった。

次々と色々な質問責めにされても、先輩たちは
一向に助けてくれる気配すらない・・・。
面白がって静観しているようだ。


「付き合っている人が、いるんですか?」


またか、と思ったが、


「どうでしょうか・・」とはぐらかして、グラスに口を付ける。

先輩から『彼女がいることは言うな』と釘を刺されていたからだ。


「そんな・・・思わせぶりして!んもう!」


直人の腕をつかんで揺すって来たので、反射的に払いのけそうになり、
つい、鋭い目つきでにらみ返してしまった。


「・・・おお、怖い。そんな顔もするんですね。
 もっと怒らせてみたくなったわ・・・。」


きゃははは・・、と大きな声を出して笑っている。
酔っているせいか、強い力で直人の手をつかんだまま、離さない。

その様子に、向かいの席にいたプリントワンピースの女性が


「あこちゃん、いい加減にしなさいよ。
 綿貫さん、迷惑がってるじゃない。わからないの?」


遠慮のない言い方で、たしなめた。


「あら、そんなのわからないわ。
 だったら綿貫さん、ここを出て、どっか別のところで飲み直しません?
 わたし、ひとつ知ってるんですけど・・。」

「いえ。僕は・・・。」


直人が柔らかく春田の手をほどいて、自分の体から離すと、
またすぐに、ぐっとつかまれる。


「いいじゃない。もう、仕事の話は終わったんでしょ? 
 何もおじさんたちに囲まれてずうっと飲んでることないわよ。
 行きましょ!」

「いえ、結構です」


直人は、無礼ぎりぎりのきっぱりした調子で言っているのだが、
酔っぱらった彼女には通じないようだ。

手を引っ張られて、立ち上がらされそうになった時、


「ほら!止めなさいよ。
 っったく、おじさんより始末が悪いわ。」


春田にもこの皮肉は利いたようだ。


「あら、おばさんよりはいいのかしら?」


プリント女性に真っ正面から向き直った。
プリント女性もカチンと来たようで、その場で立ち上がる。

二人とも、いきなり激しい言葉をぶつけ合い始めたが、
不思議なことに、クライアント側の人間は、
誰一人として止めようとはしない。

直人は、先輩の顔を問いかけるような視線で見たが、
先輩も詳しい事情がわからないようだ。


いいや、ほっとけ!
やりたいだけ、やり合えば気が済むだろう・・・。


女同士の遠慮のないバトルを見て、呆れかえりながら
次第に心がこの場から彷徨っていきそうになるのを必死で我慢していた。


かおり・・・・
どこかで今、俺を待っているのか?
何でまた、あの木下なんぞと一緒にいたんだ・・・。

毎日さっぱり連絡も取れないのは、こんな仕事の為だと知ったら、
呆れるだろうな。

直人は自嘲気味に考えていた。





かおりはいつの間にか、ぼんやりしていたようだ。

さっきいきなり、携帯の着信が震えて驚き、
直人から此所を問い合わせる電話が入った。

その後、ひたすら直人が来るのを待ちわびていた筈なのに、
ぼうっとしていて、店に入ってきたのすら、気付かなかった。


「かおり・・・・」


すぐ上からかけられた、愛しい声に、
急に現実に舞い戻ったような気になった。


「あ・・・」


直人の顔を見ただけで、もう何も言えなくなってしまう。

あの手に触れたい。
だが、どうしても手を伸ばすことができない。


「どうしたんだ。
 何だって、こんな処で待ってる・・・?」


直人の声は、むしろ穏やかだった。

てっきり、いきなり怒鳴られると思っていたかおりには、
その言葉の穏やかさが、却って辛い。


「なおと・・・」


泣いて許してもらえる場合ではない・・・。


「ごめんなさい、直人。
 わたしがバカだったせいで・・・
 あなたにまた迷惑が掛かるかもしれない。」

「どういう話か、よくわからない。」


直人が前の席に座りながら、ため息をついた。


かおりがやっと顔を上げて向かいの席を見ると、
直人の黒い目がじっと自分を見ていた。

さすがに、疲れているようだ・・
目のまわりに翳がある。

そうだろう、連日遅い上にこんな時間まで接待に同行して
挙げ句に、こんな所に呼び出されたのだから、疲れるに決まっている・・・。


「木下さんとお食事に行ったの・・・」

「知っている・・・」

「今日が初めてではないの。」


直人はまた小さくため息をついたが、


「それも知っている。
 教えてくれた人がいたんだ。」

「そう・・」


それなのに、黙っていたのね。

わたしを信じてくれていたから?
それとも、どうでも良かったから?


しばらく、沈黙が落ちた。


「かおりはあの人が好きなのか?」


かおりは直人を見たまま、かぶりを振った。
直人は尚もじっとかおりを見ている。


「でも、向こうはかおりが好きだ・・・」


かおりは、視線を外してうなだれた。


「知っていただろう?」

「・・・」


かおりは答えられなかった。
が、沈黙が肯定の返事となる。


「では、何故?」


何故、あんな奴とまた食事に行ったんだ・・・?


直人は冷静な口調を保っていたが、
ともすれば、投げやりな気持ちに流れてしまいそうだった。

失望していた。
理解できなかった。


「わたしが軽率だったの・・・」

「わからないな・・」


直人は、胸ポケットからタバコを取り出した。
かおりの前でタバコを吸うことは滅多にない。

指先に一本取り出そうとして、ふと辺りを見回し、
禁煙フロアなのに気付いて、またポケットにしまった。


「直人、タバコ吸うの?」

「滅多に吸わない。
 だが今日は無性に吸いたくなった・・・。」


突然、タバコを吸えないイライラが募ってくる。

タバコがタンッとテーブルに勢いよく叩き付けられた音で、
かおりは直人を見た。

直人の目の中をびしっと横に焔が走ったようで、
その激しさに背中がぞっとする。


「一服してくる・・・」


言いおくと、こちらを見ないまま、立ち上がった。

大股に歩いていく背中が、ドアを乱暴に開けて
外へ出て行くのを見送った。




人通りはあっても、深夜の新宿の空気はひんやりしている。

チカチカと妙に明るい店の前の歩道に出て、
隣の店のシャッター前でタバコを一本取り出してくわえ、
火を付けようと、あちこちポケットを探ったが、
店に置いてきたコートのポケットの中だと気が付いた。

仕方なくタバコを唇から外そうとすると、
物陰から近づいた人影が、すっとライターの火を近づけた。


「どう・・・」


も、と続けようとして、人影の方に向き直ったところで凍り付いた。


「何であなたがここにいるんです?」

「彼女が心配で、黙って車で追いかけた・・・。
 お前がいつ解放されるか、わからなかったしな。

 あの女のカタはついたのか?」


木下が自分もタバコを取り出して火をつけると、
煙を吐き出した。


「あの女ってどの女です?
 かおりのことですか。」

「クライアントの女だよ。
 最初からお前をご指名だったぞ。
 よく振り切って帰ってきたな・・・。」

「よく知りませんが、
 女性同士で内輪揉めを始めたみたいでしたね・・・・」


さっきの騒ぎを思い出して、思わず顔をしかめた。


「かおりが取り乱していたみたいだから、どうしても見過ごせなかった。
 許せ・・・。」


取り乱すような何をしたんだ。
許せだと?

むっとして詰め寄りたくなったが、
何とか我慢した。


「それはどうも。
 でも、もう大丈夫ですから・・」


直人の切り口上に、木下の目が一瞬暗く光ったが、
そのまま、静かに目を伏せて


「今日は、俺が無理矢理に頼んだせいだ。
 かおりを責めないでやってくれ・・・。」

「何を責めるんです?
 悪いことをした訳でもないのに、責めるも責めないもないでしょう。
 あなたには関係ない!」


吐き捨てた言葉に、木下がぐっとなるのが見えた。


「そんな調子だから、
 かおりが心配して俺のところになんぞ来るんだ。

 全部、お前の為だよ。
 でなければ、俺の誘いになんぞ、
 最初から乗らなかったろうよ。

 自分の付き合ってる女の気持ちすらわからないくせに。
 世界が自分一人だけで回っているような態度を、
 いい加減に改めるんだな。」

「あんたに言われる筋合いはない!」

「何だと!」


木下が思わず、直人の衿元をつかんだところで、


「木下さん・・・」と


悲痛な声がかかった。

にらみ合っていた二人が手をゆるめて、声のする方を見ると
かおりが震えながら立っていた。

いつから立っていたのか、何も羽織らないまま、
小さな顔が青ざめて、唇が白く乾いているように見える。


「木下さん・・。すみません。
 どうか・・・やめて下さい。」


こんな場合ですら、こいつを庇うと言うのか!


「かおり、俺は本気で言うぞ。
 こんな奴はやめた方がいい。
 お前の気持ちなんか、これっぽっちもわかってない。」

「ずっと外にいらしたんですか?」


木下は一瞬黙ったが、


「かおりの様子が心配だったからだ。
 あんな風に飛び出したし・・・、それだけだよ。」

「ありがとうございます。
 でも、わたしの気持ちはお話ししました・・・」


かおりがまっすぐに向けた視線を受け止めきれずに、
木下が横を向いた。


「俺はもう帰る。
 かおり、また連絡する。じゃな。」


背中を向けて立ち去って行く木下の後ろ姿に、


「・・すみませんでした。」


かおりの掠れ声が追いかけた。




隣の店の薄暗いシャッターの前で、二人っきりになると、
かおりは恐る恐る、直人の顔を見上げた。

暗くて、全く表情が読めない。
うつむきがちで、ひどく遠く見える・・・。


おれの・・・。


かおりはかすかに響いて来た直人の声を聞き取ろうと、そばに寄った。


「俺のため?
 俺の為ってどういうことだ?」


直人の声に抑揚がなかった。


「何をするつもりだったんだ?」

「別に何もするつもりじゃなかったわ。
 木下さんと直人の関係がすごく悪くなっていると聞いたの。

 だから、そんなことになった事情を、
 あなたに対する木下さんの気持ちを聞きたかっただけ。」

「誰から、何を聞いたか知らないが、
 仕事場での話だ。
 かおりが首を突っ込むことじゃない!」

「ごめんなさい・・・本当にバカなことをしたと思ってる。」


その言葉を聞くと直人は目を閉じて、苦いものを飲み下したように、
かすかに顔をしかめた。


「それで、あいつの機嫌を取る為に一緒に飯を食ったという訳か。
 かおり、正気なのか・・・。」

「ごめんなさい・・」


直人の声にこもる、怒りと絶望が鋭くかおりを刺す。


「それで・・何があった?」

「・・・・」

「思い詰めて、ここへ逃げてくるような何があったんだ?」

「・・・なにも・・無い・・わ」


両手を口に当てて、こぼれそうな涙を我慢しているかおりを、
直人が燃えるような眼差しで睨みつけた。


「嘘だ。じゃあ何故、あいつが心配してかおりを追っかけて来るんだ?」


直人の手がかおりのあごをつかんで、
無理矢理にこちらを向かせる。


「何を・・・された?」


直人の指がかおりのあごから唇へと伸びて、
やや乱暴にかおりの唇の上をなぞる・・・。


「なお・・・と・・ごめ・・」


後は言葉にならない・・。

直人はかおりから手を放すと、横を向いた。


「俺のため?
 俺のためというなら、絶対にそんな真似はして欲しくなかった。

 かおりが、あいつに擦り寄るなんて、
 断じて、絶対に、して欲しくなかった!」

「すりよったわけじゃないわ。
 たまたま、もう一度だけ頼むとお願いされて・・・それで・・・」


振り向いた直人の視線の凄まじさに、言葉が凍る。

冷たい怒りをたたえた目線をじっと据えたまま、しばらくかおりを見ていたが、
かすかに頭を振って横を向き、ちいさくため息をついた。


「俺が信じられないのか・・・」


直人・・・と、呼びかけようとして、
こちらに向けられた瞳の悲しさに、声が止まってしまう・・。


「俺ひとりでは、どうにもできないと思ったのか。」


そうじゃないの。

わたしがバカだから、どうしても心配になってしまって、
一体どういう状況なのか、あなたは何も言わないから、
どんどん心配になって・・・

そうしたら、たまたま、木下さんからお誘いを受けて・・・。


「今、どうなっているのかが全くわからないまま、
 ずうっと放って置かれる状態って、とても恐ろしいの。
 不安ばかり広がってはち切れそうになる・・・」

「彼奴じゃなくて、俺に聞けばいいだろう。」

「聞いたら教えてくれた?
 直人はいつだって何も言ってくれないし、連絡すら取れないじゃない。
 それだって、直人のせいじゃないのは、わかっているけど・・・。
 
 わたしには、何にもできないんだもの・・・。
 怖くて嫌な話ばかりが伝わってきて・・・」

「仕事場での話だろう?
 傍からどうこうできる問題じゃない。

 それに、いつまでもあんな奴に負けたままではいない。
 俺は絶対にそう思っているし、かおりにも信じていて欲しかった」

「直人・・・」

「・・・・」


長い間、黙っていた。
やがて


「残念だ。悔しいよ」


直人のこんなに落ち込んだ声は、初めて聞いた。
心の痛さが伝わってくる。


どうしよう・・・。


かおりは両手で顔を覆ってしまった。

言葉が途絶えると、周囲の物音がだんだんと戻ってくる。
夜の繁華街の呼び声、すれ違う女の嬌声、車のクラクション。

でも二人の間に、言葉は戻って来ない。





直人はかおりの姿を見直すと、
華奢なシルエットが夜の風に吹かれて、今にも倒れそうに見える。

傍らに向き直り、冷えきった肩に手を回して、そっと引き寄せる。


「悪い。言い過ぎた。

 かおりの気持ちを疑ったわけじゃない。
 何故こんなことをしたのか、わからなかっただけだ・・・。
 ほらこんなに冷えきってる・・中に戻ろう。」


抱き寄せてくれた直人の腕も冷たかった。
直人の声も柔らかいのに、どこか、しんと冷たかった。


この人はわたしを許してくれないだろう・・・。

こんなに好きな人の力を信じられなかった、
バカな女なのだから・・・。




直人は、かおりを自分たちの荷物が置きっぱなしになっていた席に座らせると
カウンターに何か注文をしに行った。

カウンターの女性の明るい対応が、妙に耳障りに聞こえる。


「ほら・・・」


直人が温かい湯気の立つ、紅茶のカップをふたつ、テーブルに置いた。

プラスチックのカップの中で、ティーバッグから
じわじわと紅茶の色が沁み出していく・・・。


「砂糖とミルクも入れた方がいい・・・。
 唇が真っ青だ。」


かおりが何も言わないまま、放心したように座っているのを見て、
直人がティーバッグを引き上げて、蓋の上に置き、
シュガーの袋を破るとざあっと中身を開け、
ミルクまで入れてしまった。


「手を貸せ。」


言われるままに手を出した。

直人の、大きいけれど繊細な手が、一瞬かおりの手を包んでから、
手の中にそっと、熱いプラスチックのカップを抱かせる。


「また、こんなに手が冷たくなっている・・・。」


直人の声が聞こえる。
かすかに微笑んでいるようだ。


どうして、こんな時に優しいの?

そんな価値はないのに。
ひっぱたかれても当然なのに。

自分の油断から、あなたを苦しめている男に
唇まで許してしまったのだから・・・。


「・・・・」


今日は絶対に泣いてはいけないと思っていたのに、
どうしても止まらない・・・。

情けない。

あなたの両手が、カップを握っている自分の手の上から
そっと重ねられるのを感じる。


「長いこと、ほったらかしにしておいて悪かった。
 もっと傍に居てやりたかったんだが、どうしても身動きが取れなかった。
 許してくれるか?・・・」


やめて・・・。
そんな風に言わないで。


「それを飲んだら、車を拾おう・・・。
 もう、本当にずいぶん遅い。」


飲みたくなかったが、直人の目の色に押されて、
何とか飲み下す。

紅茶の味なぞ、全くしなかった。
ただ、甘くて温かい液体にしか感じない。

それでも無理に流し込むと、少し胃のあたりが温かくなった。


「それでいい・・・」


小さい子をほめるように、微笑む。


「では、行こう。家の人が心配しているだろう・・・。」


直人が立ち上がりかけたのを、手を引っ張って止めた。


「一緒に居てはいけない?」

「?」

「今夜、直人とずっと一緒に居ちゃ、だめ?
 一緒に居たいの・・・。
 帰りたくない。」


直人はまた、さとすような微笑を浮かべた。


「もう12時をとっくに過ぎてる。
 俺は明日、朝一番で大阪に行かなきゃならない。」

「それでも、どうしても一緒に居たいの。
 直人の近くに居たいの。

 一生のお願いだから・・・・・。
 聞いて。」


普段、めったに無理を言わないかおりの、
子供のわがままのような口ぶりに直人は困惑した。


俺は今夜、かおりと一緒に居られるだろうか・・?


「ダメだ。どうしても今日は無理だよ。
 車を拾うから、帰ろう・・・。」


かおりは、直人の顔をしばらくじっと黙って見ていた。

直人の心の中まで見通そうとするようなまなざし。
だが、しばらくすると、横を向いてハンカチで目元を拭い、
再び直人の方に向き直った。


「そうね。ごめんなさい、わがまま言って・・・。
 あなたを困らせて、迷惑ばかりかけてるわね。」


うっすらと唇を緩ませる。
寂しそうな微笑みだった。

立ち上がってコートを着ると、直人の腕にぎゅっと手を絡ませた。
直人は少し驚いたが、黙ってそのまま歩く。


週末前の深夜の新宿とあって、
すぐ横の大通りの向こうは、相変わらずの人通りだ。

タクシーをつかまえようとする人達が、通りのあちこちに立っていた。
空車のランプをつけた車が、それでも列をなしている。



「家まで一緒に送って行こうか?」

「ううん、それじゃ、直人がすごく遅くなるわ。
 大丈夫よ、ここから帰る。

 仕事帰りなんかに呼び出して、無理言ってごめんなさい・・・。
 どうしても会いたかった、謝りたかった。

 ここまで来てくれて・・・。
 わたしに会ってくれて、有り難うね。」


かおりの方から、直人に体を寄せて背中に手を回した。
胸に顔をつけて、しばらくじっとしている。


「・・・」


かおりが直人の頬にゆっくりと手を滑らせて、じっと顔を見つめた。
目に涙がたまっていたけれど、そのまま、微笑みかけてくる。

額を直人の顎の下に当てると、しばらく動かなかったが、
やがて、そうっと体を起こして、直人の唇に自ら唇を重ねてきた。


「・・・!」


直人は驚いた。
人通りのある路上で、かおりがこんな風にしたことはない。

それでも柔らかい感触に一瞬、意識が酔ったようになり、
かおりの冷たい体を思わず抱きしめると、
それは不意に離れていった。


「じゃ、帰るわ。
 おやすみなさい・・・。」


直人の手に触れてから、通りの方を向いた。


「ああ。気をつけて帰れよ。」


近くで待っていたタクシーに合図をすると、すぐにドアが開く。

かおりが乗り込んで、こちらに小さく手を振ったのを確認し、
走り出す車のテールランプを見送った。

のろのろとした流れながら、すぐに車は見えなくなる。



何か決定的な事を見逃したようで、すっきりしない気分だったが、 それを詮索するにはあまりに疲れ過ぎていた。

直人は、もう一度、別の車に合図して乗り込み、
自宅の住所を次げると、シートに深く潜り込んで目を閉じた。

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