AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  5. カウンターにて

 

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「・・さん。美奈さん・・・。」


気づくと、美奈はスタジオのソファにもたれてうとうとしていたらしい。
はっと顔をあげると、隣の席の長田が声をかけてくれていた。

あわてて唇のあたりを拭うと、向こうで、綿貫が呆れたように前を向いたのが見えた。


「あ、あ、あ、ごめんなさい。ちょっとぼうっとして・・・。」

「サンドイッチ食べて、腹いっぱいになったからですか?」


長田が面白そうに笑っている。


「それじゃ、通しでかけますから、全体チェックお願いします。」


ブースの中から、ディレクターの声が聞こえる。


「わかりました。」


こちらで一斉に答えると、先ほどのアコースティックサウンドが流れ始める。
美奈も原稿を見ながら、最終チェックを行った。


「お疲れさまです。」

「お疲れさま。」

「いいものができましたね。プロのナレーションがのったところが楽しみです。」

「いやあ、綿貫さんの声良かったねえ。本番でもささやいてもらおうかなあ・・・」


ディレクターの言葉に、


「いや、とんでもない!
 絶対にお断りしますから、カンベンして下さい。」

「あはは・・マジに怖がってる。
 僕はかなりいけると思ったんだけどなあ・・・惜しいなあ。

 あ、君、これ、良かったらあげるよ。」


ディレクターが美奈の手にCDを一枚押しつけると、
ミキサーの男性と手を振りながらスタジオを出ていった。


「何だろ、これ?」


『クラシック小曲集』


「あ、さっきのイメージにつけた曲の一部が入ってるんだ。」

「美奈さん、良かったですね。自分、クラシックあまり聞かないですから。」


残った3人で、ざっとあたりを片付けると、
鍵を返すから階段で降りる、という綿貫と別れ、
美奈と長田はエレベーターに乗った。


「長田さん、今から会社戻ったりしないよね?」

「しませんよ。
 自分はこの後寄りたい所があるんで、今日はまっすぐそこへ行ってもいいですか。」

「あ、わかったわ。お疲れさまです。」


エレベーターの扉が開くと、長田が先に飛び出して行き、


「じゃ、お先に。また来週!」


外の舗道で細い体を折り曲げて会釈すると、
長田はうれしそうに、夜の街を急ぎ足で見えなくなっていった。

美奈がぼんやり、ビルの前の歩道に立っていると、


「もう一人は帰ったのか?」


後ろから綿貫の声がした。


「ええ。何だかうれしそうにまっしぐらに行きました。どこへ行ったのかしら。」

「さあな。」




二人で連れ立って、東銀座の暗い裏通りをゆっくりと歩き始めた。

時折、ドアが開いて店からこぼれる明かりを反射しながら、
大きな黒塗りの車がそろそろと脇を通り過ぎるが、
裏通りとあって、それほど人通りは多くない。

晩秋の夜は、暮れてから急に肌寒さを増して、しんしんと空気が冷たくなってきた。



「美奈、一杯飲んで帰るか。」

「え、いいんですか?」

「ああ、久しぶりだしな。
 どうせ明日も休日出勤だから、今日は戻らないつもりだったんだ。」

「うれしい!どうせなら、うんと渋〜いバーがいい。大人っぽい雰囲気の・・」

「渋いバーね。そうだな、ご期待に添えるかどうか・・・。
 ただ、騒ぐとつまみ出されるぞ。おとなしくしてろよ。」


銀座の裏通りをいくつも抜けていくと、
水商売の女性がお客を店の外まで送って出る情景が、ちらほら見え始める。


今、どこにいるんだっけ


美奈の頭の中で地図がすっかり役に立たなくなった頃、
綿貫が地下に向かってぽっかり空いた、急な階段を下り始めた。




分厚いドアを開けると、天井の梁がにぶく飴色に沈む、
古いこぢんまりしたバーだった。

カウンターの奥で、蝶ネクタイをきっちり締めた年配のバーテンダーが、
こちらを見て「いらっしゃいませ」と低く声をかけ、
カウンターの空いている席を目で示した。

柔らかいキャンドルの光が店内に満ち、壁は古い新聞紙のような色合いで、
ごく低く、サックスの音色が流れている。

カウンターに座ると、ずらりと酒瓶の並ぶバックバーはピカピカに磨かれ、
艶やかな光沢を放っていた。


「何にする?」


綿貫が聞いた。


「そうですね。
 あの、あまりこういう所に来たことがないので、
 何を飲んだらいいのか、わからないんですけど・・・」


綿貫が顔を上げてバーテンダーを見ると、


「お客様はどんなタイプをお好みですか。
 甘いのがお好きとか、少し辛いのがいいとか、
 きれいな色のカクテルがよろしいとか・・・。」


バーテンダーが静かに声をかけた。


「そうですね。あまり強くなくて、きれいな色のカクテルを頂きます。」

「僕にはジャックダニエルを。」

「かしこまりました。」


老練な動きで酒を計って注ぎ、八の字を描いてシェイカーを振るバーテンダーを
美奈は感心して眺めていた。

柔らかく丸みを帯びたカクテルグラスにピンク色の液体が注がれ、
ふちにレースのような白い泡が淡く浮きあがる。


「ピンク・レディです。」


グラスがすっとカウンターを滑ってきた。


「あ・・・」


美奈は自分が淡いピンクのニットを着ていたことを思い出して、ふと見返すと、
胸元から、白いレースのキャミソールが少し覗いていた。

綿貫はごく淡く微笑んで、


「乾杯しよう。」


長い繊細な指に琥珀色のグラスを持って、美奈の前で掲げた。


「再会に・・・・」

「いや、プロジェクトの成功にだ。」


初めて舐めたピンクレディは、ほんのり甘く、どこか懐かしい味がした。


「美奈は酒が飲めるのか?」

「ええ、結構飲める方かも。でもあんまり飲みに行く機会がなくって・・・」

「忙しいから?」

「それもあるけど、お酒の強い人がまわりに少ないんです。」


ふうん、という目つきをして、綿貫がまた前を向いてしまう。


「綿貫さんは、全然変わっていませんね。
 最後に会ってから何年経つんだろう。」

「俺が卒業してから、7年だ。」


綿貫がグラスに目を落としたまま答えると、美奈の方を向き、


「美奈は・・・変わったな。」

「え?」

「大人っぽくなった。驚いたよ。」

「本当ですか。最初、わたしを見ても全く知らない顔してるから、
 覚えてくれてないのかと悩んでしまいましたよ。」

「実を言うと最初はわからなかった。
 倉橋常務が紹介してくれて、はっと思い出したくらいだ。
 それくらい、雰囲気が変わった。
 
 もっとも、俺が知ってるのは20才そこそこの、
 やっと新入生から抜け出したばかりの美奈だからな。」

「もしかして、大人のわたしの魅力にクラクラ来たとか?」

「はっ、そこまで言うのか。」


綿貫は本来のビターな顔に戻って、バーボンを飲んでいる。


「うふふ、ダメですよ、今はわたしに惚れたって。
 第一、綿貫さんがどんなに冷たい男か、わたしはようく知ってますから。」


美奈は、右手の指輪をくるくる回しながら、思わず微笑んだ。


「優しい人は見つかったのか。」

「あ、よく覚えていますね。ええ、すごく優しい人です。
 先輩とちがって・・・」

「いちいち絡む奴だ。」


綿貫が苦笑いをした。


「かおりさんと・・・結婚しなかったんですか?」


綿貫の左手に指輪がないのに目を留めて、美奈が尋ねた。


「ああ・・・」

「冷たい人ですねえ。あんなに愛されていたのに・・・」

「誤解するな。そう決めたのはあっちだ。」

「ええ〜?綿貫さん、振られたんですか」

「悪かったな・・・」


綿貫のバツの悪そうな顔がおかしくて、美奈は思わず噴き出してしまった。


「何だよ。それがそんなに面白いのか。」

「くくく・・・あははは・・・。おかしいです。
 あんまり格好つけるからですよ。かおりさんに愛想をつかされちゃったんでしょ。」

「・・・・」

「あ、すみません。」

「全く信じられない奴だ。
 飲みになんか連れて来るんじゃなかった。」


綿貫の眉間が寄せられ、一気にバーボンをあおった。

うふふふ・・・と美奈が笑った。


「ごめんなさい、先輩の古傷に触れて。
 でもね、いつか、女性としてこれくらいは言ってやろうって思ってたんです。
 もう言いませんから、怒らないで下さいね。」

「俺はお前に何もしてないだろう。」

「そうですけど、あの頃の綿貫さん見てたら、
 女性の気持ちをあまりにもわからない人非人のような気がして、
 こんな男は女の敵だって思ってました。」


綿貫は大きなため息をついたが、もう何も言わなかった。


「でも、今は考えが違いますよ。
 女の敵って言うのは、表面上は女性に優しくても、
 影で裏切ったり、悪い事をする人だなって思います。
 綿貫さんは、ちょっと不器用なだけだったんですね、きっと。」


美奈はまた、コロコロと笑い声を立てた。


「さっき、朝の女性を起こすナレーションやったでしょ。
 あのコピーって、もしかして綿貫さんが書いたんじゃないですか?」

「違うな。」

「そうかしら・・・。

 わたし、サークルの時、綿貫コピーのファンでしたから、何となくわかるんです。
 これは綿貫さんだなって。
 まったく仕事だとこんなに甘い言葉を書けるのに・・・。」


うふふふ・・・とまた声を立てて笑いながら、右手の指輪を触っている。


黙ってその様子を見ていた綿貫が


「もしかして、さっきの・・・芳賀さんか?」

「どうしてわかるんです?」

「誰だってわかるだろう。俺が飲みに連れて来たりしてまずかったかな。」

「そんな事ないですよ。会社の同僚と飲みに行く時だってありますし、
 綿貫さんなら、彼も安心でしょう。
 それに・・・彼、お酒が全然飲めないんです。」

「じゃあ、尚のこと、バーなんかに連れてこない方が良かったんじゃないか。」

「ううん、彼はそんなこと気にする人じゃないから。
 自分が連れて行けない分、他の人と行った時は楽しんで来いって、言ってくれます。」

「そうか・・・」

「これ、おいしい。でも今度は別のにしたいな。
 もうちょっとだけ辛くて、さっぱりしたタイプはありますか?」

「かしこまりました。」

「僕にももう一杯。」


バーテンダーはうなずくと、キャンドルの光を映して光っているグラスを二つ取り、
一つに琥珀色の液体を注いで綿貫の前に置く。

それから美奈のカクテルを振りおさめると、透明な赤い光のような液体をグラスに注ぎ、
赤いチェリーをピンに刺して、カクテルグラスに沈め、美奈の方へ滑らせた。


無駄のない流れるように美しい手つきだった。


「マンハッタンです。」


一口飲むと、


「さっきより少し大人になったような気分ですね。」

「そうか・・・」


綿貫も珍しく、穏やかな顔を見せた。

その笑顔に釣られて、美奈が少しだけ真也の話をした。
彼がどんなに今の仕事に打ち込んでいて、ふだんはどんな風に優しいかを話すのを、
綿貫は黙って聞いていた。


「綿貫さんは、今好きな人はいないんですか?」

「ああ。」

「ふうん。つまんないですね。」


そうかな、と低くつぶやいた後、


「いや、もう当分、女はいい。」

「う〜ん、トラウマなんですねえ。」

「馬鹿。そんなんじゃない。」


二人の間に言葉が途切れると、
店の中をごく低く流れるサックスのメロディが聞こえてくる。

しばらく黙ったまま、サックスの響きにうっとりと耳を傾けていると、
ヴォーカルが入ってきた。


♪The very thought of you makes my heart sing,
Like an April breeze on the wings of spring
And you appear in all your splendor
・ ・・・My one and only love. ♪


君を想うだけで僕の心は歌い出す
春の翼に乗った四月のそよ風のように
君は輝きに包まれている 
僕の愛するたった一人の人



「この曲すごく素敵だわ。何ていう曲なのか、知ってますか。」

「"My One and Only Love"だ。ジャズのスタンダードだよ。
 これは、コルトレーンとハートマンの奴だな。」

「詳しいんですね。」

「それ程じゃない。これはかなり有名だし、好きな曲だ。」

「どんな歌なんですか?」

「ラブ・バラードだよ。
 恋人への愛を歌った曲だったと思う。」



また沈黙が落ちてきたが、
それは二人が同じ音楽を聞いていることから来るものだった。

ビロードのようなサックスの響き、おいしいお酒、
ちょっと渋いパートナーと過ごす時間。

いつのまにかグラスを重ねてしまっていた。
気がつくと、もう終電に近い。


「ほら。
 俺は送って行かないし、彼氏は忙しいんだから、
 お前ひとりで帰らなきゃならないんだぞ。
 しゃんとしろよ。」

「大丈夫ですよ。お酒には強いんですから。」


どうだかな、と、綿貫が先に立って店を出た。

暗幕をはったような空に半月がかかり、西に沈みかけている。
さらに人通りの少なくなった道をゆらゆらしながら歩いていると
美奈が、


「ひとつ・・・質問してもいいですか?」

「・・・なんだ。」

「かおり先輩のこと、本気で好きだったんですか・・・」


まだ言うのか、という苦いつぶやきが聞こえて、返事はなかった。


「だって、ずうっと気になっていたんです。」


綿貫が下を向いたまま、小さくため息をついたのが聞こえた。
うすい影が歩くにつれて、うしろに下がっていく。


「・・・俺なりにな。」


そうですか、という声が美奈から漏れた。

綿貫さん、本当に不器用な人なんですね・・・というつぶやきを呑み込むと、
夜の街に吸い込まれていった。

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