AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  7. 石とガラスの街

 

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大手広告代理店「広通」本社の巨大ビル。

このあたり一帯を再開発した際、海外の有名建築家が設計を担当し、
一階に劇場、最上階にレストランと展望スペースを配した、
空を鋭利に切り取るような美しいシルエットを見せる最新の建築物。

美奈の居る「KAtiE」の親会社にあたる大手化粧品会社も、
同じ再開発エリア内にある。

石とガラスでできた、この一帯の空間に立つと、
いつも美奈は少し緊張してしまう。

受付で案内を乞い、エレベーターで上階に上がると、
そこはもう様々な種類の人間の行き交うフロアだった。

無精髭にジーンズのクリエーター、びしっとスーツを着こなした営業マン、
大きなボードケースを抱えたデザイナーなどが雑多に入り混じっているのを見ると、
美奈もようやくほっとする。

受付のカウンターまで、加澤が迎えに来てくれ、
ミーティングルームに案内してくれた。




美容ライターのリエが既に来ていて、
「KAtiE」ブランドではないコスメ用品を広げて、
はしからチェックしており、少し離れたところに綿貫が座っていた。

美奈が入って行くと綿貫が立ち上がり、美奈を紹介しようとした。


「あら、綿貫さん。私たち知り合いよ。
 かつえさんに引っ張られて紹介されたもの。
 その後、一緒に飲みに行ったんじゃなかったかしら?」

「よく覚えていて下さいましたね。あの時はお世話になりました。」


美奈が挨拶すると、リエはきれいにネイルされた指先を振って、


「かつえさんが酔っぱらってホテルに帰れないって言うから、
 そちらの会社まで送り届けたのよね。
 何でもお気に入りのソファがあるから、そこで寝るって聞かないし・・・。

 もう、しょうがない人よねえ。」


KAtiEビルのかつえの部屋にも、常務室と同じようなソファがあるが、
こちらはもう少し座面が広く布張りなので、
徹夜で仕事をしたかつえがよく仮眠しているらしい。


「わたしのよだれがついてるかもしれないわよぉ。」


などと、脅されながら座ったことがある。


「で、出来たの?新しいやつ・・」


リエが急かした。


「はい。リエさんにだけ特別に、一番に見てもらいたくて・・・。」


美奈は持って来た、一点サンプルの大きな布バッグとは別に
可愛らしいポーチに入ったサンプルをリエに渡した。


「これは全製品の一点サンプルですけど、
 こちらはリエさん用の特別サンプルですから、
 是非お持ち帰りになって色々お試し下さい。」

「わあ、ありがと!でも今は、是非大きい方を見せてもらうわ。
 でないと、かつえさんから電話かかって来て、
 見てないなんてわかったら、怒られちゃうもの。」


美容ライターには色々なタイプがいるが、
リエは、元売れっ子のメーキャップアーティストで、
海外のコレクションなどで活躍し、呼ばれれば世界中を飛び回っていた。

ちょうどKAtiEブランドの立ち上がった、7〜8年前に体を壊して手術をし、
コレクションのハードスケジュールについて回る生活にドクターストップがかかった。

その後美容ライターに転身し、さまざまな雑誌のコラムや紹介記事を書いているが、
現役のメーキャップアーティストとも太いパイプがあり、
彼女の情報は信頼されている。


「あら、容れ物はちょっとレトロね。」


スキンケアラインの製品を取り出して並べながら、リエは綿貫の方を見て笑った。


「ええ、中身はシンプルで高機能ですが、
 外側は少しレトロでロマンチックに。」


綿貫が答えた。


「うん、いい感じ。外側までさっぱりしてると、何だか薬みたいだもの。
 わあ、おいしそうな色!」


ルージュ、チーク、アイカラーのパレットを次々広げながら、リエは感嘆の声を上げた。


「そうよね。来春はミニが来るのよ、それも超ミニ!
 だとしたら、メイクは清楚でロマンチックでなくちゃ。

 濃い化粧したら、違う商売だと思われちゃうじゃない?
 スタイリングはシンプル、メイクやアクセサリーはロマンチック!
 覚えておくといいわよ。

 それから、せっかくなんだから・・・
 もっとぐわっと脚を出しなさい。」


これくらい!・・と、
リエが、美奈のスカートの裾をつかんで思いっきり引っ張り上げた。


「きゃあ!な、何するんですか!こ、こんなところで・・・」


美奈はあわててもものあたりを押さえ、
リエの腕を振り払おうと激しく抗議したが、リエは平気だった。


「こうやってめくると扇情的だけど、最初から見せてると健康的になるのよ。
 来年の春には、これくらい普通になってるかもよ。」


からからと笑いながら、リエが綿貫と加澤の座っている方を見た。


「あら、クール綿貫がにやけちゃって・・・。
 気をつけなさい、美奈ちゃん。案外、この人○ケベかもよ。」

「案外ってつけてくれなくてもいいですよ。」


綿貫が少し横を向きながら、しらっとした顔で流した。


「んもう、憎たらしいわね。
 このクールな顔がベロベロに緩んだ所を一度見てみたいわ。
 綿貫さん、くずれないんだもの。」


リエが軽口をたたきながら、次々と製品を開けてチェックしていった。


「スキンケアの品、感触はいいけど、ちょっと試してみないとわかんないわね。
 でもまずこの容器の可愛さ。
 かと言って、大人の女性が手にしても恥ずかしくないグレード。
 うまい所をついてるじゃない、綿貫さん。」

「どうも。」

「カラーのことはかつえさんに言わないとね。
 このサンプル、もうかつえさんに送ったの?」


美奈に向かって、リエが尋ねた。


「はい。もう届いていると思います。」

「そうか、これは気に入るわよ。
 大丈夫、きっと売れるわ。

 すぐかどうかわかんないけど、このラインが認知されるにつれて、
 じわじわと人気が出るわよ。わたしも欲しい、わたしもって。
 帰ったら、おたくの倉橋常務さんに、ちゃんと伝えておいてね。」

「はい、かならず。」



「おたくの倉橋さんは相変わらず色っぽいの?」


リエがちょっと冷めた調子で尋ねた。


「ええ、相変わらずきれいです。」

「そう。どんな秘密があるのか、そのうち探ってみたいわねえ。
 夜中にサンプルの美容液を塗りたくって、毎晩パックしてるのかしら。
 何にしてもすごいことよ。」


途中で、綿貫に伝言が入った。

一読すると、加澤を呼んで何か耳打ちしていたが、
リエと美奈に向き直ると、


「申し訳ありませんが、僕はここで失礼しなければなりません。
 リエさん、今日はわざわざありがとうございました。
 あとは、加澤に何でもおっしゃって下さい。
 小林さんも常務と前田部長によろしくお伝え下さい。」


一礼すると綿貫は部屋を出て行った。


「いいわねえ、彼。」


リエが美奈に言った。


「私、ここが好きなのは、彼がいるからよ。
 サンプルだけだったら、ここまで来ないわ。」

「そうなんですか。じゃ、綿貫さんにお礼を言わないと・・・」


リエは美奈の言葉など聞いていなかった。

宙を見つめながらうっとりと、


「彼の、どうやっても崩れないところがいいわ。
 あの甘い声でバリバリに厳しい言葉を吐くんだもん。
 自分が怒られてるんじゃなきゃ、すっごい快感よ。」

「はあ、そうかもしれませんね。」


綿貫がぬけた後、急にリエは事務的な調子になって、新ラインのコンセプト、
商品構成、価格帯、ターゲットなどを美奈に根掘り葉掘り聞くと、
手帳をしまい、身支度を始めた。


「荷物増やしてしまって、すみません。」


うふふ、とリエが笑う。


「これは、現役時代から慣れてるからね。
 ただパンフだの雑誌だのって紙類は重いわ。
 ああ、参る!」


リエは大きなバッグを担ぎ上げると、


「じゃ、どうもありがとう!かつえさんには私からも伝えるわ。
 販売サンプルが出たら、また連絡して。
 楽しみにしてるから。

 それから、もちろん、プレス発表まではこのサンプルは絶対に表に出さないから、
 心配しないで。」


帰り道はわかるから、送ってくれなくていいと、
加澤に手を振って大股に去っていった。

後には、加澤と美奈だけが残った。


「ふうん、元気な人ですねえ。」


加澤が感心したように呟いた。


「あの人だけじゃないわ。かつえさんも、うちの常務もみんな元気よ。
 わたしたちも負けないようにしなくっちゃ。」

荷物をしまいながら、美奈が加澤に笑い返した。





美奈が会社に戻ったのは、4時を回っていた。

デスクの上には、仕分けし、梱包して各販売店に配らなければならない、
既存のサンプル品がうずたかく積み上がっている。

真也の姿は見えない。またあちこちを飛び回っているのだろう。

デスクに残っていた長田に、


「わたし、ちょっとA会議室にこもって、仕分けと梱包してくるわ。
 広い場所の方がやりやすいから・・・」

「そうですか。じゃ、そこまで一緒に運びましょう。」


長田が申し出てくれたので、机上のサンプル品を二人でA会議室に運び込んだ。


「仕分けも手伝いましょうか?」


長田が膨大な量の製品を見回して、そう言ってくれたが、


「ありがとう。でも長田君もめちゃくちゃ忙しいの知ってるから。
 大丈夫、一人でやれるわ。
 このところ、ずっと終電でしょ?」

「そうなんですよ。今日はちょっと朦朧としてます。
 じゃ、どうしても手が要るようになったら声をかけて下さい。」


長田が言い置いて、会議室を出ていった。





販売店によって送る個数が違うので、
サンプル品を販売店別の箱に分けることから始めた。

リストと付き合わせ、個数を確認し、箱を閉じる前に、
膨大な送り状にあて先をどんどんと書いていく。

途中一度、コーヒーでも取りに行こうと、デスクの所に戻ると、
長田が疲れた顔でPCを叩いていた。


「終わりました?」

「ううん、まだ。
 箱を閉める前にもう一度中身を確認してから、一気に梱包するわ。」

「そうですか。僕、今日は早めに上がるかもしれません。」


美奈が長田のPC画面の時刻表示を覗き込むと、既に8時を回っていた。


「早めってもう8時よ。机の上で寝ちゃう前に帰った方がいいわよ。
 芳賀さんは?」

「えっと、さっき一度姿を見かけたんですけど、
 部長だか、常務だかからすぐ呼び出しが入って、また行っちゃいました。」

「そう。芳賀さんが一番大変そうね。」

「そうですね。よく保ってますよ。」


長田が同情するような調子で言った。

彼はわたしたちの関係に気づいているのか、いないのか・・・。
ただ、余計な詮索をするタイプではないのは間違いない。



「じゃ、もう一回こもってくる。」


カップのコーヒーを片手に部屋を後にして、
美奈は一人でまた会議室にこもり、荷物との格闘を続ける。

荷物が全て梱包され、送り状が貼られると、
地下の集配室に搬送ワゴンを取りに行き、
荷物をのせてまた集配室に戻り、
明日送り出される荷物の棚に箱をずらっと並べた。

何回か往復して、やっと送り出し作業を終え、
真っ黒になった手を洗って部屋に戻ると長田の姿はもうなかった。

美奈は自分のデスクに戻ると、しまったと思った。

昼間、リエに見せるために常務から借り出した、全製品の一点サンプルがそのままだ。
リエの言葉を倉橋に伝えてもいない。

美奈は倉橋宛、内線電話をかけたが、
何回かコールが空しく響くだけで、誰も出ない。
倉橋はどこか別室にいて、秘書役の女性も帰ってしまったのだろう。

美奈は迷ったが、明日一番にどこかへ持っていく予定になっているといけないので、
一点サンプルだけは、常務室に戻しに行く事にした。




常務室のあるフロアまで、エレベーターで上がり、
手前の応接室のドアをノックしたが、誰も応答しない。

おずおずとドアノブを回したが、小さな応接間には無論、誰の姿もないので、
奥にある照明が付いたままの執務室のドアを、さらにノックする。

またしても何の応答もなく、そろそろとここのドアを開けた。

倉橋のデスクスタンドがつけっぱなしのまま、誰の姿もないが、
デスクにはまだ書類が広がっていて、
仕事中、そのまま打ち合わせに出かけたような様子だった。

どうしようかと、また迷ったが、
とにかく一点サンプルだけは返却しなければならない。
常務の執務デスクの上に、サンプルの詰まった大きな黒い布袋を置いた。

手前の見事なソファの背に、見覚えのある上着がかるく畳んで置いてある。

真也のものだった。

では、一緒の打ち合わせに出ているのか、と思いながら、
常務室のドアを閉め、廊下に出た。



エレベーターに戻ろうとすると、いつもは無人の、
かつえ用の奥の部屋に明かりが付いている。

こっちで打ち合わせをしているのか、と思い、一言、声をかけて行こうと
カーペットの廊下を引き返した。

かつえの部屋の前に立った時、どこからか真也の声がしたように思った。

ああ、やっぱりここに居たのだと、ドアに手をかけようとして、
ふとためらった。


わたしの聞いたのは話し声、だったかしら・・・


どうしようか、数秒迷って、ドアの外に佇んでいた。

しかし、意を決して、ドアを開けようとノブに触れたとき、中の物音が漏れてきた。


何の音だろう・・・。


さらに迷ったが、このまま帰ることはできない、と思い定め、
そうっとノブを回し、音をさせないようにドアを開けて中の小応接室に入りこんだ。




常務室と同じく、かつえの部屋にも
大きな執務室の手前に小ぶりの応接室があり
常務室についているものよりはやや広い。

他の応接室が全て埋まっている時は、たまにこの部屋を使う事もあった。

今、美奈の立っているその応接室は無人で照明はなく、しんとしている。

そこから、かつえの執務室のドアが細く開いており、
物音がいきなりはっきり聞こえて来て、目が慣れるに従い、
ドアの隙間から中の様子までが見えた。




かつえの執務室にもある大きな白いソファ。

その片側の肘置きの所から、栗色の長い髪がこぼれ出すのが見えた。

ついで、白くて豊満な片腕が弧を描いて垂れ下がり、
手首がソファの外に落ちるにつれ、
細いブレスレットが指先の方へしゃらしゃらと滑るのが見えた。

それから、ウェーブのかかった栗色の頭全部が出て来て、
上を向いた白い横顔と少し開き気味の唇が見え、

なだらかにのけぞった喉が見え、裸の肩までが見え・・・

それにつれて、
倉橋にのしかかる真也の、うつむいた横顔とシャツをはだけた上半身までが見え、

真也の顔がソファの肘かけから身を乗り出した、倉橋の首に、
埋められるのまでが見えた。


手を伸ばせばすぐ届きそうな距離の悪夢。

急に一切の音が何も聞こえなくなった。

そして、また音が・・・いきなり戻ってきた。

残酷な音、吐息の音、ぴちゃぴちゃと舐めるような音、こすれる音、
かすれた声、うめく声・・・・・


その意味を理解した瞬間、大声で叫んでこの場から飛び出したかったが、
金縛りにあったように動くことが出来ない。

見たくないのに、目をそらすことがどうしてもできない。

目の前に広がっている悪夢を、頭を押さえつけられたまま、
無理矢理に見せつけられる・・・。



5分、20分、いや、正確な時間は全くわからない。

どの位そこに佇んでいたのか、まるでわからないが、
首のあたりから、急に悪寒がした。

その悪寒で美奈は体の自由を取り戻し、考える余裕をほんの少しだけ得た。


ここで見つかってはいけない。
今はいけない。

こんな場面で顔を合わすなんて・・。
わたしにも真也にも、あまりにも惨め過ぎる・・・


なんとか、音をたてないように廊下に通じるドアを開けて、外に忍び出る。

そうっとドアを閉めると、大きく息を吸って目を閉じた。
頭の中がわんわんと大きく鳴っている。



こみ上げてくる吐き気を抑えながら、
暗く、照明の落ちた廊下を足音を忍ばせて戻り、
このフロアで止まったままになっていたエレベーターに乗って、
闇雲にボタンを押し、一番最初に開いた階で飛び出して、トイレに走っていった。

吐き気ばかりで、胃の中からは中々何も出て来なかったが、
わずかな水分と胃液を戻すと、冷汗がびっしょりと全身から噴き出てきて、
体中が冷えきって行く。

きっと軽い貧血状態なのだ。

こうしていれば、もう少しこうしていれば、立ち上がれるだろう・・・・。

ああ、頭の中がぐるぐると回転木馬のように回っている、
止まらない、止まらない・・・気持ち悪い・・・。


壁に当てた右手の薬指に青く光る石が見えた。


わたしを守ってくれる筈だったもの・・・


一気に引き抜いて投げ捨ててしまおうか、とも思ったが、
真也がこれをはめてくれた、金色の銀杏並木の景色が突如として蘇ってきて、
その衝動を止めた。

幸せの記憶。
幸せだった記憶・・・。

もうろうとした頭の中で自分を励ましながら、
さらにしばらくの間、トイレの蓋によりかかって目を閉じていた。




頭の中の回転がようやく止まると、吐き気も一時的に少し治まり、
立ち上がることができた。

額を触ると、べっとり汗が浮き出しているのがわかる。
ハンカチで、顔と首まわりの汗を拭い、ふらふらと自分のデスクへ戻った。



美奈のフロアは照明こそ落ちていなかったが、誰の姿もなかった。

真也のデスクの方を見ないようにしながら、
震える体にコートを巻き付けると、荷物をひっつかみ、
エレベーターのボタンを何度も押して飛び乗ると、
止まると同時に外へ飛び出した。

顔なじみの守衛の処で、帰館名簿にサインをしようとして、ふと、
名前を書くと退勤時刻も記入しなくてはならないのを思い出し、


「まだ誰かの荷物とコートがあったので、鍵はかけてません。
 後で見回って下さい。」


そう言いおいて、名前を書かずにビルを出た。




街も、昼間は秋の名残の温かさを保っていたのに、
こんな真夜中は、冬が来ていることを思い知らせるような冷え込みだった。

暗い舗道を乾いたほこりっぽい風が吹きすぎると、
汗の冷えた濡れた体がガタガタと震えだす。


とても、電車に乗って帰れそうもないわ。・・・・


美奈は手を挙げてタクシーを捕まえると、自宅の住所を告げ、
くずおれるように後部座席に身を沈め、ぐったりと目を閉じた。

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