AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  8-1. 空っぽの指1

 

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12月に入る前から、クリスマス・イルミネーションがあちこちで点灯し、
今や、1年の6分の1近くがクリスマス・シーズンと言っても過言ではない。

あらゆる雑誌で、クリスマスギフト特集が組まれ、
「KAtiE」既存ラインのクリスマス用キットも紹介されている。

この繁忙期は新ラインの開発だけにかまけてはいられなかった。

「KAtiE」ブランド、シーズン限定品として、
赤と緑のクリスマスポーチ入りのもの、
コスメキットと可愛いリキュールの小瓶を組み合わせたもの、
天使のオーナメントがおまけについたものと、幾つかバージョンを揃えた。

それを熱心な「KAtiE」ファンが一つ一つ買い集めてくれ、
限定品が店に切れたあたりから、会社に問い合わせが増えてくる。

会社から直接販売はできないものの、手に入りそうな店の案内や、
実際のキットの手配まで、目が回るように忙しかった。




あの恐ろしい光景を見た翌朝、
美奈はどうしてもベッドから起き上がることができなかった.

だが、この大変な時期に、丸一日寝て過ごす贅沢などある筈もないので、
重い心と体を引きずって午後から出社した。


「美奈さん、大丈夫ですか?顔色悪いですよ。」


近くの席から、長田が心配そうに声を掛けてきた。


「大丈夫。
 ちょっと疲れがたまっているみたいだけど、午前中少し休んだから。
 長田君はどう?」

「僕は、おかげさまで昨日爆睡したせいか、今日はばっちりですよ。
 あ、そう言えば、倉橋常務から電話がありましたが、午前中お休みと伝えたら、
 また掛けるって仰ってました。」

「ありがとう。わたしから掛け直すわ。」


重苦しい気分を何とか押さえ、美奈の方から倉橋常務に電話をすると、
在室していて、上がって来いと言うことだった。



エレベーターを降りると、
明るい昼の光の中では昨夜の悪夢など嘘のように、
古いビルの黄ばんだ漆喰の壁とベージュのカーペットが、
いつもの落ち着いた雰囲気を醸し出している。


「美奈ちゃん、来られたのね。
 大丈夫?疲れがたまってるんじゃないの?」


今日の倉橋常務は胸元にフリルをたたんだ、ローズ色の薄手のブラウスに、
細いバロックパールのネックレースを2重にしている。

きれいな色目が顔に映って、
いつもより一層、つややかで色めいて見えた。


「大丈夫です。」


美奈は知らず、唇を噛みしめながら答えた。
執務室の中には、綿貫と加澤、そして前田部長が居る。


「リエさん、何て言ってた?」

「綿貫さんからまだお聞きじゃないですか?」


美奈が問い返すと、


「あなたから聞けって言うのよ。自分は中座しちゃったからって。
 で、加澤さんが少しお話してくれてたの。
 気に入ってくれたみたいね。」

「ええ、とっても・・・」


美奈はリエが言った言葉をそのまま、倉橋に伝えた。


「よかった!リエさんが請け合ってくれたんなら、成功間違いなしね。
 ああ、ほっとしたわ。」


倉橋は両手を合わせながら、嬉しそうにソファに座り込んだ。
今日は栗色の髪を留めずに、長いまま肩に下ろしている。

横顔を見ると、一瞬、昨日の悪夢が蘇ったが、美奈は何とか我慢した。


「本当は、忘年会やクリスマス会でもやって、
 皆にお疲れさまって言いたいのよ。、
 でもそのせいで、却って皆に忙しい思いをさせるといけないから、、
 年が明けてからにしましょうね。
 
 1月にはかつえさんも来日するって言ってるし・・・。

 もう本当は飛んできたくてしょうがないんだけど、
 12月のパーティシーズンは彼女も稼ぎ時で
 身動き取れないんでしょうねえ・・・・」


楽しそうな倉橋の口調を聞いているだけで、
また、吐き気がぶり返してきそうになる。


どうしよう・・・。
こんな調子で仕事をやって行けるだろうか・・・


額と脇の下からまたわずかに冷汗がにじみ、
少し立ちくらみがして来た。

ソファに座っている綿貫の視線が、
下から鋭く美奈を捉えているのは感じていたが、
どうにもならない。

前田部長が


「小林さん、少し顔色が青いようだね。
 まあ、とにかく座りなさい。」

「はい、大丈夫です。ちょっと調子が悪いだけで、すぐ治りますから。」


美奈は何とか笑顔を作って、前田に答えた。

その様子を見た倉橋が、


「みんなすごく頑張ってくれているから、かつえさんにもそう伝えるわ。
 美奈ちゃん、気をつけてね。」

「はい。有り難うございます。じゃ、仕事にもどります。」


無表情な綿貫の視線が一瞬、自分の指に注がれたように感じたが、
相変わらず冷静な声で倉橋への説明を始めたのを、背中に聞きながら、
やっとの事で美奈は自分のデスクに戻った。






右手の薬指をつい、触る癖がついている。
もうそこには何もないのに。

はめていないのに、まだかすかに指輪の記憶を残しているような指をつるりと触ると、
胸の奥が鋭く痛む。
痛みを感じると、また、吐き気がこみあげてくる。

美奈は無理に、PCの電源を入れ、急ぎのリストの確認を始めた。

何も考えたくない。
今は何も考える暇がない程、忙しいはず。

何度もそう言い聞かせながら、無理矢理、仕事に自分を引き込んでいった。






一週間ちょっとが経った。


真也も長田も、最近は営業のヘルプに借り出されていて、
朝一番しか社内に姿を見せない。

土日も百貨店回りで忙殺され、朝から店に直行するのも珍しくなかった。

真也は元々営業マンだったから、ヘルプの仕方も心得ている。

営業サイドから得た信頼のおかげで、新企画に逆風の吹きやすい営業の面々からも
後押しをもらう結果になっていた。


この一週間、美奈から真也へ連絡を取ることは一切なかったが、
真也からもぷつりと絶えたように、電話もメールもない。

あの夜、自分が見たことをあの二人が知る筈はないのに、
何故連絡して来ないのか。

あの二人はいつからああなっていたのか。

そんな事を考え始めると
途端に抑えている吐き気がこみあげてくるので、
昼間は極力、その事を頭から追い出した。

だが、暗い部屋で横になり、少しでも眠ろうと無益な努力をしていると、
あの恐ろしい情景と共に様々な疑問が湧いてきてしまう。

湧いてきすぎて、頭が爆発しそうになり、
音楽や本に救いを求めようとするのだが、
本当にダメージを受けている時は、
こういった物は何の役にも立たない事を思い知らされる。

眠れない数時間を過ごし、ようやく、
とろとろとまどろんで目覚めた朝が最悪だった。

何も変わっていない現実。

それなのに、その吐き気のするような現実の中に
自分は出かけて行かなければならない。

朝から吐き気を感じるような状態で、朝食が喉を通る筈もなく、
美奈はこの一週間でずいぶん体重を落としてしまった。





その朝出社すると、すぐに長田が席を立って、
美奈に「ちょっといいですか」と声をかけ、
自分からどんどんと部屋を出ていってしまった。

何事だろう、と取りあえず、PCの電源だけ入れ、
長田の後を追って部屋の外に出る。

長田の細長い身体が、朝一番で誰もいない「A会議室」に入って行くのを見たとき、
嫌な予感がした。

美奈が追いついて、後ろ手に会議室のドアを閉めると、長田がすぐに、


「美奈さん。昨夜、芳賀さんが倒れたそうです。」

「えっ?」


予想もしていなかった話に、美奈の心臓がどくんと波打った。


「どこで?」

「会社だそうです。

 僕は昨日の午後、芳賀さんと○○○○百貨店のバックヤードで会って、
 夕方には一度会社に戻ろうって話をしたんです。
 
 で、僕が夕方戻ったら、芳賀さんが7時前に戻ってきて、
 一緒に少しだけプロジェクトの進行を確認してたんですよ。
 そしたら、芳賀さんが戻ったってことで、また常務から呼び出しがかかって。

 その後は、常務と打ち合わせをしていたらしいんですが、
 そのうちに倒れたらしくって。」

「・・・・」

「その打ち合わせに途中まで綿貫さんが居たらしいんです。
 で、綿貫さんが出て10分位後に倒れたらしくって、
 動転した常務が携帯に連絡したら、綿貫さんがもう一度戻ってくれて、
 常務と一緒に救急車に付き添ってくれたらしいです。」


美奈は声も出なかった。恐ろしい想像をめぐらしていた。


「僕は芳賀さんはもう戻らないだろうと思って、
 昨夜は帰ってしまったんです。
 その直後でした。

 そう言われれば、駅のあたりで救急車のサイレンを聞いたんですが、
 自分に関係があるとは夢にも思わなくて・・・。」

「芳賀さんは今、どこにいるの?」

「広尾の○○病院に入院しています。
 『過労と神経衰弱』らしいですが、
 どの位で退院できるのかはよくわからないんです。
 
 美奈さん、行きますよね?」


美奈は長田の心配そうな顔を見て、
ああ、この人はわたしたちのことをやっぱり知っていたんだ、と気づいた。


「でも・・・。」


口ごもりかけた美奈をさえぎり


「急ぎがあるなら、僕が代わります。
 取りあえず、行ってあげて下さい。
 病院の住所はここです。702号室です。」


長田が細長い紙を美奈の掌にねじ込んだ。

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