AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  8-2. 空っぽの指2

 

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そうっと個室病室のドアを開けると、思いがけず、倉橋常務と綿貫が座っていた。

綿貫はすぐに美奈に気づいたが、倉橋は凝然と動かない。
真也のベッドの側に座り、動かない視線をじっと注いでいる。

白く輝くスーツにはしみ一つなかったが、今朝の倉橋の顔からは、
先日来の生気は消えて、ぐっと疲れているように見えた。

真也は腕から2本も点滴の管を下げたまま、ベッドに横たわって昏々と眠っている。

目尻に小じわがより、目の下に青黒く隈が浮き、
先日、美奈がホテルで見た時の寝顔より、もっと一層やつれて見え、
痛ましい程だった。




「美奈ちゃん。」


倉橋が美奈に気づいて、声をかけた。


「芳賀さん、昨夜、打ち合わせの最中に、ずるずるって言う感じで倒れたの。
 床に倒れた彼の顔を見たら、白目を剥いて、意識がなかったのよ。

 動転して、救急車を呼ぶより先に、さっきまでいた綿貫さんの携帯に連絡したら、
 すぐ取って返してくれて。
 それから救急車を呼んで、ここへ運んでもらったの。
 
 どんなに助かったか・・・」


倉橋が声を震わせて、言い始めると、
綿貫が上着を取り上げながら、椅子を立って、


「ここでは、芳賀さんの邪魔になってしまいますから、外へ出ましょう。」


小声で言うと、倉橋の肩を取り、美奈に合図して、
病室の外へと連れ出した。





見舞客用のラウンジのような所へ行くと、
体の自由の利く患者が二人程、ガウン姿でぼんやりと窓の外を見ているだけで、
がらんと空いている。


「綿貫さんが、わたしの代わりに入院の手続きやら、
 必要な物を買ってきてくれたりして下さったの。

 わたし、ダメだわ。こういうの・・・。
 気が動転してしまって、どうしたらいいのか・・・」


倉橋は持っていたハンカチを口元に当てて、目を閉じた。


「あの、前田部長が心配してらして、
 状況がわかったら、連絡してくれって仰ってました。」


美奈が伝えると、倉橋が頷いて


「わかったわ。これから戻って、わたしが直接説明する。
 綿貫さん、お忙しいのに申し訳ないけど、
 もう少しだけ美奈ちゃんにも付いていてあげて。」

「わかりました。」


綿貫が答えると、倉橋は美奈に向き直り、


「じゃあ、わたし、先に会社に戻るわ。美奈ちゃんも気をつけて。」

「はい。」


何をどう答えていいのかわからないまま、返事だけをした美奈にうなずいて、
倉橋の純白のスーツが遠ざかって行った。





美奈は脱力したように、ラウンジのソファに座り込んだ。

綿貫はその姿を黙って見ていたが、ふと部屋を出ていき、
少しすると、手に温かいカフェオレの入ったカップを持って戻ってきた。

黙ったまま、美奈の手の中にそれを渡すと、隣に座って、
二人で窓の外に視線を投げていた。

しばらく、そのままの姿勢でいたが、


「大丈夫か。
 今度はそっちが倒れそうな顔色だ。
 がんばり過ぎも大概にしないと、結局周りに迷惑を・・・」

「わたし、知ってる・・・」


ぽつんと言った美奈の言葉に、
綿貫の視線が遠くから、美奈へと戻ってきた。


「・・・・」

「一週間前、二人でいる所を見ちゃったの・・・。」


投げ出したような美奈の言葉に、返事はなかった。

 
「綿貫さんも・・・知ってたの?」


美奈は手の中のカップを握りしめながら、綿貫に向き直った。

熱い液体がカップから盛り上がって、ひと雫、美奈の手にこぼれたが、
美奈はまるで無表情のままだ。

それを見た綿貫が、美奈の手からカップを抜き出して、
傍らのテーブルに置く。


「火傷するぞ。」

「綿貫さんまで・・・知ってたの?」


尚も言い募る美奈を見て、あきらめたように綿貫がため息をついた。


「俺が知っているのは、あの人が彼を見ていた目の色だけだ。
 
 何度も一緒に打ち合わせをしていれば、必ずわかる。
 彼の方は何とも感じていないようだったから、
 俺は別に何も思わなかった。」

「嘘よ・・・。」


美奈が強い調子でさえぎった。


「彼だって悪い気じゃなかったのよ。
 綿貫さんにわからない筈なかったわ。」


美奈と綿貫のただならぬ様子に、ラウンジの中にいたわずかな患者は
いつのまにかいなくなり、二人だけになっていた。


「綿貫さんが戻った時、彼は服を着ていたの?それとも・・・」


美奈は止めることができなかった。


「美奈・・・」


綿貫がさえぎった。

美奈は両手を握りしめて、こめかみのところに当て、
ずきずきと苛んでくる痛みをなんとか鎮めようと、頭を強く押さえる。


「・・・わたしが見たとき、あの女は何も着ていなかったわ。
 へびみたいにしっかりと彼に巻き付いていたの。

 見たくなかった。
 見たくないのに、目が離せなかったの。
 大声で叫びたかったけど、声も出なかった。

 いつから・・・いつから、こんなことになっていたのか、
 信じられなくて・・・」


拳をこめかみにつけたまま、唇を噛みしめて痛みをじっと耐える。
涙も流れない。

またあのお馴染みの吐き気が、
胃の中から段々とせり上がってくるのを感じる。





隣に座っている美奈の顔が血の気を失い、
固く目が閉じられたまま震えているのを
綿貫はどうしようもなく、ただじっと見ているしかなかった。

自分があの晩、倉橋に呼ばれた際に見た光景を、
一生美奈に話すつもりはない。

床に幾つか散乱した服の中に黙って横たわっている真也と
何とか自分の身づくろいだけはしたものの、
乱れた心と服装を隠せないまま、真也を恐怖の眼差しで見つめていた倉橋。

綿貫は真也の心臓に耳を当て、呼吸を確認してから、
救急車を呼び、救急車が到着するまでの間に、
倉橋に手伝わせて、意識のないままの真也に簡単な身支度をさせた。


何故、倉橋はあの場に自分を呼び戻したのか。
彼女の真也への欲望を、自分が気づいていたのを知っていたのだろうか。

あるいは、意識不明のまま昏倒している真也を見て、
単に怖くなっただけなのかもしれない。

恥も外聞もなく、綿貫に言われるまま、床に落ちていた服を拾い集めた。


美奈だけでなく、誰にも一生口外しないつもりだが、
果たして倉橋がそう考えてくれるかどうか・・・。

暫くは、不安からも、仕事を切るような真似はできないだろうが、
時間が経つにつれ、綿貫に見られたことを倉橋が疎ましく思うのは、
容易に想像できる。

こんなことに関わりたくなかったが、もう関わってしまった。
仕方があるまい。

その上、美奈までが最悪の形で巻き込まれてしまったようだ。

美奈は相変わらず身じろぎもせずに、両手の拳を頬に当てたまま、
青白いまぶたをぎゅっと閉じて、体をこごめるようにこわばらせている。

朝の病院の穏やかな陽射しも、美奈にはその温もりが届かないようだ。

綿貫は少しためらった末に、こわばった美奈の背中に手を回し、
そのままじっとしていた。
美奈の体は固く凍り付いたままだ。

それから、顔の横に張り付いている美奈の両手を外して、
膝に置いてから、冷たい左手の上に自分のてのひらを乗せた。

美奈は何をされているのか、まるでわかっていないようだった。

またしばらく、そのまま座っていた。



美奈は体にほんの少し体温が戻ってきたような気がした。

気がつくと、左手の上に温かい手があって、
そこから電流のように温もりが自分の中に流れ込んでくる。

その熱が少しずつ、冷えきった血管の中を巡り出し、
体の中の感覚が徐々に戻っていくようだった。

美奈は目を開けて、また窓の外を見た。

並木の葉はほとんど落ちて、寒々とした帚が逆さに並んでいるようだ。

一瞬、あの空まで黄金色だった並木道と
青空からちぎり取ったようなブルートパーズの指輪を思い出した。

ああ、また、吐き気がする・・・と思う間に、
自分に重ねられていた温かい手を無意識に握り返して持ち上げ、
頬に当てていた。

この手だけが、唯一自分を温めてくれる気がする。





綿貫は美奈にじっと右手を預けたまま、左手で髪をかきあげると、


「俺は何も力になってやれないが・・・」


ぼそっと呟く。

美奈は、こんな状況なのに、
相変わらずぶっきらぼうな綿貫の調子がふとおかしくなった。

少しだけ、頬がゆるむ。

すると、頬に当てている大きな手からまた、
エネルギーがつうっと自分に流れ込んでくるように感じた。

目を閉じて、その温かいエネルギーが体の中に満ちるのを味わう。

ゆっくりと目を開き、前を向いたまま呟く。


「ありがとう・・・ございます。
 多分、これでまた、立ち上がれる・・・」


綿貫がこちらを凝視していて、
ほんのかすかに首を振ったように見えたが、
美奈の手の中から、そっと自分の手を引いた。


「じゃな。何かあったら連絡してくれ・・・」


言いおくと、美奈の肩にぽんと手を触れて、立ち上がった。

部屋を出て行く時に一瞬だけこちらを振り向いたが、
もう何も言わず、そのまま歩き去った。






一人になった美奈は、尚もラウンジに座ってぼうっと窓の外を眺めていたが、
思い切って立ち上がり、もう一度真也の病室に戻った。

相変わらず、意識のないまま、昏々と眠っている。

近寄ってみると、わずか一晩入院しただけの筈なのに、
うっすらと無精髭が浮いて、
青白い真也の顔に一層翳を落としている。


真也も苦しかったの?


点滴のテープがガチガチに巻かれた左手にほんの少し触れ、
問いかけるように寝顔を見つめたが、もちろん答えは返って来ない。


ごめんね。
わたしでは、何かが足りなかったんだね。


あんなにも愛しかった人の手。
わたしに指輪をはめてくれた手。

今はテープと管だらけの、変わり果てた手をそうっとさすってみる。

この憔悴した顔の前では、恨み言も非難の言葉も口には上ってこない。

ただ、しんしんとした悲しみが体の底から湧いてきて、
その寒さが再び、美奈の躯を震えさせる。


ここに居てはダメだわ。ここには居られない。  
ごめんね、真也。・・・・


真也に背を向けて、病室の戸をそっと閉めると
重い足をひきずって会社へ戻る道を取った。

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