AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  9. 証拠

 

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新ラインの立ち上がりまで3ヶ月を切り、年末の繁忙期と重なって、
目が回るように忙しい。

そのお陰で、クリスマスのお祭り騒ぎも、新年を迎える慌ただしさも、
虚しさを感じる暇もないうちに、美奈の傍らをただ通り過ぎていった。

朝、出社してPCを立ち上げ、今日やることと、今年中にやることをチェックし、
片端から片付けていく。





芳賀真也は結局、3日間入院して休養し、
翌日から出社すると、痩せて精悍になったようにも見える顔で、
前と変わらず激務をこなし始めた。

退院してきた翌日、美奈の携帯に真也からのメールが入った。


「美奈、直接会って話をしたい。都合をつけてくれないか。真也」


美奈は返事を出さずに削除した。

夜にも何度かメールは届き、翌日もその翌日もメールが届いた。

最初の二日ほどは開けていたメールも、
今は開けずに放っておいた。

何度も、このまま読まずに全部消去してしまおうかと思ったが、
それだけはできなかった。

そのうち、もう少し元気になれたら読もう。
そのうち、この吐き気が治まったら読んで、返事も出さなきゃ。
そのうち、この頭痛が治まったら、ちゃんと話ができるかも。

そう思いながらも、決して、美奈の吐き気が治まることはなかったし、
真也と会社の廊下ですれ違っても、あいさつ以上の言葉を交わすことができず、
逃げるようにその場を去った。

打ち合わせさえ、他のメンバーと一緒なら、何とか議題に集中することができたが、
二人きりになりそうな状況は、美奈の方から極力避けるようにした。

そんな美奈の態度が、長田や前田部長に全く気づかれずにすむはずがない。

しかし、二人とも何も言わなかったし、倉橋の美奈に対する態度は
以前と少しも変わらなかった。




倉橋と仕事をするのだけが、たまらなく辛かった。

今まで「可愛らしい」と感じていた、女っぽい話し声が鼻に付き、
あでやかな肌の張りも、まがまがしいものに見える。

シャツの胸元からかすかにこぼれる白い谷間も、
男を誘う忌まわしい肉に見え、
おっとりとした笑顔まで、厚顔無恥であさましく映った。


自分も、以前より痩せた体でぎりぎりと仕事に集中しているように見える真也も
こんなに苦しんでいるのに・・・。

何でこの女だけは涼しい顔をして、
相変わらず、獲物を引き寄せる食虫植物のような匂いをまきちらし、
平気でいられるんだろう・・・・。


倉橋の横顔を見るたびに、吐き気が戻ってきてしまうので、
なるたけ、そっちを見ないようにしていた。





綿貫は以前より、さらに頻繁に倉橋に呼び出されるようになった。

倉橋はキャンペーンの段取りと内容だけでなく、顧客のこと、
展開したい店の候補、今、話題になっている店まで
あらゆる情報を貪欲に仕入れようとしている。

暮れも押し詰まったその日、やや遅れて倉橋の執務室に向かう綿貫を
部屋から出て来たらしい芳賀真也が呼び止めた。


「綿貫さん。」

「芳賀さん。もうお体の方はいいのですか?」

「ありがとうございます。あの時はすっかりご迷惑をかけたようですね。
 申し訳ありませんでした。」

「いえ、救急車を呼んで、倉橋常務と一緒に乗っていっただけです。
 お詫びを言われるようなことは何もありませんので、お気遣いなく。」


真也は黙って綿貫の顔を見た。


「いや・・・。倉橋常務から少し聞きました。
 綿貫さんがいなかったら、どうなったかわからないと・・・」

「大げさですね・・。
 そんなことは全くありませんし、僕自身はもう何も覚えていないので、
 そちらもどうか、僕のことは忘れて下さい。」


真也が視線を落とし、小さくため息をついた。


「そう言ってくれて、ありがたいけど・・・。」


つま先を見つめながら続けた。


「僕を・・・軽蔑していますよね。」

「さっきも申し上げた通り、僕は全部忘れてしまいました。」


真也はふっと笑って、綿貫の顔に視線を戻した。


「綿貫さんには、少し聞いてもらいたかったのにな。

 でも、忘れてしまったんじゃしょうがないですね。
 とにかく、ひとことお礼とお詫びを言いたかったんです。
 では、また。」


去っていく真也の背中に一つだけ、言いたいことがあったが、
それもまた、自分がくちばしを突っ込む話ではないのはわかっていた。


美奈は大丈夫なのか・・・


綿貫は何とか気持ちを切り替えると、倉橋の執務室へと向かった。

 



加澤、長田、CM制作会社のメンバーの一人を交えて、
倉橋の部屋で既に具体的な話が始まっている。

綿貫が加わって、ひとしきり終わると、


「綿貫さんって、プランナーとして実に優秀ね。
『KAtiE』ある限り、綿貫さんを指名して、
 ずっとディレクションをお願いしたいわ。

 そのうち、TVのCMだって作ることになるかもしれないし・・・。
 一緒に大きくなっていきましょうよ。」

「ぜひ、お願いします。
 私のできることは何でもやらせて頂きます。」


受付から連絡が入り、秘書役を兼務している女性が、


「長田さん、アートの方が版下を持って玄関にいらしてます。
 どこへ上がってもらいますか?」

「あ、A会議室を押さえてあるので、そちらに案内して下さい。」


長田が倉橋と綿貫の方に向き直り、


「すみません、常務。
 これから、こちらのお二人と一緒に版下をチェックしてきます。
 中座して申し訳ありませんが・・・。」

「構わないわよ。お客さまと進めていてね。
 決まったらまた今度知らせてくれる?」

「はい、もちろんです。」


長田が言って立ち上がり、綿貫に一礼すると先に出ていった。

加澤と制作会社の二人が後を追おうとする時に、
一瞬だけ綿貫も立ち上がって、ドアまで送っていった。

彼らがいなくなり、ドアを閉めて綿貫がソファに戻ると、
急に部屋の中が静かになった。




「この間は、綿貫さんに本当にお世話になったわ・・・」


倉橋が少女のように頼りない顔を向けた。


「いえ、仰られるようなことは何もありません。」

「わたしのこと、軽蔑しているんでしょう。」


さっき、芳賀と交わした会話と同じだと思いながら、
綿貫はまた以前の艶やかさを取り戻した倉橋に視線を向けた。


「誤解です。そんな風に考えたことは一度もありません。
 倉橋常務の仕事の腕の見事さには、いつも感心しています。」

「綿貫さんにお世辞が言えるとは思わなかったわ。」


倉橋は自分の美しく整えられた、ピンクの指先を見ながら微笑んだ。


「私にお世辞は言えません。
 余計な言葉を言えないのは、広告屋としては致命的ですが、
 それでいいと思っています。」

「そうね。あなたの崩れない冷静さはとても魅力的だわ。
 ちゃらちゃらお世辞を言って、時間をつぶさないことも・・・。」


綿貫のところまで、倉橋の肌につけている香りがほのかに漂ってきた。
いつのまにか、すぐ脇のソファに移動してきている。

シャツの胸元からかすかに覗く、ふっくらとした谷間が、
やわらかい艶を帯びて誘っている。

あの先の肌はどうなっているんだろう・・・と思わせるように。


「ご信頼頂けて何よりです。」


倉橋の目が資料を握っている、綿貫の大きくて繊細な手に移っている。


「信頼?そうね、信頼しているわ。
 でもわたし、少し疑り深いのよ。証拠がないと安心できなくて・・・」


倉橋の唇は、ルージュを全く引いていないかのように自然でみずみずしい。

元々あんな色なんだろうか?
あんなに艶やかなんだろうか?


「綿貫さん、わたしを安心させて下さらない?」

「私の言葉だけでは足りませんか?
 この先ずっと、私からは、誰にも何も余分なことを言う気は一切ないと、
 申し上げたと思いますが。」


綿貫はまっすぐ倉橋を見つめた。

一瞬、倉橋と綿貫はにらみ合うように黙った。

倉橋がふっと視線を外すと、


「もっと確かな約束が欲しいの。」

「どんな約束です。」


倉橋は、すっと立ち上がると、
綿貫の手を引いて、ソファから立たせた。

そして、少しだけ体を屈めて、内緒話をするように


「あなた自身の約束。」


と囁き、また元通りに体を戻した。




綿貫は目の前の女性を見つめた。

上質なクリーム色のスーツに柔らかい生地の白いシャツを合わせ、
美しく清楚で、その癖、途方もなくエロティックだった。


「わたし、好きな人とでないと絶対いっしょに仕事できないの。
 綿貫さんは好きよ。」


倉橋は聖女のような微笑みを浮かべながら、


「でも、あなたもわたしを好きになってくれないと・・・」


綿貫は覚悟を決めて、一度目を閉じて息を吸い、また開いた。


「僕も好意を持っていますよ。有能で、可愛らしくて、そのくせ・・」

「そのくせ・・何?」


半歩近づいた倉橋が促した。


「実に色っぽい女性です。
 ですが、こんなことを申し上げては失礼ですね。」


倉橋が声を立てずに笑った。


「最高にうれしい褒め言葉よ。
 本気で言ってるの?」

「もちろん・・・」

 
倉橋はまた半歩近づいて、今度は耳元で言った。


「では、その証拠を見せて・・・」

「証拠・・?」


綿貫は倉橋の赤い唇を見つめた。


「あなたの証文を・・」


綿貫の視線が鋭くなる。

その顔からじっと目を離さないまま、倉橋の唇が動く。


「ここと・・・」唇を指し、

「ここに。」


倉橋の指が、自分のブラウスの胸元にそっと触れた。

綿貫は射すくめるような視線で倉橋をじっと見ていたが、
無言のまま目をそらさず、真っ直ぐに傍らに立っていた。

綿貫の厳しい顔を見て少し笑いをふくんだ頬と、
柔らかい女の肌の匂いがゆっくりと漂ってきて、
お互いの息が感じられるまでに、二人の顔が近づいた時、


コンコン!


「綿貫さん、まだ居られますか?」


廊下の方から、加澤の声が聞こえてきた。

綿貫は目の前の顔に視線を戻すと、顎にかすかに手をふれ、
自分に向かって開かれた紅い唇に、


「魅惑的過ぎる人だ」


とつぶやいた。

それから、倉橋から離れてドアへ行き、
大きく開いた。

加澤が何だかあわてたような顔で立っていた。


「すみません、打ち合わせ中に。
 ですが、綿貫さんの手元に、前回もらったコピーのゲラがあって、
 できれば、それを付き合わせたくて・・・。

 貰っていってよろしいでしょうか。」


綿貫が顎で、テーブルの上の書類を指すと、
加澤はファイルの中をガサガサ掻き回していたが、
目的の原稿を見つけると、破顔して二人の方を向いた。


「やっぱりありました。よかった、忘れてきたかと・・・。」


手元にゲラを引き寄せ、ドアに向かおうとして、また二人の顔を見直し、


「あの、綿貫さんはまだかかりますか?」


と、聞いた。

綿貫が倉橋に問いかけるような視線を向けると、


「ううん、もう終わりよ。でも加澤さん、先に戻ってて。」


倉橋があでやかに笑うと、そう告げた。




加澤が出て行くと、倉橋が向き直り、


「綿貫さん、保険を掛けたわね?」


横目でこちらをにらんだ。

綿貫は表情を変えずに、


「私はそれほど自分に自信がないので。」


倉橋は薄く笑ったが、


「上手く言い逃れたわね。
 まあいいわ、解放してあげる。
 でもあなた、堅物に見えて結構やるわね。」

「何のことでしょう?」


綿貫の問いに、倉橋はもう答えずに、だまって小さく手を振った。





綿貫が常務室を出て、廊下を半ばもどり、
階段を降りて行くと、二つ下の踊り場で加澤が待っていた。


「5分遅い!30分で来いと指示した筈だ。」


小声ながら、綿貫が渋い顔で決めつけた。


「すみません。僕はまた、1時間早かったかと思っちゃいました。」

「バカ言え、そうなったら俺は終わりだ。
 しかも向こうに恥をかかせる訳にいかないんだ。」

「難しいですね。」

「そのうち、お前もどこかでおんなじような目にあうさ。」

「いやあ、僕は綿貫さんほど望まれませんから・・・。」

「ほざけ!今のことは、一生、誰にも絶対言うんじゃないぞ。
 どこの誰にカマをかけられてもだ。
 教訓だけ残して、この場で忘れてしまえ!」

「わかりました。」


真面目な顔をして、加澤がうなずいた。

それでも、綿貫は自分の額に汗がにじんでいるのに、
今更ながら気づいたのだった。





綿貫が下のフロアに戻り、長田たちの詰めているA会議室に行く際、
デスクに座ってPCに向かっている、美奈の姿が目に入った。

一心にスクリーンに向かってキーを打っている姿が
以前とまるで違い、ずいぶん痩せて顔色まで悪いのが気にかかった。


あんな状態でよく仕事ができるものだ・・・


スクリーンを見つめている真っ直ぐな視線を見ているだけで、
痛ましい思いがする。

恋人にもらった指輪を見せつけて、散々、自分に幸せ自慢をしたのは、
ついこの間のことなのに。


全く、人の気も知らないで・・・。


同じフロアの筈の芳賀真也の姿は見えなかった。


二人はちゃんと話し合いをしたのだろうか・・・。


人のことだと思いながらも、綿貫は憔悴した美奈の姿を見るにつけ、
倉橋と真也の罪の重さに奥歯を噛みしめる思いだった。

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