AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム  11. 冬の中で

 

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かつえが戻ってきたことで、社内の雰囲気が一変し、
新規ラインの発売に向けて、更にはずみがついて来ている。

真也は新春以来、疲れも見せずにあちこちを飛び回り、
かつえとも緊密に連絡を取っているようで、
ようやく以前の姿が戻ってきたようだ。





美奈は、かつえに言われて、綿貫らと共にかつえの
「ビューティ・セミナー」に出席した。

受講者は、メークアップアーティストや美容師等の美容関係者にとどまらず、
競合のコスメ会社、アパレル、小売り関係者などまで多岐にわたっている。

今回のセミナーはいわばプロ向けで、かつえのメークの熱心なファンには
百貨店等でのメークショーが企画されていた。

誰もが一様に熱心にメモを取っており、質問も具体的だった。


「この春夏は、素肌のような輝きを強調するのが何といっても大切。
 唇はマットに色を抑えて、輝かしい目元と肌を作ります。

 昨年来のグレーの人気は春夏ではシルバーに移りましたね。
 メタリックカラーがとても重要で、こんな風に目元にプラスしても
 肌の質感に加えてもどちらもとても新鮮です。」


説明と共に、次々とイメージ画像が映し出されていく。

美奈は途中で隣に座っている、綿貫と倉橋の顔を見たが、
二人ともじっと画面に集中していて、余所見などする気配もない。

一瞬だけ、ちらりと綿貫が美奈の顔に目を走らせたが、
すぐに画面に戻った。

倉橋は、来週、KAtiEの販売員に向けにセミナーを予定しており、
具体的説明のために情報を仕入れようと必死なのだろう。
見つめる目が真剣だ。

誰もが、自分の使命を自覚し、
やって来る春に向けて着々とその準備を進めている。

自分だけがいまだ、凍り付くような冬の真ん中で、
春の兆さえ見いだせずに、迷っているようだ。


もっと仕事に集中しなければ・・・


努力はしているものの、それでも頭の中に霞がかかったようになる時があり、
気がつくとぼんやりしている自分を見つけて、はっとする。

こんなことではいけない。

美奈は必死で、目前のかつえの顔に意識を戻した。





瞬く間に金曜日を迎えた。

結局、真也とまともな話を一度もしないまま、
今日の新年会に出るのは、正直、気が重い。

しかし、かつえから発せられる前向きオーラを見ていると、
「出たくないから」で済ませられる筈もない。

美奈は沈みがちな気分を引き上げるように、
新しいドレスを着た。

一人で澱んでいてはならない。

そう思っていても、時々、自分の着ている服の明るさに負けそうになった。




かつえの指名した新年会の会場は、
KAtiEビルから歩いて10分程の地下にある和食の店で、
奥の個室が予約されていた。

かつえは新規ライン全員の出発式にもしたかったようだが、
急なことで、営業部隊にどうしても抜けられないアポがあり、
社長のかつえ以下、秘書のマーシャ、倉橋、前田と
新規開発の企画の面々に代理店の広通のメンバーを交えた、
お馴染みの顔ぶれになった。

店内に黒光りした太い梁や建具が多く使われ、ビルの地下ながらも、
雰囲気はどっしりと落ち着いている。

個室の障子を開けると、土間に無垢の木を使ったテーブルが置かれ、
部屋の隅には、大きな壺に新春らしい花材が活けられていた。





「じゃ、皆さん。
 今年がKAtiEブランド船出以来、2度目の新しい年になるように!
 乾杯!」


かつえの大声で、障子がびりびり震えそうになり、
倉橋が「ちょっと他のお客さまもいらっしゃるから・・・」と
かつえを見てたしなめた。

かつえがぺろりと舌を出し、


「どうも、地声が大きすぎるのよね。
 じゃ、とにかく皆、かんぱ〜〜い!」


少しだけトーンを下げた音頭で、全員がビールのグラスを上げた。

かしゃん、かしゃんとグラスの触れ合う音を、
誰もが久しぶりに聞いたように思う。
それほど、ここの所、ずっと仕事に忙殺されていた面々だった。


「さ、食べて、食べて!
 今日は会社のおごりよ。すっごく頑張ってくれたんだもん。
 これくらいしなきゃね。」

「臨時ボーナスを酒でもらってるって感じですね。」


長田がちらっとかつえを見ながら、いたずらそうに笑った。


「んんもう!
 このラインをうまく船出させて、
 早く全員に臨時ボーナスをど〜んと配れる位、
 じゃんじゃん売れるといいのにねえ。
 皆、頼んだわよ。」


料理は本格的な和食をベースに、
自由な発想でアレンジした気取らないものだった。

いつもより、早いピッチでグラスと皿が空になっていく。


「マーシャさんは、ずっとかつえさんに付いて行動してるんですか?」


広通の加澤が尋ねた。


「そうよ。
 私、NYでダーリンと暮らしているんだけど、
 母がひとりで日本に住んでいるの。
 かつえさんが帰国する時だけ、母の所に帰って親孝行できるから、 
 彼女の帰国を一番楽しみにしてるのは、うちのママよ。」


マーシャが楽しそうに笑った。

 
「日本食大好き!これも楽しみなの。
 ここのお店も私の取っておきよ。いいでしょ。」

「いいねえ。何故、今まで教えてくれなかったのかな?」


前田部長がマーシャを覗き込む。


「前田さんが、銀座の和食のお店に連れていってくれると言いながら、
 未だに連れて行ってくれないから・・・。
 もっといいお店もあるけど、もう教えない。」

「うわ!まいった、僕のせいだったんだな。」


日頃、穏やかな前田部長が珍しく、饒舌だった。


「NYにも和食屋さんがすっごく増えてるんだけど、
 こういう風に皆でお皿をつつくことが少ないでしょ。
 あれが寂しいのよ。
 みんな、自分の分のお皿とお料理をきっちり平らげるんだもん。」


ね、最近話題のお店とかにも連れてってよ、どっかない?と、
かつえが若い長田を突つく。


「話題の店ですか?仕事ばかりで全然行ってないなあ・・・。
 誰のせいでしょうか・・。」


長田がいたずらそうに笑い返すと。
かつえが、おでこを叩いて、あ痛!と笑っている。


「せいぜい、ひいきのライブハウスくらいですねえ。」

「ひいきって店がひいきなんですか?
 それとも、ひいきのバンドがいるのかな?」


加澤が突っ込んだ。

こちらも痛いところを突かれたのか、
うわ・・・と長田が声をあげる。



誰もが、久しぶりの宴に少しはしゃいでいた。

倉橋とマーシャが熱心に情報を交換している。
綿貫と真也は並んだまま、つい仕事の話を始めてしまって、
中原部長にたしなめられたりしている。

長田と加澤は年齢も近いので、
二人でコソコソとあやしい場所の話をしているようだ。


「え?そんなところがあるの」

「ええ、異空間ですよ。今度体験してみますか?」

「うわ、加澤さんてあっぶないなあ・・・」

「そんなあぶない所じゃないですよ。最初軽いショックがあるだけ・・」


美奈は広通の中原部長の隣でおとなしくビールを呑んでいた。


「小林さんは、うちの綿貫をご存知だったのですか?」

「ええ、まあ。」


美奈は言っていいものか迷ったが、何も秘密ではない。


「実は・・・大学のサークルの先輩なんです。」


中原は少し驚いた顔をした。


「それは初めて聞いたな。

 いや、最初に小林さんに彼をご紹介した時に
 知り合いのような感じがしたんだけど。
 綿貫の奴は何も言わなくて・・・」

「怒られてばかりの、ダメな後輩でしたから・・。」

「うむ、じゃ、昔からあの調子だったんですね。」

「ええ、もっともっと怖かったです。」


美奈はぺろりと舌を出して、中原の方を見た。

学生時代を思い出すと、
今日、綿貫とこの場に一緒にいるのが不思議に思えてくる。


「そうか、鬼先輩が出入りの広告屋じゃ、やりにくいでしょう。」

「いえ、全然。昔から遥か先を行ってらしたので、
 そんなこだわりは、最初からないんです。」


綿貫がテーブルの向こう側からちらりとこっちを見たが、
またすぐ、真也との話に戻ってしまう。

ビールもワインのボトルも皿もどんどん空いて、
すっかりくつろいだ雰囲気になった頃、かつえが


「ねえ、誰かわたしの麻雀に付き合って下さらない?
 芳賀さん、強いって聞いたのよ、お願いできるかしら。
 前田さんは、前回からリベンジを狙っていたから逃がさないわよ。
 
 あと一人・・・
 えっと、綿貫さんは麻雀する?」


「はあ、学生時代にはよくやったんですが・・」


綿貫のためらいがちな返事に、中原が引き取って


「では、わたしの方が良さそうですな。
 ひとつ、お手並み拝見と行きましょう・・・」

「お、何だかエラい大物をあぶり出しちゃったかしら。
 じゃ、お願いします。
 わたし、仕事気分から抜けるには麻雀が最高なのよ。」


かつえと卓を囲む面子が決まったのをしおに、宴もお開きになった。




店の外に出ると、かつえが男性3人を引き連れて、


「じゃ、おやすみなさ〜〜い!」と、手を挙げ、
さっさと雀荘を目指して行ってしまった。

マーシャと倉橋はタクシーで去り、
長田と加澤はふたりで笑い声を上げながら、内緒話をしていたが、

「じゃ!」といつまでも言い合っているので、

「これから、一緒に飲みに行くんじゃないの?」


と美奈が聞くと、


「いや、邪魔しちゃ悪いから・・・」

「いや、それはこっちの台詞ですよ。」


二人でげらげら笑いながら、ふざけた調子で言い合っている。

なおも耳打ちしたり、大声で笑ったりを繰り返した挙げ句、
「それでは、失礼しま〜す」と声を上げ、
二人一緒に、うれしそうに歩道を遠ざかっていった。

あっという間に、残っているのは綿貫と美奈だけになった。





「皆それぞれ、予定やら相手があるらしい・・・。
 暇なのは、ここの二人くらいだな。」


綿貫の言葉に皮肉はなかった。


「そうですね。」


ふたりで、まだ人通りの多い夜の歩道を歩き始める。


この前、こうして綿貫と歩いた時を思い巡らさずにはいられない。

幸せではち切れそうだったあの時とは、
まるで気持ちが違ってしまった・・・。



「美奈、一杯飲んでいくか?」


美奈は少しためらった。


「いいんですか?」

「ああ、暴れたら、道ばたに捨てていってやる。」

「・・・・」


いきなり黙ってしまった美奈に、


「何だよ。怒って突っかかってこないんだな。
 からかう張り合いがないじゃないか。」

「だって・・・」


美奈がうつむいたまま、しばらく並んで歩いていく。
しばらくして綿貫の方を見ると、


「これ以上飲んだらどうなるか自信ないもの。
 思いっきり無理言うかもしれない。知りませんよ。」

「無理を聞いてやるとは言ってない。
 飲みに連れていってやる、と言っただけだ。
 ほら、とぼとぼ歩いてないで、もっと元気よく歩け。」

「だって、元気なんて出ないんだもん。」

「元気がなければ、余計しゃきしゃき歩け。
 クラゲみたいにずるずる歩くな。大して飲んでないだろ。」


クラゲは歩かないじゃないよ・・・と口の中で呟いたが、
綿貫には聞こえなかったようだ。

綿貫は美奈の肩を押すようにして、曲がり角を曲がらせると、
無理矢理、前に進ませた。

ぐずぐずと歩く美奈を、時々振り返って苦笑しながら、
しばらく待っては、また先に立って道を進む。

一体どこを歩いているのか、すっかりわからなくなった頃、
青いガラス窓のついた分厚いドアの前に立っていた。

「ほら、この店だ。」



中へ入ると、ずらっとカウンター席が見え、結構混み合っていた。
カウンター奥のバーテンダーがにこりと微笑む。


「下へどうぞ。」


前に連れて行ってもらった銀座の古びたバーより、
もっと華やかな感じだが、やはりどこか懐かしい雰囲気がある。

青山という場所柄のせいか、来ている人間がとりどりで、お洒落な客も多く、
客のカジュアルな雰囲気が店のムードにも気楽さを与えていた。

地下に降りると、鈍い光沢を放つカウンターと、
ゆるく間仕切りしたテーブル席のあるシンプルで落ち着いた空間。


綿貫はテーブル席を選んだ。


「カウンターにしないんですか。」

「美奈がそうしたかったら、それでもいい。移るか?」

「ううん、こっちがいい。」


ちょっとだけ、引きこもったようなこの場所が気に入った。

小さなテーブルに柔らかい光のスポットが当たり、
とろりとした飴色の木目をうつす。



「何を飲む?」

「う〜ん・・・今日は、甘くないのがいいです。」

「じゃあ、ここの秘蔵のシングルモルトウィスキーはどうだ。
 とても香りがいい・・・。」

「飲んだことないけど、それを頂きます。」


ここにもジャズが流れている。
古い、スタンダードなナンバー。


「あ、またコルトレーン・・・」

「よくわかったな。」


綿貫が少し驚いた顔を見せた。


「あれから少しジャズに興味が湧いて、何枚かCDを買ったの。
 でも、ここしばらくは全然耳が音を受けつけなくって・・・。
 
 今、久しぶりに音楽が聞こえてきた気がする。」

「そうか・・・」



運ばれてきたシングルモルトウィスキーは、美奈が見慣れているものより
香りが強く、色が濃かった。


「何に乾杯します?」

「新規プロジェクトのエンジンの帰還に。」

「エンジン?ああ、かつえさんのことですね。
 そうね、ぴったりだわ。さすがコピーライター」

「今回はプランナーだ。」

「でも、コピーも書くでしょ?」


たまにはな・・といなされた。


少し癖があるが、舌の上に少しぴりりとくる刺激が
今の美奈には心地よかった。

時を閉じこめたように、とろりと澄んだ色の液体が、
ゆっくりと体の中を巡っていく。


「綿貫さんの好きそうなお店ですね。」

「どういうところが・・?」

「どこか懐かしいような、時間に磨かれたような雰囲気があります。
 アンティークがごちゃごちゃ置いてあるわけでもないのに。」

「もっと違う雰囲気が良かったか。」

「ううん、とても居心地いい。
 こんな風に引っ込みたい気分だったから。

 このウィスキーはちょっと癖のある繊細な香りがするけど、
 どこか甘みがありますね。」

「生意気に、わかったような台詞じゃないか。
 シングルモルトが何か知っているのか?」

「ううん。でも、おじさんのうんちく話なら聞いてあげますよ。」


綿貫は美奈の顔をにらんだ。


「なんだ、三つしか違わないのにおじさん呼ばわりって。」

「おじさんは年齢じゃなくて、発言や性質で決まるんです。
 うんちくを言うのはおじさんの証拠ですよ。さ、言ってみて。」


綿貫は美奈の顔をにらんだまま、どうしようか考えていたようだが、
諦めたように前を向いてウィスキーを含むと、


「ひとつの蒸留所で造られたモルトウィスキーのみを
 ボトリングしたものがシングルモルトだ。
 ブレンドウィスキーと違い、その蒸留所ごとの味わいがあり
 ひとつひとつ違う。」

「ふうん、個性派ぞろいなのですか。」

「まあ、そうだ。最近、ウィスキーの人気が落ちている中で、
 シングルモルトだけは、毎年1割近く伸びている。
 人気が出ているってわけだ。
 このくらい、覚えておけ。」

「わかりました。ありがとうございます、先輩。
 それにしても色んなことを知ってるんですね。」


美奈は少し椅子に寄りかかりながら、ウィスキーをちびちび舐めていたが
ふと、周囲を見て、


「綿貫さんは、こういう所に
 女性を連れてくることって多いんですか?」

「・・・教えてやる気はない。」


綿貫は前を向いたまま、素気なく答える。
はあん、と美奈がため息をついた。


「男の人ってわからないから・・・。」

「女だってわからない。」


そうですね、とつぶやいて、美奈がグラスのウィスキーの香りを嗅ぐ。


「いい香り・・・」


馥郁と立ちのぼる香りに、心の殻が少しずつ溶け出したようで、
美奈は不意に口にしてしまった。


「わたし、会社を変わろうかな。」

「それは、辞めるという意味か。」

「ううん。前田部長に頼んで親会社へ転属にしてもらおうかな、と。
 わたし、ずっとKAtiEでしか仕事したことないし・・・。
 
 もう、ここの会社にいたくない。
 苦しくて・・・。」


綿貫が美奈を見たのがわかった。
怒られるかと思ったが、出て来た言葉は意外に穏やかだった。


「そういう選択肢もあるだろう。

 だが親会社に戻ってどうする?
 向こうの製品については、美奈は一から覚えて行かなくてはならないだろう。

 もちろん、頑張ればいつか追いついて、
 元からいた人間を追い抜けるかもしれない。

 しかし、KAtiEブランドに関しては、
 同世代の中で、生え抜きのお前より詳しい人間はいない筈だ。」

「それは、そうだけど・・・」


美奈は少し口をとんがらせた。


「かつえ社長は稀に見る、エネルギッシュなリーダーだ。
 倉橋常務は、客と販売員を熟知している。
 前田部長は、親会社とKAtiEの理想的なパイプ役だ。

 芳賀さんほど、営業と企画に精通して、
 味方を得て来た若手リーダーもいないし、
 長田君のように、自分のすべきことを黙ってこなす若手は少ない。
 
 いいメンバーだと思う。
 こんなメンバーと組んで仕事ができることはそうない。
 俺は幸運だと思っているよ。」

「ずいぶん、持ち上げるんですね。」

「本気でそう思っているからさ。
 もちろん、選ぶのは美奈自身だ。」


綿貫に穏やかな瞳で見つめられ、
美奈は自分が少し恥ずかしくなった。


「今の美奈にはつらい場所だ。
 たまらない気持ちもわかる。

 しかし、逃げてもどこにも行き場などない。
 一度逃げると、ずっと逃げ続けることになる。
 やるべきことをやり遂げてから、次に進んだ方がいいんじゃないのか。」

「倉橋常務と一緒に仕事をしたくないの。
 あの女を見てると、蛇みたいに絡みついた腕を思い出して吐き気がする。
 真也だって、わたしがいない方が仕事がしやすいだろうし・・・」

「周りは海で、同じ船に乗り合わせてしまった同士だと思ってみろ。
 このメンバーで何とか、海を乗り越えるんだと・・。」


綿貫の落ち着いた声は美奈の心の奥まで、すうっと響いてきた。


「そして、別の面を見るんだ。
 確かにあの人の中には蛇がいるかもしれない。

 が、同時にすばらしいカリスマ性もある。
 販売スタッフにセミナーをやっている姿を見ればいい。
 どんなに信頼されているか、憧れられているかわかるだろう。」

「優秀なら優秀な程、その落差が不気味なのよ。
 なぜ、あんな人が・・・と思ってしまうの。」

「それは美奈があの人を、蛇の面から見ているからだ。
 優秀な経営者、狡猾な蛇、どちらも彼女の中にいる。

 蛇の方に付き合う必要はない。
 類い稀な説得力と指導力を持った面だけを見て、向き合ったらいい。
 あの人だって今は仕事しかない筈だ。

 人間的には怪物でも、すばらしい仕事をしている人は沢山いる。
 むしろ、人間的にもできていて、
 仕事も素晴らしいという人が極めて稀なんだ。
 怪物とも仕事をしなくちゃならない。
 
 芳賀さんも今は、倉橋常務と必死に仕事をしている。
 自分のすべきことがわかっているから、頑張っているんだよ。」


綿貫は美奈の顔をまっすぐに見つめて言った。

 
「美奈だけが逃げるな・・・。
 頑張って、踏みとどまれよ。」


綿貫の言葉は大きな波のように、美奈の胸の中にとどろいて、砕けた。


逃げるな・・・。
踏みとどまれ。


「わたしにできるかしら・・・」

「美奈ならきっとできる。」


頑張れ、と綿貫がグラスを美奈の方に掲げて、飲んだ。


ありがとう、綿貫さん。
ありがとう・・・。


そうつぶやくと同時に、あの恐ろしい夜以来、
何とか自分を支えていた壁がガラガラと崩れ落ちて、
涙がこぼれそうになってきた。

他の誰にも言えなかった問いが口に上ってくる。


「どうして、こんなことに・・・。」


美奈はうつむいたまま、唇を震わせた。
一度こぼれ出すと、言葉が後から後から溢れてきて止まらなくなる。


「きっと、わたしでは足りなかったんだわ。
 真也が大変な時に、気づいてあげられなくて・・・。
 わたしがもっと大人の女性だったら、よかったのに・・・」


綿貫は何も言わなかった。

ついに涙がはらはらと頬の上をころがり落ちた時は、
少し狼狽したようだったが、それでも黙ったまま。

琥珀色の液体を見つめながら、
美奈の涙が止まるのをじっと待っていてくれた。

涙がこぼれたのは、あの夜以来初めてだ。


「眠れなくて・・・。」


綿貫の視線が美奈に戻った。


「あれから、どうしても眠れない。

 安定剤をのむと、ほんの少し眠れるんだけど、
 起きた後の気分が最悪なの。
 いつまでも、もやがかかっているみたいで晴れない。
 ほんとに眠りたいのに・・・。」


グラスの氷を見つめる。

氷の中に、眠りがとじこめられていて、
こんな風に少しずつ、溶け出していってくれたら・・・。

そんな苦い思いを抱きながら、ウィスキーを飲む。
喉のあたりをちりちりさせる感覚だけが、
美奈の中に現実感を取戻させた。





「少し歩いて行こう・・・」


店を出た後、ぽうっと火照った頬を押さえながら、
美奈は素直に綿貫の言葉に頷いた。

外苑前のあたりから、日本○年館を抜け、トンネルをくぐる時、
傍らを過ぎる車のライトに照らされた彼の顔が
いつもよりずっと苦く、苦しげで
自分がこの人までも巻き込んで、苦しめているのかと思ったくらいだ。

そんな自分が情けなくて悲しくて、
バーでゆるんだ涙腺から、改めてどっと涙が溢れて来て、
思わず立ち止まり、声を上げておいおい泣き出してしまった。


わたしの涙腺は壊れてしまったみたいだ。
今日はゆるんでばかり・・・。




「泣いていい・・・
 きっとそこから始まる。」


綿貫の低い声が聞こえた。

人気がないとは言え、こんな夜の路上で泣くなんて、
彼にはきっと迷惑に違いない。

そう思っても、どうしても涙が止められない。

予想もしていなかったが、背中に温かい腕を感じ、
そんな筈はない、と思っていたのに、
気がついたら綿貫に抱きしめられていた。

美奈の体をゆっくり撫で、
あやすように、なぐさめるようにゆったり抱いていたが、
不意に腕に力が加わって、急に強く胸の中に押し込まれる・・・。

美奈の髪に彼の温かい息がかかり、やがて触れるのを感じて、
思わず顔を見上げる。

冴え冴えとした月がくっきりと空にうかび、
俯いている綿貫の表情は翳になり、あまり見えなかったが、
メガネの奥の瞳が濡れたように強く光って、
美奈をじっと見つめているのがわかる。


月が・・出ていたんだ・・・


綿貫の顔が少しずつ近づいてきて、
美奈は思わず体を固くしたが、
美奈の頭を柔らかく抱きしめ、
髪の中に彼の頬の感触を感じただけだった。


「美奈・・・」


この声。

わたしを揺らすこの声に、
こんな風に名前を呼んでもらえるなんて・・・。


今、起こっていることが現実ではないような気がしたが、
自分をしっかり支えてくれている体の温もりが、
こんなにも確かで、強いことが頼もしかった。

すぐそばの胸の辺りからほんの少しだけ、煙草の匂いがする。


「綿貫さん・・・煙草吸うんですか・・・?」


場違いな質問に彼が少し戸惑った様子が感じられて、
美奈はくすりと笑ってしまった。

綿貫が美奈を抱きしめたまま、顔を動かしたのがわかる。


「実は・・・ほんのたまに吸う。
 さっき、たまらなくて一本吸った。よくわかったな。」

「煙草の匂いがする・・・」

「ああ、悪かった。」


綿貫は美奈からそっと腕を離した。

美奈は包まれていた温かい感触を失って、急に寒さを感じ、
自分の体を抱きしめるようにした。

今の言葉が何に対する謝罪なのか、はっきりしない。

隣にいる綿貫は、またいつもの冷静で動じない雰囲気をまとっていたが、
美奈を見る瞳は優しかった。


「歩けるか。車でも拾う?・・・」


美奈はゆっくり首を振った。


「ううん。このまま、歩いて行きたい。」


その言葉で、二人はまたゆっくりと歩き出した。


「綿貫さんは、今、どこに住んでいるの?」

「去年から、幡ヶ谷のマンションにいる。」


また、黙ってしばらく暗い道を歩む。


月が頭上をゆっくりと動いて行くのが見えるような気がした。

通りすぎる車のライトで、二人の影があっちへ動いたり、
こっちへ動いたりする。

背中のあたりがうすら寒くて、寂しかったけれど、
綿貫はもう抱き寄せてくれるような素振りすら見せてくれない。

前方にどことなく駅のざわめきが聞こえてきて、
もうじき駅の近くに着いてしまうのがわかる。

美奈は急に立ち止まった。
一緒に歩いていた綿貫の足も止まるのがわかった。
訝しんで、美奈の顔を見ている視線を感じる。

下を向いたままでいた、美奈の口から言葉がこぼれてきた。


「連れて行って・・・」

「・・・・」

「綿貫さんのところへ連れて行って下さい。」


綿貫の視線が美奈の顔に突き刺さっているのを感じる。
しばらくそのまま、痛いような凝視を感じながらうつむいていた。


「何故?」


低い声が降ってきた。


「だって・・・。このままずっと一緒にいたいから。
 いけませんか?」


美奈は顔をあげて、真っ正面から彼の顔を見つめた。

もし、ほんのひとかけらでも迷惑そうな色があったら、
ここから走って帰ろうと思っていた。

綿貫の顔には何も浮かんでいなかった。
黙ったまま、相変わらず突き通すような視線で美奈を見つめている。

その視線がふっとゆるむと、


「美奈の家まで送って行くよ・・・」


美奈の肩にそっと手をかけた。
美奈はその手を振り払って、綿貫の胸に手を置いた。


「いや!家に帰ったってまた眠れないわ。
 ほんの少し眠っても怖い夢ばかり・・・。

 でも目が醒めるともっと気持ちが悪いの。
 眠っても覚めても、恐ろしいの。眠りたいけど、眠りたくない・・・。

 あなたにそばにいて欲しい。
 綿貫さんのそばにいたいの。
 それでは、ダメですか?」


怒られるかもしれない。
バカにするな!と。

それでもいい。何と思われてもいいから、
どうしてもこのまま一人で、またあの冷たい部屋に帰りたくない・・・。


すがるような気持ちで、じっと綿貫を見つめていると、
美奈の視線を受け止めていた綿貫がようやく目を外して、
道路の方を見回し、歩道の隙間から車道に乗り出すと
手を上げてタクシーを停めた。

美奈を先に乗り込ませ、自分も乗り込むと、
運転手に幡ヶ谷の住所を告げた。





車に乗りこんでからも、美奈の中に逡巡する気持ちなど湧いてこなかった。

夜の街をひた走る車の座席で、
彼に寄り添って二人っきりで座っていられるのが
この上なく安心で自然なように思われる。

隣に座る男の腕にもたれて美奈は目を閉じる。

しばらくすると、頬の上を優しい指の感触が滑っていく。

その指におずおずと自分の指をからめると、温かく湿っており
美奈は自分がまた、泣いていたのを知る。

目をつぶりながら、綿貫の視線がどことなく自分の上を彷徨っていくのを
しびれるような思いで感じ取っていた。


これでいい。

こうしたかったのだ・・・わたしはきっと、ずっと前から。

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