AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム 32 水面下

 

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「どうもありがとうございました。またよろしくお願い致します。」


美奈が頭を下げている間に、せっかちな美容エディターの姿は消えていた。
もうこれ以上、突っ込まれずに済むかと思うと、安堵の息がもれる。

うふふふ・・・

含み笑いがしたので、ぎょっと振り向くとプレスルームの入口に
美容ライターのリエが立っていた。


「見ちゃったわよ。彼女が行ったあと、ため息ついてたでしょ?
 言ってやろっと」


大きな袋を抱えてずかずか入ってくると、テーブルにどん、と荷物を置く。


「ああ、重いわ。だんだん増えてきちゃう。
 つい、あっちこっちでサンプルもらっちゃうのよね」


布製トートの内側から、カラフルなリーフレットの束が幾つも覗いている。


「ねえ、新米プレス、うまくやってる?
 何だかあぶなっかしいなあ。」

美奈は一瞬、何と答えていいものやら迷ったが、
「リエさん、喉乾いてませんか?」

「ものすっごく乾いてる。」

リエがスツールに座り込みながら言った。

「温かいのと冷たいのと・・」
「両方!」

リエが叫ぶと「はい」と美奈が返事をし、バックヤードに駆け込んだ。

すばやく、冷たいハーブティをグラスに注いでミントの葉を落とし、
温かいコーヒーも用意すると、
長田が出先でもらってきたマカロンのセットを添える。

リエはハーブティのグラスをつかんで、一気に半分空けたが、
視線は美奈の持って来た、柔らかな色合いのマカロンに注がれている。


「それ、何のマカロン?」

「桜、きなこ、ゆず、抹茶に黒ごま、だったでしょうか。
 大和なでしこセレクション、だそうです。」

ふうん・・。


普通のマカロンより、ふたまわりほど小ぶりなのを、次々と口に放り込む。

「これはコーヒーより、緑茶に合いそう。」

すみません!すぐ煎れてきます。


美奈があわてて立ち上がろうとするのを捕まえ、椅子に座らせた。


まあ、いいから、いいから・・・。

「かつえさんはまだなのね。」

「はい、今回はミラノから戻らずに、そのままパリコレに入りましたから。」

そうか・・・。


最後に取っておいたらしい、ピンクの桜マカロンを平らげると、
満足そうにコーヒーカップを取り上げた。


「ここは何人でやってるの?」

「3人です。専属で、常時電話を受けてくれる人がいて、
 長田とわたしが応対をしています。」

「足りないわね。」


そうだろうか?
来る時には何組も重なるほどだが、まったく来客のない日もある。


「KAtiEのプレスには連絡取りにくいって噂が流れてるわよ。
 夕方6時に閉まっちゃうし・・」

「アポがあれば、お待ちしているんですけど・・」

「夜8時に連絡して、9時に説明聞きたい人もいるのよ。
 雑誌関係はみんな締め切りギリギリだから、焦ってるのに連絡取れないと、
 他のブランドで埋めちゃうもん。」

すみません・・・。

美奈は頭を下げた。
そういえば、携帯にかかってきた連絡を折り返すと
「もういいわ」と言われたことがあったような・・。


「KAtiEは今、スタートダッシュの時期なんだから、
 一コマでも露出を増やさないとね。
 とは言え、わがままライターに際限なく合わせてたら、
 それこそ、いい気になって夜中でも押し掛けてくるわよ。
 でも今のままではロスが大きいんじゃない?
 おたくの倉橋さんに言っときなさいよ。
 副社長とばっか、つるんでないで、KAtiEの足元見てなさいって。」

「はあ・・・」


リエは美奈の耳元にぐっと寄ると、


「副社長に人を手配させたらダメよ。
 自分とS社に都合のいい人ばっか、連れてくるからね。
 ねえ、プレス向けの研修セミナーとか通ってみたらどう?」

「セミナーですか?」


かつえや倉橋に教えられながら、見よう見まねでプレスの仕事をやって来たが、
そろそろきちんとしなくては、と不安に思っていたところだった。
今さらだが、セミナーに通うのもいいかもしれない。


「プレス向けのセミナーって、星の数ほどあるけど、
 ゲランにいた、元凄腕プレス主催のがおすすめよ。」

「何という方でしょう?」


リエは名刺入れを出し、何枚か名刺を抜いてテーブルに並べ、
一枚を指でとんとんと差した。


「他の人もいいけど、この彼女がとくべつ優秀。
 実を言うと、かつえさんの後輩なの。
 KAtiEのプレスだって言えば、喜んで徹底的に鍛え直してくれる筈よ。」


リエの言葉にかすかな恐怖を覚えた美奈だったが、
新人だから、という甘えの許される職種ではないのだ。


さて、ごちそうさま。

いきなりリエが立ち上がった。
「新しいの、来てる?」

「はい、こちらにラボから上がったばかりのがあります。
 まだ発売が決定してないんですが。」

そう。

美奈の案内を待たずコーナーに近寄ると、さっそく実物を確かめ始める。
うろうろと美奈が後ろをついて回ると、
ひとりで見るからいい、と追い払われてしまった。

リエの気ままには慣れているので、希望通りそばを離れて
テーブルを片付け始める。
バックヤードに引っ込むと、無意識にスカートのポケットに手をやった。

あの鍵が入っている。

早速、キーホルダーに付けようとしたのだが、しばらくこうして
体の近くで感じていたかった。
ときおり「かちり」と金属の硬さが響く。

バックヤード越しにリエの様子を確かめてから、そっと取り出してみた。

銀の鍵は美奈自身の体温で温もっている。
温かい鍵は自分の一部になったようで、少し照れ臭かった。

いつ来てもいい、と言われても、
帰宅が遅いとわかっている男のマンションに
一人で行って楽しく過ごせるとは思えない。
勝手の違う場所で、置き去りにされたような心持ちになるだけだろう。

湯豆腐などと、綿貫は相変わらず爺臭い料理をあげたが、
万が一、湯豆腐の鍋を作っておいても、深夜にそれを食べるかどうか。
朝食を摂る習慣もあまりないようだし、
綿貫にとって自室はシャワーを浴びて、眠るための場所らしい。

わたしに何ができるかな・・・。

人肌に温まった鍵をもて遊びながら、美奈はぼうっと考えた。

大体、二人で出かけるとか、デートをしたとかの機会が極端に少ないのだ。
何度か一緒に飲みに行ったのと、仕事を兼ねて街をあるいたのと・・、
それだって綿貫の同期に見つかって、結局は賑やかな飲み会に変わった。

あとは、たまの休日、綿貫の部屋でゆっくり過ごすくらい。
それもどっちかと言うと、ベッドの上で。

うへえ・・・わたしってやっぱり、食べて寝るための女なのかしら。

夜遅く帰って来た綿貫とできることなんて、お酒を付き合って、
一緒に眠るくらいだろう。
そのためだけに潜り込むのも、なんだか「出張○○サービス」みたいで嫌だなあ。
もちろん、すごく会いたいんだけど。


「どうしたの?」

ひょい、とバックヤードをのぞき込まれて、美奈は飛び上がりそうに驚いた。
あわてて手の中に鍵を握りつぶす。


「うふふ、何考えてたの?
 顔が赤くなってるよ。きゃ〜、えっちぃ・・・」


リエにからかわれて、ますます美奈の頬が赤くなった。


「すみません。リエさんお一人の方が気が散らないかと思って」

「その間、美奈ちゃんはここで気を散らしてたのね。
 いけないんだ、仕事中に。」

すみません。


美奈は謝るしかなかった。


「まあいいわ。それより、さっきわたしが言ったこと考えてみてね。
 プロのやり方を一度学んだ方がいいよ。KAtiEと美奈ちゃんのためにも。」

「はい。」

じゃ〜ね〜、綿貫さんもいないみたいだし、
かつえさんが帰ったらまた来るわ。


気に入ったらしいサンプル品を勝手にピックアップすると、
リエは来た時と同じく、唐突に姿を消した。






コトがコトだけに、誰にどう接触するか、慎重にならねばならない。

綿貫は自分のデスクで考えていた。

S社は巨大なクライアントだ。
広通内でもプロモーションに関わる者が大勢いて、一大チームを組んでおり、
その中でブランド毎に担当者がいる。

森の担当は、S社の「アンジュ」ブランド。
ターゲットは20〜30代、販売チャネルは百貨店となれば、
KAtiEを意識するな、という方が無理だ。
S社とKAtiEの業務関係を見れば、広通の「S社チーム」内に
『KAtiE』担当を置くのもそれほど不自然ではない。

事実、副社長の曽根から見れば、たかが新米会社のKAtiEが
いったいどうして抵抗したがるのか理解できないだろう。
S社の力を分けてやろうとしているつもりなのだから。

だが「アンジュ」ブランドから見れば、
コンペティターに塩を送る気分だろうし、KAtiEから見れば、
大切なプロモーションにS社の息を吹きかけられたくない。

要するに・・・、と綿貫は手元のメモをひっくり返した。

これは『KAtiE』のプロモーション権をめぐるコンペなのだ。
たまたま相手が同じ広通の森であるだけ。

結局はKAtiE側に、いかに魅力のあるプロモーションを提案できるかにかかっている。
たくさんある地雷を踏まないようにしながら・・。

綿貫は少し考えて、携帯を抜いた。





「これは王さま、ハレムにようこそ・・」


ゆるやかに区切られたバーの桟敷は、アラブ風のしつらえ。
健全に酒を楽しむよりも、男女の密会の方がふさわしい妖しさだ。

靴を脱いで、床に置かれたクッションへ直に座り込む。


「本当にこんな場所が必要だったのか?」

「それはもちろん。
 はかりごとをめぐらし、敵の寝首をかくなら、天幕の影で。」

「寝首をかくつもりはない。」

「あら、向こうはその気よ。文字通りなんだってやるわ。
 仁義をわきまえないって言うレベルじゃない。
 芯から腐ってんのよ、あの『森』っつう男。」

「どんな風に?」


綿貫が問い返すと、めずらしく相手は黙ってしまった。
固くなった表情を見て、綿貫はそれ以上の詮索を止める。

桃色の壁にもたれ、隣でうまそうにモロッコビールを飲んでいるのは、
綿貫の同期、江田夏希である。

江田に詳しい状況を話す必要はそれほどなかった。
広通内部の動きを見ているだけで、おおよそを察していたからだ。


「江田は今、どこを担当してる?」

「えっとぉ、ドッグフード、製パン会社、老人用流動食、外食チェーンが一個。
 全部、食べる関係かな。」

「そう言えばそうだ。」


苦笑しながら、綿貫が同意した。


「あの副社長と森、絶対何かあるわ。
 相当強引なことやってるもの。 
 何が何でもKAtiEを抱き込むつもり。」

「・・・・」

「気をつけないと、どこから足すくってくるか、わからないよ。」


江田は、自分の言葉がしみこむまで、しばらく黙っていた。


「ところで、具体的な戦略て、立ってるの?」

「いくつかプランはある。今回は10以上用意して臨むつもりだ。」


綿貫もモロッコビールを付き合った。
この雰囲気で酒を飲むのは不思議な気分だ。

「お待たせしました」
空間を柔らかく仕切っている薄いベールが開けられ、
香ばしい匂いと共に料理が運ばれて来た。

「これは何だ?」

「ブリックって言う、アラブ風揚げ春巻きみたいなもん。
 ここにしたのは、アラブ料理が好きなのもあるの。
 チキンケバブとかクスクスとか。」

「何でも好きなだけ、食ってくれ。」


綿貫もソースのかかったブリックを一切れ取り上げて食べてみる。
スパイシーな香りと味が広がり、想像していたよりもずっとうまかった。


「いけるやろ?」

「ああ」

不思議なことに料理を口にすると、ここ数日の焦った気持ちが少し収まって来た。
綿貫は自分のプランを中原以外の人間に相談したことはなかったが、
この際と思い、江田に手持ちプランの幾つかを話してみる。

江田は黙って聞いていたが、


「KAtiEに向いた企画については、綿貫くんが一番よく知ってると思う。
 デビューキャンペーンと大きく路線変更するのは、マイナスやん。
 森はきっと正統派ビューティ路線で来るよ。
 曽根副社長の好みだし。
 やり口は感心せえへんけど、仕事の完成度は高いからね」

「だがそれでは、S社と違いが出ない。」

「S社どころか、他の化粧品会社もどうしても美を追求しちゃうから、
 どっこも同じ方向を向きがちやわ。
 それがトレンドと言われれば、ひとり、違ってればいいわけでもない。
 う〜〜ん・・・」


江田はしばらく宙をにらんで黙り込んでいたが、
どんぐり眼がぐっと大きく見開かれ、隣にいる綿貫の腕をつかんだ。
意外な握力に驚きながらも、綿貫はそのまま江田から言葉が出るのを待った。


「ちょっと、秘密兵器があるかもしらんわ。」

「ひみつへいき?」

「うん、かなり異色なんやけど、秘密兵器にはちがいない。
 ただ、アレを使ったら、綿貫くんがえらい苦労するやろなあ。」

「・・・わかるように話してくれ。」


それから1時間近く、江田の小声という珍しいもので説明を聞いたが、
聞くにつれて綿貫の表情がなくなり、眉間のあたりに
かすかにしわが寄って来た。


「だいじょうぶなのか?」

「いや、わっからん。でもスゴいよ。アレはスゴい!」


江田は楽しそうに、チキンケバブをつかみ取ると大きくかぶりついたが、
綿貫の方は反対に食欲が失せて行くのを感じていた。






「おじゃましま〜〜す!」


誰もいない部屋に向かって、美奈は一応そう挨拶してみた。
しーんと片付いた部屋に、もちろん人の気配はない。
あるじの生活を映して、殺風景なほど物のないキッチンカウンターに
買って来た材料を並べてみる。

シーフードミックス、にんにく、唐辛子、赤ピーマン、玉ねぎ、
鶏の手羽先、きのこ、トマトの缶詰・・。


「ふふふ、シチュー鍋はないけど、すき焼き鍋はあるって言ってたよね。
 それならば・・」


シーフードミックスを冷凍庫に入れると、コートを脱いでハンガーにかけた。
綿貫が朝食を買いに行く間、ひとりで待っていたことはあるが、
今は夜の9時。むろん外は真っ暗だ。

今夜は別にどこかで飲んでいたわけではなく、
残業していて気がついたら、すっかり遅くなっていた。
いっそのこと、もらった鍵を初めて使って、
ここに忍び込んでやろうと思いついたのだが・・・。

いざ、部屋に来てみると綿貫の不在が身に沁みた。

来る前は入り込む理由をあれこれ探していたけど、
単に彼に会いたいだけなのだと、今はわかった。


でも、当分帰ってこないだろうなあ・・・。


しばらくぼんやりしていたが、買ってきた材料を悪くしても、
と思い直し、準備にとりかかる。

今日のレシピ、作ったことはないが、すごく簡単で美味しい、と
家庭持ちの友人が教えてくれた。
ご主人の大好物なんだそうだ。

やけに白い部分が目につく部屋から目を背けるようにして、
美奈は慣れない料理を作り始めた。



2時間後、やっとエプロンを外すと、へたばってソファに座り込む。
そのまま、ばたんと横に倒れた。

何とか料理はできたし、味見したところ悪くもない。
どころか、かなりイケル。と思う。

でも、食べてもらえるあてのない料理は、むなしいだけだと悟ったし、
仕事の後に料理するのはやっぱ疲れる。

綿貫がきれいにしている部屋を留守中に荒らすのは申し訳ないので、
なるべくきれいにしようとする事にも気を遣う。

長々と伸びたまま、しばらく天井をながめていたが、仕方なく起き上がる。


「やっぱ、ダメ・・・」


自分には、ここでけなげに「待っている女」はできそうにない。
今夜のところは帰って、また出直そう。

いない間は、棚にある画集や写真集でも見ようかと思っていたが、
その気も失せた。

帰ろっと。

もう一度、すき焼き鍋のふたをしっかり閉め直すと、エプロンを丸めてバッグに入れ、
コートを羽織り、バッグを持つ。

ブーツを履き、「お邪魔しました」と一礼して、無人の空間に声をかけると、
解錠してドアを開けた。

薄暗い廊下をエレベーターに向かって歩いていくと、向こうから
背の高い、見たようなシルエットが近づいてくる。

あら!

美奈は一瞬立ち止まったが、既にもう11時半近く。
終電をつかまえるなら今しかない。


「お邪魔しました!今日はもう帰ります。」


美奈が声をかけると、綿貫が一瞬おどろいたように顔を上げ、立ち止まった。


「来てたのか?」

「うん。でももう帰るの。さよなら・・・」


手を振って綿貫の横を通り過ぎると、エレベーターへ進んで行く。

おい・・。

美奈は立ち止まった。


「何で帰る?」


綿貫がけげんそうにこちらを見ている。


「何でって明日も仕事あるし、今帰らないと終電間に合わなくなっちゃうから。
 じゃ、おやすみなさい。」


軽く頭を下げると


「ああ、おやすみ。お疲れさま。」


答えた綿貫が、背中を向けて歩いて行く。
後ろ姿に、あれ?と思ったものの、今さら引き返しもならず、
そのまま歩き続けてエレベーターに乗った。

1階でエレベーターを降り、ホワイエを抜けると夜の路上だ。
新宿からふた駅の場所だから、全く人通りがないとは言わないが、
来た時とうってかわって、がらんとしている。

春風はなりを潜め、こがらしが舞い戻ってきたような肌寒さだ。
急がなくちゃ、終電をつかまえそこねてしまう。

しかし、いつもの綿貫なら、こんな時間に夜道を、
たった一人で帰したりは絶対にしないはず。
都会だし、大人なんだからひとりで帰れる、と主張しても、
なんだかんだ仏頂面で送って来てくれたものだ。

そういう配慮もできないほど疲れて、くたくたなのだろうか?
そういえば、さっきの綿貫は妙に無表情で生気がなかった。

体調が悪いとか。

今頃、ベッドで死んだようにくたばっているとか。
お腹が空きすぎて、せっかくわたしが作ったお鍋も目に入らないとか。
熱があるのに、ようやく部屋にたどり着いて、今頃ガタガタ震えているとか・・・。

美奈は急に心配になってきた。

2、3歩迷ったが、結局回れ右をして、来た路を引き返し、
ゲートにキーロックを差し込むと、走って部屋をめざした。




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