AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム 35 前奏曲

 

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「もう帰らなくちゃならないの?
 久しぶりだから、相談したいこともいっぱいなのに。
 もう少し一緒にいたいわ。」

「僕だってまだ帰りたくないよ。
 やっとりりに会えたんだから。」


西麻布の交差点に近い路上で、曽根りり花と婚約者が佇んでいる。


「父が、今日は会合があるから遅くなるって。マンションに泊まるのかしら。」

「そうか。じゃあ、りりを、もうちょっと捕まえててもいいかな。」


男は、りり花の肩を抱くと通りに歩み寄り、手を挙げた。
止まったタクシーに乗り込みながら、りり花が大きな瞳を向ける。


「どこへ行くの?」
「ちょっと面白いクラブ。行ってみたくない?」

そりゃ、行ってみたいけど。

りり花の唇がすこし尖り気味だ。

「本当は、もう父からわたしたち用のマンションの鍵をもらって、
 早く改装を始めたいんだけど、
 まだ早いからって、渡してくれないの。」

「お父さんは激務だから、都心の部屋が必要なこともあるだろう。
 仕方ないさ。」

おいで・・・。

男はりり花の肩に手を回して、そっと抱き寄せた。
男の肩先から、かすかに香りが立つ。
大人の香り・・・。りり花はそっと目を閉じて吸い込む。


「この間、セミナーでKAtiEのプレスの人に会ったわ。
 すごく元気で可愛い人だった。
 会ったことある?」

「ああ、何度かね。
 でもプレス業に慣れなくて、おたおたしてるみたいだったな。
 りりの方が向いてるんじゃない?
 どうしてS社に行かなかったんだ?」

「父と一緒の会社なんて嫌だわ。 
 見張られてるみたいで。」

「それもそうだな。
 僕もその方がよかった。」

「それにわたし、S社のより、KAtiEの方が可愛くて好き。
 S社のって、どっかおばさん臭いんだもん。」

「それは問題発言だぞ。」


男はこらしめるように、ぎゅっと抱きしめると
りり花がくすくす笑い出した。

タクシーが信号で止まると、窓の外に目を向ける。


「あ、うちのマンションが見えるわ。
 灯りは消えてるけど。」

「お父さんはまだお仕事なんだろう。」

「もっと違う誰かと一緒だったりして。」

「まさか。お父さんに限ってそんなことはない。
 このところ、特に忙しそうだしね。」

そう言いながら、今にもマンションに灯が入り、女の影が映るんじゃないかと
男はヒヤヒヤしながら通りすぎた。

今夜あたり・・・。

男は想像をめぐらせた。
副社長もいい思いができるかもしれない。





「前の担当さんが倒れたって聞いてねえ。
 ここまで来て、途方に暮れてますよ。」

部屋に入ってくるなり、綿貫の隣にいる金髪をじろりとねめつけ、
あいさつも抜きで、こぼし出した。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。
 こちらで完全に引き継ぎますので、どうかご安心下さい。」

「まあねえ、あの人も頑張ってくれてたし、もうちょっとだからね。
 あのまんまの感じで進めてもらえさえすりゃいいから・・・。
 頼みますよ。」


あじさい製菓の専務は創業者の息子だ。
かなりの心配性らしく、ハの字眉がさらに下がっている。
創業者の社長は80近いが、今もかくしゃくと役員室に日参しているらしい。

くどくど続く専務の繰り言を黙って聞いていると、
そのうち気が済んだらしく「じゃあ、担当を呼ぶから」
と唐突に席を離れて行った。
替わってやってきた担当者と、ようやく具体的な話に入る。

あじさい製菓、創立50周年企画。
お買い上げの皆様から、抽選で○○名さまに素敵なプレゼント。

「プレゼントのモニターがまだみたいです。」

「まずはそれを至急手配してくれ。」

「はい。あじさい製菓の顧客って、どのあたりでしょう。
 歯が悪いとせんべいはかじれないし、
 TV見ながらつまんでる主婦とかですかね。」

「検証しよう。
 マーケティング関連のファイルは見つかったか?」

「一応。ですがこれじゃ、はっきりしたことがわからないです。
 だいぶ前から体調悪かったのかな。綿密なリサーチとは言えませんね。」


綿貫と打ち合わせているのは、岡本という若いプランナーだ。
ついこの間まで、それほど目立たない存在だったのに、
何を思ったか、いきなり金髪の刈り上げにしてから、
社内のどこでも目につく顔になった。

綿貫が岡本に声をかけた時、なぜ自分を指名したのか、一切尋ねなかった。
KAtiE担当の綿貫が「あじさい製菓」のイベントを手がけている理由も、
よくわかっているようだ。


「クライアントには、準備完了って吹いてたみたいですけど、全然詰めてないな。
 これミスると僕らの責任で、成功すると前任者の功績になりますよ。」

「それがどうした。ミスらなければいいんだ、絶対に。」

「はい。」


岡本の、金髪にダークスーツの組み合わせは、かなりのパンチ力だ。
媚びない雰囲気と理知的な語り口のお陰で、
かろうじてホストに見えずに済んでいる。

「顧客の洗い出しから始める。
 手に入った資料から、すぐに始めよう。
 同時にモニターの手配だ。」

「はい・・・」




加澤とは一日に一回、必ず連絡を取り合っていた。
岩見そらには、いくらか手こずっているらしい。


「僕には少し口を利いてくれるんですが、集中すると
 どっか行っちゃうみたいで、話しかけても聞こえないんです。」

「暴走させるなよ。」

「はい・・でもねえ、いい子ですよ。
 最初に組んだ松浦さんと息が合わなくて、
 言葉が出なくなっちゃったらしいですね。
 バリバリ鍛えたつもりだったんでしょうが、あの人のやり方は・・」


そう言えば、と加澤は一瞬、電話口で黙り込むと

「綿貫さんが老けたら『鬼の松浦』みたいになるかもなあ。」

馬鹿言うな・・・
すみません。

聞こえてくる笑い声を軽くいなしたが、完全には否定しきれないものがあった。

松浦は昔気質の広告プランナーで、新人には特に厳しい。
これくらいくぐり抜けないとプロになれない、というのが持論だ。
だが罵倒され、黙って何度もアイディアを突き返され、
お前なんか辞めてしまえ、と言われ続け、うつ病になったり、
会社を辞めてしまった者も少なくない。

松浦自身の仕事のクオリティが高いので、社内で異を唱えるものは少ないものの、
『いまどき、あんなやり方じゃあ』という批判もしばしば洩れてくる。

綿貫とはずいぶん年齢が違うが、細身の長身でスーツにメガネスタイルが
松浦を思い出させるのかもしれない。


「そらの作品はどう管理している?」

「江田さんがうるさいから、いちいちキャビネットに鍵かけてしまってますよ。
 本人はすごく無頓着で、そのあたりにほっぽっておくから、ヒヤヒヤします。」


森配下、というか、S社チームの関係者がさりげなく様子を嗅ぎに来る。

綿貫が不在がちの今、加澤とそらなら楽勝だと思われているらしい。
廊下で、ミーティングルームで、自販機の前で、
何度もつかまっては、挨拶のように進捗状況を聞かれる。


「あの子って、マジ使えんの?
 プレゼン間に合わなくて、誰かが土下座したって聞いたけど」

「いやあ、岩見そらは天才ですよ。
 アイディアがもくもく湧いて来てて・・・」


加澤は冗談にまぎらせて撒こうとするのだが、相手もしつこい。
社内でも未知数のそらと組んだのが気になるのだ。


「そらちゃん、こっちのポスターだけ、
 ちょこっと相談に乗って欲しいんだけどなあ。」


いつの間にか部屋に入ってきて、
そらの隣に座り込んでいる者を追い払うのが江田の役目だ。

そらにすり寄っている顔の真横に、どん!と手を置き、
驚いた相手に笑顔を向ける。


「悪いけど今、そらちゃん、ぎちぎち。
 どうしてもやったら、中原部長通してくれる?
 順番待ちリストができてるから。」


順番来たらお呼びしますね・・

そう言ってウィンクする江田に、大概の者は撃退されていた。
そら本人は面白そうに、江田の首尾を見守っている。


「そらちゃん、あかん時はあかん、言わな。
『いや』って言うてごらん?」

「いや」

にこにこしながら、そらが復唱する。

「そんな顔で『いや』言っても『ホントはイヤじゃないんだろ』
 って、つけ込まれるよ。もっとほんまにイヤそうな顔で・・・。
 ほら、こないだ綿貫くん見たときみたいな顔。な?」

「何を吹き込んでるんだ?」


4日ぶりに訪れたそらのデスクで、江田の『指導』ぶりを聞いた綿貫が、
不機嫌そうな声をかけた。

たちまちそらの体が固まって、顔がくもる。

「あ、その顔、その顔!
 綿貫くんじゃなくて、さっきみたいなゴリ押しに見せたって。
 そや!」

江田がぽん、と手を打つ。

「綿貫くんの顔、写メ撮らせてもらお。
 そらちゃんが断りにくくしてたら、ぱっとそれ見せて固まってもらおうか。」

さっさと携帯を取り出して、綿貫に向けた江田に、

「いいかげんにしろ。人を魔除けにするつもりか」
「おおこわ、怖くてわたし、ちびりそう。」

後ろで加澤が体を折り曲げて笑い転げている。
ひ〜っひっひ・・

「状況はどうだ?」

加澤の様子をなるべく見ないようにしながら、江田に訊いた。
いやでもそらの固まった表情が目に入るが、気にしないことにする。

「うん、ぼちぼち・・・。」

江田は机にほおづえをついて、答えた。

「やり口としては割に平凡。
 単純に仕事押し付けて、邪魔するとか、
 ここを覗いて、何をやってるのか嗅ぎ出そう、とか。」

「・・・・」

綿貫は、そらと反対側の江田の隣に座り、デスク上の作品を眺めた。

女性の背中とお尻ぎりぎりまでを描いたQのイラストを切り抜き、
白いレースで飾ってある。

「そらちゃん、絵やコラージュも上手いけど、光るのは『構成』かな。
 おんなじ材料使ってるのに、ぐっと違う味になる。
 手を使った『料理』がうまいのよ。」


そら作品は、綿貫から見ると、ややポップで未整理に見えた。
どちらかというとシンプルでそぎ落とした美が好みなので、
そら作品のでこぼこと貼り合わせた手作り感が、厚ぼったく感じられる。

その表情を見ていた江田が、

「綿貫くんもおじさんね。」
「たしか、江田と同じだと思ったが。」

ちがうよ。

「そらちゃんの作品、若い子に見せると、
『かっわい〜〜っ』って飛び上がるのよ。
『癒されるぅ』とか『なごむ〜』とか、もうう騒ぐ騒ぐ、 
あんたら、そない疲れてんの?って突っ込みたくなる位。」

反応せんのは、感性が「オヤジ化」してる証拠。

言い捨てて、面白そうに綿貫の表情を窺っている。

KAtiEブランドの顧客を年齢で切りたくない、と言ったのはかつえだ。
しかし、肝腎の20代に支持されなければどうしょうもあるまい。

そらの起用は「ノンエイジ」という、
どっち付かずを打破するきっかけになるかもしれない。

「そらちゃ〜ん、ほらサプリ!」
加澤が甘やかすように、チョコの包みを渡すと、
そらが気にしたように、ちらりと綿貫を眺める。

「いいの、いいの。
 あの怖い顔で戦っているんだから、気にしないであげてね。
 ようく見るとイケメンなんだよ。」

加澤のとりなすような口調が気に触るが、あれも仕事のうちと諦め、
江田といくつか確認事項をチェックすると、綿貫は急いで部屋を出た。





「S社の海外戦略、他社より仕掛けが早くて、占有率も上々とか。
 これからは、どこも海外販売で伸びて行くのかしら。」

料亭での食事を終えると、曽根と倉橋はホテルのバーに移動した。

「国内市場を無視して、いくら海外で売り上げを伸ばしたって意味がない。
 そんな製品は、いつか他のメーカーに抜かれて行く。
 消費者の目の厳しい国内市場で勝ってこその成長なのに。」

「そこで戦って来られたんですものね。」

S社の社長は早くから海外戦略を提案し、その読みがあたって、
莫大な利益と売り上げ増をもたらし、現社長の椅子に座った。
一方、曽根に任された格好の国内ブランドは、どれも売り上げが頭打ちである。


「そうだ。KAtiEだって今は良くても、今後、順調に伸びるには、
 製品の力だけでは難しい。
 なんでうちの広告と一緒にやらない?
 うちのでかい広告費を使った方がぐっといいものができるだろうに。
 広告宣伝費をかけない化粧品ブランドがあたる筈がないだろう。」

「いちど一緒になってしまえば、大きなパイの中の『割当』制になります。
 今はKAtiEの取り分を増やしてもらえても、いつか、KAtiEが
 S社ブランドに広告費を喰われるほうが多くなります。
 S社の方は、自社ブランドが可愛いのは当然ですし・・・。」

「わたしがついているじゃないか。
 わたしがいる限り、KAtiEに大きな予算を回してやれる。
 予算を倍にして、売り上げを4倍、5倍にすればいい。超有望株なんだから。」

「でも曽根さんだってS社の副社長ですもの。勝手なマネは許されません。
 かつえさんとも相談していたのですが、
 KAtiEの取締役はS社から独立しないと、結局、利用されてしまいます。
 うちの応援団の前田さんを取られてしまったし・・」

「一介の部長の力などたかが知れてる。前田には何ほどもできんよ。
 そうだな、僕もいっそKAtiE専任の役員になって、奔走してみるか。」

「まあ、本気で来てくださいます?」

倉橋が、あでやかな笑顔を向けた。

「ふふ、歓迎してくれるかね。」

もちろんですわ。
 
大輪の花がさざめくように、笑みくずれるのを確かめると、

ちょっと失礼・・

断って曽根は、席を立った。
後ろ姿の足取りを見ながら、倉橋はコースターの下に折り畳んだものをしのばせ
バーテンダーへと滑らせる。

「これは?」

細身の若いバーテンダーは手を止めずに、かすかに視線を上げた。

「わいろ」

彼だけに聞こえるよう、そっとささやく。

「なんの?」
「こちらを薄く、あちらを濃く。
 悪さができないように。」

お願い、正義の味方さん・・・。

倉橋のささやきに、バーテンダーは低く「お望みどおりに」。


スツールに戻って来た曽根は、意味ありげな視線をよこした。

「そろそろ、次へ行かないか?」

そう・・・ですわね。

倉橋は考える風だった。
唇が濡れ濡れとつやめいて、大きく横に広がる。

「でも、もう一杯だけ頂きたいわ。
 よろしい?」

色っぽい流し目に抵抗できる意志は、曽根も持ち合わせていない。

「そうだな。じゃあ、もう一杯だけもらおうか。」





「こんにちは。しばらくごぶさたしていました。お元気でしたか?」


美奈のデスク脇にゆったりと現れたのは、Qだった。
再会したらどんな顔をしようと、あれこれ考えていた美奈だが、
姿を見た途端、懐かしくて立ち上がってしまった。

「ええ、元気です。Qさんはどうしてました?」

美奈が廊下の打ち合わせテーブルへQを案内しようとすると、
隣の長田も愛想良く笑いかけた。

「Qさん、いつもお世話かけています。」
「こちらこそ・・・」

Qのヒゲはどんどん少なくなって、今やあごの先に少し残っているくらい。
髪もやや短くして、全体にこざっぱりとあか抜けた印象になった。

「忙しかったんですか?」

廊下の椅子を示しながら美奈が話しかけると、
Qは思わずいっしょに笑いたくなるような、あたたかい笑顔を見せた。

「まあ、いろいろと重なっただけです。
 それより、ずいぶん遅くなってしまって・・・」

Qは足元の紙袋から、黒くて厚ぼったいものを取り出した。

「これは・・・?」

「ようやく写真が整理できました。
 アルバムにまとめたので、ぜひ見てもらって、
 感想を聞きたいな。」

「今、見てもいいですか?」

「もちろん、僕は構いませんが・・」


美奈は一瞬、開くのが怖いような気がしたが、好奇心に勝てず、
おそるおそる分厚い表紙を開けてみた。

最初の写真は人気のない、朝のカフェ。

よく見ると犬を連れた子供たちや、カップルが暗く沈んでおり、
仕込みをしているらしいスタッフの姿も小さく見える。

次をめくると、犬にソーセージをあげ、
お返しに鼻先を舐められている美奈の連続ショットだった。
寝ぼけ顔へQに借りた帽子をまぶかにかぶって、
10代の少女のようにあどけなく写っている。

帽子で、顔が半分しか見えないせいもあるが、
美奈はこれが自分だとは信じられなかった。

さらにめくると、代官山の空き駐車場に立って、
背伸びしながらショーウィンドウを覗いている自分。

ショーウィンドウ内がまだ暗いので、
かなり近くでのぞき込んでいる表情が我ながらおかしい。

朝市の生ハムの前で悩んでいる自分。
ポストカードを手に取ってしげしげと見ている自分。

カフェでビールを呑んでいる自分
サンドイッチにかぶりついている自分・・・。

わたしって食いしん坊だ。

だが、さらにめくっていくと午後からの写真に変わった。

帽子がなくなって髪を下ろし、長めのドレスを着ているせいか、
午前中と同じ人間とは思えない。

へえ、かわいいじゃん!

ふだんしているスタイルと全く違うので、
自分だと思わず、客観的に見ることができた。

ドレスを着た女性は、どこか思わせぶりに見えた。
Qの目を気にして、ときどきちらりと投げる視線が妙に気になる。

やがてカーディガンを脱いで、緑の宝石のようなライムへ腕を伸ばし、
髪を揺らしている写真が大きく一枚のアップになっていた。

うわあ・・・。
なんだか、不思議な気分だ。

それはとてもきれいな写真だった。
腕を伸ばしているモデル、つまり美奈がきれいというより、
つやつやした緑の実や、髪をゆらす風、ほおを輝かせる光がきれいだった。

それに、この女性は光にくるまれるように
幸せな顔をしている。

美奈を写したラストショットは、
うれしそうに微笑みかけてくる顔のアップだった。
完全なカメラ目線で、まっすぐこっちを見ている。

わたし、こんな顔でQさん、見たのかな?

少し考えて、写真の自分が手にボールを持っているのが見え、
この笑顔はボールを待っている少年に向けたものだったと思い出した。

わあ、よくこんな顔撮ってたわ。すんごいなあ。

美奈は満足気に笑っている自分がまぶしくて、
正視しにくくなり、なおもページをめくると
夕暮れの代官山の街並が引き気味に写っていた。
赤く染まった空気まで写っているよう。

美奈の写真以外にも、誰も座っていないカフェの椅子、
水滴のついたビアグラスとトーストサンド、
木々の葉が空へとゆらめいている緑の写真など、
印象的な作品がたくさん挟みこまれていた。

わたしの写真ばっかって言うわけでもないじゃない。

撮り方、小道具、光や風やいろんなものが写真を構成しているので、
モデルの役割は意外に小さなものだと実感する。

美奈は少し安心した。



だまってアルバムをめくり続けていた美奈へ、Qは不安げに訊いた。

「どう・・ですか?」

すぐに、答えることができなかった。

「なんていうか・・・。
 これ、わたしの写真じゃないなって。」

「美奈さんの写真ですよ。」

Qが穏やかに反論した。

「確かにわたしも写ってるんですけど、この写真は、
 光や風や空気の色や、そういうものを感じるQさんの目や、
 何かで出来上がってるんです。
 わたしは、ほんの一部にすぎません。」

「それは違います。」

Qは微笑みながら言った。

「美奈さんでなければ、僕はこんな風に撮れないんです。」

そうかしら・・・?

「モデルがわたしじゃなくても、この素晴らしさは作れると思いますけど。」

Qは黙って首を振った。

「僕は仕事で商業写真を滅多に受けない。
 犬や子どもとか、物を撮ることはありますが、女性はまず撮らないんです。」

美奈さんだから、撮りたくなったんですよ。

まっすぐに目を見て言われると、じわりと顔が熱くなった。
ここは会社の廊下だと言うのに。


「とにかく、すごくきれいに撮って下さってありがとうございます。
 こんな写真、たぶんもう、一生撮ってもらえないかも。」

「気に入ってもらえてよかった。
 見てもらうまで、かなり不安だったんです。
 もっと感想を詳しく聞かせて欲しいんですが、今は仕事中ですね。」


はい・・・

美奈は上気したような顔で返事をした。


「この間の約束を覚えていますか?」

「やくそく?」

「いつか晩ご飯を一緒にどうか、と言う話。」

ああ・・・。

改まって言われると、うまく返事ができなかった。
あの時感じた、居心地がいいような、悪いような、
お腹の中をざわつかせる気分が立ち上って来て、返事をためらわせた。

それはともかく・・・。

美奈の表情を読んで、Qは素早く話題を変えた。


「僕の家でたまに飲み会、というか、
 ごはん会をするって言ったことがありましたね?」

「ああ、デザイナーだの、ミュージシャンだのが来るって・・・」

「近所の八百屋さんや、歯医者さんも混じってますよ。
 今度の金曜日にやるんです。
 いちど来てみませんか?いろんなのがいて面白いですよ。
 プレスの人もいたかもしれない。美奈さんに紹介したいな。」

へえ・・・

「行きます!」

自分だけでは知り合いになれない人と出会えるかもしれない。
楽しそうではないか。
綿貫も当分、忙しいと言っていたし・・・。


「楽しみだわ。」

「それは僕の方です。みんな気の置けない奴ばかりですから気楽にどうぞ。
 じゃあ、時間が決まったら連絡します。
 ぜひ、空けておいて下さい。」

「はい。」


うふふ。
やっぱり「待っている女」より、こっちのほうがずっといい。

アルバムを手に立ち上がりながら、美奈はにっこりとQを見送った。





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