AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム 36 壊れたもの

 

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赤、黄、だいだい、焦げ茶、深紅、むらさき・・・

色鮮やかな秋の山に疾風が巻き起こり、
一帖の錦にのって黒髪の乙女が駈け下る。

乙女の吐く息、触れる指先で、あたりは次第に秋色に染め上がり、燃え上がり、
絢爛たる千彩のうずへと様相を変えて行く。


そらは鮮やかな葉っぱを一まい、一まい、ピンセットでボードに貼っていた。

誰かに見られたら、この葉っぱはたちまちただの紙片に戻ってしまう。
わたしが魔法をかけなくちゃ。

画面を仕上げながら、変化する過程を随時カメラに収めていく。
そらの唇はほほえみながら、小さく歌を口ずさんでいる。

気の遠くなるような細かい作業の後、見事に彩られた秋の世界が、
眼前に開けていた。

わあ、できた・・・!

そらの目が大きくなり、完成した喜びで、今度はぐっと細められる。

画面のボードはできたし、撮影した画像のCG処理をして、
動画もつくって行こう。

これは、しまわなくちゃね。

監視役とも言うべき、江田と加澤が、いつも口を酸っぱくして、
作品の保管を言い立てる。
そらとて、大切な作品が破損するのは望まないが、
自分のブースにこもっていると、移動するのが面倒になる。
このビルの大きさと人の多さになじめないのだ。

時計を見ると、深夜11時半。
この時間だとさすがに二人とも帰ってしまっているだろう。

念の為、加澤の携帯に連絡を入れてみると、
「お客様のおかけになった・・・」録音が流れて来た。

いいや。自分で運ぼう。スチレン製で重さは大したことがない。
美大時代はもっと巨大な作品を、えっさえっさと運んでいたのだ。

カートに乗せ、エレベーターで二つ上のフロアの保管場所まで・・とも考えたが、
深夜とは言え、広いフロア脇の廊下を歩くのは好きじゃない。
みんなが自分を見ているような気がするときがある。
ここは非常階段が近く、階段ふたつ上がれば保管庫まですぐの位置だ。


そらは作品が壊れないように、慎重に梱包材で養生すると2枚ずつ運び始めた。
ボードは全部で11枚。5回往復すればいい。

広告代理店は24時間眠らない会社だが、受付や玄関は定時で閉まり、
廊下を歩く人影も、さすがに少なくなっている。

そらは難なく4往復し、作品を保管庫にしまって、
ドアを開けたまま、最後の1セットを取りに自分のフロアに下りようとした時、

「大変そうだね。てつだおっか。」

若い男に声を掛けられた。

そらは返事をしなかった。
自分が口を利くのに多少不自由があることは知られている。
そのままパタパタと手を振って、事情をわかってもらうつもりだった。

「なんだよ、せっかく手伝うって言ってるのに。それはないだろ。」

若い男はそらの後ろから階段を下りて、部屋までついて来る。
そらは無視したまま、急ぎ足で部屋の奥に進むと、
最後のボード3枚を運び出した。

2枚だとそらの小さなてのひらにも、しっくり収まるが、
3枚の厚さだと少し持ちにくい。

階段に行くまでに数回、床に置いて持ち直し、何段か上り始めたところで、
これは2枚と1枚に分けて運んだ方が良かったかな、
と考え始めた時、さきほどの男がまた近づいてきた。

「ほら、一枚貸しなよ」

「!」

この男が誰だか思い出した。
そらの大嫌いな男の手下だ。
そらの大好きな人を傷つけて、平然と欲しいものだけに手を伸ばすやり口が嫌い。
その手下になって、何度も江田にけとばされながらも、
懲りずにKAtiE組を嗅ぎにくる、この男も嫌いだ。

さわるな!

声にはならなかったが、そらの手が大きく動いて、ボードを守ろうとした。

「こんなところで意地張るなよ。あぶないぞ・・」

ぐん、とボードを引っぱられる力に負けて、そらの体が揺らぎ、バランスを崩し、
大きなボードを持ったまま、真っ逆さまに階段を転げ落ちる。

ガンガンガンガンッ!ガッツン!

そらは最後までボードを離さなかったが、
体の前でまっぷたつに折れたのを感じた。

どうしよう!
これがないと・・・

一瞬、頭をよぎった考えの後、大きな衝撃が来て、床に叩き付けられ、
そらは何もわからなくなった。





綿貫はモニターの資料と名簿を付き合わせながら、
岡本と「あじさい製菓」のイベント進行を詰めていたが、
思わぬ近くで救急車の音が聞こえ、眉をひそめた。

「ちょっと見てきますね」

金髪の岡本がさっと立ち上がり、ドアから出て行くと
サイレンの音がさらに大きくなり、あちこちのドアからパラパラと顔が出る。

何ごとだろうと綿貫までも椅子を立った途端、携帯が鳴った。

「綿貫さん、今どこですか?」

16階にいる、と答える声にかぶせて「すぐ来てください。そらちゃんが!」
加澤の抑えた声が聞こえた。
加澤から場所を聞き取って、部屋に戻った岡本に合図し、
廊下に飛び出した。

綿貫たちと救急隊の担架は、ほぼ同時にそらのところへ到着した。

まっぷたつに割れたボードの端を握ったまま、そらが仰向けに倒れており、
加澤がそばに膝まづいて、そらの頭の下へ上着を押し込みながら、
「そらちゃん!そらちゃん!」と必死に呼びかけている。

「はい、運びますので、怪我人から離れてください!」
「けがをした状況のわかる方、おられますか。」

壁にもたれて座り込んでいる男が小さく手を挙げると、

「ボードを持ったまま、階段から落ちてったんです。すごい音がして・・」

青い顔のまま、ぼそぼそと説明を始めた。
そらが救急隊員の手で担架に移されると、ずっとそらに呼びかけていた加澤が
壁にいた男の胸ぐらをつかんだ。

「てめえ、そらちゃんに何した?
 こんなことまでやるのかよ。え?突き落として殺す気か?」

「ちが・・おれは何も」


12時を回っているとはいえ、昼間は6千人が働いているビルである。
階段の近くに、わらわらと人が集まり始めていた。
綿貫は加澤の手を掴んで、割って入る。


「やめろ。
 お前はとにかく、一緒に救急車に乗って行け。
 君もだ。そらが落ちる状況を見たんだろ?」

もつれ合っている二人に告げると、加澤の手を放し、

「待ってるから、必ず連絡しろ。
 こっちが片付き次第、すぐに俺も行く。」

「道をあけてくださ〜い。担架が通ります!」


そらが救急車に乗せられるまで、綿貫も担架脇に付き添い、
ハッチが閉まり、車が出発してから、ようやくそらが落ちた場所に戻った。




「これは・・・ひどいですね。」

江田に連絡を取っている綿貫のそばで、二つに割れてめちゃめちゃになった。
ボードの残骸を見、岡本がため息をついた。

華麗な錦絵のような作品が壊れ、無残な様子をさらしている。
岡本と二人、なるべく残骸を集めて紙袋に収め、
他のボードと一緒にしまって、鍵をかけた。


「ありがとう、助かった。
 俺と組んだばかりにずいぶん余計な仕事させてるな。」

手伝ってくれた岡本に綿貫が礼を言った。

「今日はもういいから、続きは明日にしよう。」

「岩見そらがどうして口が利けなくなったか、知ってますか?」


二人きりで部屋に戻った途端、唐突に岡本が切り出した。


いや、くわしいことは。

「そらのメンターを務めていたグラフィックデザイナーが、
 森さんと付き合ってたんです。
 たしか、一緒に住んでたかな。
 その後、森さんがS社担当のチーフになって、あそこの幹部に接近した挙げ句、
 若い恋人に乗換えるのに、邪魔になって元カノを捨てた。
 
 彼女の方は、しばらく気丈に仕事してたんですが、
 実は、薬とかに頼ってたらしく、体と精神を崩して会社を辞めたんです。
 自殺未遂とかって話もちらり、聞きましたけど。」

「・・・・」

「その過程で岩見そらがしゃべれなくなったんです。
 たまたま松浦さんがそらを仕込んでいた時だったんで、
 ぜんぶ松浦さんのせいみたいになってますが、違います。」

「そうか。」

「ここは、その手の不始末は問わないでしょう?
 しょせんプライベートだし、問うてたらキリがないですもんね。
 表に出して、クライアントに迷惑かけないのが最優先ですし、
 森さんはS社から巨大な宣伝費を引き出している。
 結局、不問のまま、今に至ってるんです。」

「お前はどうして放り出された?」


窓のない密室で立ったまま、岡本は宙をにらんでいる。


「金の匂いを嗅いだからかな
 S社の金はそれぞれのチームに分配されて制作費になりますが、
 どこにも流れない金もある。
 森さんが広告費の配分を握ってますから・・・」

岡本は綿貫を見なかった。

「その一部を幹部個人に戻す、というルートがかすかに見えてしまった。
 うちから戻せば、横領にならないですからね。
 広告をもらうためにS社のご機嫌をとるのは立派な仕事ですから、
 そのための経費も上乗せできるし。」

「証拠をつかんだのか?」

「まさか。
 気づいたと、顔に出したつもりもなかったんですが・・・。

 S社の現社長は曽根副社長を認めていません。
 こんど国内売り上げが下がったら、曽根副社長は責任を取って
 取締役を退任させられるでしょう。
 そうなっては絶対に困るんです。曽根副社長も森さんも。
 だから、どうしても売り上げの伸びの著しいKAtiEを欲しい。」

あの二人は一蓮托生ですよ。お互いの利害ががっちり結びついてる。

「そらを突き落とすくらい、やりかねないし、
 必要とあれば、綿貫さんだって。」

岡本が初めて綿貫の顔を見た。

「わかった。気をつける。」

腕組みをしたまま、静かに綿貫が答えた。

 
 


天井から釣り下がったアンティークのシャンデリアを見あげながら、
りり花は、ねっとりした淡いグリーンの酒を飲んだ。
かすかに青臭い、生の果実の味がする。

彼はりり花よりずっと年上で、センスもアンテナもいい。
色んなところへ連れていってくれるし、
いつも優しいし、何でも教えてくれるし・・・。

仕事もすごくできるらしく、めちゃめちゃ忙しくて、
会う時間があまりとれないのが唯一の欠点だ。

でも、今日はこの気分じゃなかったのにな。

りり花は小さくつぶやいて、あたりを見回した。
クラブとしては、静かな方だろう。
退廃的なヨーロッパの館の一室のようで、秘密めいた気分にさせられるし、
ワイン色のソファに深く沈めば、周囲からあまり見えない場所もある。

りり花は婚約者のほお骨のあたりに、陰を見つけた。

「ちょっとお疲れ?」

りり花の言葉に、男はやや意外そうな視線を向けたが、
すぐに優しい微笑を見せた。

「このところ、忙しいのは本当だ。
 でもりりに会えたからね。最高の栄養だよ。」

指をりり花のほおに滑らせ、そのままゆっくりと髪を撫でる。

この優しい仕草が大好き。思わず甘えたくなるの。

「ねえ、これを呑み終わったら今度はわたしに付き合って。」

とろけそうに細められた男の目が、軽く見張られた。

「付き合ってって、もうだいぶ遅いよ。シンデレラの門限は守った方がいい。
 今夜はここから送るから。」

「お願い、一カ所だけわたしに付き合って。このまま帰りたくないの。」


いつになく強く言い立てる恋人の言葉に折れて、


「わかった。じゃあ、もう出よう」

入口でコートを着せかけてもらうと、りり花はまっすぐ道路に歩み寄り、
タクシーを止めようと大きく手を挙げた。

「りり・・・。」

いつも落ち着いている年上の恋人を戸惑わせたのが面白かった。
たまにはこんな風にしたっていい筈。

タクシーの運転手に行き先を告げると、ますます男はけげんな顔になった。





おかしいな・・・。

料亭で冷や酒を小さなデカンタに2本。
ホテルのバーでシングルモルトをツーフィンガーで2杯。

自分の呑んだ量はきちんと覚えてる。
まして今夜は泥酔なんぞしないように気をつけていた筈なのに。

曽根は自分の足元が不確かなのが納得できなかった。

「だいじょうぶですか?」

倉橋の白い指が背中と腕にかかるのを、にやりとした気分でながめた。

わたしに触りたいのかな。
首尾は上々だから、あとはこのまま、さっき取った上の部屋へ行くだけなのに。

心なしか、倉橋の目がうるんでいる。
気持ちも体も潤んでいるはずだ。
しかし肝腎の自分の足取りがこう怪しくては、誘うどころではない。

この機会を待っていたのに。

「副社長?お顔色があまり・・。
 お車までお送りしましょうか。」

倉橋の瞳が心配そうに煙るのが心地よかった。
もっと違う風に煙らせてみたい。

「ありがとう。大丈夫だが、せっかくだ、送ってもらおうか。」



曽根を車に乗り込ませた倉橋が「では」とドアから下がろうとすると
手をつかんで引き止めた。

「一緒に乗りなさい。わたしを送ってくれるんだろう?」

「うふふ、困った方。ではお送りしましょうか。」





未来の自分達のマンション前で、りり花が車を止めたのを
男はいぶかしく思った。

「りり・・・?」

りり花は先に歩き始めていたが、男の言葉に振り向くと
いたずらっぽく笑って、鍵を振ってみせる。

「その鍵は?」

「うふふ、こっそり合鍵を作っておいたの。
 タグ付きだったから、ちょっと大変だったわ。
 内緒で準備を進めているのよ。あなたに見せたいものがあるの。」

「しかし、おとうさんがここへ戻ってくるかもしれないだろう?
 こんな遅くまで連れ回しているのが知れたら・・・」

「大丈夫よ。
 あなたが忙しくて全然会えない、って私がこぼしてるのを知ってるから。
 たまに会えたんだから、少しくらい遅くなってもいい筈よ。
 他の人と遊んでいるわけじゃなし・・・ね、早く。」


男はためらっていた。
娘夫婦が使うはずの部屋に父親が女を連れ込む、
とはあまり考えたくなかったが、万が一もある。
りり花の手をつかんででも通りへ引き戻したかったが、
今日のりり花はいつになく押しが強く、どんどん先に進んでしまっている。

結婚したら、こんな風にふりまわされるのだろうか。

あっと言う間にゲートを通り、エレベーターのボタンを押している。
男はしぶしぶついていった。表から確認した限り、窓から灯りは洩れていない。


「早く、早く・・・早く見せたかったの。」


りり花がドアの鍵を開けて一足先に玄関に上がると、どんどん奥へ入って行く。
男があきらめた調子で後を追うと、居間にりり花の姿はない。

「こっちよ・・・」

声を頼りに奥のベッドルームを開けると、
クローゼット前に、りり花が嬉しそうな顔で立っている。
ベージュのワッフル地のカバーで、きちんとベッドメイクされた部屋は、
大人向けの落ち着いた雰囲気だ。

りり花が大仰にクローゼットの奥から取り出したのは、小ぶりのひらたい包みだ。
男の目の前で梱包材をはがし、もどかしげに包みを開くと
薄い褐色の画面に点々と花が咲き乱れる小さな絵が現れた。

男は驚いて、りり花をいさめる言葉を忘れた。

「これ、どうしたんだ?」

「驚いた?
 ちょっと、色んな手を使って手に入れたの。おとうさんは知らないわ。
 わたしが買ったの。あなたにとって大事な絵でしょ?」


この絵は20世紀初頭の画家が描いたスケッチで、
その画家の生涯を追う番組を企画し、初めてS社にスポンサーについてもらった。
S社はその後、ひそかに彼の作品を何点か買い進めている筈だ。

「これ、結婚したらこの場所に掛けたいなって思って。
 わたしがあなたに初めて会ったのも、この絵のおかげだったから。」

確かにこの画家の番組制作の過程で、
曽根社長や娘のりり花に会ったのだった。

冷静な判断力と果敢な行動力を自負している自分だが、
りり花にだけは甘くなる。

「りり花・・・。」

男は腕を伸ばして、りり花を抱きとろうとした。

「クラブに行くより、ここであなたにコレを見せたかったの。
 二人っきりで過ごしたかったの。だって中々・・・」

大きな瞳で語り続けるりり花の唇をふさいでキスをした。
濃いまつげの影がゆっくりと頬に落ちるのが、うす灯りでも見える。


りり、ごめん。
僕は・・・君にそぐわない男かもしれない。


キスが深くなり、久しく会えなかった二人が体をからめ合うと、
すぐ近くで砂漠のように広がっているベッドが誘い始める。

ベージュ色のうすいドレスがはがされ、じわじわと温もりが伝わり、
二人とも止まれなくなった。

何度目かのキスが肩におち、胸に落ち、横腹をたどってその先へ進もうとした時、
物音が聞こえた気がした。

自分に甘えかかるりり花を制して、男がそっと耳を澄ませると
確かに物音とかすかな話し声がする。

恐れていた事態に、男はぞっとして体がすくんだ。
この腕の中でとろけている、長い髪の姫をどうしよう。

焦ったまま、凍り付いたようにりり花を抱いていると、
閉じたドア越しにも、きれぎれに物音は聞こえてくる。

「ってくれ・・・ここに居てくれ。」

相手の声はよく聞こえない。

「君に惹かれているんだ。わたし・・知っているだろう?」

こんな会話を娘に聞かせるわけに行かない。
男は自分の腕で覆うようにりり花を抱きしめると、りり花が急に大きな目を開けた。

「・・・」

隣部屋の気配を感じ、耳を澄ませ、急に意味を聞きわけると、
腕の中から飛び出しそうにするのを、必死で男が止めた。

「待て!お父さんにだってプライバシーはある。
 今、飛び出すべきじゃない。」

りり花は自分の状態にも気づいたようだ。
黙って体を離して起き上がると、ドレスを直し始めた。

男も起き上がって服を整え始めると、またも隣から声が聞こえてくる。
つづいてドサッと言う音が響き、くぐもった声が聞こえてくるが、
言葉までは聞き取れない。

りり花は真っ青な顔でしばらく固まっていたが、さっと身を翻すと
ドアを開いて、隣の部屋に躍り出てしまった。

居間のソファの下に曽根の大きな体が黒いコート姿のまま、無様に倒れており、
半ば下敷きになった格好から、コート姿の倉橋が何とか這い出してきた。

「ほら、副社長、せめてソファでお休みにならないと・・・」

曽根の腕を取って起き上がらせようとしているが、
曽根の体はぐにゃりと力を失っている。

「副社長・・・副社長・・・」

倉橋は隣のベッドルームから現れた二人を見て、一瞬驚愕したが、
すぐに事情を解したようで、気を取り直し、

「森さん、申し訳ないけど、いっそ手伝って下さる?」

困ったような微笑みを浮かべられ、森は仕方なく傍に寄って、
ソファ下にひざまづいた。


「ほら、ソファに上げますよ。副社長・・・」

「う?誰だ、お前は?」

「森です。お嬢さんを送ってきたんですよ。」

「え?なんだって・・?」


曽根の視線はこちらに据えられているものの、ろれつが回っていない。

倉橋が手早くネクタイをゆるめていると、りり花がベッドルームから
毛布を取って来て、父の体に掛けた。

「夜分にどうも失礼しました。」

倉橋がりり花に頭を下げると、りり花も固い表情で応じた。

「父を送ってきて下さったんですね。ありがとうございます。」

「いえ、お足元があぶなかったので・・・。お二人がいてくれて助かりました。」

「偶然で・・」


3人に流れる空気は気まずかったが、森は倉橋の調子に合わせた。


「僕も今、帰るところだったんです。
 じゃ、りり花。しばらくお父さんについていて上げた方がいい。
 僕はこれで帰るよ。」

りり花はやや恨めしそうな顔をしたが、素直にうなずいた。

「父がご迷惑をおかけしました。おやすみなさい。」

暗い目つきではあったが丁寧に頭を下げると、
二人を部屋から押し出してドアが閉まった。

無言のまま、二人でマンションの外まで出、足を止めた。


「こんなところまで、お仕事熱心ね。」

「仕事ではありません。彼女は僕の婚約者です。」

「そうだったの?
 それはそれは、凄腕だわ。
 わたしのことは誤解なさらないでね。」

「誤解なんてしません。もちろん口外する気もありません。」

「食事をして、少し呑んで、酔っぱらったようなのでお送りしただけよ。
 そんな目で見ないで。」

「どんな目でも見ていません。お気にさわられたら、どうかお許し下さい。」


森が頭を下げると、倉橋はやっと面白そうに笑った。


「じゃ、タクシーを捕まえて下さる?」

「もちろんです。」

通りに出て、森があっさりとタクシーを捕まえると倉橋を見送った。

「おやすみなさい。お気をつけて・・・」

倉橋はおっとりと頭を下げ、そのまま車中に収まると
それ以上、森の顔を見ずに走り去った。




倉橋がタクシーを下りて、ようよう自分のマンション前にたどり着くと、

「おかえりなさい」

後ろから聞き慣れた声がかかった。
ぎょっとして体を固くした倉橋の前に、
近くに停められていた車から、黒い影が降り立つ。

「こんなところで何をしているの?」

ほっとしたと同時に腹が立って来て、知らずにきつい口調になった。

「すみません。声をかけずに黙って消えるつもりだったんですが」

こちらに歩み寄り、マンションの照明の下で顔をさらした。

「あなたが無事に帰ってくるのを、どうしても確かめたかったんです。
 お顔を見て安心しました。おやすみなさい。」

男がまた車に戻ろうとするのを「待って!」と手で制した。

芳賀真也が動きを停めて、倉橋を見ると

「めちゃくちゃ長い夜だったの。一杯付き合って下さらない?」

「いいんですか?呑むと帰れなくなりますよ。
 僕はとくべつ酒に弱いし・・・」

気が変わったら、それでも遠慮なく追い出すわ。

倉橋は自ら、助手席のドアを開けて乗り込むと、

「地下の赤い線に囲われたスペースが、ゲスト用の駐車場なの。
 案内するわ。」

真也はだまったまま、震える手でエンジンを掛けた。





「様子を見るのは構いませんが、ほんの少しだけですよ。」

綿貫がそらの病室にたどり着いたのは、深夜1時をまわっていた。
看護士に連れられて、そっとそらの病室に入る。

白い顔をしたそらが仰向けに寝かされていた。
頭には一重に包帯が巻かれ、左腕にはプラスチックのギプスがついて、
毛布の上に置かれている。

「そら・・・。だいじょうぶか、そら?」

小さく声をかけてみたが、そらからの反応はない。
意識があるときでさえ、敬遠されていた者の声ではダメなのかもしれない。

寝間着代わりにピンクのオペ着を着せられ、左袖から露出した腕に
赤いすり傷がいくつも見えるのが痛々しかった。

看護士が点滴の袋を替えて出て行くと、束の間、そらと綿貫だけになる。

そらは起きていてさえ、ほとんどしゃべらなかったが、
おとなしい一方ではなかった。
江田や加澤の言葉に、いつも黙ってくすくす笑っていたのだ。

綿貫は傷のなさそうな右手にそっと触れると

「悪かったな、そら。
 しばらくゆっくり休んでくれ」


言いおいて、照明の落ちた談話室に足を運ぶと、
ソファの端で腕を組み、壁に体をもたせながら、加澤が居眠りをしている。

そっと揺すり起こすと、

「医者は何て?」

加澤は、ぶるっと体を震わせ「すみません」と言いながら起き上がった。

「脳しんとうで、まだ一度も意識が戻ってません。
 それから、左手の小指を骨折してるそうです。
 とっさに手を着いたらしい。
 クソッ!あんの野郎・・」

「あいつはどうした?」

「さっきまで居たんですが、邪魔なので帰しました。
 聞き苦しい言い訳ばっかするんで、これ以上、顔も見たくないし・・・」

「江田には連絡が取れなかった。」

「出張中ですよ。案外、まだどっかのカラオケで歌ってるんじゃないですか?
 こっちではずっとそらに張り付いてますから、息抜きしてるんでしょう。」

「そうか。
 で、こんな時なんだが、来週、かつえさんが帰ってくるらしい。」


加澤が頭を抱えた。


「う〜〜ん、早く帰ってきて下さい、と、このところ、
 そればっか祈ってたんですが、こうなってみると逆になりましたね。
 こっちが仕上がってないと、必然的に森さんとこに持ってかれる。」

「そうとは限らない。
 もともとの担当はこっちなんだ。
 あっちは曽根副社長の力づくでゴリ押ししてるだけだから、
 このまま、何も変わらないかもしれない」


言いながら、綿貫自身、そんな可能性を信じていなかった。
かつえは挑まれれば受けて立つ。
森のプレゼンを見ずに門前払いすることはしないだろう。

この始末をどう収めようか、綿貫は迷っていた。



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