AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム 43 敗北

 

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月曜の朝、KAtiEの定例ミーティング前に男性用トイレへ入った加澤は、
背の高い姿が上を向いて、ていねいにうがいしているのを見かけた。

「あれ、綿貫さん、風邪でも引いたんすか?」

コップを持ったまま、ちらりと加澤に目をやった綿貫は、
軽く頭を振って否定を示し、口元をゆすぎ終わると顔を上げた。

「単なる予防だ。」

「へえ、用意周到ですね。風邪の季節も終わったのに。」


細長いシルエットが二つ並んで、ドアの外に出ると、
同じフロアの会議室へ入って行く。
中から長田と芳賀真也の声がした。

「・・・インフルエンザで、明日まで出勤停止だそうです。」

「インフル、この季節に?」

「41度まで熱が出たそうで、忙しい時に申し訳ない、
 皆さんによろしくとの事でした。」

「41度?大丈夫なのか。」

真也の問いかけに長田は答えるすべがないようだが、
二人とも深刻そうな様子だ。

「え?どなたがインフルエンザ・・・」

加澤が二人に聞こうとして寸前で思いとどまり、綿貫の方を見た。
スーパークールの表情はいつも以上に厳しいだけで、何も現れていない。

長田が広通組ふたりに気づくと、あいさつを交わし、

「美奈さんがインフルで倒れてるんですよ。」

「はあ、そりゃあ大変ですね。」

無言のままの綿貫に代わり、加澤が返事をしてから横目で隣を見る。
二人、先に席に着くと耳元でささやいた。

「インフルって、感染してから予防しても意味ないっすよ。」

綿貫が無表情を装いながら、殺しそうな視線を投げて来たが、
加澤は一向に平気だ。

「大丈夫なんすか?」「何が?」「病人ですよ。」

加澤のひそひそ声に綿貫がうなり声で答える。

「逆立ちするほど元気だ」さかだち??

聞き違いかといぶかったが、上司の表情がさらに険しくなったので、
このあたりで口をつぐむことにした。




ミーティング時刻が迫るのに、時間厳守がモットーのかつえ、倉橋共、
いまだ姿を見せない。

定刻を10分以上過ぎた頃、ようやく副社長の曽根が
倉橋常務と広通の森等を従えて入室して来た瞬間、
綿貫は自分の負けを悟った。

曽根は当然のように中央の席に着き、開会を告げる。

「おはよう、諸君、遅れて申し訳ない。
 早速議題に入るが、先日行われたKAtiEの秋冬プロモーションに関する
 プレゼンは、森くんの案で進めることに決定した。」

「よろしくお願いします。」

森と彼のスタッフが立ち上がり、KAtiE一同に一礼すると、
曽根と倉橋が拍手をし、あわてて営業課長も拍手に加わった。
曽根がにこやかに次の言葉を述べようとした時、

「決定って、どなたが決定を下したのですか?」

真也がにこりともせずに訊ねた。

「決める権限のある者たちが、双方のアイディアを検討の後、決定した。」

「そこにかつえさんは含まれるのですか?」

「もちろん含まれる。
 全員の意見が一致したわけではないが、全員で話し合った結果、
 そう決まったと言うことだ。」

それ以上の詮索を退けるごとく、曽根の口調は厳然としていた。

「綿貫案も良かったし、支持する者もいたが、もう決まったことだ。
 二人とも同じ代理店だから、引き継ぎにも何ら問題はないと信じている。
 いいかな?」

曽根は綿貫と森の顔を確かめるように見た。

「結構です。」

「では、引き継ぎの件はあとで。通常の連絡会を行いたい。 
 芳賀くんが進行係だったかな?進めてくれ。」

「はい。
 では、各店の売上報告を営業課長からお願いします。」

「え?えっと、はい。関西地区の売上から申し上げますと・・・」

各店の売上報告、新規出店オファーをよこした店名、
サンプルキットの数がぎりぎりで至急手配が必要、
雑誌掲載商品の在庫を厚くすること、
かつえと藤尾がメイクレッスンを行った店の売上が驚異的なこと。
その他、細かい連絡事項が続く。

「かつえさんは、本日、新作映画のプロモーションで来日中の、
 ハリウッド女優、キーラ・ジェニングスに同行し、
 明日以降も詰めきりとなるそうです。
 何でもかつえさん以外のメイクなら、来日キャンペーンに行かない、
 とまで言ったらしいですから。」

「一緒のところがTVにでも映ると良い宣伝になるな。」

「そうですわね。」

曽根と倉橋は楽しそうに皮算用をしている。

連絡会が終了後、曽根と倉橋はアポがあるとかで、
急いで部屋を出て行った。

真也が長田や他のスタッフと共に退室した後、
森がゆっくりと近づいて来た。

「おめでとうございます、森さん。」

「ありがとう。いや、俺の力じゃなくて、カルドロッシの実力だから。」

「でも、その彼を担ぎだしたのは、森さんの力でしょう?」

森はうすく笑った。もちろん、そんなことはわかっている。

「綿貫、急いでファイルその他の引き継ぎをしたいんだ。
 とりあえず、俺のアドレスに全部送ってくれるかな。
 で、全体の流れが確定するまで、加澤を借りて行きたい。」

二人が話している間、それぞれの部下が遠巻きにしていたが、
綿貫が加澤に目で合図すると、たちまち飛んで来た。

「お前、しばらく森チームでやってくれ。
 引き継ぎが終わるまでだ。」

「はい。」

加澤は返事をして、森に頭を下げた。

「よろしくお願いします。」

「ああ、引き継ぎが不完全だとクライアントに迷惑をかけるから、よろしくな。」
森は綿貫に向き直ると、

「じゃあ、後は汐留に戻ってからにしようか。」

「わかりました。」

森は会議室の後ろを向いた。
席を立たずに座ったままなのは、岩見そらだけだ。
ひじをついて窓の外を眺めている。

「そら」

綿貫が呼ぶとこちらを向いたが

「いや、いい」森が止めた。

「ウチには要らないから。」

そらにも森の無礼な言葉は聞こえた筈だが、なんの表情も見せず、
座ったままだ。
森が軽く手を挙げると部下たちがさっと寄って来た。
加澤はそらを心配そうに見て、森に続くか迷っていたようだが、
部下のひとりに合図されると否応もなく付いて行く。

「綿貫、4時に16階で。」

「はい。」

「まあ、しばらくは時間ができるだろうからな。頼むよ。」

言いおいて背中を向けると、部下たちを引き連れて部屋を出て行った。

残ったのは二人だけ。
綿貫がそらに近づこうとした一瞬早く、そらが立ち上がり、
小さな杖を頼りに移動を始めた。

「ひとりで先に帰れるか?
 俺は芳賀さんたちにあいさつして行きたいから。」

そらは黙ったまま、こっくりうなずき、綿貫の顔を見ないまま、
こつんこつんと部屋を出て行った。




企画のフロアに着くと、すぐに真也と長田が立ち上がった。
ちらとこちらに視線を流し、黙って打ち合わせルームに入って行くので、
綿貫も追いかける。

ドアが閉められるなり、

「綿貫さん、申し訳ない。
 こんな結果になるとは聞いていなかった。」

開口一番、ポケットに手を突っ込んだまま、真也が言った。
綿貫が頭を下げ、

「いえ、お詫びするのはこちらの方です。
 わたしの力不足で、この結果を招いたのですから。」

「いや、違う。
 かつえさん以下、僕も含めてKAtiE側全員が支持したアイディアが
 通らないなんて、あり得ない。
 せめて、かつえさんの口から経過を聞きたいんだが、今は難しい。」

「・・・・・」

3人しばらく無言で顔を見合った。

「綿貫さん」

「はい。」

「岩見そら案ですが、あちらはまったく興味ないようなので、
 もうしばらくの間、バラさずに保管しておいてもらえますか?」

「わかりました。」

「何か言われたら、僕からの指示だと言って下さい。」

「大丈夫でしょう。お気遣いありがとうございます。」

綿貫が頭を下げると、真也が唇を噛みしめた。

「こんな形でお別れするのは本当に不本意なんですが、
 今までいろいろとありがとうございました。」

「こちらこそ、お世話になりました。残念です。」

「何かわかったら、知らせますよ。」

綿貫は重ねて頭を下げると、あいさつをして部屋を出て行った。




代理店で仕事をしている以上、コンペでの勝ち負けはつきものだ。
どんな者でも負けた経験があるはずで、
打率と同じく勝率3割を超えたら上成績と言っていい。

綿貫もこれまで人並みにコンペで負けた経験はあったが、
担当しているクライアントを途中で下ろされる、
それも同じ社の先輩に蹴り出されるケースなど初めてだった。

かつえやKAtiEスタッフには支持してもらえたのだから、と
自分を慰めても仕方ない。
負ければ終わりで、そこまでに費やした時間、労力が全て無駄となる。
プレゼンでは、企画の独創性や完成度に加えて、クライアントの意図や、
最終決定権を持った者は誰か、という政治的読みも重要だ。

綿貫は今回その読みが甘かった、ということになる。
かつえに支持されても副社長でひっくり返されると考えていなかった。
最初から曽根にくっついて、好み通りに企画を作った森の完全勝利である。

広通の廊下を歩くと、色んな気配を感じた。
揶揄、同情、好奇心、装った無関心・・
いずれにせよ、森が社内の有名人である以上、
ほとんどが顛末を知っていると考えてよさそうだ。

席に戻ると、金髪の岡本がデスクにいて、綿貫を見上げた。

「お帰りなさい。帰ったら連絡するように言われています。」

「誰に?」

「中原部長に。」

あっさり答えて、社内用のピッチを取り出す。

岡本と指定された小部屋に赴くと、中原部長の他に、
江田と岩見そらも既に戻っていた。
相変わらず日に焼けた中原が口を切った。

「綿貫、ごくろうだった。残念な結果だが仕方がない。
 今後のことだが・・・」

そら作品をA倉庫に保管する。
資料その他を森チームに渡す際、必ずバックアップをとる、
などなど細かい指示が続いた。

「綿貫は引き継ぎの傍ら、とりあえず岡本と例のせんべい屋、
 それから江田の仕事を一本、助けてくれ。いいか?」

「はい。」

江田の顔に目をやると、うれしそうにウィンクを寄越した。
こんな時なのに背中がざわっとする。

「各自、連絡を取れるようにしておいてくれ。
 残念だが KAtiEチームは今日、ただ今を以て解散とする。
 お疲れさま。」

「お疲れさまでした。」

実にあっさりしたものだ。




「ったく、一時は勝てるかもって、思ったんやけどな。」

さっそく江田が寄って来る。

「わたしも責任感じるわ。
 だって、そらを推薦したの、わたしやもん。」

「そらのせいじゃない。
 そらのおかげで、少なくともかつえさんやKAtiEスタッフに
 認めてもらえるモノができたんだ。」

「相手があのカルドロッシだったからね。」

江田がにんまり笑って、肩をたたいた。

「まあ、へこんでても仕様がない。縁起直しにぱっとカラオケでも行こか?」

「そんな気分じゃない。」「あらら・・・」

「俺が担当するのは、どこのクライアントだ?」

「ああ、クライアントねえ。煎餅の和つながりで、漢方屋のお仕事ってどう?
 漢方、経験ある?」

「経験も興味もないが、確か、親が葛根湯を服んでいたかな。」

「今、若い人から年配の女性まで、お灸がえらい人気でね。
 そこの漢方屋の煙の出ないタイプがよう売れんのよ。
 で、そのアップデート版を新発売するのに・・・どないしたん?」

綿貫が眉を上げ、一瞬、笑ったように見えたからだ。

「いや、何でもない。灸は触ったことがない。」

「そう?まあ、こんな時に笑顔が出るって、ええことやけど」

ほら、見本。

江田が小さな箱を渡すと、綿貫が興味深そうに、
しげしげと効能書きを読むのを見て、いぶかしげに突っ込んだ。

「ねえ、綿貫くん、これはそんなに熱くないタイプだし、
 変なことに使うったってアカンよ。」

「変なことって何だ?」

「う〜ん、そやねえ。ソフトSMとか。」「・・・・」

江田は軽くからかったつもりが、綿貫が笑わずに、
却って熱心に箱を読み続けるので不安になった。

「あのさ、二人ですることに口をはさむ気はないけど、
 間違った使い方はあんまり・・・嫌われるよ。」

「使うと体調が良くなるんだろ?他にはないのか?」

「あるけど。香り違いでコレとコレ・・・」

「わかった。研究してみよう。」

サンプルを持って、さっさと移動しようとする背中に

「なあ。お灸の新しい使い方じゃなくって、
 新しいお灸の売り方やからね!」

綿貫はふりむかずに箱を振って、応えた。




インフルエンザから復帰した美奈は落ち込んだ。
引きこもらされている間に、決着がついてしまうとは。

でも、綿貫が負ける場面など見なくてよかったような、
最後まで見届けたかったような・・・、
あれこれ考えるとたまらなくなる。

美奈だけじゃなく、真也や長田の意気もあがらないが、
落ち込んでばかりはいられない。

「女性向けのイベントだ。
 参考になるかもしれないから、顔を出して来てくれないかな。」

真也から渡されたのは、酒造メーカーの女性向け発泡ワイン、
および日本酒の利き酒発表会だ。

「美奈さん、酒豪ですからね。
 僕が利き酒なんかしたら、途中から寝てしまいますよ。」

長田が笑うと、俺なんか一杯でぶっ倒れると真也がこぼす。
そんなわけで、大の男二人から手を振って送りだされた。

「行ってらっしゃい!」




だあれも知り合いのいないパーティは、さぞ退屈だろうと想像していたのに、
着いてみると、ホテルの会場にはきれいな色のワインや日本酒が
所狭しと並べられ、華やかな女性たちが楽しそうに試飲をしている。


「どうぞ、フルーツの香りがする発泡ワインです。」

入り口に立っていた若い男性から可愛いグラスを差し出されると、
つい笑顔で受け取ってしまった。

「何のフルーツですか?」

「どうぞ、当ててみて下さい。当たった方には賞品をさしあげますよ。」

にこやかに微笑んで紙を手渡されると、柄にもなくどきどきした。
そうっと含むと甘味がなく、切れのいい酸味。

何だろう?レモンかしら。

もう一度飲んでみると、青い実の柑橘系フレイバーが立ちのぼる。

わかった!これは間違えない。

美奈は渡された紙に「ライム」と書き込み、
ウキウキと次のグラスを受け取った。

それから何杯受け取っただろう。
テイスティングをするのがすっかり楽しくなり、一口飲んではじっと考えて、
紙に果物の名前を書き込む。

『ライム』『あんず』『メロン』『すもも』『キウイ』『・・・』

う〜ん、これは手ごわい?
ほんのり懐かしい甘味とかすかな渋み。
ああ、もう少しでわかりそうなのに。

目を閉じて味をころがしていると、近くで声がした。

「失礼ですが、KAtiEの小林さんではありませんか?」

目を開けると、あでやかな若い女性が微笑んでいる。
プレスセミナーで知り合った曽根りり花。
S社とKAtiEの副社長令嬢であり、TV局に勤める美女だ。

「わ、とんだところを見られてしまいました。」

「いえいえ、すごく真剣にテイスティングされてるんですもの。
 どれくらい試されたの?」

りり花は無邪気に美奈の手元を覗くと、大声で楽しそうに笑い

「あら、もう6杯も味見したの?お強いのね。」

美奈がりり花の手元に目をやると、持っている紙はまだ2枚。
ふたたび美奈は、握っているグラスの中身に注意を戻した。

「ここまでは比較的すんなりわかったんですが、
 今渡されたコレが難物で。」

「そうですねえ。」

二人とも目を閉じて、もう一度グラスの液体を味わってみる。
初夏の香りがして、オレンジ色の丸い実が浮かんだ。

「わかった!」

美奈がうれしそうに『びわ』と書き込むと、りり花が感心してうなずいた。

「確かに『びわ』の香りがする。美奈さん、すごいわね。
 ソムリエの才能とか、あるんじゃないかしら?」

「まさか。お酒は好きで、けっこう強いつもりだったのに、
 いろいろ恥ずかしい失敗もしちゃってて。」

「まあ、武勇伝をお持ちなのね。楽しそう・・・」

りり花が笑うと大輪の花が咲いたようだ。
あたりの空気がぱっと華やかになる。

「前にも言ったかしら?わたしKAtiEブランドのファンなんです。
 大きい声で言えないけど、父の会社のブランドよりずっと好き。
 だって可愛いんですもの。」

それに・・・

ぽっと、りり花の頬に赤味が差した。

「これは内緒なんだけど、今度、わたしの婚約者が
 KAtiEのプロモーション担当になったの。
 だから何だか、よけいに近しく感じて・・・」

恥ずかしそうに微笑む可愛さに紛れて、大事な点を聞き逃しそうになったが、

「え?」

思わず声を上げてしまった。
りり花は美奈を見つめ、小さくうなずいた。

「そう、彼は広通に勤めているの。
 今までずっとS社の担当だったんだけど、今度KAtiEをやるみたい。
 お会いになったことあるでしょう?」

「はあ、そうですね。」

我ながら間抜けな返事だと思ったが、仕方ない。
まさか自分の恋人が下ろされた代わりだと、りり花に言うわけにも行かない。

「ご存知なかった?」

「え、と、森さんが担当になるらしいのは聞きましたが、
 曽根さんの彼だとは知りませんでした。」

りり花がまた頬を染めた。

「そりゃ、そうですよね。」

「はい。」

「そういうわけで、ますますKAtiEブランドが好きになりそうなんです。
 またセミナーでお会いましょう。」

きれいな桃みたいな頬を輝かせて微笑み、
後ろを向いて去って行くりり花を、美奈はぼうぜんと見送った。





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