AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム 45 Jazz Night

 

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セッションの間に、ぽつぽつと誘われるように
店のドアが開いては、お客が入って来た。

ジャズメンたちは手を止めず、リハに集中している。
楽器はたった三つなのに、メロディとリズムが店の空気を縫って広がり、
いっぱいに満ちていく。

美奈は夢中だった。

テーブルひとつ先に、ブルーのシャツを着たピアニストが座って、
背中をぴんと伸ばしたまま、指先から魔法のように音を紡ぐ。
それに応え、奥のダブルベースが弦を揺らし、
ささやき、誘いかけるパーカッションの響き。

ああ、何て素敵なんだろう。

自分はジャズにくわしくないので、
ライブに誘ってもらった時から、うれしい反面、
知らない曲ばかりでノレなかったらどうしよう、と不安だった。

だが、セッションのリハを目にした瞬間から、
ワクワクして、じっとしていられないくらい。

「な・・・む?」
「・・・・」
「美奈、何を飲む?」
「え?」

ふりむくと、綿貫が苦笑していた。
すぐ側にウェイトレスの女性が立って、注文を待っている。

「2回聞いたぞ。」

「ごめんなさい。」

あわてて飲み物のメニューを開いて、ジンライムを頼む。
綿貫が何を頼んだかも、聞いていなかった。

リハを終えたらしいジャズメンたちが、カウンターで飲み物をもらっている。
いつの間に、周りのテーブルは客で埋まり、
カウンター席もぎっしり。
やや男性が多いが、カップルや女性もちらちら見えた。

「綿貫さんはいつも一人で来るの?」

「ああ、大体は。」

ふうん。

やっぱり自分は綿貫のことをあまり知らない。
ひとりでジャズバーに通っていることなど、初めて聞いた。

辺りを見回すと、お客はそれぞれ注文した飲み物を手に、
リラックスしながらステージを待っている。

へえ、こういう雰囲気っていいな。
わたしも一人で来られるかしら。

黒板の手書きメニューもおいしそうだ。
自家製角煮、砂肝のコンフィ、ピクルス&オリーブ、ポテトサラダ、
チョコ+ドライフルーツ+チーズの盛り合わせ・・・

お腹いっぱいで食べられないのが、ちょっと残念。

「お待たせしました。」

生ライムを使ったジンライムに、チョコ+ドライフルーツ+
チーズの盛り合わせ。

あれ?

「いつの間に頼んだの?」

「さっき。お前がぼうっとセッションに気を取られている間に。」

少し呆れた様子だったが、綿貫の機嫌は悪くない。
長い指で、琥珀色の液体が入ったグラスを取り上げ、

「乾杯だ」「何に?」
「ジャズに」「うん、賛成」

綿貫は顔をあげ、カウンターのマスターにも小さくグラスを掲げた。
マスターはにっこり笑って、グラスを上げ返してくれる。
やっぱり、結構通っているのかな。

ジャズメンたちが立ち上がると、ぐうっと照明が絞られた。
カウンターに置かれた木を通して光が漏れ、
天井に細かな葉影を作りだす。

ハットをかぶったヴォーカルの男性が、にこやかにあいさつをして、
今夜のプレーヤーを順に紹介した。

「それでは、最初はトリオで一曲。」

ヴォーカルが下がってカウンターにもたれると、ピアノが鳴りだした。
はずむような、スニーカーで散歩に出かけるみたいなリズム。

たちまち奥のドラムがすり足で合わせ、一緒に歩み始める。
かなり音が弾けてきたところで、ダブルベースが低音を刻み出す。
メロディが膨らみ、踊るようなトレモロが響き、ドラムが走る。

うわあ、すごい!
たった今、ここで音楽が生まれてる。

ピアノがラストの音を響かせて消えると、ハミングが聞こえてきた。

しゃがれた声、渋い容姿、片手でリズムを取りながら、
ヴォーカルが歌い始める。
古いブルースを喉からしぼり出すみたいに。

ヴォーカルが終わるとピアノ・ソロ。
どちらかと言うと細身の男性だが、指は力強くキーを叩き、
驚くほど華麗な音が鳴る。

ピアノの終わりにドラムが撫で始め、やがて思い切り炸裂。
ダブルベースを抱いたのっぽの男性のシルエットが奥の壁に揺れる。

セロニアス・モンクのスタンダード、
アメリカ古謡のジャズ・バージョンと続き、
ヴォーカルがにやりと笑うと、

「次の曲は『浮気はやめて』という曲です。          *
 浮気、やめられますか?」

驚いたことに、男性客の何人かとピアニストから「やめられない!」と
楽しげな答が返ってきたことだ。
思わず、すぐ後ろの綿貫を振り返ると、腕を組んだまま、何だ?
という風に片方の眉が上がった。

何だ?って、
綿貫さんも『やめられない』って答えたかどうか、知りたかったのよ。
美奈の様子をヴォーカルが見とがめて、わはは・・と楽しそうに笑った。

じゃ、聞いて下さい。

軽快なピアノとヴォーカルの掛け合いから始まり、
力強いヴォーカルが止まるとすぐ、ドラムとピアノの音が響きだす。

綿貫の耳に口元を寄せて、そっと聞いた。

「知ってる曲?」綿貫は軽くうなずくと
「デューク・エリントンのスタンダード」ささやき返す。

そうなんだ。
覚えておいて、帰ったら歌詞を探してやろう。
それにしても楽しい曲じゃない。

気がつくと自然につま先でリズムを取っている。
美奈だけじゃない、隣の女性は体ぜんぶを揺らして聞いている。

さらに2曲ほど演奏して、ファーストステージは終わり。
少し休憩してから、セカンドステージを演るらしい。

氷が溶けて少し薄くなったジンライムを飲む。
おいしい。ドライいちじくをつまむ。おいしい。

綿貫が笑いをこらえているような顔で、こちらを見ている。
瀬尾の戒めもジャズの響きでどこかへ飛んでしまった。

「気に入ったか?」「うん、すごく。」

チーズをつまみながら答える。う、おいし!

「演奏のことなんだが。」「もちろん、そのつもりよ。」

うなずきながら、さらにチョコレートもつまんだ。
わ、ビターだ。

「いいなあ。」

「何が?」

「あんな風に自由自在に弾けて。
 どんな球でも受けては投げ返す野球選手みたい。」

「は、うまいこと言うじゃないか。」

「ジャズって、CDとかTVとライブでは、まったく印象がちがうのね。
 すぐ目の前で音が生まれてくる感じがすごい。」

美奈の言葉に、綿貫が微笑んだ。

「ああ、そうだな。」

カウンターに目をやると、ピアニストやヴォーカルにサインをねだる人、
隣に座り込んで話を始める人も。
ドラムとベースは知り合いらしい客のテーブルで、話し込んでいる。

マスター始め、カウンターの中は大忙しだ。
休憩中に飲み物や料理を注文する客に応えている。

「次は何を飲む?」

見れば綿貫のグラスも空になっていた。

「今度は赤ワイン。ゆっくり飲んでも薄くならないから・・」

綿貫も軽くうなずいて、注文を通してくれた。

セカンドステージもモンクから。Reflectionsって有名な曲らしい。
そんなことは知らなくても、渋くてしびれる。

綿貫がどんな顔で聞いているのか、見たくなってふりむくと、
腕を組んでじっと集中している。
何度か顔を見ると、頭をぐりっと前に戻された。

ピアニストの手から立ち上る音符が、目に見えるよう。
自由なのに揺らがないピアノ。
すごくかっこ良くて、見とれる。

「・・・それじゃ、ここで甘いバラードをひとつプレゼント。
 気に入ってもらえますように。」

渋い声で流れて来たのは、聞き覚えのあるバラード。

これって・・・?

綿貫が初めてバーに連れて行ってくれた時に流れて来たメロディ。
これでジャズが好きになり、聞き始めたのだった。
CDも買い、歌詞を少し覚えている。

♪君を想うだけで僕の心は歌い出す

 春の翼に乗った四月のそよ風のように

 君は輝きに包まれている 

 僕の愛するたった一人の人

 My one and only love・・・・            **

あの時から、いろんな事がずいぶん変わってしまったのに、
こうして今夜は、あの時一緒にいた人と聞いている。

急に涙がこみあげて来そうだったが、ガマンした。
せっかく優しいラブソングを歌ってくれているのに、
涙で応えては申し訳ない。
そう思っているのに、じわっと来て鼻水まで出そう。

あわてて、バッグをかき回してハンカチを探していると、
すっと手の中に握らされた。

あ、ありがと・・・

ほんのちょっと振り向いてうなずき、目元を押さえる。

ピアノの音がタラリン・・と小さく鳴って曲が終わると、
拍手が鳴り、それに応えたヴォーカルが美奈を見て、

「おお、sweet lady、泣かないで。」

こちらに近寄って、軽く肩をたたいてくれた。

ごめんなさ・・・ありがと、
ステキな曲なのにごめんなさ・・

うまくしゃべれなくなってしまったので、ハンカチを持ったまま、
もう一度、思い切り拍手をした。
ヴォーカルが軽く手を挙げ、にっこり笑ってくれた。

「では皆さん、残念だけど、この曲でお別れです。」

ラストナンバーは、美奈も知っている曲だった。

I was dancin’ with my darlin’
To the Tennessee Waltz・・・

生で聞く「テネシー・ワルツ」は、甘くて悲しくて、ズンと響いた。
きっと長い間、いろんな人の胸をきゅんとさせてきた曲なんだろう。

「それでは、おやすみなさい。」

わあ、ステキだった。
完全に曲にはまりこんでいたので、一瞬、自分がどこにいるのか、
忘れてしまった。
綿貫の姿を見て、びっくりしたくらいだ。

「どうした?」

「え?あ、あの・・・ネクタイ外してたのね。」

「ああ、ここでは要らないからな。」

カウンターで、ピアニストがおいしそうにワインを飲んでいる。
ヴォーカルはビールのジョッキを空けていた。

美奈も残りのワインをゆっくり飲み干す。
綿貫のグラスはすでに空だ。

綿貫はゆらりと立ち上がると、カウンターのマスターのところへ行った。
何を話しているのか、ここからではよく聞こえない。
ただ「めずらしいな」というマスターの声が聞こえて、
そっちを向くと笑いかけてくれていたので、軽く頭を下げる。

「また、おいで。」

「はい。また伺います。」

優しそうな人だ。




店を出ると、いよいよ夜は更けて、
外はさっきよりさらにディープな空間になっていた。

狭い小路を足下をよろめかせた人が通り過ぎ、
どこかの店へ、ふっと消えて行く。
先ほどは目立たなかった風俗店に灯が入り、
入り口前に、目つきの鋭い客引きが待ち構えていた。

珍しくてキョロキョロ見回していると、男性グループとすれ違った。

うっ!

すれ違いざま、お尻と脚をさわられた。
無遠慮な手触りにぞっとして振り返り、相手をにらみつける。
3人連れのひとりが、美奈の視線を感じたのか、
振り向いてニヤニヤ笑う。

ビジネスマンと言うより、もう少し危ない匂いがした。
無法で確信犯的なやり口も。

「どうかしたのか?」

足を止めて振り向いている美奈のところへ、
ほんの少し、先を歩いていた綿貫が戻って来た。

「・・・・」

「美奈?」

「なんでもない。」

その返事にまた相手はニヤリと笑った。
悔しいが仕方がない。綿貫をこんな連中に関わらせたくない。
こんな格好をしている自分も悪いのか。

「美奈?」

「いいの、行こう」

急にきびすを返した拍子、わずかによろめくと、

「あぶない」

美奈をつかまえ、歩きながら綿貫が肩を抱き寄せて来た。
今までこんなこと、一度もしてくれなかったのに。

どうして?と、腕の中から顔を見上げたが、いつもと同じ表情で
前を向くばかりで、目を合わせようとしない。
ゆっくり二人で歩くうちにも、次々と酔っぱらいとすれ違い、
その度に抱き寄せられる力が、ほんの少し強くなる。

わたしに触れたいんじゃなくて、触られないようにしてるのね。

この人は、いつもそうだ。
甘えたくて腕を組んでも外されてしまうが、
歩けなくなったり、弱っていたりすると支えてくれる。

ぴったりくっついている胸のあたりから、
綿貫の匂いとコロンが香って来た。
あたりが酔っぱらいだらけの飲み屋通りだって構わない。
やっぱり、メチャメチャうれしい。

美奈の心の声が聞こえたみたいに、さらにぎゅっと抱き寄せられた。
なんだか、優しすぎる。

「綿貫さん・・・」

頭の上で視線がこっちへ向いたのを感じた。

「どっか行っちゃうの?」

一瞬、力が加わる。酔っぱらいとすれ違ったせいじゃない。

「なんでそんなことを言う?」

「だって、いつもより優しいんだもの。」

「・・・・・」

「どこへ行くの?」

「明日の朝一番で大阪へ。」

「戻ってこないの?」

ため息が聞こえた。

「2泊3日の出張だ。」

呆れた返事に肩から手を離してしまいそうな気がして、
わざとよろめくと、すれ違う女性二人連れにぶつかりそうになった。

「すみません。こら、ちゃんと歩け。」

「・・・・綿貫さん。」

顔は前を向いたままだ。
飲み屋通りの延々と続く迷路も、
終わりが近くなった感じがして寂しい。

「今日は幡ヶ谷に連れて行ってくれないの?」

「明日は始発の新幹線だから無理だ。
 お前もこの格好で会社に行けないだろう。」

「あら、行けるわ。ブラウスだけ替えれば。」

「それより、ボトムを替えろよ。」

「ストッキングを替えるもん。」

綿貫は立ち止まった。
昔の映画ポスターをべたべた張った店で、
薄暗い陰になっている。
美奈に向き直って、正面に立った。

「なあ、似合ってるのは認める。
 だがお前がその格好で通勤電車に乗ると思うと、
 俺の心臓に良くない。人気のない始発電車でも同じだ。」

「・・・・」

「今日は美奈の家まで送って行くよ。」

さあ、と声がかかり、再び肩に手がのって急かされると
つい言葉がこぼれた。

「おしゃれして来たのに。」

「・・・・」

「ちょっと大人のムードをねらったのに、
 家に帰されるなんて、効き目がなかったんだわ。」

「じゅうぶん、効き目はあった。
 連れて帰って一晩中眠れない、なんてのは困るから帰すんだ。」

「適当なこと言って。
 もっとずうっと一緒にいたい。
 あなたのいる所なら、どこへだって行くのに。」

「・・・・・行こう。
 送って行く間は、ずっと一緒だろう。」

頭を振って、べそべそする。

ああ、我ながら嫌になる。
瀬尾にするな、と言われたことを、結局、全部やらかしてるみたい。
すねない、焦らない・・他に何て言ったんだっけ?
だから、男ひとり陥落させられないのだ。

飲み屋通りはついに終わって、駅に着いてしまった。
魔法がさめたみたいに腕が離れて、改札を通る。

別にまだ終電でもないのに。

うらめしい気持ちをこもらせて、ずるずる歩く美奈に
綿貫も付き合ってくれた。

日曜深夜の電車は、ガラガラにすいていた。
並んで座ると綿貫の腕に少し頭をもたれさせる。

不意に思いついて、ぴょんと座り直す。

「ねえ、あのMy one and only loveって、
 ひょっとして綿貫さんがリクエストしたの?」

「・・・偶然だろ」

そうなのね。

「うれしい、ありがとう。」

腕に手を絡ませて、ぎゅっとくっつく。
ぬくもりが感じられるまで。あなたの匂いがするまで。
身を引こうとする気配に、余計に力を入れる。

「お前、何を焦ってるんだ?」

反対の手でぽん、と頭を撫でて、こっちを覗き込んでくれてるのが
わかったけど、放してなんかやらない。

このまま、家に着かないといいのに。








*  “Don’t Get Around Much Anymore” (浮気はしないで)
** ”My And Only Love”(5話で紹介)







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