AnnaMaria

 

琥珀色のアルバム番外  白い夜の記憶1

 

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「あらあ、寒いと思ったら、みぞれになっているわ。
 雨より始末が悪いわね・・・」


ホテル入り口近くの臨時クロークで、お預かりした荷物を渡していると、
お客様のそんな声が聞こえてきた。



12月の雨。

今朝からずっと冷たい雨が降っていて、先ほどからみぞれに変わったらしい。


今日は、かおりの働く海外ブランドの輸入商社が年に2回行う、お得意様特別セールの日で、
扱う品目は高級腕時計、化粧品、小物類から、スポーツ用品までとかなり幅広い。

毎年、クリスマス直前の週末にかけて
銀座のホテル2フロアを借り切って行われ、
悪天候にも関わらずたくさんのお客様が来て下さった。

セール自体は3時で終了し、今まで売り場になっていたところでは
商品を片付けて、会社や倉庫へ戻す作業に追われていることだろう。

今回はクローク係だったので、お客様の抱えている紙袋の数で、
それとなく今日の売り上げ予想がつく。

昨日の初日に比べてまあまあと言うところだろうか。



「幸田さん、もう大体のお客様はフロアから出たと思う。
 ここももう少しだからね。」


会場では紳士用品の売り場を担当していた黒川が、
クロークの方へ寄ってきてそう教えてくれた。

だったら、それほど遅くもならず、ここを出る事ができそうだわ・・・

かおりの心はもう、ここを出た先に飛んでいた。


「売り場の片付けに行かなくても大丈夫でしょうか?」

「ああ、ほとんど商品がなくなっちゃったし、残りはどんどん梱包しているから。
 それより、この後、予定ある?
 飯でもどうかと思ったんだけど。」


黒川はちょっと声をひそめるようにして、かおりに言った。

そんなことをしたって、クロークにいる他の人にはどうせ聞こえてしまうのに・・・。

そう思うと、黒川の無邪気さが少しおかしかった。


「すみません。わたし、この後、約束を入れてしまったんです。」

「そうか、残念だな。じゃ、また今度!期待してるよ。」


黒川はあっさり引き下がると、ロビーの雑踏に消えて行った。




片付けを終えてホテルの外に出ると、確かにみぞれ混じりの冷たい雨だった。

12月の銀座通りはあちらこちらにクリスマスのイルミネーションが灯って、
とても華やかな筈なのに、みぞれのせいで、人々は傘の中で身をすぼめ、
きらめくショーウィンドウを横目に足早に通り過ぎるだけだ。

だが、かおりにはみぞれなど全く苦にならなかった。

トレンチコートの上から真紅のストールをしっかり巻き付けて、
衿もとから寒さを追い出すと、手袋はわざとしないで傘をさし、
目指す場所へと飛ぶような足取りで歩いて行く。



その店は銀座の表通りから外れたところに古くからある喫茶店で、
時折、あるじのおばあさんが見事な銀髪を結い上げて出て来る事があるが、
普段は息子らしい、無口なマスターが、
ていねいにネルドリップで煎れたコーヒーを出してくれる店だった。

冬の夕刻、こうして外が真っ暗になると、ガラス窓に店内の様子がうかびあがる。

窓越しに、店の柔らかい照明の中に座っている男の姿を見ただけで、
胸がいっぱいになってしまう。

すぐには店に入らず、しばらく店の外の舗道に立って彼を眺めていた。

タートルネックのトップを着て、コーヒーを飲んでいる横顔。
手元に本を開いてはいるが、今は文字を追わずに店の中のどこかを見ているようだ。


どうしてこんなに好きなのだろう。

思いはつのって、もう自分でもどうしようも無いくらいなのに、
会える時間は逆にどんどん少なくなっていく。

今日会うのは、実に二月ぶりのことになる。


かおりはようやく店のドアを開けた。
窓際の席にいた綿貫がふりむいて、自分を認めたのがわかった。


「直人、待たせてごめんなさい・・」

「いや、俺が勝手に早く来ただけだ。思ったより早かったな。」


かおりはコーヒーを頼み、
綿貫はテーブルの上の読みかけの本を閉じた。


「昨日すごくたくさん売れて、あんまり今日の品物が残っていないくらいだったの。
 後片付けを手伝う必要がなかったから、助かったわ。」

「忙しかっただろう。もう慣れた?」

「そうね、今年の入社研修が終わるとすぐ、6月のセールだったから。
 2度めだと、大分勝手がわかってるわ。」

「そうか・・・」


かおりの返事にほんの少し微笑んだ顔が、
この二ヶ月ほどで随分痩せてあごがとがったように思う。



幸田かおりと綿貫直人は同じ大学の広告研究会に属し、年齢は同じだったが、
学年はかおりが1年上で、今年卒業して先に社会人となった。

直人は昨年、3年生の時、自分の主催するゼミで、
大手広告代理店の学生広告論文に応募し、
グループとして、3位に入賞した。

4年生になった今年の夏休みには、その大手広告代理店にアルバイトとして
仕事に行き、すでにオンザジョブトレーニング(OJT)を始めている。

さらに9月頃から、今度は同じ学生広告論文の個人の部への応募を目指し、
テーマを絞ったり、データを集めたり、資料を検索したりした上、
何度も書き直して論文作成にあたり、今月初めにようやく応募を済ませたところだった。


「今年の広通賞の発表はいつ?」

「2月の下旬。そこで入賞してから来い、なんてあっちから言われている。」

「だって、去年3位取ったから、OJTをさせてくれているんでしょ?」

「そうだが、できれば個人で入賞して入りたい。
 この3ヶ月、あの論文にかかりきりだったから。」


痩せて顔つきがますます鋭くなったようだが、今の眼差しは穏やかだ。


「飯を食いに行く?」

「ええ、そうしたいわ。」

「何がいい?」

「温かいものがいい。外を歩いてきてすっかり冷えちゃったから・・・。」


かおりが両手をこすり合わせるようにすると、


「貸してみろ。」


と言って、直人がかおりの手を取った。

大きくて指の長い繊細な手のぬくもりが、冷えきった手に伝わってきて、
かおりは一瞬、陶酔したような気分になる。


「いい気持ち・・・」


目を閉じて、じっとしているかおりを見ながら、


「何で手袋をしないんだ?」


また目を開いて直人を見つめると、少しだけ笑った。


「好きじゃないの・・・」

「こんなに冷たくなるくせに。」


直人の呆れたような声を聞きながらも、心の中でつぶやいた。


だって、あなたがこうして温めてくれるかもしれないから・・・



「じゃ、行く?」


直人がテーブルの本を取り上げたのを見て、かおりは慌てて制した。


「待って。渡したいものがあるの。」


かおりはバッグの中から、黒い包み紙にシルバーのリボンをかけた箱を取り出して
テーブルに置いた。


「今週、クリスマスだけど会えないみたいだから・・・」


なるたけ、恨めしく聞こえないように言ったつもりだった。


「開けてみて・・・」


直人は手に取るのを一瞬ためらったようにも見えたが、
長い指でていねいにリボンをほどき、包み紙を開け、中の物を取り出した。


「これ?だけど・・・」


目の前に現れた、海外ブランドの黒いスポーツタイプの時計を見て、
少し驚いているようだった。


「直人に絶対似合うと思って、ずっと前から頼んでおいたの。
 社内割引だから、驚く程安いのよ。だから心配しないで受け取って。」


彼が突き返しはしないかと、少しハラハラしながら、かおりが言った。

直人はしばらく黙って時計を眺めていたが、やがて


「ありがとう、かおり・・・」


そう言って微笑み、その場でそれまで嵌めていたメタルの時計を外し、
かおりの贈った時計を嵌めてくれた。

それだけでもう、心がじんじんするくらい嬉しくなった。

わたしの思いが少し、あなたに届いたみたい・・・。

彼の手首にはまって、袖口から顔を覗かせる黒い硬質な時計に嫉妬さえ感じた。





食事は、昔からある老舗の洋食屋に行った。

ふだんの夜なら、行列ができることもあるくらいだが、
みぞれという悪天候のせいで、店の中はぐっと空いている。

熱々のカキフライに、昔風に煮込んだシチュー。
刻んだキャベツにアスパラガスのついたサラダ。

どこか懐かしいメニューを食べているうちに、すっかり体が温かくなった。



あと4日もするとクリスマスだ。

クリスマスに会って、一緒に食事をして、プレゼントを交換して・・・
などという決まりきったデートを彼が好む筈がない。

普段から、そういった横並びの行動をとても嫌っているのを知っている。

その上、今年のクリスマスはOJTに行っていた、
広告代理店主催のパーティに顔出しをするように言われたらしい。

パーティ自体は苦手な彼だが、自分の進もうとする世界が見える機会を逃す筈はなかった。


「パーティはどこでやるの?」

「表参道の○エスト。芸能人やらモデルまで来て、結構華やかにやるらしい。
 逃げないでちゃんと来い、と代理店の上の人に言われてしまった。」


少し憂鬱そうだ。眉の横が軽くひそめられている。


「これからの事を知る、良いチャンスだわ。ぜひ、行ってくるといいと思う。」

「ああ。」


ふとかおりに目を向けると、


「かおりはどうするの?」

「イヴは姉が子供を連れてくるって言っていたわ。
 うちの親達が随分前からプレゼントを用意して楽しみに待ってるの。

 もしかしたら、夜は母と教会に行くかもしれない。
 クリスマスくらいしか顔をださなくて申し訳ないけど。」


かおりは中学、高校とミッション系の女子校に通い、
母のすすめもあって、教会や賛美歌には親しんでいた。


「そっちが正しい過ごし方だな。
 俺はほとんど知らない人間の中で、ばか騒ぎを見るはめになりそうだ。」

「パーティは色んな人に会うためでしょ?
 新しい出逢いがあるっていいことじゃない。」


引っ込み思案というのとは全く違うが、初対面の人間に会うのを、
直人が少し苦手にしていることはかおりも知っていた。


いつか、この人とクリスマスを過ごせる日が、来るのだろうか・・・。


出会ってから、付き合い始めてからも、どこか一方通行の恋。
だが、それは自分が望んだことだ。

かおりはそれまでずっと、自分はプライドの高い女だと思っていた。
自分から相手に「好き」と告白するなんてあり得ないだろうとも考えていた。
彼に会うまでは・・・。

この青い、鋭い、潔癖で生意気な下級生。
どうしてこんなに惹かれたのだろう。
年下の男の子だと思っていたら、ある時彼から「同い年だよ」と切り返された。

直人と付き合い始めてからも、かおりに言いよってくる男は何人もいた。

特に1年上の木下先輩、直人と同じように優秀でリーダーシップがあり、
一見豪放にみんなを引っ張っていくタイプに見える。

しかし、木下が皆から見えない所で細かく気を使っているのを、
親しい者は知っていた。


かおりが3年生の時、飲み会の帰り道に一緒になり、
「ずっと好きだった」と告白された。

「何であんなに青くて、尖っている奴がいいんだ。
 あんな奴は絶対、かおりを幸せにしてくれる筈がない。
 お前の方をちゃんと見てさえいないじゃないか。 
 あいつのお前に対する態度に我慢がならないんだ。」


怒ったような調子で言うと、かおりの手を引き寄せ、強引に口づけをしようとした。
だが、手を振り払って、静かに目を見つめ返すだけで止まった。


「俺ではダメか?」


かおりは黙って、木下の顔をまっすぐ見つめたまま、首を横に振った。
木下は大きなため息をついた。


「そうか。だが、俺も本気なんだ。それを忘れないでくれ。」


去っていく大きな背中を見ながら、他の友達からも何度も言われた言葉を思い返した。


「何故、あいつがいいのか?」

「どうして、そんな風にされて黙っているの?」


そんなこと、わたしにだってわからない。

でも彼を見ているだけで、わたしがどんなに幸せかも、この人たちには決してわからない。

見つめずにはいられない。
皆の輪の中にいるときも、ゼミで議論をしている時も・・・。

それを許してくれているだけで、直人のような男にとって、
どんなに負担なのかもわかっているつもりだった。

でもそれだけは、どうしても止められない。




「もう寒くない?」


直人の声が自分に問いかけている。


「ええ、お腹いっぱいで暑くなったくらい。
 少し汗をかいちゃった・・・。」


かおりはそう言って、自分のほてった頬に手を当てた。


「ワインのせいかしら?」


自分の顔が赤くて間抜けに映っているのじゃないかと心配になった。

直人はかおりを見たまま、ほどけるように微笑んだ。


「今日は送っていくよ。」

「ありがとう。でも、このまま雪になると電車が止まるかもしれないから。
 わたしは大丈夫よ。」

「いいさ。帰れれば・・・」


直人はコートを取り上げて、立ち上がった。

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