TV局の廊下を歩いていると、
向こうから帽子をかぶった若い女性が、急ぎ足で歩いて来る。
水色のキャスケットだ。
すれ違おうとすると、
「あっ!」と声がしたので、
思わず、振り向いた。
「綿貫さん・・・?」
と声をかけられた。
まじまじと相手を見直したが、まるで思い出せない。
見れば、洋服のはみでた大きなバッグを抱えている。
「失礼ですが、どちらでお会いしましたか・・・」
すぐ前の女性の目がぐんと大きくなり、
「あたしがわかりませんか?」
答えると、さっとキャスケットを脱いだ。
豊かな栗色の髪が滝のように流れ落ちる。
あの時の彼女、夏希だった。
「ああ、すっごく会いたかった。
うれしい!この日をずっと夢に見てたの。」
バッグごと抱きついてきそうな勢いだったので、
慌てて、一歩後ろに下がる。
「どうして俺の名前を知ってる?」
うふふ・・
「実はあの時、綿貫さんがタバコ吸いに車の外に出た時、
車に残ってたジャケットから名刺入れがはみ出してて、
一枚、もらっちゃったの。
だから知ってた。
代理店の広通に電話して、連絡しようと思えばできたけど、
そうしてもきっと逢ってくれないだろうと思って、
連絡しなかった。
もう2年も経ったって、知ってる?」
「あきれた奴だな。」
彼女の大きな荷物を見直して、
「今はスタイリストの卵なのか?」
「うん。週3〜4回、プロのスタイリストについて、アシやってる。
あとね、他にちょっと雑誌モデルもしてる。
こっちは大したことないんだけど・・・。
でも、ひとのスタイリングで、
雑誌の撮影現場を体験できるってすごく勉強になるから、
どんな仕事でも断らずにやってみてるんだ。」
「で、どっちがやりたいのか、決まったのか?」
「スタイリスト。それはおんなじ。
でもモデルもやってみたい。それも同じ。
だから両方やってる。
でね、スタイリストのときは、こうやって帽子かぶってるの。」
夏希が手にしていたキャスケットを、ぱさぱさ、と振った。
「そうか・・・」
「ね。デートして。」
「え、なんだと?」
「だって、君は君の世界で頑張れって言ったじゃない。
そしたら会ってくれるって。」
「わからない、と答えた筈だ。」
「なんだ、覚えてるのか。
でもいいや、あたしのことも忘れてないってことでしょ?
あのときと違うあたしだよ。もう迷惑かけたりしません。
だからデートして・・・ね?」
二人で話している後ろに、いつのまにか加澤がやって来ていた。
綿貫の傍らにいる夏希に目を留めると、
「あれ、こちらはどちらのお知り合いですか?」
夏希がていねいに会釈をして、自分の名刺を取り出した。
「初めまして・・・。
スタイリストのアシスタントやってる二宮夏希です。
綿貫さんのファンなんです、よろしくお願いします。
これ、名刺です!」
「あ、はあ・・・」
加澤も名刺を渡すと、夏希の顔がほころんだ。
「うふ!うれしい。加澤さんの名刺を頂いちゃった。」
「え、僕の名刺で、こんな可愛い人に喜んでもらえるんですか?
でしたら、何枚でも・・
あ、何なら綿貫さんのメアドとかも、あとでこっそり教えますから」
「おい!」
「うふ、そのうち、お願いするかもしれません。」
夏希がうれしそうに舌を出した。
加澤が調子に乗る。
「そのくらいなら、お安い御用です。
このスーパードライ、なかなか難攻不落ですから、頑張って下さい。」
「余計なこと、言うな!」
あはははは、と夏希の明るい笑い声が響くと、
夏希がぱっと綿貫の左手を取り、てのひらをひっくり返す。
小指から手首にむかって、うっすらと斜めに走る傷跡が残っている。
夏希が綿貫の顔を見上げた。
「これ見ると、あたしのこと、思い出した?」
「ああ、ちんぴらの横っ面を張っていた顔とかな・・・」
うん、もう!もっと別のこと、思い出して欲しかったのに。
でも、いいわ、うれしい!うふふふ・・・
夏希がまた、首を傾けて笑った。
「これ、あたしの名刺!」
元気よく差し出されたのは、写真入りの名刺だった。
「スタイリスト」と肩書きがふってある。
「お返しにあなたのも下さい!」
仕方なく、一枚渡してやる。
やった!もう、最高!
うれしそうに名刺を振り回している。
「じゃあ、綿貫さん!
仕事中だから、もう行くけど、
また絶対にお会いしましょうね!」
大きなバッグをかつぎ直すと、
手を振ってTV局の廊下をかけていった。
夏希の姿が見えなくなってから、
「『・・・デートして!
わたしのこと、忘れてないでしょ?』」
加澤がめずらしく、からかうように夏希のせりふを繰り返した。
「ったく、綿貫さんてば、あんな若い女の子にまで手を出して・・・」
「偶然に、一度、逢っただけだ」
「一度しか逢ってないのに、『会いたかった!デートして』ですか?
ちぇ、いいなあ。」
「お前、今日はしつこいな。」
「僕だって絡みたくなる時があるんですよ。
『デートして!』
今度は僕から言ってみようかなあ・・。」
加澤は何か別のことを考え始めたようだった。
綿貫はため息をつくと、手にした名刺をそっと
名刺入れにしまい込んだ。
<了>