AnnaMaria

 

おそるべきマリア 2話

 

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モンマルトルの僕の部屋は冷たい。
この部屋に入った女と言えば、下宿屋のおかみだけだ。

僕は仕事場となった新しいカフェに、朝から入り浸りだったから、
この部屋にいるのは、眠るときと作曲する時だけ。


その日は作曲をしていた。
僕の受けた音楽教育は甚だ中途半端で、学校では誰も僕のピアノを褒めてくれなかったが、
ここでは、僕の曲を面白がってくれる友人ができた。

芸術とか、文学とか、音楽とか、なんだか新しいものに飢えていたんだろう。
目新しいものをくわえこんでは、皆で何だか進歩した気になっていたんだ。

パリには、あっちこっちからそういう流れ者が泳ぎ着いてきて、
頭の中は野心と夢でいっぱいだが、胃袋と財布は空っぽという若者がゴロゴロしていた。

そんな中、僕のピアノを面白がってくれた友人のお陰で、
カフェのピアノ弾きの仕事が得られ、まれに作曲の仕事が舞い込むときもあった。



一人でピアノを弾きながら、楽譜に書き写していると、
ドアが開いて、君が立っていた。


「こんにちは。新しい曲はできた?」


そんなことを言いながら、ちょっと笑って部屋に入って来るとコートをとった。
今日の君は、のど元まで詰まったドレスを着て、
なんだかどこかの貞淑な夫人のようだった。

僕のちょっとがっかりした視線を受けて、
面白そうに黒いはっきりした眉を上げると、


「ああ、これ?ちょっと役所の方に行かなければならなかったのよ。
 だから、こんな風にお固い服装をして行ったの。でも、もう終わったわ。」


君はピアノに座っている僕の側に来て、面白そうに覗き込むと、


「おたまじゃくしも、並び方で何だか芸術的に見えるわね。
 ね、聞かせて。うっとりするやつを・・・」


そう言って、僕の肩に手を置いた。

僕の肩が、そこから火がついて燃え出したように熱くなったが、
わざと我慢して、そのままピアノを弾き続けた。



「何だか、あまり聞いたことがないような感じの曲だわ。
 雨の日に窓の外のしずくの音を聞いているみたい・・・。
 何て言う曲?」

「『寒い夜にクリームをなめる』って曲。」

「え?変な題名ねえ・・・」

「『柔らかいクリームのくぼみ』でもいいかな。」

「どういうこと?」


僕は、ピアノから立ち上がって君の顎に手をかけ、上を向かせると、
その強い視線に負けないように目を閉じて、くっきりした赤い唇を吸った。


「君のお尻の上の方にあるえくぼの歌なんだ。」


君の唇からほんの少しだけ唇を離して、君の息を鼻先に感じながら、そう囁いた。


「また見られるかな。でないと、曲が完成しない・・・」


君を腕の中に抱き寄せて、なめらかな背中を下からゆっくりと撫で上げながら言った。
ふつふつと僕の奥から、情熱のたぎり出す音が聞こえてくる。


「どうかしら?終わった時は、また別の題名になってやしないかしら。」

「それでいいんだ。君といるとどんどん湧いてくるから。
 『食べられる幻想』って、どう?
 『雪の下腹』は、直接的過ぎる?」

「詩的じゃなかったら、帰るわ。
 最初に言ったはずよ、うっとりさせて欲しいの。
 芸術的にどうこうじゃなくて、わたしが満足したいのよ。」


夜の海のように黒い瞳の中に、ちかちか光る星が瞬いて、
僕への欲望に燃えているようだった。

僕の姿の映ったその暗い海に飛び込みたくなる。


のど元までしっかり留まったボタンを、僕の冷たい手でひとつひとつ外していき、
君の首すじから、白くむっちりとこぼれだした丘までの距離を、
指で少しずつたどりながら計って行く。


   ・・・ここまでの距離を計って、記録しなくては・・・。


女の服に不慣れな僕が、ガサガサした服をやっと剥き終わると、
次は、さらさらと衣擦れの音を立てる白いペチコートの類い。
少しずつ、少しずつ、君の柔らかい自由な肉体が現れてくる。

君の体がすっかり自由になる頃には、とてつもない良い匂いがしてきて、
僕はもうしたたかに酔ってしまったようだ。

女の体。
ただそれだけではない、その肌であらゆる媚態を見せる魅惑の肉。

多くの画家の視線を身に受けて、弾き返し、
そのくせ、その視線の前で挑むような姿態をさらして
少女のように無垢で、娼婦のように奔放で、聖女のように清らかな肉体に変化する。

画家たちの視線が君を撫で回す、その妄想を思うと、暗い嫉妬さえ感じてくる。
どんな顔を見せているのか。どんな姿を奴らにさらしているのか。


僕にも見せて。
僕にも聞かせて。

君の肉、君の秘密の通路。
豊かな白い胸の奥から湧いてくる、ため息と懇願と。


そう思うと、君の小さな熱い体を抱き締めて、乳房を唇にふくみ、歯を立て、
大きく発達した大地の女神のような尻をつかんで、いつまでも責め続ける。

君はまた、僕の渇望を存分に受け止めて楽しんでいるようだった。

翻弄されているのは、やはり僕の方だ。
君の髪が乱れたシーツの上に流れて、息も絶え絶えになる頃、
やっと僕の胸から君を離すことができた。



「君の方から来てくれてうれしいよ」


ゆっくりと君の髪を指で梳きとおしながら、
僕がそんな素直な言葉を口にしたのは初めてだったろう。
だが、とても正直な気持ちだった。

黒い瞳をした僕のミューズが、僕の部屋に初めて来てくれた。

1月16日、月曜日の出来事だった。





ある時、僕の部屋の中を珍しそうに眺めていた君が、
壁に留めてあった、僕の秘密の「覚え書き」を見ていぶかった。


「これは何?なんて書いてあるの?
 日付とわたしの名前は読めるけれど、その他は変な文字でよくわからないわ。」


僕はベッドから降りて、裸足のまま君の背中に寄り添って立つと、
一緒に覚え書きを覗きこみながら言った。


「これは、二人の『愛の記録』さ。」

「『愛の記録』?でも、読めないじゃない。」

「僕には読めるんだ。
 ほら、これが君と初めて会った日の日付。その日に交わした言葉。
 これは、初めて君がこの部屋に来てくれた日付。そのあと交わした愛の回数。
 全部ちゃんと取ってあるよ。」

「何でそんな事をするの?」

「時間を閉じ込めたいんだ。
 あまりにも色んなものが掌からこぼれ落ちてしまうから。
 その時に感じた色んな美しいものを、どんな小さなものも見逃さずに、大切に取っておきたい。
 そのためのモノなんだよ。」

「ふうん、変わった人ね、あなた・・・」


君は肩をすくめると、呆れたように笑った。




僕の日常の方は、ほとんど君だけで占められてしまったが、
君は相変わらずモデルの仕事をし、画家の前でいろんな姿態を惜しげもなく見せ、
それだけでは終わらない場合もあるようだった。

また、そんな君を描いた作品があちらこちらで発表されるので、
僕は嫌でも見ないわけには行かなかった。


僕はお話にならないくらい、貧しかったし、これは君の仕事なのだからと思ってはいても、
そんな絵の中に僕の知らない君を見つけると、嫉妬で体中の血が逆流しそうになることもあった。

君は、そんな僕を見るのが面白いらしく、わざと二人で連れ立って作品の品評会に出かけては、
画家たちが口々に君のことを、女神だとか、インスピレーションの泉だとか言うのを
嬉しそうに聞いているのだった。


「髪を切ってしまったんだね。」


ある日、君を一目見て、がっかりした表情を隠せなかった。

僕は君の豊かな黒髪が、上気してうす紅く染まった白い肌にこぼれかかるのを見るのが、何より好きで、
どんなドレスよりも、その髪だけをまとっている姿が一番美しいと思っていた。

だが、君はその美しい髪を首の辺りまでばっさりと切り落とし、
いわゆる「ヌーヴェル風」の髪型にしてしまった。


君のくっきりした眉や強い瞳の色を際立たせ、
エキゾチックな顎の線をあらわにして、古代の女戦士のように君を見せたから、
その髪型も君に似合っているのだろう。

だが、僕は、僕の大切にしていた君の美しさを、何の相談もためらいも見せず、
君がその手であっさりとむしり取ってしまったことを許せずにいた。


「エリック、エリック!いつものように綺麗だって言ってくれないの?」

「マリア、君はいつだって綺麗だよ。」

「マリアなんて呼ばないで。わたしはシュザンヌよ。
 シュザンヌと呼んでって何度も言ってるでしょう・・・」


君はすっかり怒ってしまった。


君にシュザンヌと名付けたのは、僕よりほんの少し前にパリに出て来た画家で、
年も僕よりほんの少しだけ上だった。

彼は伯爵家の出身だったが、生まれつき体に障害があり、その情熱の全てを芸術にささげている男だ。

君にモデルを頼んでから文字通り「惚れ込んで」しまったらしく、
君との関係も随分長く続いたらしい。

彼の絵に描かれた君は、他の画家たちのように自分の理想を君に投影しているのではなく、
君という存在、君という女の心の中まで写し取って描かれており、
僕としては、なかなか見るのが苦痛な作品だった。

彼がもっと健康な肉体を持っていて、君を満足させていれば、まだ二人は続いていたかもしれない。
だが君はそういう事にかけては、決して満足できない女だ。

また彼は君の中の才能を見抜き、本格的に絵筆をにぎらせた男でもある。




君の絵、というか習作を初めて見せてもらった時、正直驚いたものだ。

君という女に潜む、嘘やごまかしが全くなく、
真摯に正直に対象に向かい合っているのが伝わってくる。
君は女としては少し嘘つきだが、画家としてはこの上なく真面目で正直だ。

君の回りにいる画家たちもそれを感じるらしく、
その中の一人が、君のことを「おそるべきマリア」と呼んで、絶賛した。
実際、モンマルトルの画家たちの多くは、君を「マリア」と呼んでいる。


「君は正直な絵を描くんだね。」

「エリック、ひどい人ね。わたしはいつだって正直よ。
 私の中の欲望や心に正直なの。」

「僕に対しては?」

「あなたに対しては誰よりも正直よ。」


そう言って、君はちょっと面白そうに笑う。

僕が仕事をしていない時間は、ほとんど君と共に過ごし、多くはベッドの中で過ごした。

僕の部屋の「覚え書き」はだんだん長くなり、細かくなって行った。


「エリック、わたしの曲を聞かせて・・・」


君は熱い手でさんざん僕をじらした挙げ句、僕の息が止まりそうになると、
急にベッドを抜け出してそんな事を言う。
僕の方は君が欲しくて、跪けばいいのか、殴り倒したらいいのか、
一瞬迷っているうちに、君は涼しい顔で僕をいじめて楽しんでいる。


「君の曲って言えば、全部が君の曲だ。
 色々新作があるぞ。『びっくり箱』もそうだし、
 『天使たち』とか、『愛撫』なんてのは、直接的すぎるかな。
 どれがいい?」

「ねえ、同じ事を言わせないで。うっとりさせてくれるやつ。
 気持ち良くしてくれるやつ。そう言うのをお願い・・・」

「それは、君がどれほど、うっとりさせる女かどうかにもかかっているよ。
 だって、僕がこの楽譜に書き留めたのは、君そのものなんだから・・・」


そんな事を言いながらも、結局は君の要求通り、
君を「うっとりさせる」曲を弾くことになるんだ。

君は知らないかもしれないけど、僕はこっそり楽譜の上に君の似顔絵も書いてみた。
僕はそれほど絵の才能に恵まれていないが、これは何だか気に入った。
僕の楽譜の隅にいる君。
君に逢えない時間は、この似顔絵でも眺めていよう。



注:「マリア」も「シュザンヌ」も通称。本名はマリー=クレマンティーヌ・ヴァラドン。
現在では「シュザンヌ・ヴァラドン」の名前で有名。画家モーリス・ユトリロの母です。

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