AnnaMaria

 

おそるべきマリア 「その後のエリック」 前編

 

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「あの、エリック・サティ氏ですか?お目にかかれて光栄です。
 あなたの曲を聞いたときから、ぜひ一度お会いしたいと思っていました。」

「僕に会いたい、と?」

「ええ、あなたの音楽に魅せられているんです。
 その上、全く金や名誉に頓着しないとも伺いました。
 その態度も素晴らしいと思います。

 芸術家たるもの、自分の芸術を守るためにも、
 あちこちにおもねって心を切り売りすべきではありません。
 その点、あなたは真に立派です。」


最近、僕がピアノを弾いているカフェに、この手の客が時折混じるようになった。
僕がいくらひねくれているからと言って、僕の音楽を好きだと言う人に冷たくはできない。

そこで、見るからに貧しそうな若い客には、僕がワインを一杯おごり、
相手の方が裕福そうな場合は、僕の方がカルヴァドス酒をごちそうになることにしていた。

困るのは、時々僕を何かのてっぺんに祭り上げて、「サティ主義」などを表明する輩がいることだ。
「サティイズム」なんて言葉はぞっとする。
僕の音楽を愛してくれるのは結構だが、一緒につるむ気はさらさらない。


カフェでピアノを弾くようになってから10年になるが、相変わらず貧しさとは縁が切れなかった。
貧しさ、すなわち「大きな緑色の目をした少女」と付き合って行くのは、自分の人生を受け入れる事だ。
僕が僕であろうとする限り、ここから逃げることはできない。

自分を受け入れ、僕の音楽と人生を受け入れ、嫌な物は断固拒否し、
結果生じる貧しさも引き受ける、つまりはそう言うことだ。




カフェでの日々は、悪くなかった。会いたい人間は、大概向こうからやって来る。

クロードもそうだった。
出会ったのはまだ20代の半ばだった気がするが、その頃からずっと「友情」と呼べるものが続いている。

僕も彼もワーグナーが嫌いで、「新しい音楽」を作ろうとしていた。
二人ともそれぞれに実践したが、彼の方は世間的に大成功を収めつつあった。
ややセンチメンタルだが美しい曲「ベルガマスク組曲」「牧神の午後への前奏曲」等の作品を発表し、
熱烈なファンもでき、演奏される機会も増えた。

ただ、相変わらず女にはだらしなくて、いつもいざこざを起こしていた。


「お前はもう、恋はしないのか?」

ある時、クロードが僕に聞いた。

「お前の恋愛を見ているだけで腹がいっぱいになるよ。
 お前こそ、ついにリリーと結婚までしたのだから、今度はばたばたと見苦しいマネはするなよ。
 僕も出席した結婚式だ。そう簡単に彼女を不幸にして欲しくない。」

「女の居ない人生なんて、アルコールのない酒場みたいなもんだ。」

「いや、僕にとって女は混乱と無秩序の元だ。僕も確かに一度は恋を味わった。
 だがもう沢山だ。二度とする気はない。」

「お前に惚れている娘だっているんだぜ。知ってるか、あの・・・」

「いや、いいよ、本当に。
 できれば女のいる世界から逃げ出したいくらいなんだ。
 まあ、今の僕を食わせてくれているのも女と言えば女だから、そうも言えないけど・・・。
 ヴァンサンの伴奏をやらせてもらってるお陰で、なんとか生きているんだからな。」

「あのシャンソン歌手の彼女だって、飛び切りの良い女じゃないか!
 あの歌声を聞きながら伴奏をして、何も感じないなんて、それこそどうかしてるよ。」

「いや、魅力は感じるよ。だから彼女の為に曲も書けるんだ。
 だが、女性の魅力というよりは、僕にとっては、共に音楽を奏でる同士に対する友情みたいなものさ。

 実際に、彼女がビールを呑むところを見てみろよ。
 あの呑みっぷりは一人前の男をしのぐ程だな。
 彼女の中にある、あの男っぽさを見ると妙に安心して、
 一緒のテーブルを囲んで酒が飲めるんだよ。」

「へえええ、そんなものかねえ。
 俺なんか、リリーの視線が他の奴の顔に止まっただけで、そいつを殺したくなる。」

「だから恐ろしいんだ。僕はもう誰も殺したくないし、殺されたくないからね。」



僕が伴奏をしている歌手たち、彼女たちの歌を聞きにここへ通ってくる客の多いこと。
自然とイスパやポーレットのような歌手たちに頼まれて、
いわゆる「シャンソン」を作曲する機会がぐんと増えた。

僕が今まで積み上げて来た、建築のような、家具のような音楽とは違って、
一枚ずつのぺらぺらした曲だけど、ピアノに載せて彼女たちが歌うと、それでも誰かの胸に届く。
それで十分だろう。

僕が書いてやる曲は、いつも恋の歌だ。
恋を失った僕らが、恋の歌を書き、歌い、目の前の恋人たちの面影をゆらめかす。


僕の失った恋人は、今もまだ僕の中にいる。
恋の曲を書くときは、かつてシュザンヌと過ごした記憶が蘇る。
ワルツのメロディが聞こえてくるようだ。




『ワルツ』

「ディヴァン・ジャポネ」(日本の長椅子の意味)の店で、
まさにその長椅子に座り、カルヴァドスを呑む君。
店のあちらの隅には、酒場の踊り子をじっと見つめるロートレックの目がある。
時折、その目が僕らに止まる事もあったが、小さく目で挨拶して、
そのまま踊り子の姿態から目を離さなかった彼。

彼も今は、もうこの世にいない。


僕とワルツを踊る君。
ドレスを通して感じられる君の熱、肉。
音楽に弾んだ心臓の音、時々僕にかかる息。
離れそうになる君の腰をしっかり抱いて、決して離さない。

音楽と、リズムと、ステップで紅潮した君の頬。
きらきらした目の輝き。僕に向けられる夜の星だ。

君の思わせぶりな視線のせいで、酒場で一悶着起こした後、
腕に自信のない僕と君とで店を逃げ出す。

寒いパリの夜道を機関車のように白い息を吐きながら、走る。
君の手が熱くなり、息が切れて、そのまま僕の胸に倒れ込む。


これが僕の「音のスケッチ」に残っている、ワルツの記憶。





こういった「量産品」のシャンソン以外にももちろん、相変わらず作曲は続けていた。

この間クロードの家を訪問した時に聞かされた、彼の科白。


「エリック、君はもっと音楽の形式に対して、注意を払うべきだな。」


僕は何も言わずに笑っていた。ひそかに考えることが有ったのだ。
彼の家を辞す時に、果物皿にのっていた梨を一つ土産にもらって帰る。

僕の部屋のペダルが壊れたピアノの上にそれを置いて、曲を作ってみる。
これは面白いものになりそうだ。
今度、彼の家に行った時にぜひ聞かせてやろう。

僕はクロードにその旨、手紙にまで書いて送ってやった。




「エリックおじさん、来てくれるのをずうっと待ってたわ。」

「ホントかな?僕に会いたいなんて、珍しい女性だ。」

「おじさん、僕も会いたかったよ。またあの『ぐちゃぐちゃ』をピアノで弾いてくれると嬉しいな」

「おや、いつの間に男性からも好かれるようになったんだろう。
 まあいいや、もちろん飛び切りのごちそうを頂いてからだよ。」


僕が子供好きだと言うと、驚く人が多い。
皮肉やで変わり者の酒場のピアノ弾きと、子供に接する姿が結びつかないのだろう

だが、僕は子供たちが好きだ。
子供たちは大人と違って、口先で僕をほめながら、
テーブルの下で足を蹴ったりしないし、
僕の皮肉っぽい眼差しの中に、自分たちと共通するものを見て取って、
ちゃんとそばにやって来る。

僕は学ぶと言うことに良い体験を持たない者だから、
子供たちが、ピアノのレッスンやら、フランス語の綴り方に苦労しているのを見ると、
いつかもっと楽しく、優しいやり方で覚えられるものを与えてやりたいとすら思う。
僕自身、まだ一から学んでみたいという意欲を捨てきれずにいるのだ。


僕は殆ど毎週、日曜日の午後や夕方、昼食や夕食を招ばれにクロードとリリーの家を訪れる。
いわゆる「家庭」の味を味わえる、唯一の場所だ。

すると、ここに出入りしている彼らの友人の子供たちが、
僕を遊び相手として認めて、待っていてくれるのだ。


「どんな曲がいいかな?」


ピアノの前に座ると、色んなおねだりだしたくて、
むずむずするピエールとマリーを前に尋ねてみる。


「僕が王様になった話をピアノで弾いてくれるのがいい。」

「ピエールが王様?
 う〜ん、そうだな、歯を磨くのが嫌いなくせに、チョコレートばかり食べたがる王様かな。」


僕は右手でメロディを響かせる。


「馬に乗るのが好きで、家来を連れて颯爽とお城に帰って来る・・・
 ほら、ギャロップ、ギャロップのリズムだろ?

 その後、ピエール王様はこっそりお城の台所に入って来て、チョコレートを盗み食い。

 うん、おいしい!

 どんどん行けるけど、口の中で溶けた後、舌の上に固い骨が残るんだ。
 これは骨入りチョコ?
 口からその骨を出してつくづく眺めていると、
 台所の隅に座っていた料理番の娘が

『王様、違います。それは骨じゃなくて、アーモンドです。
 噛めば食べられるの。
 ほら、バリッバリッバリィィン♪』」


この和音、アーモンドを噛み砕く音に聞こえるかな?


「なんだか変な王様だよ。王様なら、もっと格好良くてエラくなくちゃ・・・」

「偉いのって格好悪いものなんだよ。それにピエールの王様だとこんな感じだろ?」


僕は笑いながら、即興で作った曲を次々と子供たちに弾きながら、おしゃべりをする。
子供たちは真剣になってやいのやいのと、この先について考え出し、
自分でピアノを弾こうとまでし始める。

やれやれ、じゃ、僕はお役御免かな。
ではピエールの王様じゃないが、ピアノは子供たちにゆずって、ちょっと台所の方を覗いて来よう。

ものすごく旨そうな匂いが漂ってきて、覗き見をせずにはいられない気分だ。




「クロード、愛してるわ。世界で一番好きよ。」

「うれしいことを言ってくれる。リリー、すごくうれしいよ。」


キスの音が聞こえる。ふむ、お熱い場面だ。ここでしばらく待つべきなんだろう。


「ねえ、クロード。あなたの、あなたの一番好きなものって何?」


可愛いリリーの声は溶けそうだ。


「僕?僕の好きなものかい?
 うん、海だな。
 海の波が寄せてくるのを見ると、僕の中にも何かが満ちあふれて来るのを感じるんだ。

 穏やかな夜の海の面に、月光の道ができる時も好きだ。
 持っている物を全部捨てて、そのまま月の道を歩いて向こう側に行きたいと、いつも思うよ。」

「クロード!あなたって本当にひどい人!」


リリーの声は少し涙まじりで、皿がカチャカチャ言う音に紛れて鼻をすする音まで聞こえる。。

うん、全くリリーの言う通りだ。

クロードは友人としては、なかなか面白いところが有るし、
音楽家としては野心的で、すでに成功を納めつつあるが、
夫や恋人としては実に酷いところがある。

自分の方は、恋人が空の雲を見ても不機嫌になるくせに、
きれいな花には目がなくて、遠慮なく手を伸ばす。
そのくせ優しい手を振り捨てて、自分だけの世界に閉じこもろうとする。

あの奔放で魅力的で、そのくせ可哀想なギャビーは、クロードの心変わりに耐えられず、
拳銃で自殺未遂をはかってまで、クロードの心をつなぎ止めようとしたその挙げ句、
結局捨てられてしまった。


女とは、恋とは剣呑なものだ。
僕が相変わらず、注意深く、愛だの恋だのから身を避け続けているのは、
こういう修羅場を見過ぎてしまったせいかもしれない。


だが、子供たちは別だ。
僕の愛を真っ直ぐに受け止めて、可愛らしい視線でそれを投げ返してくる。

玄関のところで、僕の足音が聞こえるのを耳を澄まして待っていてくれるのだ。
僕を迎えてくれる心の持ち主のところへ行くのに、
こんなに足取りが弾むのも当然と言うものだ。

決して、骨付きの羊のローストのごちそうや、それに良く合う白ワインのせいでもない。
リリーとクロード夫婦の僕を迎えてくれる雰囲気と、小さなゲストたち、
クロードの家にある、調子の狂っていないピアノのせいだ。

だが、ごちそうをけなすのは、罰当たりだな。
ありがたく、美味しく頂くのが礼儀だろう。


「エリック、どこに居るの?子供たちが探しているわよ。」

「エリックおじさ〜ん、どこへ隠れちゃったの?
 ピエールの曲だけ作ってずるいわ。あたしにも弾いてくれないと・・・」


小さいマリーはべそをかいている。

ああ、またお呼びがかかったようだな。
僕は家庭内のいざこざから逃れて、子供たちの相手をした方が良いようだ。




「クロード、これをちょっと見てくれないかな?」

「おお、エリック!これが君が手紙の中でさんざん自画自賛していた曲だな。
 『新しい精神をもって書かれた創造物』とか言ってたっけ?
 ふうむ、楽しみにしていたよ。

 題が・・・何だこれ?」

「『梨の形をした3つの小曲』というのさ、形式を重んじてみたんだよ。
 梨の形、あれは実に示唆に富むよ。君に感謝をしなくちゃな。梨の形式の曲ってわけさ。」

「エリック、君って奴は・・・全く。」


この曲は手を4本必要とする連弾の曲だから、あきれてソファに戻ってしまったクロードの代わりに、
僕と彼の妻のリリーで弾いてみせた。
クロードはまだ何だか納得のいかない顔をしていたが、曲については「悪くない」と認めてくれた。

悪くないんじゃないよ、クロード、「素晴らしい傑作」なんだ。
素直に言えよ、恥ずかしがらなくたって良いんだぜ。

「バカ言うな・・・」クロードは横を向いてしまった。

まあ、これで「形式」についての助言は頂いた、という事だ。




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