AnnaMaria

 

セピアの宝石  7

 

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「え〜〜〜っっ!仁!」


佳代子は驚いた。


「そんな・・・別の店で飲み直そうって言ったじゃない!」



「言ってない。別の場所で飲み直そうって言っただけだ。
 景色がいいとも言った。
 嘘じゃないだろ?」


仁は長い腕を伸ばして、
ガラスウォール越しの見事な夜景を指した。


「・・・・」


あまりのことに佳代子は固まっていた。

つい、のこのこと追いて来てしまったが、
これからどうすればいいのだろう。


「佳代子・・・」


仁が肩に手を触れると、



きゃっ!

佳代子が身をすくめて飛び上がる。

仁が笑い出した。


「そんなに怖がるなよ。
 取って食ったりしないからさ。
 ここなら落ち着いて飲めるかな、と思っただけだよ。」


のんびりした笑い声に、佳代子がにらんだ。


「仁の嘘つき・・・」


「ホントだよ。
 別に下心があって、連れこんだわけじゃない。
 ま、座ったら・・・」


佳代子の背中から腕を回すと、
ガラスウォール前の椅子の一つに座らせた。


「ここなら景色が良くみえる。
 今、グラスを出すからさ・・・」


佳代子は怒って帰るべきか、どうしようか迷っているうちに、
椅子を蹴るタイミングを逸してしまった。


あきらめて、椅子に座りなおし、
改めて部屋の中を見回す。


落ち着いて見直せば、もちろん、秘密のバーには見えないが、
隅々まですっきりと整えられて、
インテリア雑誌に出てくる部屋みたいだ。


ガラス越しの夜景に視線を戻すと、
長い腕が視界を横切り、シャンパングラスとボトルが置かれた。


「あ、わたしも手伝うわ・・」



キッチンの方に歩きかけた仁が、



「そう?じゃ、これ。
 先週、ラグビー部の奴らが引越し祝いに置いて行ったんだ」


小さなチーズの詰め合わせと、ナッツの袋を渡される。

一緒に渡してくれた皿に空けながら、


「素敵なお部屋ね。
 何と言うか、男の一人暮らしの匂いが全くしないわ・・・」



「まだ引っ越して3週間経たないからね。
 向こうで使っていた物は、ほとんど処分してきたし・・。

 元々持って行ったオーディオのセットと
 身の回りのものだけ、持って帰ってきた。」


ナイフとフォーク、クラコットを手に戻って来た仁が
佳代子の隣の椅子に腰を下ろした。

シャツの袖をまくりあげ、太くて逞しい腕が見える。


「乾杯しよう、佳代子。
 この部屋の女性客、第一号だ。」


仁が軽々と黒いボトルを持ち上げると、
二つのグラスに注ぎ、一つを持ち上げた。

金色の液に浮かぶ白いレースのような泡越しに、
佳代子の目をじっと見つめる。


ふふ、仁が持つと、シャンパングラスまで小さく見えるわ・・・


見当違いのことを考えて、佳代子はおかしくなった。

佳代子が微笑んだのを見て、仁も安心したように笑顔を返し、
グラスを合わせた。



「これじゃ、続々と押し掛けてきそうね。

 でも、この部屋へ帰ってきて落ち着く?」


佳代子の問いに、仁は少し黙っていた。


「落ち着くよ・・・すごく。
 
 少なくとも、今、ここに住んでいるのは俺だけだ。
 俺のものしかない。」


仁の声の調子に、はっとした。


「向こうで住んでいたのは、
 いわゆる家族用というか、新婚用というか、
 要は二人用にしつらえられた場所だ。

 二ヶ月で、二人の生活は破綻しているのに、
 部屋はそのまま使い続けなければならない。

 帰る度に、いない人間の持ち物ばかりが目についてぞっとした。

 彼女の荷物がなくなってからは、少しすっきりしたけど、
 今度は、部屋から色んなパーツを、
 無理矢理にもぎ放したような痕が、気になってね。

 とうとうその違和感には、なじめずに終わったな。」


悪いな・・・佳代子に聞かせる話じゃなかった。


仁がさらっとグラスを空けて、水のようにシャンパンを注ぐ。


「いいのよ。私が訊いたんだもの。」


「だから、ここは徹底的に単身者の住まいにしてもらった。
 すごく暮らしやすいよ。」


「自分でやったの?」


まさか・・・。



仁が部屋を見回した。
真新しいブルーのソファ、ガラスのテーブル。

ソファの前の壁は、一面に壁面収納になっているらしく、
余分なものは何も出ていない。


「俺には、こんなセンスも時間もない。

 妹がインテリアをやっているんだ。
 で、事情を説明して、デコレーションその他を頼んだ。
 とにかく帰ってから、すぐ住めるようにしてくれって

 かなり、楽しそうにやってくれたよ。
 少々やり過ぎの感はあるけどね。
 すごく長くここに居るわけじゃないから・・。」


「どうして?」


「ここは一応、社宅の扱いになる。
 海外赴任から帰国して1年半までは、金額の上限はあるが、
 会社持ちだから。」


そうなのか・・・。

仁の海外での孤独な暮らしを思うと、胸が痛くなる。

だがもう終わった話だ。

それよりも、この部屋に興味が湧いた。


「ねえ、お部屋の中を見てもいい?」

「いいよ。今のところ、どこを見ても大丈夫だ・・」


笑いながら、仁が立ち上がった。

ソファ正面の壁の一部を開くと、
中から大型のTV画面が現れた。


「あら・・・」


別の場所をあけると、ノートPCが収納してあり、
すぐ脇に、小さなライトが点灯する。


「会社がこの部屋見たら、仰天するんじゃない?」



「なんで?デコレーションその他は自由だろう。
 そういう部分をのけたら、普通の単身者用マンションだから、
 別に文句はないだろう。
 差額は俺が払っているんだし・・・・。

 ああ、ここがバスルームだ。」


仁が面白そうに、佳代子を中へと促した。



バスルームには、普通のユニットバスじゃなく、
ヨーロッパで見るような足付きのバスタブが
タイルの床に置いてあった。

隣にトイレが並んでいる。


「へえ、こんなの初めて見たわ。」


「妹が俺のサイズだと、ユニットバスは狭過ぎるだろうって、
 大きめのバスタブを探して入れてくれたんだ。
 結局、シャワーばかりで、あまり入らないけどね。」



「どうして?折角広いお風呂なのに。」



「じゃ、お佳代が中で泳いでみるか?」


振り向いた仁が笑った。



結構です・・・

佳代子があわてて、手を振った。




リビングスペースに戻ると、奥に揺れている二つのカーテンが気になった。

佳代子が歩いていって、左のカーテン部分を開けると、
クローゼットになっていて、仁のスーツや、靴がきれいに並んでいた。


「あ、ごめんなさい・・・」


佳代子があわてて閉めると、


「別にいいよ。見られて困る物はそれほどない。」


右側の、天井から少したわめて張られているカーテンは
開けるのを少しためらった。


「開けてごらんよ・・・」


後ろからついて来ていた仁が、佳代子の後ろから腕を伸ばすと、
カーテンを勢いよく開いた。


晴れた日の海のようなブルーのカバーがかかった、
広めのベッドが現れた。

ベッドの向こう側は、大きな窓になっている。


佳代子は驚いた。

何が隠れているのだろうと思っていたが、
こんな大きなベッドが現れると思っていなかったのだ。


「ああ、失礼したわ・・・」


佳代子がカーテンを閉めようとすると、
仁がカーテンの端を持っていた。


「一人の時は、ここを開けていることが多い。
 こっちの景色も見えるだろう?」


外は暗いのでよくわからなかったが、
海の景色ではなく、夜空と隣の高層マンションが見えた。



仁はあの夜空を見ながら、眠るのだろうか・・・


「ホントに、素敵なお部屋ね・・・」


ベッドから目をそらし、ベッドを背に立ったまま、
佳代子が呟いた。


「座ってみれば?」


いつの間にか、仁がベッドの端に座って、
佳代子の手を引いた。


「え、遠慮するわ・・・」


仁の手をふりほどき、
そっぽを向いた佳代子を見て、仁は眉をあげたが、
また、さっと立ち上がった。


「どうして、わたしをここに連れてきたの?」


佳代子は仁の目を見ながら、訊いた。


「そうだな。
 佳代子に俺のことを知って欲しいからだ。」


部屋の中で立ったまま、向かい合うと、
ひときわ仁が大きく見える。


「今、俺にあるのは、これだけだ。」

 ここからまた、一歩ずつ踏み出そうと思っている。」



仁が一歩、佳代子に近づきながら言った。


「俺も佳代子のことをもっと知りたい・・・。」



俺が嫌いか?



佳代子が一歩、後ろにさがると、
すぐに足の後ろに何かが当たった。



わ、ベッドだ。



佳代子ははじかれたように前に飛び出すと、
仁の胸の中に飛び込んでしまった。


きゃ!!ごめん!



あわてて、仁の胸を手で押し、飛び出ようとしたが、
仁にがっちり両肩をつかまれて動けなくなった。


「ベッドの寝心地をためしてみる?」

「いいぃ〜〜〜?いいです、いい。」


佳代子が体を固くして縮こまるので、
仁はおかしくて、笑いをこらえるのに苦労した。


「佳代子は可愛いな。
 こんなに可愛いと思っていなかった・・・。」


からかっているのね。



「わたし、そろそろ帰ります・・・。」


「もしかして、経験なし・・・?」

「け、経験?」

「あれ、違うのか。
 違うんなら、また対応の仕方を変えないと・・・。」


仁の面白がっているような表情がしゃくに障った。


「そんなこと関係ないでしょう!」


また、目に涙がたまって来そうだが、
さっきとは、別の理由からだ。



仁って、こんな奴だったのか。



勝手に幻想を抱いたわたしがバカだった。

軽く見られているのね。
寂しさを埋めるだけのお相手なら、絶対にごめんだわ。



やっぱり帰るわ。


仁の手をふりほどくと、
ソファに置かれたバッグを引っつかみ、
後ろを向いて、自分のコートの方に進もうとした。


「待てよ・・・佳代子」


仁の腕が後ろからかかり、ゆるく佳代子を羽交い締めにした。

耳元に仁の息がかかるだけで、全身の血が逆流しそうになる。


「離してよ」



「ダメだな。

 後ろからタックルされたら、手の中の物は放さなきゃならない。
 これはルールだ。」



「そんなの知らない・・!わたし、ラグビーの選手じゃないわ。」


佳代子が身をよじって、仁の腕を振り放そうとしたが、
もちろん、びくともしない。

巨体を止めるラガーマンなのだ。


「落ち着けよ、佳代子・・・」


そのままの姿勢で、後ろから声だけ聞こえてくる。

悔しくて体が震えた。

ぐっと、自分を抱きしめている腕に力が入るのがわかる。


「ごめん。

 佳代子があわてるのが可愛くって、わざとあんな風に言ったんだ・・・

 悪かった・・・・。

 だからもう、逃げないでくれよ。」


佳代子の目がまだ落ち着かなく、きょろきょろと動いたが、
無理やりに振り放そうという動きだけは収まった。

仁がもう一度、佳代子の体を後ろから柔らかく抱き直し、
佳代子の頬に、自分の頬をすりつける・・・。


「佳代子が今夜、涙を見せた時から、
 ずっと抱きしめたかった・・・」


仁の声。



こんなに甘く響くとは、想像もしていなかった。

佳代子はまた、さっきとは別の理由で、
体が震えてきそうだ。


「佳代子・・・」


仁の熱がすっぽり、背中から佳代子を覆っていた。

仁は酔ったように、ずっと頬ずりをしている、
柔らかい感触が佳代子の皮膚を滑って行く・・・

体の奥から、きゅぅんと何かがわき上がる。
これは一体何だろう・・・。



熱いのか、寒いのか、わからない・・・・


「佳代子・・・」


3度目に呼ばれた時、佳代子の手が
自分の前にまわっている仁の腕をつかんだ。

太くて、たくましくて、いかにも強そうな男の腕。

こんな物が自分に巻き付いているなんて・・・。


仁の腕がまた、ぐっと佳代子を締め付けると、
柔らかく体を返され、胸の中に思いきり抱きとられた。

世界中が仁の匂いでいっぱい、
シャツ越しに伝わる体温で、くるくるとめまいがする。

仕方なく、佳代子もしがみついた。

仁はゆっくり、右手で佳代子の髪を撫でる。



「佳代子が好きだ・・・」


少し乾いた唇が下りてきた。


なんて・・・柔らかいんだろう・・・。



佳代子は目をつぶるのも忘れていた。

すぐ前の仁は目を閉じている。



ふと唇を離し、佳代子が目を見開いているのを見ると、


「目は閉じるもんだぞ・・・」


ふわりと微笑んで、再び、唇を重ねて来る。


乾いて、弾力があって、温かくて、ずっと動き続ける唇・・・



何度も何度も口づけられるうちに、
佳代子も目が開けていられなくなった。

佳代子の中になめらかに入り込み、捕まえ、かき回し、
頭の中まで、ぐるぐるにかき乱される。



仁につかまっていないと・・・そう思うのに、
逆に体から力が抜け、仁の唇だけが欲しくなる。



わたしの頬をつつんでいる、この指は誰のもの?



すうっと意識が遠のいた。


気がつくとまた、仁の胸にしっかり抱き込まれている。


「佳代子・・・」


大きな手がやわらかく背中を撫でていた。

仁の唇が少しずれて、耳の下に押し当てられると、
あまりに熱く、甘い感触に背中が震える・・・


「仁・・・」


仁が唇を離して、佳代子を見ると微笑んでいた。

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