AnnaMaria

 

セピアの宝石  9

 

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「仁さん。あの・・・これをお渡ししてもいいですか?」




開発部奥にある、ミーティングルーム。

午後一番の打ち合わせが終わり、
今まで一緒にテーブルにいた連中が、さっと一斉に散ったところで、
部品統括の酒井由加が包みを取り出した。

大場仁は、ほんの少し戸惑ったような顔で由加を見ている。



「これって・・・」



由加のチョコレートは、注意深く小さな紙袋に入れてあるとは言え、
こんな日にこんな包みを見れば、中身は誰にだってわかる。



「わたしの気持ちです。」



誰もいないのを幸い、思い切って言うと、
仁がわずかにためらったように感じたので、
あわてて付け加えた。


「いつも本当にお世話になっているから・・・。
 お礼の気持ちをこめて。」



その言葉を聞くと、仁が少し口元を緩ませた。


「ありがとう・・・」



大きな手で受け取ると、ファイルの上に載せ、
仁も席を立ち上がる。


「あと少しで、この間頼まれた資料ができます。
 そしたら、一度プリントアウトして持って来ますから。」

「ああ、わかった。待ってるよ。」


スポーツマンらしく、浅黒く日焼けした大きな体に、
温かい笑顔をのせて由加を見た。

その笑顔を見ただけで、胸がいっぱいになりそうになり、
席に戻る大きな後ろ姿を見送ると、
由加も席を立った。






4時近くなって、ようやくできあがった資料と共に、
由加が開発部に足を向けると、部屋の外のスペースに、
仁と、黒のスーツを着た、営業部課長の山中詩織が立っていた。


こんな日に何の用かしら?


由加はいぶかったが、詩織はこちらに気付いていない。


「多少は手加減してって言ったでしょ?」

「別に無理なことはしてないさ。」


「ほんと?何だか、ぽうっとしちゃって変なのよ。
 見た目よりウブなんだから・・・ね。」


仁の視線で詩織が振り向き、由加を認めると、
にっこりと笑顔を見せた。


「あ、こんにちは。
 仁と仕事でパートナー組んでるんですってね。
 開発部の仕事って大変だろうけど、頑張って!」


女性にしては低めの、よく通る声で由加に話しかけると、

じゃね、仁!

と、手を振りながら、去って行った。



仁は由加に目を向け直すと、


「できた?じゃ、中で見せてもらおうか。」


広い背中を見せて、開発部の部屋に入って行く。






5時になり、7時になっても、誰も席を立たない。

開発部の部屋に残っているのは8人ほどだが、
ここでは定時退社するものなど、ほとんどいない。

資料の都合上、開発部内で仕事を続けていた由加は、
7時半になったのを見ると、ため息をつき、
大きく伸びをした。

傍らの仁がその様子に目を留め、



「君まで、ここのペースに付き合う必要はないんだ。
 他は明日以降で十分だから、もう上がったら?」



「仁さんは?」



「僕はこれを仕上げてしまう。
 出張が入ったらできなくなるからね。
 途中でいいから、そこまでの分をメールで送ってくれる?・・」


はい・・・わかりました。

由加は作成中の資料を、仁に送信する。
その文面に「Happy Valentine !」という言葉を入れておく。


開発部には、ヴァレンタインもクリスマスもない。

だが少なくとも、仁が今夜、誰かと約束をしている様子が
全く見えないのが、由加にとっての希望だった。


離婚して、帰ってきたばかりだもの。
付き合っている人がいるわけないよね・・・。


「じゃ、お先に失礼します・・・」


仁があとで、送ったメールを見た時、
少しくらい自分のことを思い出してくれますようにと願って、
由加は開発部を後にした。

 





「ね、ね!で、どうなったのよ?」


バレンタイン翌日の昼、
佳代子と詩織は、会社からかなり離れた蕎麦屋に行った。


「え、そんなこと聞かないでよ・・・」


詩織の追及をかわしつつ、
佳代子が、ざるそばと野菜サラダ、けんちん汁のセットを
注文しながら、答えた。


「だって、あいつ、何となく凄みがあったわよ。

 私がお佳代には最愛の彼がいるなんて、
 余計なこと言っちゃったから、
 仁がそのことで、お佳代を誤解してるんじゃないかと思って、
 一昨日、それを仁に言ったらさ。

『ふ~ん』と気がなさそうに返事してたけど、
 一瞬、目がぴかっと光ったもん。

 で、デートしたの?」


詩織は、プチ天丼と、けんちん汁のセットを注文すると、
佳代子に向き直る。


「デートじゃなくて食事したの。
 約束だったからね。
 シャツ借りたお礼に御飯おごるって・・」


詩織がバンっと、佳代子の肩をたたいた。
ぐっと佳代子の口からうめき声が出た。


「しおり!・・・痛いわよ。」



「ま~たまた、そんなこと言っちゃって!
 で、まっすぐ帰ったの?違うでしょ!

 仁って、こうと決めると行動早いからねえ。
 あいつのラグビーと一緒よ。
 フィールドをか~っと突っ切って切り込んでいく。

 あんまり無理に襲わないでよって言っておいたんだけど・・・」


佳代子は黙ったまま、運ばれて来たざるそばをすする。


「まさか・・・泊まっちゃった、とか。」



「!!
 止めてよ!」


佳代子はけんちん汁の椀を取り上げた。


なおも佳代子の顔から視線をそらさない詩織に向かって、


「んもう、面白がらないで・・・。
 そっちこそ、チョコ情報は役に立ったの?」


詩織はやっと運ばれて来た、プチ天丼セットに、
箸をつけながら言った。


「うん、今年はチョコを10個あげたの。
 7個は完全に義理だけど、3つは本命用チョコ。
 お返しに誰かデートに誘ってくれないかな。」


「誰にあげたのよ。」


佳代子が、椀から顔を上げて訊くと、
詩織が指を折って数えていた。


「営業部の後輩と、取引先の男の子と・・・
 うふふ、こないだPCのメンテに来た○○くん。
 あの子、すっごく驚いてたわ。」


「あきれた・・ぜ~~んぶ、年下じゃない。」


詩織は空になった丼をトレイに置いた。
食べるのが異常に早いのだ。


「ふふふん、年下で何が悪いのよ。

 理想を言えば、8才から一回りくらい下が理想なんだけど、
 それだとまだ学生だから、5才くらい下で手を打ってるのよ。
 でも、みんな、可愛いんだもん。」


指を折りながら、色々と思い出している詩織にかける言葉などない。

佳代子は自分の蕎麦をなんとか半分平らげた。


「仁はいい奴だから大丈夫。

 あんな小娘にひっかからなければ、
 とっくに幸せになれていたのよ。

 ったく、あんなにモテモテだったのに、
 選りに選ってあんな子と結婚したなんて・・・」


詩織が蕎麦茶をすすりながら言った。


「佳代子も立派な30女なんだから、
 気になる男のフロアはわざと避けて通る、
 なんてこと、いつまでもやってるんじゃないわよ。

 ったく、好きな男にだけ、臆病なんだから。
 ここらで覚悟を決めて、ど~んと行きなさいね。」


あ、今日の昼は、この間のチョコのお返しにごちそうするわ・・。

あら、残しちゃうの?


「うん、何だかお腹がいっぱいで・・」


詩織はしばらく、佳代子の顔を見ていたが、
今度は何も言わずに、伝票を取り上げて席を立った。







「もしもし、大場さん、秘書課です。
 お時間がよろしければ、役員室の方においでいただきたいのですが・・・。
 お客様が見えています。」

「わかりました。今、行きます。」



仁は立ち上がってネクタイを締め、ジャケットに袖を通すと、
秘書課に上がって行った。



入り口で榎本ルナが微笑んでいる。

彼女は帰国子女で、仕事も優秀だと聞いている。
最初、彼女に仕事上のパートナーを申し込もうかと、
思っていたくらいだ。

特権ではないが、開発部への協力は、
社をあげての方針になっていて、
上司のしかるべき許可をとれさえすれば、
これぞ、と自分が目をつけた相手と交渉できた。


ただ、秘書課という特殊な場所の面倒さと、
(上司に交渉と言っても、専務と交渉することになる)
ラグビー部時代の悪友、大輔から、酒井由加の推薦を受け、
部品統括という、仁の仕事に都合のいいポジションだったため、
彼女にアシスタントを申し込んだのだ。

酒井由加は熱心で仕事も早く、
総合職への転向の希望を持っているとわかった為、
結果的にはとてもいいアシスタントを得られた。


「大場さん、お帰りなさい。
 今度、マレーシアのお話聞かせて下さいね・・」


ルナが話しかけてきた。


「ええ、そのうちに。」

と返すと、

「本当ですか?」

ニコニコと切り返して来た。



ああ、そうだ。日本的儀礼は彼女には失礼かもしれない。


「榎本さんが興味あるなら・・・。
 今は仕事が手一杯ですが、そのうちにお誘いしますよ。」



「ぜひ!楽しみにしています。
 海外赴任されていた方の話を聞くのって好きなんです。

 あ、お客様はこちらでお待ちです。
 専務とのお話は済んでいますので、どうぞ。」



指し示されたドアを開けると、
役員室正面のガラスウォールから、
霞ヶ関周辺のビル街が見えた。



その景色を見て、こちらに背をむけている人物が誰かわかった時、
仁は、先に客の名前をたずねなかったのを後悔した。


仕立てのいいスーツにロマンスグレーを映らせ、
血色のいい顔をこちらへ向けた紳士は、
ほんのわずかの間、義父だった人だ。


「仁くん、元気かね。
 帰ってきていると聞いて、顔が見たくなったんだ。

 先日、新聞に載ったマレーシア時代のコラムも読んだよ。
 君にあんな文才があったとは知らなかったな。」


ロマンスグレーの下に笑顔を浮かべながら、
紳士は握手の手を差し出した。

こっちは二度と見たくなかったと思いながらも、


「ありがとうございます。
 こちらこそ、お久しぶりです。」


しっかり元義父の手を握って、挨拶をした。


「知ってるだろうが、ここの常務と懇意なんだ。
 一ヶ月に一度は一緒に昼飯を食っている。
 
 君は開発部に配属になったと聞いた。」

「はい。」


それが貴方と何の関係がある、という疑問は呑み込んだ。



取引先の重役でもある、元義父は革張りの椅子に座り、
向かいの椅子を仁にも示した。


「未熟な娘のせいで、君にはだいぶ迷惑をかけた。
 父親として申し訳なく思っている。」



「いえ・・・もう、済んだことです。」



「しかし、娘の方もあれで大分苦しんでいた。
 近頃、やっと落ち着いてきたがね。
 わたしと家内には、いまだに何が原因かわからない。」


『大会社の重役』を、絵に描いたような紳士が足を組むと、
仁の視線を外した。


「もう時効だろうから、あの時、本当は何があったのか、
 聞かせてもらえないだろうか・・・」



仁は瞬きもしなかった。



「僕の方も何が原因か、色々考えました。
 あれか、これかと推測することはありますが、
 どれもはっきりしません。
 
 彼女が帰る直前、軽いホームシックになっていたのは
 僕も知っていました。
 しかしそれ以外、別段取り立てて争ったことも、
 意見が合わなかったことも何もないんです。

 ある日とつぜん、いなくなり、連絡が取れなくなり、
 それっきり何の説明も、質問に対する解答も、
 離婚したい理由さえ、聞かせてはもらえませんでした。

 直接、会うのもお止めになりましたよね?」


仁が目の前の紳士に確かめた。


「娘が嫌だと言ったからだ。」



「僕には全てがはっきりしないまま、
 一方的に離婚届を呑み込むしかありませんでした。

 そちらで理由がわからなければ、
 僕の方でわかる筈がありません。」


できるだけ冷静に言ったつもりだった。

目の前の紳士の表情にも、かくたる変化は見られなかった。

が、次に口を開くまでに、かなりの間があったことは事実だ。


「実は言いにくいことだが、娘にまた、別の話が持ち上がっている。
 今度は娘も素直に応じてくれているから、
 幸せになれるかもしれない。

 君には不愉快な話だろうから、先に伝えておこうと思ったのだ。」


そういうことか・・。


仁はおかしくて、笑い出したくなるのを懸命にこらえた。


「ちっとも不愉快な話ではありません。

 お嬢さんも僕も完全に離婚が成立していますし、お互い自由です。
 もちろん、幸せになることを願っています。」


仮にも一時は共に暮らしていたのだから・・・。



紳士は、仁の答えを聞くと気が軽くなったようだった。

笑顔を浮かべると、口調もはずんできた。


「君にそう言ってもらえると、正直ほっとするよ。

 いや、僕は家内と違って公平な目を持っているつもりだ。
 娘が君に迷惑をかけたことは、十分に承知している。

 君が開発部なのは、さっきも聞いた。
 もし・・・」


紳士は、少し言いにくそうに、窓の方に視線を投げた。

空は晴れているが、ぎちぎちと立て込んだビルの上は、
どことなくかすんでいる。


「希望の部署なり、職場なりがあるのなら、
 及ばずながら、わたしも少々協力したい。

 言った通り、ここの常務とわたしは懇意だ。
 他所の会社の人事に口を出せるわけではないが、
 適材適所をアドバイスするのは、友人として当然だ。

 なにか、希望している仕事があるのかね?」


「ありません。
 開発部でやっていくつもりです。
 そんなご心配は、今後、ご無用に願います。」


仁は、自分がやや切り口上になっているのはわかったが、
そうでないと、怒鳴り出してしまいそうだった。

バカにするにも程が有る。

仁の顔色を見ると、元義父は表情を改めた。


「気を悪くしたんなら、失礼した。
 別に、希望がなければそれでいいんだ。

 君の方は、また結婚する気があるのか?」


「ええ、僕とやって行く気のある人でしたら・・・」


仁の挑戦的な気分は相手にも伝わったのかもしれない。


「ほう・・・。
 具体的に相手がいるみたいな口ぶりだな。」



「いえ、特にそういうわけではありません。」



「もし、もう予定があるのなら、聞かせておいてくれないか。」



「予定は別にありませんが、その気になったら、明日にでも。」


相手は、さすがに少し不快そうな表情を浮かべた。

取引先の重役と考えれば危険かもしれないが、
純粋に私的な話だ。

公平な目を持っていると自慢する位だから、
公私を混ぜる事もあるまいし、
こちらが娘の再度の幸せを邪魔する意図がないのも、わかるだろう。


「わかった・・・。仕事中、時間を取らせてすまなかった。」



「いえ、こちらこそ。
 楽しい話もできなくてすみません。
 コラムを読んでくださって有り難うございます。

 では、失礼します。」


仁は勢い良く立ち上がると、ドアを開け、
振り返って一度だけ礼をすると、とっとと部屋を出ていった。

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