AnnaMaria

 

セピアの宝石  10

 

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役員室からの戻り、仁はエレベーターを使わずに、
階段を駆け下りていたが、ふと思いついて、
2階の広報室に寄ってみる。

ドアのガラス越しに、佳代子が電話に出ているのが見えた。

張りのある声が、ドア越しにこちらまで聞こえてくる。


普段は、あんなに威勢がいいくせにな・・・。


知らずに微笑みが浮かび、ちょっと迷ったが、
そのままドアを押して、
真っ直ぐ佳代子の席の隣に立った。


「今、時間いいか?」


すぐ側にいきなり大男が立ちはだかったのを見て、
佳代子が電話を置きながら、
びっくりして一瞬引くのがわかった。


「や、仁!おどかさないでよ。
 いいわよ、何?」


佳代子の口調は、前と全く変らなかった。
詩織の話と違うじゃないか・・・。

それが安心したような、つまらないような気分だったが、


「原稿の話だ。」


ん?何のこと?

そういう顔だったが、先日チェックをもらったコラムだろうと、
佳代子が、引き出しの中のファイルを掻き回している。


「じゃ、あっちに座っててくれる?」


仁が、指差された、奥のミーティングルームに座っていると、
佳代子が先日、新聞に掲載されたコラムを持って急いでやってきた。
 

「このコラム、評判良かったわ。
 取引先の方に出会って、あれ面白かったですって、
 わたしがほめられちゃった。」

「ありがとう。
 あのオタクの兄ちゃんにもほめられて、
 もう一本書いてくれって頼まれた。」

「いいじゃない。是非書いてよ。
 会社の宣伝にもなるし、仁の名前も覚えてもらえるわよ。」


「そうだな。
 じゃ、もう一回くらい頑張ってみようか。」


仁が座って壁をみつめたまま、答えた。

日焼けした横顔のあごの線がかすかにこわばっているようで、
佳代子は不審に思った。


どうしたんだろう?
何だか無表情だわ・・・


「原稿ってそのこと?」

「ああ、それと、佳代子が俺に依頼しただろ?」

「したっけ?」


仁が佳代子の顔を見た。


「社内広報誌に何か、書けって言わなかった?・・・」


一瞬、佳代子がぽかんとした顔をしたが、すぐに


「あ~~あああ、アレね。
 した、した。

 んじゃあ、来月号は役員紹介って決まってるから、
 さ来月の分、お願い。

 テーマは何でもいいわ。
 こっちが決めた方が良ければ、何か提案する。」


開発部がらみの話で行くか、それともマレーシア赴任中のことで
コラムに書かなかったことをまとめてもらうか、
どっちがいいかしら・・・


佳代子がどんどんしゃべるのを、仁は黙って聞いていたが、
急にふっと口元を緩ませた。


「やっぱり止める。」


佳代子の口がまた開きっぱなしになり、呆れたような顔になった。


「どうしたよの。仁・・・
 自分から言い出したのに。」


「悪い・・・。
 正直に言うと、さっき、昔のお化けに出会って、
 急に佳代子の顔が見たくなっただけなんだ。

 佳代子がしゃべるのを見てたら、
 何だか気がすんだ・・・」


そう言って、照れ隠しに前髪を片手で掻きあげると、
佳代子の顔を見て微笑んだ。

真っ白な歯がこぼれる。


「・・・・」


佳代子は一瞬、びっくりしたような顔をしていたが、
見る間に頬がぽうっとピンク色になって来る。


ほう、確かにウブだな・・・
可愛い。


佳代子がピンクに染まって行くのを見ながら、
抱きしめたくなるのを懸命にこらえた。

個室のミーティングルームとは言え、ここは会社だ。


「今日は何時に終わる?」

「え?」

「軽く一杯行かないか。」

「あ、ああ、いいわよ。
 何時でもいい。仁に合わせる。」

「じゃ、7時前に『文洋堂書店』のあたりに居る」


佳代子のうなずく顔を見ながら、勢い良く立ち上がると、
早足で広報室のドアをどんどんと出て行く仁を
後輩がびっくりした顔で見送った。


・ ・・ったく。
顔が普通になるまで、席に戻れないじゃない・・



佳代子はひとりミーティングルームに残って、
ファイルで顔をあおぎながら、
資料を整理するフリをしていた。





退社後、二人で落ち合ってからは、
仁が昔よく行ったと言う居酒屋でビールを飲み、
周りの喧噪に負けないよう、沢山しゃべった。


「・・・毎日そんなにトレーニングしていたのに、
 いきなりマレーシアに放り出されて、
 ラグビー抜きの生活になったら、調子悪くならなかった?」


「マレーシアは、割にラグビーが盛んなんだ。
 多民族だから、太平洋に浮かぶフィジー島からも
 選手を集めているんだが、見事な体格の選手ばかりでね。
 
 他にキッズラグビークラブもある。
 何度か招かれてコーチにも行ったよ。」


「へえ、ラグビーって、国際的なスポーツなのね。」


「ああ、世界的競技人口は野球より圧倒的に多い。

 それに東京本社にいる時より勤務が楽だったから、
 夜は結構トレーニングの時間があった。
 現役の時とは違う体にしようと思って、
 根本から筋肉を作り替えた・・・」

「ふうん」


佳代子は目の前に座る仁の胸板や、大きく盛り上がった腕まわりに、
無意識に目をやったが、
筋肉の張りがシャツの上からも見てとれ、
スポーツ選手そのものに見えた。



どこをどう作り替えたのか、わかるわけないわよね。



そんな佳代子の視線を面白そうに見ながら、


「これでも二回り以上細くなったんだよ。
 体重も10キロ以上落とした。
 以前は太もも周りだけで60cm近くあったから。」



60cm!

私のウエストと大して変らないじゃない・・・。



そう考えると、目の前の大男はやはり只の大男じゃないのだと
改めて実感してきた。

なんだか、マッチョなのね。


「触ってみる?」



え?


仁が佳代子の手をとって、自分の胸の上に置いた。
触ると弾力があって、思ったよりしなやかだ。

不意にぴくぴく・・・とした動きが感じられて、
びっくりして手を放すと、仁がおかしそうに笑った。


「ちょっと動かしただけだろ。そんなにあわてて放すなよ。」

「別にあわててないわよ」


佳代子があせって、余計早口になった。


「え~っと、じゃあ、それなりに充実した生活だったんだ。」

「まあ、そう言えるのかな。
 いつもどこかに招ばれてて、暇だったって記憶はあまりないな。」



部屋に帰った後の、
呑み込まれるような空虚感については触れなかった。

それを佳代子に言っても重いだけだろう・・・。


いつの間にか佳代子の顔は、部分的なピンク色から、
全面的なバラ色に変っていたが、
仁は全く顔に出なかった。


「お酒、強いのねえ・・・」


少々怪しくなってきた佳代子が感心しながら、仁を見上げる。


「言ったろ、容れ物がでかいんだって。
 佳代子とは比べ物にならないさ」


それじゃ、完全に酔っぱらわせてしまう前に、
そろそろ出よう・・・


仁がそう言うと、立ち上がった。






店の外に出ると、かすかに梅の香りがする。

こんな繁華街の真ん中のどこに梅が・・と思うと、
近くに小さな神社があり、そのお社の脇に
夜目にも紅い梅が幾つか咲いていた。


ここから香ってきたんだ・・・。

どこか酸っぱいような梅の香りを吸い込んで、
ふらりと仁の方を振り向くと、空を見あげていた。

今夜は月まで、おぼろに霞んでいる。


「送って行こう・・・」



「大丈夫よ。仕事でもっと遅い時だってあるのよ。
 一人で帰れるわ。」



「仕事で遅い時は一人で帰ったらいいけど、
 俺と飲んで足元がふらついている時は送って行くよ。」


仁が笑って、軽く佳代子の背を押すと、
駅に向かって歩き出した。



「今週は、うちのラグビーのリーグ戦がある。
 久しぶりに応援に行くつもりだ。
 佳代子も行くんだろ?」

「ええ、行くつもりよ。」


自分の顔が赤くなっているのを自覚しているのか、いないのか、
上気したような顔のまま、佳代子が答えた。


「じゃ、来週。」

「え?」

「来週の週末、空いてる?」


佳代子はまた、目を大きく見張って、どぎまぎしたようだが


「ああ・・・今のところ、何にもな・・」


仁が佳代子の語尾をさえぎり、


「じゃ、遊びに来いよ。」


仁の眼差しはまっすぐだった。

人が絶えず通り過ぎる駅に向かう路上で、
佳代子は立ち止まってしまった。


「仁・・・そんなプレッシャーかけないでよ。
 心臓が止まっちゃうわ。」


ははは・・と仁が嬉しそうに笑った。


「いや、気持ちが変っていなければ、それでいいんだ」


言いおくと駅の雑踏へと足を踏み出し、
促すように佳代子の方を振り向いた。

佳代子も地下鉄の入り口へと近づいた。



佳代子がいつも利用している駅は、会社を中心として新橋とは反対側だが、
二人で会社の前を通り過ぎるのは避けたいので、
ここから、電車に乗り込む。


地下鉄で渋谷まで出て、井の頭線に乗り換え、
一駅行ったところで、もう一度乗り換えるとすぐに
佳代子の降りる駅だった。


ここから自宅まで15分ほど歩く。


「仁、ここまででいいわ。もう帰れるもの・・・」

「酔っぱらいはみんなそう言うんだ。
 自分は酔ってない、大丈夫だって・・・。
 いいから、送って行くよ。」


二人で歩き始めると、いつもの道なのに、
通りすぎる家の内側から、急に犬が激しく吠えついてきた。


「ひっ!」


佳代子は驚いて息を呑んだが、
傍らの仁は落ち着いたものだ。


「何だよ、恐がりだな。いつも犬に飛び上がってるのか?」


面白がっている調子さえにじんでいた。

仁が犬をにらむと、ウウ~っと低くうなる。


「いつもは、こんなところで吠えられたりなんかしないのに・・・」


言い訳がましく仁を見たが、
このでかい体格が犬を刺激したんだろうか。


「うちまでって道がわかりにくいのよ。
 仁は一人で駅に戻れないんじゃないかしら・・」


曲がり角を過ぎながら、佳代子がつぶやいた。


「俺の心配はしなくていい。方向感覚は抜群なんだ。」


典型的な住宅街を歩きながら、人影のない道を見回して、


「ここを歩いて帰っているのか。
 ちょっと物騒だな。」

「いつもは、こんなに遅くないから、
 もう少し人通りがあるのよ。」


10時をかなり回って、住宅街を行くのだからと
少し声をひそめた。


夜道を二人の足音だけが響いていく。

急に、闇の中から花の香りが強く漂って来た。



老梅だろうか・・・・こんなにも濃く香るとは、
こんな夜には、妙に悩ましく感じる。

闇の中に形が見えるかと思う程、強く香ってくるようだ。



すぐ側を歩く仁のせいで、
わたしが神経過敏になっているのかな。

佳代子は不意に胸がどきどきして、
足元まで、ふわふわと落ち着かない気分になった。



狭い歩道を縦に並んだり、横に並んだりして歩くうち、
佳代子の家が角を入ったところまで近づいたところで、
立ち止まって仁の方に振り向いた。


「あの、もうすぐ家なの。
 この角を入ったところよ。
 ここまで送ってきてくれてありがとう。」


仁も立ち止まって、佳代子の家の方向を
すかすように見ていたが、くるりとこちらに向き直った。


「もう着いたのか・・。意外に近かったな。
 じゃ、おやすみ!」

「おやすみなさい・・・」


仁が手を振って、あっさりと背中を向けるのを
佳代子は道に立って見送っていた。

大きなシルエットが2、3歩、大股に歩き出したが、
何を思ったか、振り向いてこちらに戻って来る。


「??」


佳代子は首をかしげながら、待っていると
仁が風のように歩いて来た。


「どうしたの?」


佳代子の問いには答えずに、腕を伸ばすと
いきなり胸の中に抱き取った。


「!!」


自分の背中に力強い腕が回るのを感じると、
もう口づけられていた。

分厚い胸にぎゅっと押し付けられて、
唇までふさがれると、息が止まりそうだ。

佳代子の体が空気を求めてもがくのを
ぎりっと抱きすくめて身動きひとつさせない。


急に抱きしめる力がゆるむと、佳代子が大きくかしぐのを
仁が支えてくれた。


見上げるとすぐ上の顔がはらりと笑顔に崩れる。

一度、佳代子の額の髪を撫でると、そのまま体を放して、
ちょっとの間見つめていた。


「じゃ、またな!おやすみ・・・」


やや、ぶっきら棒に大きな手を上げると、くるっと向こうを向き、
今度こそ、どんどんと大股で大きな影が遠ざかって行く。

路上に取り残された佳代子は、立っているのがやっとだった。


どうしよう。
今夜は眠れそうにないわ・・・。


自分の手で頬を包みながら、何とか足を引きずって、
家への角を曲がって行った。

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