AnnaMaria

 

セピアの宝石  14

 

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仁につかまれた指の痕は、なかなか消えなかった。

赤くなり、青くなって、周囲が黄色いあざになり、
週の終わり近くにようやく薄くなったが、
胸のキスマークより、ずっと後まで残っていた。

仁には見せないようにしていたのだが、
週明け、アンサンブルのカーディガンを脱ぎ、
ノースリーブで仕事をしていた時に、不意に仁がやってきて、
すぐ佳代子の二の腕に目を留めた。



「・・・・」



しまった、と思ったがもう遅い。

仁は何も言わなかったが、一瞬、
佳代子の顔を見つめる視線が強くなったので、
会社というのにドキドキしてしまった。



仁はコラムのチェックと称し、定期的に広報室に現れる。

佳代子に姿を見せると、電話中のときは、
自分からさっさと奥のミーティングルームに引っ込んで、
待っているようになった。

ミーティングルームでは、コラムの内容や、
他で受けたインタビューの話を淡々とし、
それほど長い時間を費やすことなく、引きあげる。

二人の様子に大きな変化はなく、
単に仕事の話だけをしているように見えるが、
「お佳代」が「佳代子」になり、
どうかして、二人が顔を合わせた瞬間、
実に親密な雰囲気が漂うのは隠せない。



「じゃ、ここの連載は、あと3回なのね。
 でも『アジア経済』からも『流通工業』からもコラムの依頼が来ているの。
 それも仁を名指しでよ。」

「全部、適当に断ってくれ。」

「ダメよ!『アジア経済』さんは、
 うちの新製品の特集を組んで下さるんだもの。
 社長だってインタビューを受けるんだから、
 仁も協力しなさいよ。」

「かんべんしてくれよ、これ以上の時間は割きたくない・・」

「あら、社長より忙しいとは言わせないわよ。」


会社での佳代子は、てきぱきと案件を片付け、
誰に対しても、きっぱりと仕事を要求する。





「じゃ、お願いね!」

強引に約束を取り付け、笑顔で立ち上がった佳代子が、
憮然としてドアに向かう大男を見送ると、
ドアを開けたところで仁が振り向き、ぎゅっと拳をかためて、


「この礼は、高くつくぞ・・」


低い声で言うと、眉をひそめ、佳代子に拳を見せつける。

佳代子が鼻の頭にしわを寄せ、い~~っとして見せると、
仁の腕がしゅっと空を切って伸び、


「覚えてろよ・・」


不敵に笑って去って行く。

その様子を、うっかり広報室の他の面々にも見られてしまった。

佳代子も急に恥ずかしくなり、持っている資料に目を落としたまま、
そそくさと自分の席に帰ったが、
他からの視線を感じずにはいられない。

二人がどういう関係か白状しているようなものだ。


広報室は社内の情報が集まりやすいところで、
口の軽い人間では仕事にならない。

そのせいか、佳代子よりずっと年若い女子社員も、
1年下の同僚も何も言わなかったが、
かといって、何も見なかったわけではないのを知っていた。



佳代子は自分が赤くなったり、
そわそわしたりするのを恐れて、
社内ではなるべく、仁と顔を合わさないようにした。

開発部の隣にある資料室に行くときも、
いったん別のフロアを通って、反対側の階段から入る、という
ややこしいことをし、詩織と仁のランチにもあまり合流しない。

反対に詩織が、開発部のプロジェクトを営業的に検証する担当となり、
仁のところに頻繁に現れ、部屋の中でも外でも打ち合わせをし、
昼食も一緒にとっている姿が見かけられるようになった。




「あ~あ、あんたの彼とランチしてると、太りそうだわ。
 ラグビーやめたのに、あんなにご飯食べていいの?」


佳代子とランチの時、詩織がそうこぼした。


「ラグビーやめてないわ。またトレーニング始めてるわよ。
 詩織と食べてると、俺より早く食い終わっているから、
 驚いたって言ってたわよ。」



「ふん、早いかもしれないけど、あんなには食べませんからね。
 それにしても、開発部って感じ悪いわ。
 わたしが入って行ったって、由加ちゃんともう一人くらいが挨拶する程度で、
 あとの連中は、頭が2cmくらい、やっと動くかどうかのごあいさつよ。

 わたしが部長だったら、挨拶のやり方からたたき直してやるのに。」


詩織はおかんむりだが、佳代子が入って行った時には、
誰もこっちを見もしないことすらあるのだ。

詩織は入るなり、大きな声で挨拶するので、
仕方なく、開発部の面々も頭を動かしているのだろう。

開発部はあちこちからの引き抜きというか、寄せ集めというか、
チームワークより、個々に結果を出すことを至上命題にしている部署だし、
部長は滅多に席にいない。




「ね、仁、いい加減止めて、今日はこの辺で飲みに行かない?」



ある時、仁、詩織、アシスタントの由加、
さらには珍しく、仁と同じプロジェクトを担当している開発部の小田島が加わり、
4人で資料の検証をした後、詩織が言い出した。


由加と小田島は、期待したような面持ちで仁を見たが、



「無理だな。今日、これを片付けないと間に合わない。
 また、今度」



あっさり断った。


「ふうん・・・しょうがない。
 じゃあ、お先に失礼するわ。」


立ち上がった詩織があたりを見回すと、
由加が少し光る目で自分を見ている。

詩織はにっこり笑うと、ほんのちょっと頭を傾け、
人差し指を曲げてみせた。

詩織が部屋を出ると、由加もついてくる。

適当なところで、くるりとふり返り、



「ねえ、頑張ってるみたいだけど、大丈夫?
 ずっとここにいなくたっていいのよ。
 あの部屋、空気の通りが悪いじゃない?」


さばけた調子で切り出すと、
由加が思いつめたような顔で、詩織に向き直った。


「あの・・・実は、お聞きしたいことがあるんですが・・」


人差し指に髪の先をくるくると巻きつけていた詩織は、
手を放して、まっすぐ由加に向き直った。


「なに?何でも聞いて・・・」


得意の営業スマイルを浮かべてみせた。


「あの・・・詩織さんは、その・・
 仁さんが好きなんですか?」


聞いた瞬間、詩織は大声で笑い出したくなったが、
目を閉じて両手で唇を覆い、何とかごまかした。

一度、大きく息を吸うと、


「好きよ・・・大好き」


と、何とか真顔で答える。

聞いた由加の方が、今度は息を吸い込む番だった。


「そうなんですか・・・」


由加の大きな茶色の目が、不安に揺れ動いている。



可愛い顔してるのに、鈍いのね。
自分にとって仁が最高だから、皆が仁にメロメロに見えるのかしら・・・。



だが、そんな考えはけぶりにも出さず、由加の顔を見つめた。


「仁はいい男だから、しょうがないわ。
 でも、由加ちゃんは仁のアシスタントでしょ?
 仁をサポートしてあげないとね・・・。

 じゃあ、今度こそ、お先に!」


詩織はにっこりと大きな笑顔を見せると、
くるりと背を向け、フロアを横切って行った。


もうしばらく、お佳代をそっとしておいて欲しいもん・・・。
せいぜい、わたしを恨んでてちょうだい。

背中に向けられた視線にも、詩織は振り向かなかった。






仁がミーティングルームでそのまま資料をめくっていると、
小田島がまだ席を立たずにいる。

仕事は正確無比、余分なことはほとんどしない小田島が
何も手を動かさずに、仁を見つめているのに気づいて、



「どうした?」



仁から声をかけた。


「あ・・いや、こんなことを聞くのは何ですが・・・」


言いにくそうに、何度もメガネに手をやる。
白くて、繊細そうな指だ。

仁は改めて、小田島に注意を向けた。

自分より2年後の入社で、長身痩躯だが、仁よりこぶしひとつ低い。

色白で整った顔立ちに華奢なフレームのメガネをかけ、
有名進学校、国立大学の最高府を優秀な成績で卒業、と聞いていた。

数字に強く、真面目で几帳面だが、
強烈な上昇志向の持ち主ともわかっている。
もっともそれは小田島に限ったことではなく、
開発部全員がそうだ。

以前は仁に対して、やや敵対的な雰囲気だったが、
由加がアシスタントになって以来、ぐっと態度が変わった。

小田島自身は、アシスタントを一切頼らず、独力で仕事をこなしている。



「大場さんは、詩織さんと付き合っているんですか?」



意外な質問が意外な人物から出たので、驚いた。


「そう見えるのか?」



まっすぐに問い返すと、



「いや、そうでもないですが・・」



小田島の返事に、仁はおかしくて、ぷっと噴き出した。



「よかった、俺と詩織がラブラブに見えるのかと焦ったよ。」



笑いにごまかして、その勢いで席を立とうとしたのだが、
小田島はまだぐずぐずしている。


「まだあるのか?」

「いや、じゃ、あの・・・酒井さんとはどうなんですか?」


は~ん、こっちが聞きたかったんだな・・・


自分の質問に赤面して、横を向いている小田島を見ながら、
仁は立ち上がりかけた腰を、もう一度椅子におろした。


「酒井由加は、俺がアシスタントを頼んで、彼女の上司に了解をもらい、
 一時的に開発部の俺の仕事を手伝ってもらっている、
 というのは、知ってるよな。」

「ええ」



小田島の顔は不安そうだが、視線は揺れなかった。



「個人的にアシスタントを頼んだ女性を口説いたら、
 セクハラの上、パワハラにもなるだろう。
 いや、全く何もないよ。」


「そうですか・・・」



その返事と共に浮かべた笑顔の素直さに、
こいつはそれほど、すれてないのかも知れない、と仁は好感を持った。



「いや、仕事の邪魔をしてすみませんでした。」



今度は自分から席を立ち、足取りも軽く(仁にはそう見えた)
小田島がミーティングルームを出て行った。








「仁!行くぞ!」


がしっと体中の骨に感じる衝撃。

ボールが回る、つかむ、走る、蹴る!
自分の蹴ったボールが青空にむかって、すうっと小さくなるのを
仁は懐かしい気分で見送った。

体と体のぶつかる鈍い音が内側から聞こえた時、
自分がまたフィールドに戻って来たのを実感する。



佳代子が泊まった翌週から、仁はラグビーを再開し、
日曜の午前は大輔のいるクラブチームに加わって、
トップリーグ時代とはまた違うラグビーを始めた。

久しぶりに、思いきりグラウンドを走り回り、
大声を出して転がり合うと、
なんとも言えない充実感が体の中から涌いてくる。





「しばらくいい天気が続いたな。」


練習が終わり、大輔が声をかけてきた。

妻君に抱かれたまま、
うれしそうに手を振りながら近づいてくる子どもの姿に、
目を細めている。


「ああ、気持ちよかったよ。
 ここはいいグラウンドだ。
 初日から雨の中で泥まみれになるのは、ヘビーだからな。」

「ここのチームは雨天時、練習なし。
 各自、筋トレに励むということで・・・。

 小雨はともかく、グラウンドが荒れるし、
 風邪ひいて、仕事に支障をきたしてもマズいからな。」

「ああ・・・」


うなずいた仁が完全には納得していないのを知りながら、
大輔は言葉を次いだ。


「ぬるいと思うか?」



仁は笑って答えなかった。
 
大輔は、妻の腕の中から懸命に手を伸ばしてくる子どもを抱き上げながら、



「いろんなラグビーがあるさ。
 それでもラグビーが好きだから、俺はやりたいんだ。」


仁はうなずく。
大輔の子どもは、うれしそうに父親の頬を触っている。


「由加ちゃんは今日、珍しく用事で来られないし・・・。
 お前、週末はさぞヒマだろうな。
 そのうち、襲いに行くぞ。」

「無用な気遣いだ。お前は真菜ちゃんの相手をしてろ。」

「ははは、そっちはちゃんとするから大丈夫さ。
 そ~れ、行くぞ、行くぞ!じゃあな、仁。」


きゃっきゃっと笑い始めた娘を軽く揺すりながら、
大輔があいさつを促すと、小さな手が仁に向かってひらひらと揺れた。
隣の夫人も仁に向けて挨拶をする。

仁も軽く頭を下げると、手を振りかえした。





「大場さ~~ん!
 駅まで乗って行きませんか。」


今朝、紹介されたばかりのメンバーたちが、車の脇で手を振っている。

まだ20代前半と見える者もいる。

近づいて行くと、ごつい男たちの隣に、
華やかな女性たちが立っている。

恋人の太い腕に手をおいたまま、陽気に笑っている女性もいたが、
仁が現れると、女性たちの関心が一斉にこちらに向いた。


「大場さん、ここに入ったんですね?」



明るい栗色の髪をした女性が、まぶしそうに仁に問いかけてくる。



「ええ。今後はよろしくお願いします。」



仁が微笑んで挨拶をすると、女性陣の中を、
声にならないさざ波がひろがった。


「一緒にお昼をいかがですか?」



別の女性が、遠慮がちに声をかけてきて、
顔見知りの年長メンバーが、仁の肩に手をかけた。



「来いよ、仁。ちょうどいい顔合わせになる。」

「ぜひ一緒に行きましょう。僕の車に乗って下さい。
 今日はひとりで来ましたから・・・・」


若手の一人がそう申し出てくれたこともあって、
仁は合流することにした。





練習後のランチは楽しかった。


「ひゃあ、うまいっ!
 僕は、このビール飲むためにラグビーやってるんですから。」

「俺だってそうだよ。」

「あら!それで、わたしを運転手に欲しくて、朝からたたき起こすのね。」

「いいじゃん。元々、智代はそれほど飲めないだろ?
 頼むよ・・・。」


GFの機嫌を取りながら、無骨な顔が赤くなる。


隣のテーブルでは、大人が食事をしているそばで、
小さな子どもたちが潜りっこをして、遊んでいた。

「こらっ!行儀悪いぞ。
 お前もラグビー始めたんなら、紳士になれ。」

若い父親が、大きな手で息子の襟くびをつかまえている。


その様子を微笑んで見ながら、
練習後のこんなひとときからも、しばらく離れていたのを実感した。

仁にとって帰国とは、本社に戻るだけでなく、
ラグビー仲間の元に帰ることでもあった。


このクラブは、トップリーグ引退選手もいるが、
直接ここのメンバーになった者の方が断然多い。
半分近くは20代の選手だ。

それぞれ、高校、大学等でラグビーをやってきて、
トップリーグには進まなかった者たち。
フィールド上でずっと敵として戦ってきて、
ここで初めて味方になった選手もいる。


勝つ為のラグビーと違い、仕事や個々の生活を優先しながらの練習なので、
正直、練習のやり方に、とまどいを感じる点もあったが、
その分、大らかにラグビーを楽しもうと言う雰囲気がある。

皆、ラグビーが好きで、集まっているのだ。


「仁さんはマレーシアでもラグビーやってたんですか?」

「ああ、キッズラグビーのコーチに何度か行って、
 その縁で、現地チームに入れてもらってた。」

「へえ・・・どおりで、ブランクを感じませんでした。」

「いやいや・・・」


同席した女性が何人か、仁に話しかけてきたが、
適当に相づちを打って、ごまかした。



いつか佳代子をこの場に連れてきたいな・・・。



そう思いつつも、ここにいる女性たちと
佳代子の雰囲気が微妙に違うことを感じる。

小さな子どもが交じったテーブルにいる女性達の笑顔のほうが
ずっと気楽な気がして、仁はテーブルを移りたくなった。


このクラブでの、自分の役割は何だろうと考えながらも、
久しぶりに体に直接感じた手応えに、
仁は、自分はラグビーから離れられないのを再認識した。

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