その週も半ばを超えたころだった。
福島へ出張していた仁が、ようやく社に戻って来たのが夕方近く。
戻るなり、早速、小田島が作成し直した資料に目を通す。
今夜も長くなりそうだった。
すでに7時半をまわり、社内の半数は退社していたが、
開発部で帰ったのは、部長付きの事務の女性だけ。
ガタン!
という音がして、仁がふと顔をあげると、
すぐ近くの机に座っていた、酒井由加が立ち上がろうとしている。
その様子がゆらゆらと心もとなくて、仁が声をかけようとすると、
ガッタ~~~ン!
椅子ごと床にひっくり返って倒れた。
「由加ちゃん!」
一番近くにいた仁が走りよって、由加を助け起こした。
顔色が真っ青で、額に汗が浮いている。
小田島は元より、開発部の他のメンバーも驚いて駆け寄って来た。
「だいじょうぶですか?」
「頭打ったかな。」
「あまり動かさない方がいいんじゃないか。」
「救急車を呼びますか?」
口ぐちに言って、仁に抱えられた由加の様子を心配げにのぞき込む。
仁が見たところ、呼吸は短く、手足は冷たかったが、
完全に意識がなくなっているわけでもないようだ。
「小田島・・・」
仁は由加を抱えたまま、あごで奥の応接室を指すと、
小田島が心得て、ドアを開け、奥にあったスツールを急いで並べる。
とりあえず横になれる場所といえば、ここしかない。
徹夜して、ここで仮眠を取る者もいた。
仁はぐったりしたままの由加を抱え上げると、応接室に入り、
並べられたスツールの上に横向きにそっと下ろした。
意識がもうろうとしているのか、顔色が真っ青で、目を閉じたままだ。
栗色の髪が汗でこめかみにべったり貼り付いている。
仁は着たままだったジャケットを脱いで、素早く由加にかけると、
「頭を高くできるものがあれば・・・」
あたりを見回すと、
小田島が出て行って、由加のひざかけを小さく畳んで戻り、
そうっと由加の頭を持ち上げ、その下に滑り込ませる。
由加はされるままにぐったりしている。
「保健室が・・・今頃、開いてるわけないな。」
社内には看護士が常駐する保健室があるものの、
退社時間を過ぎた今は、とっくに閉め切られているだろう。
仁のつぶやきに、
「警備室で鍵を借りて、毛布をもらってきます。」
言いおくと、すぐに小田島が部屋を後にした。
仁は由加を一人で休ませた方がいいか、ちょっと迷ったが、
小田島が毛布を持ってくるまで、付いていることにした。
ハンカチを取り出して、噴き出している額の汗を拭ってやり、
「由加ちゃん・・・だいじょうぶか?
吐き気はする?」
仁が由加の肩にそっと手を置いて、話しかけると、
すみません・・・という消え入りそうな声が聞こえた。
「疲れてたんだな。
ここのペースに付き合わせてしまってすまなかった。
少し休んで気分が回復したら、車で帰るといい。
明日は無理するなよ。」
仁が由加の腕をとんとんと叩いて、立ち上がろうとすると、
「仁さん・・・」
弱々しい声がまた漏れた。
「なんだ?」
汗にまみれた顔の中で、瞳が半分くらい開かれた。
「この間の・・・日曜日。
誰といっしょだったの?」
思ってもいなかった質問に仁は一瞬たじろいで、
何と答えようか迷っていると、
「毛布を持って来ました。具合はどうですか?」
小田島がベージュの毛布を抱えて、部屋に入って来たので、
その質問には答えずじまいになった。
小田島は、仁のジャケットを取ろうかどうしようか、迷ったようだが、
結局、そのまま毛布を広げて、すっぽりかぶせる。
「しばらくここで休んだ方がいい。
帰れるようになったら出ておいでよ。」
小田島が声をかけた。
ずいぶん親しくなったらしいのが、その口調でわかる。
「何か温かいものでも飲む?」
重ねて小田島が声をかけると、
由加は何か言いたそうに、真っ白な唇を少し開いたが、
結局、そのままかすかに首をふった。
由加の休んでいる応接室の扉を閉め、
仁と小田島が部屋の外に出て来ると、
他の面々も心配そうに声をかけてきた。
「大場さん、彼女、だいじょうぶですか?」
途中入社組で、ふだん、ほとんど雑談に加わろうとしない者まで
心配そうに聞いて来る。
何と言っても由加は、この開発部の可憐な花だったのだ。
開発部でアシスタントを頼んでいるのは仁だけではないが、
頼まれた女性たちの多くが、ここの居心地の悪さを嫌い、
自分の部署で開発部の仕事をこなす方を選んでいた。
開発部にいる時間の方が長いのは、由加だけである。
部長付きの女性は五十過ぎだし、
部長について別の部署に回ることも多かったから、
開発部にいる若い女性は由加だけで、
優れて可憐な容貌に秘かに癒されたり、憧れたりしていたのは、
小田島だけではなかったらしい。
滅多なことで自分の席を立たない男たちが立ち上がって、
落ち着かなげに応接室のドアを見つめていることでもわかる。
「このところ、どんな様子だった?」
出張でずっと留守にしていた仁は、小田島に尋ねた。
「あんまり元気なかったですね。
疲れがたまっているのか、週の初めからずっと顔色が悪くて
昼もあまり食べなかったように思います。」
「そうか・・・」
部下の不調は、管理者である仁にも責任がある。
知らず知らず、負担を強いていたのかと反省したが、
先ほどの『誰といっしょだったの?』という言葉を思い返し、
大輔たちに急襲された朝を思い出した。
大輔から何か聞いたのか、それとも・・・あの時、もしかすると・・・。
そう言えば、大輔からも電話をもらっていたが、
出張続きで話をする機会がなかった。
ちゃんと話をしなければならないんだが・・・。
山積みの仕事を見上げながら、仁は軽くため息をついた。
1時間ほどして、やつれた様子の由加が、
仁の上着を手に応接室から出て来た。
「ご迷惑、かけました・・・」
お辞儀をした顔色は、先ほどの紙のような色からは少し回復したものの、
全体に憔悴した感じが漂っている。
心配そうな開発部の面々に見送られて、
身支度を終えた由加を、仁と小田島が通用口まで送って行った。
「由加ちゃん、家はどこだっけ?」
「吉祥寺です。」
「そうか・・・ひとりで大丈夫かな。」
「僕が送って行きます。同じ方向ですから・・・」
仁と由加がいっしょに小田島の顔を見た。
「そうしてくれるか?」
「いえ、ひとりで大丈夫です。ここから車で帰りますから・・・」
由加は固辞する素振りを見せた。
「僕は助手席に乗るから、後ろでゆっくりしたらいい。
吉祥寺の近くになったら、声を掛けるよ」
小田島は由加を安心させるように言った。
「でも・・・」
迷うように仁の顔を見ている。
「今日はそうした方がいい。
自宅までずっと気を張っているより、少しは楽だろう。
じゃ、頼むよ。」
「はい。」
由加の目がまだ不安げに揺れているような気がしたが、
仁が微笑みかけると、由加もあきらめたようにうなずいた。
会社前の道路から、小田島が手を挙げて車を拾い、
二人が乗り込むところまで見送ると、ひとり席に戻った。
コラムの反響はすぐにやってきた。
仁のラグビー入門コラム「ラグビーへようこそ」は、
ラグビーという分野に限った記事にも関わらず、
掲載先の毎朝新聞HPに少なくない数のメールが寄せられた。
多くは大場仁、現役時代の活躍を知るファンからのもので、
応援、期待、感想などを熱くつづったものもあった。
社内的には、イントラネット(社内ネット)掲示板で地味に広報しただけだが、
ネット情報のスピードを思い知らされる広がり方で、
仁の社内アドレスには、すぐに感想メールが何通も舞い込んだ。
「おい、仁!
いきなりこんなこと始めやがって、俺は全然聞いてないぞ。
ちゃんと書かねえと承知しねえからな。」(大輔)
「仁さん、
ネットコラム読みました。
ラグビー関連のコラムがこんな形で掲載されるのはうれしいです。
これからも頑張って下さい。」(元チームメイト)
「仁、読んだ。
これからも読むから、さぼらず書くように。」(社長)
・・・・
最初はいちいち、御礼のメールを返信していたのだが、
あまりにしょっちゅう舞い込むので、
同文の御礼メールを、返信するだけにとどめることにした。
でないと仕事にならない。
初回では、このコラムを書くことになった経緯と、自己紹介。
自分なりに感じている、ラグビーの魅力を述べ、
より多くの人に、ラグビー場に足を運んでもらうためのコラムだと結んだ。
佳代子が遠慮がちにつけたおまけ。
<はじめのい~っぽ>
(タイトルがベタ過ぎると、仁に強く反対されたのだが・・)
15人いるラグビー選手が、主にフォワードとバックスに分かれていて、
それぞれ、プレー、練習法、体格から性格まで違うことを説明。
「『ナンバー1、3』
今回取り上げるのは、『プロップ』と呼ばれるポジション。
でかくて、一目でラグビー選手、とわかるのは、
フォワードの中でも、プロップの選手が多い。
見た目はごつくても、力持ちで情に厚く、
彼がそばにいれば、痴漢も害虫も決してよりつかない、
頼りがいのある、タフガイなのだ。
(大食漢が多いのが玉に瑕)・・・」
このおまけは、ラグビーをよく知らない読者に向けたのだが、
実際はプロップ関係者からの反響が多く、
「タフガイは良かったが、女性には優しいと付け加えてくれ。」(現プロップ)
「彼のポジションがプロップ、骨折経験が2回もあるので心配です。
でもとっても優しくて、頼りがいのある人です」(プロップ大好きさん)
「息子のポジションがプロップです。
練習から帰ってくると、一度に食パンを一斤全部食べてしまうので困ってます。」
(プロップの母)
初めてとあって、掲載後は反響の早さと大きさに慌てたが、
仁と佳代子はメールで話し合い、簡単な対応を決めた。
「毎朝新聞さんは、毎週っておっしゃったけど、
隔週で助かったわね。」
「毎週なんて、到底、ネタを探せない。
月一でも良かったくらいだ。」
「次までは書いてあったっけ?
仕事が詰まってきたら、書けなくなるわよ」
「そうなったら、佳代子が何とかしてくれ。」
仁のメールに「それは無理よ」と返したものの、
開発部のプロジェクト立ち上げが迫っていることを考えると、
あながち、あり得ない事態でもなかった。
来週の経営会議にかけるために、
追い込みの真っ最中なのだ。