AnnaMaria

 

セピアの宝石  20-2

 

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田並とは1時間後に落ち合う約束をして、仁たちは開発部に戻った。

開発部に残って気をもんでいた面々が、一斉にこちらを振り向く。


「仁さん・・どう・・」


若手が言いかけるのに、仁が大きく親指を立てて、破顔すると
全員が席から立ち上がり、


「ひょ〜っ!やった!
 これで今日は帰れるな。」

「いやあ、祝杯を上げすぎて帰れなくなるんじゃないか?」

「このメンツは見飽きたから、別の顔と一緒に飲みたいよ」

「それを言うなら常務の顔が見たかったな。部長はどうした?」

「うちの部長か?それとも『影の部長』か?」



どっと爆笑が起こった。

由加が立ち上がって、仁と小田島のところにやってくる。



「おめでとうございます。良かったですね。」



笑顔で仁をみつめると、小田島の顔が一瞬、くもった。


「由加ちゃんには大変な負担をかけた。
 俺の仕事なんか手伝うんじゃなかった、と後悔しただろう?
 本当によくやってくれた。ありがとう。」


「いえ、大変でしたけど、楽しいこともありますから。
 一緒に祝杯をあげに行くんでしょ?」


由加が周りの面々を見渡すと、少し当惑したような顔が返ってきた。


「会議が通ったってことは、仁さん、さっそく、上海に行くんですよね?」



若手の一人が仁に問いかける。



「ああ、今夜の便だ。
 田並さんと一緒に行くから、俺の分も祝っておいてくれ。」

「そうなんですか・・・」


由加の瞳の輝きが、また消えてしまった。

そこへ、

「おめでとう!やったじゃない、みんな!」



大声と共に入って来たのは、詩織だった。



「仁ったら、逆転トライを決めたじゃない!
 よくあの状況からひっくり返したわね。
 この!この!も〜う、心配してたんだから・・・」



詩織が仁の分厚い胸板に、ごんごんと肩を打ち付けてくる。
仁が後ずさって除けながら、


「俺じゃない。ここのみんなだ。詩織もよく手を貸してくれた。
 ありがとう。」


詩織は満面の笑顔で答えながらも



「ありがとうって言葉だけじゃ、全然足りないわよ。
 もっと態度で示してくれないと。」


計算高そうに、目をぱちぱちさせてみる。


「わかった。そのうち、この気持ちを態度で示す。
 だが、今日のところは見逃してくれ。」

「遅くなると、利息を付けるわよ。高いわよ〜。」



人差し指を顔の前でゆらし、恐ろしい笑顔を浮かべた。


「恐いこと言うなよ。
 ケツのあたりがむずむずして、ここに居られないじゃないか。」


仁は笑いながら手をふると、勢いよく開発部を出て行った。




階段を思いっきり駆け下りて行きたいところだったが、
浮かれていると思われてはいけないので、
慎重に一段ずつ階段を下りて、2階へ行く。


広報室のドアを開けると、室長の机の脇に経理部長が座り込み、
経営会議のニュースがすでに伝わっているのがわかった。


「おう、仁!おめでとう。
 よう会議を突破できたな。
 もうあかんかと思たわ。」


室長の正直な感想に、仁は苦笑いした。

他に二人いる広報室のメンバーも
「おめでとうございます」と声をかけて来る。

佳代子だけが、困ったような、怒ったような、
泣き出しそうな・・・なんとも複雑な顔をしていた。

仁は微笑まずにいられない。

他の面々がいるのは、わかっていたが、
ずかずかと佳代子の机に近づいた。


「ちょっと出られるか?」


佳代子が周囲を見回すと、すばやく皆、目をそらして、
仕事に没頭する振りをする。


「じゃあ、5分だけ・・」


小声で答えて、席を立つ。

仕事中、正直に顔を赤くしている佳代子を連れ出すのは、
なんだか気がとがめた。




別フロアにある、開発部の小会議室の札を「使用中」に替え、
佳代子を連れ込むと、後ろ手にドアを閉めた。

しばし、黙って見つめ合う。


「おめでとう・・・。」



佳代子が小さな声でつぶやいた。



「ありがとう・・。」



言うと同時に、仁の指が伸びていた。

2、3度、佳代子のあごの下に触れると、左腕で佳代子をぐっと引き寄せ、
思い切り抱きしめる。

長い髪が仁のジャケットにはらはらとこぼれかかった。
佳代子は目を閉じて、じっと仁の肩にもたれている。


「いろいろとご協力ありがとう・・・」


腕の中にむかって仁がつぶやくと、佳代子が顔を押し付けたまま、
小さく首を振った。



「佳代子のおかげだ。 
 弁当も、もっと他のエネルギーも・・・」



佳代子がますます仁の肩に顔をおしつけた。

髪がつやつやと光って流れ、白い首筋が誘うようにほの見えた。
そこに口づけたいのを我慢して、仁は頭のてっぺんに軽く唇を押し付ける。


「おい、しばらく会えないから、もう一度エネルギー充電させろよ。」


佳代子がぱっと顔をあげた。
蛍光灯の光が、佳代子の黒目に映っている。


「いつ行くの?」

「今夜だ。準備はしてあったから、このまま出発する。」


佳代子から目をそらさずに告げた。


「田並さんと?」

「そうだ・・・」


佳代子の体を、まだしっかり抱きしめたままだ。


「いつ帰ってくるの?」

「交渉がまとまり次第。
 日曜日に戻りたいが、悪くすると月曜にずれ込むことになる。
 待っててくれ、いいな。」


返事を待たずに、あごを上向けると、強引に口づけた。

たちまち佳代子の体がぐんなりと力を失って行く。



まずいな・・・。



そう思いながら、仁は自分も目を閉じて、佳代子の感触に酔っていた。



離したくない・・・。



佳代子にまわした腕に力を込めながら、
何度もキスを交わす。

やっと唇を離すと、佳代子の額が仁のあごをかすめ、
視線が下に降りて行った。


「すぐ帰ってくる。
 向こうにいる間は、連絡できそうにないが、
 帰りの飛行機に乗る前に連絡する。」


佳代子の頭が何度か揺れて、さらさらと長い髪が音を立てた。
佳代子の髪の匂いが立ち上ってくる。



「そんな風にしてると、入社したばかりの乙女みたいだな。」



佳代子が目をあげて、仁を見た。



「もう『近寄りがたい処女』じゃないけどな・・」



笑いながら仁が言うと、佳代子が腕を振り上げて、
仁をぶとうとするのを、さっとつかまえて手首を握りしめる。


「怒るなよ。
 今の方がいいんだから・・・」



からかうように、すり寄るように、柔らかく唇をこすりつける。

佳代子の体のこわばりがまた解けて行くのを、仁は感じ取った。


「佳代子、好きだよ。
 俺を待っててくれ。」


待ってるわ・・・。

やっとか細い声が、佳代子ののどから漏れた。



「ちゃんと俺のことを考えて待っててくれよ。」

「そんなこと約束できないわ。」



佳代子が困ったように言うのへ、甘えるようにささやく。


「俺は仕事以外の時間は、ずっと佳代子を思い出してる。」

「どうかしら?」

「ほんとだよ。少なくとも、今度の出張はそうなりそうだ。
 すごくタフな交渉になりそうだし・・・」


佳代子の目がまたまじめさを取り戻して、じっと仁を見つめた。


「大変ね」

「大変なんだよ。だから、もっとエネルギーをくれ。」


誘うように、佳代子のあごに手を触れて促すと、
しばらく佳代子がもじもじしていたが、
やがて自分の方からそっと唇を寄せて来た。


仁は目を閉じて、佳代子を味わった。

それからそっと離すと、口元をほころばせて、にっと笑顔を見せる。

こうすると佳代子が困ったように顔を赤らめるのを知っているのだ。

案の定、佳代子が困ったように見つめてくる。
その顔を見ているだけで、愛しさがこみ上げて来た。


「佳代子は可愛い。
 このまま連れ出したいくらいだが、そうも行かない。
 残念だ。」


仁が低い声でささやくと、佳代子が恥ずかしそうに微笑んだ。

なんていい笑顔だろう。
白い花がほころんだみたいだ、と仁は感心して見ていた。


「いってらっしゃい。待ってるから・・・」



しなやかな指が仁のあごに軽く手を触れると、ついに仁の体を放し、
佳代子が会議室のドアを開けた。

会議室を出ようとすると、すぐそばに小田島が立っていたので、
佳代子は飛び上がりそうになった。

佳代子の後ろから仁がぬっと姿を現し、小田島を見ると


「どうした?」



と声をかけてきた。



「いえ、田並さんと一緒かとやって来たんですが・・」


邪魔してすみません。

言葉を切って佳代子を見ると、佳代子は見る見る赤くなった。



「じゃ、いってらっしゃい。わたしはこれで失礼します。」



小田島の目を見ないよう、軽く会釈をすると、
佳代子が遠ざかって行く。

後ろ姿を見送った小田島が呆れた顔で


「なんだ、詩織さんじゃなかったのか。」

「お前の目も節穴か。」


仁は上機嫌で答えると、佳代子の後ろ姿を見送っている。
もう小田島に、隠すつもりはなかった。


「で、なんだ?
 お前にもお別れの挨拶をしてやろうか。」


仁が軽口をたたくと、小田島の方が目をそむけて顔を赤くした。


「露骨ですね。あれじゃ、彼女がお気の毒です。」

「なに、どっかを散歩してから、席に戻るだろ。」


仁はしゃあしゃあと返した。すっかり気分が軽くなっている。
小田島を促して、もう一度会議室の中に戻った。


「いや、助かった。
 あの資料は役員の度肝を抜いていたよ。」

「完全に正確な数字とは言えませんがね。」


滅多に感情を表さない小田島が、照れたような笑顔を見せた。


「ほんのしばらくしか見せてやれないのが、
 残念なくらいの出来だった。」

「仁さんこそ、よくぞ、田並さんを引っ張り込みましたね。」

「俺じゃない。元工場長の上海支店長だ。
 それに田並さんも、ここらで常務から離れて一旗あげたいんだろう。」

「でも、手柄は田並さんに持って行かれますよ。
 今後3年間の売り上げや利益の伸びは、彼が出したことになるでしょう。」

「かまわない。
 田並さんはリスクを冒して、このプロジェクトに賭けてくれた。
 それに適役だ。
 俺は人事部に行かなくてすみそうかな。」


仁がまじめな顔をして、小田島を見ると、
愉快そうに小田島が笑った。


「ああ、アレを真に受けたんですか。
 スポーツマンってやっぱり単純だな。」


むっとした顔で、仁が小田島をにらみつけた。


「引っ掛けたのか。」

「いえ・・」


小田島は端正な顔立ちに、うすく笑いを浮かべていた。


「そんな選択もあるかも、という話を叔父としただけです。」

「ひどい奴だ。」


今度こそ、小田島がおかしそうに声を上げて笑った。

「素直ですね。」

小田島の皮肉は聞こえなかったことにした。


「俺が留守の間、いろいろと後を頼むよ。」

「任せてください。
 今日はみんなと軽く飲んで、仁さん抜きでお祝いし、
 明日の夜は早く帰って、週末はゆっくり休ませていただきます。」

「おいおい・・・俺は徹夜で、
 強欲な中国人と交渉してるかもしれないんだぞ。」


東京にいる身には、どうせ何もできませんからね。
せいぜい英気を養っておきますよ。
そうだ、映画でも見に行こうかな。


小田島のつぶやきに、仁が反応した。


「誰と行くんだよ?」


小田島はちら、と仁の顔を見ると、少々気弱な表情を浮かべた。


「それはまだわかりませんね。」

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