AnnaMaria

 

セピアの宝石 その後 「春を待ちながら」 前編

 

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仁と佳代子の新生活は、夏の日差しが収まった頃に始まった。

佳代子の体に負担をかけないこと、を最優先した結果、
仁の住むお台場のマンションに、佳代子がそのまま引っ越して来る形になった。


「わたしの荷物なんか入れたら、せっかくの部屋の雰囲気が壊れちゃうでしょ。」


完璧に整えられ、インテリア雑誌から抜け出たような仁の部屋を見て呟いたが、
仁はまるで取り合わなかった。


「まったく気にすることはない。
 俺の物はそれほどないから、佳代子の荷物くらい入るよ」


二人とも都内に実家があるので、荷物を全部持ち込む必要はなく、
入り用なものを持ち出しながら新生活を始めたから、
それほど物は多くない。


「でもこれ兄貴の一人仕様になってたからね。
 うふふ。当分結婚する気なんかないって言い張ってたのよ。
 おねえさんが来てくれるなら、少しレイアウトを変えないと。」


部屋のあちこちを見回しながら、スケッチブックにさらさらと
図面を描き付けているのは、仁の妹、インテリア・コーディネーターの茉莉だ。

佳代子より三つ下だが、まるで遠慮するところがない。
細身できびきびと動き、くるっと頭を振る度にショートボブの毛先が揺れる。


これはデキル・・・。



最初に会った時の印象は間違っておらず、佳代子とはすぐに打ち解けて、
専任アドバイザーを引き受けてくれている。


「わざわざ新しい家具とか入れなくても、このままで十分・・」

そうね。



茉莉は小首をかしげながら、ポケットからさっとコンベックスを取り出し、
しゃがんだり、伸びたりして、あちこちの寸法を測って回る。


「おねえさん、お気に入りの家具とかあるの?」

「う〜ん、強いて言うなら、引き出し付きのティーテーブルかしら。
 一応アンティークなの。」


ここに描いて。

茉莉からスケッチブックを突き出され、ええとこんな感じかな、と焦りつつ、
形状を描きおえると、茉莉がふうん、と頷いた。


「何が入ってるの?」

えっとそれは・・・。


女二人を部屋に残し、自分はベランダからお台場の海を見ている仁を気にして、
小声で


「お気に入りのチョコとか、お茶とかがしまって・・」

「ああ、わかったわ。」


茉莉がくすりと、いたずらそうな笑顔になる。


「うちの兄貴より大事なチョコとのスイートタイム用ね。」

「ちょっ、茉莉さん」声が大きいわ。

「いいの、いいの。
 兄貴が恨めしそうに言ってたのがおかしくって覚えてたの。
 じゃあ、寸法計って来て。縦と横と高さと・・ね?」

「はい」って、どっちが年下なんだか。





かくして、佳代子のチョコレート用ティーテーブルも
無事にここへ持ち込まれたのだ。

あれから半年以上経ち、佳代子のお腹もかなり目立つようになってきている。


「おねえさんは、つわりとかってなかったの?
 チョコレート嫌いになったりしてない?」


それが・・・。

全然嫌いになってなかった。
むしろ大好きなチョコを食べると気持ちがほっと落ち着いた。

体に負担をかけないよう、仕事帰りにはなるべくまっすぐ帰宅するので、
以前のように自由にチョコの味見ショッピング、とは行かない。

でも大丈夫。

最近は有名ブランドチョコの通信販売網が発達しているのだ。
この部屋に直接送ると仁に気づかれてしまうので、
会社の広報室止めで送ってもらい、厳重にくるんでこっそり部屋に持ち帰っている。

しかし、最近の産婦人科の医者は、妊婦の体重増加に厳しい。


「いいですか?体重が増加すると妊娠中毒症を引き起こしやすくなります。
 くれぐれも食べ過ぎに注意して、必要以上の高カロリーは避けて下さい。
 特に、甘いものの食べ過ぎは厳禁ですよ。」


検診の度に口うるさく言われているものの、チョコレートは
精神安定に必要不可欠である。
やめる気なんかなかった。

仁の出張で寂しい夜など、最初はこんな高層マンションで、
ひとり過ごせるのかと不安だったが、
一人きりと割り切ってみれば楽しみは色々ある。

お台場のきらめく夜景を横目に、ゆっくりとコーヒーをいれ、
大事な一粒を味わいながら、すっかりご無沙汰になってしまった
ブログの更新をする。

佳代子とお腹の子どもを気づかって、出張先からも何かと連絡してくる仁には内緒だけど、
これはこれで楽しい!

ただ以前に比べて、すぐに眠くなってしまうのが、妊婦らしいと言えば言えた。



朝は仁と一緒に部屋を出る。

仁は一時、自転車通勤をしていたようだが、身重の妻と暮らすようになってから、
佳代子を気づかって、また電車に切り替えている。

朝日にきらめく海を眺めながら朝食を摂って、駅までゆっくり歩き、
レインボーブリッジの上から、東京湾の景色を堪能しつつ、
汐留のビル群へ吸い込まれて行く。

ゆりかもめからの眺めは、ここに住んで何ヶ月経っても、
胸のすうっとする光景に違いなかった。

朝、お台場から新橋方面に向かうゆりかもめは、さほど混み合わないが、
仁は佳代子の体を常に気づかっている。
何かというと肩を支えたり、手をつないだり。
ちょっと混み合った朝には、すっぽり自分の体で覆ってしまった。


「そんなに揺れないから大丈夫よ。」

「揺れた時にどうするんだ。」


仁がそう言った拍子にゆりかもめがガタンと止まり、一瞬、佳代子がぐらつくと、
当然、と言った顔で、仁が佳代子の体を抱き寄せる。

ね?と言った表情の仁が憎たらしいが、これほど頼もしい体もない。

出張で仁がいない時は、頼りなく感じられるほど、
佳代子は、仁と一緒の通勤に慣れてしまった。

新橋に着くと、会社のある内幸町まで歩いて行く。
周りを行く通勤の人たちはみんな早足で、
ゆったり進む二人連れを次々と追い越して行く。

あたりの空気を読めない邪魔者だと、迷惑そうな視線を投げつけられることもあるが
焦って転ぶよりずっといい。

佳代子は妊娠して初めて、自分と同じようにゆっくり進むお年寄りや、
妊婦、子ども連れなどに目が行くようになった。

せわしい街なかをゆっくり歩くのは難しい。
それでもゆっくり歩かざるを得ない人々がこんなにも居ることに、
初めて気づいたのだ。


会社に近づくと、

「よっ!同伴出勤!」

背中から大声がかかり、一瞬身がすくむ。

詩織が仁の背中をバン、と叩いて、

「まったく、朝から見せつけてくれるわね」と毒づくのへ、

「おお、うらやましいか?」

仁はまるで平気だ。

やがて会社の通用口に着くと、仁が小さく佳代子に手を挙げて、
ここからは大股でさっと消えて行く。

早朝ミーティングがあるのだ。

仁の上司、執行役員の田並は、完全朝型人間で、会社に7時に来ているらしい。
そのせいで、朝、始業前にミーティングを済ませることが多く、
詩織もよく引っ張りだされている。

佳代子は、始業時刻より大分早い仁の出勤時間につきあっているのだ。

この時間、広報室の鍵もたいてい開いている。


「おはようございます。」

「おはよう。また亭主に付き合って早出か?
 まあ、ウチは助かるけどな。
 毎朝、手えつないで出勤て、ほんまに仲のよろしいことで・・・。」


一度、仁と手をつないで歩いているところを室長に見られてしまい、
それ以来、何度からかわれていることか。


「室長は年のせいで、早く目が覚めちゃうとかですか?」

「わし?わしは朝の方がはかどる。」


室長のキーボードタッチは未だにやや怪しい。
それを見られたくないがために早く出勤して、書類仕事を片付けているのだろうと
佳代子は踏んでいた。


「なあ、お佳世はいつまで来られる?」



雨だれのようにふぞろいなキータッチの後ろから、室長が聞いた。



「3月半ばで産休に入らせて頂きます。」

「ほうか。」


自分が抜けた後、広報室がどんな体制になるのかはわからないが、
約一年の育児休暇開けには元の職場に戻すこと、というのが会社の規定である。
ともかく一度は、ここに戻って来られるだろう。

幸い、ほとんどつわりらしいものがなく、体調は良かったが、
時々眠くてたまらない。

広報室の全員に妊娠のことは告げてあった。
恥ずかしくても、時に迷惑をかけることを考えると知らせないわけに行かない。

重い雑誌を運ぶ、プレスルームで長時間立ちっぱなしでいる、
などという業務からは、さりげなく外してもらった。



一方の仁は多忙を極めていた。
田並執行役員直轄の海外事業本部、海外生産部の課長となったが、
当初の部下は4人だけ。

仁が開発部から引き抜いてもらった小田島と営業出身の若手ふたり。
アシスタント役の女性がついたのは、仁の海外出張が頻繁なせいだ。

仁の不在時、ほとんどの仕事は小田島が算段して、片付けてしまうが、
彼も一日中、デスクにしがみついてもいられないので、
どうしても連絡係兼、事務処理担当者が必要となる。


仁の出張は、マレーシア、ベトナム、中国とアジアが圧倒的に多く、
長くても3〜4日ほどのことが多いが、いきなり飛ぶ。

結婚当初はそのたび実家に帰ったりしていた佳代子だが、
着替えや、会社から30分もかからない近さもあって、
仁のいない時でも、お台場から離れないことが多くなった。

お台場にはスーパーが一軒しかないが、二人暮らしを賄うには十分だ。

絶対に重い物を運ばない、と仁に約束させられているので、
毎日、会社の帰りにちょっと寄っては、小さなビニール袋を提げて帰る。



一度、佳代子がセールの文字に釣られて、ついつい買い込み、
両腕に買い物袋をぶら下げて、うんしょと部屋に帰ったあと、
急にお腹が張りだし、これはマズいと慌てて横になっていたところに、
珍しく仁が早く帰って来た。

着替えもしないまま、ソファに横になっている佳代子を見て、
ぎょっとすると、すぐに近寄って来て、


「大丈夫か。すぐ病院に行く?」

心配そうな顔で訊く。

「大丈夫よ、お腹が張って、すこうし痛くなっただけ。
 頑張って買い物しすぎちゃったから・・・」


よいしょっと胸のうちで声をかけ、佳代子は身を起こしかけた。

生ものだけは取りあえず冷蔵庫にしまったものの、
残りの買い物はテーブルの上に置いたまま。
きちょうめんな仁には気持ち悪いだろう。


「今、片づけるから・・・」

「いい。そのまま寝てろ。俺がやるから・・」

「でも・・」



なおも言いかけた佳代子に、仁がひとにらみした視線が厳しくて、
佳代子は言うなりに横になった。

仁は手早く、テーブルのものを仕舞うと、佳代子のそばにしゃがみこむ。


「なんでこんなに一度に買ったんだ?」

「って、安かったし、いずれ要るものだから・・・」


仁はソファに座って、佳代子の頭をひざに載せると、


「いいか、よく聞いてくれ。
 今後は絶対重いものを持ったり、無理をしないと約束してくれ。」

「仁、ごめん。でも・・」

「これはとても大事なことだ。
 医者も言っていただろう?
 妊娠中毒症の恐れがあるから、過労や睡眠不足、重いものを持つのはいけないと。
 佳代子がそれを守ってくれないと、俺は心配で仕事ができない。」

「・・・・」

「佳代子ひとりの体じゃない。
 お腹の子と俺のためにも、かならず約束してくれ。」


仁の口調はおだやかで、やさしく髪を撫でながらの言葉だったが、
従わずにいられないような真剣さがあった。


「わかったわ。」

「2度としないな?」

「2度としないわ。」


よし、佳代子を信じる。

仁はそう言うと、優しい笑顔で佳代子をひざに抱き上げ、
後ろから首すじに頬を寄せて来た。


「佳代子・・・」


仁の声は甘くなり、耳のそばを熱い息がかすめてきたが、
佳代子の中では、さっきの仁の言葉がまだ響いている。

仁って、人を言う通りにさせてしまう力があるわね。

頼もしい胸に抱き取られながら、佳代子はうっとりと目を閉じた。



仁は料理の心得が少々あるようだが、忙しくて、ほとんど作る機会はない。

佳代子もそれほど得意とはいえなかったのを、料理本を見たり、
実家の親に習ったりしながら、何とか工夫して食卓を整えると、
気持ちいいほど、仁が片端から空っぽにしてくれるので、うれしかった。

ただ、平日は仁の帰りが遅いので、夕食を一緒にできる日は多くない。
あまりに帰りが遅いと、待ちきれずに眠ってしまうこともある。


仁が帰ってきたらしい音で目覚める時もあるが、
どうにも眠くて起きられず、ベッドから出て迎えてあげられない夜もある。



「佳代子の体調最優先だから、無理に起きて待っているな」



仁は、いつも言ってくれる。

それでもベッドに入ってくると、仁はかならず佳代子をたくましい胸に抱きしめてくれた。


「おかえりなさい」

眠そうに目を閉じたままつぶやく佳代子に


「ただいま、佳代子」


仁の声は限りなく優しい。
大きなぬくもりに包まれながら、愛しい声を間近に聞く時間が一番幸せだ。

佳代子の耳が可愛い、と髪をなで、耳のふちにキスをしてくれる。
くすぐったくて、少し身を縮めると、
今度は首すじのとくんとくんと脈打つところにキスをする。


「ここは、ヴァンパイアの好きなところだ」


キスのあと、小さく歯を立てられると、
眠っていても、体のどこかが目覚めてくる。


「俺のたまごはどうかな?」


佳代子のふっくらと丸くなったお腹に、そうっと大きな手を這わせる。


「ちゃんと運動してるか?」


仁が話しかけると聞こえたかのように、お腹の赤ん坊が小さく佳代子の腹を蹴る。


「あ!」



ははは・・、俺の声が聞こえるんだな。
出て来たら、うんと遊んでやる。


「仁にもわかったの?」

「俺のてのひらをびくんと蹴ったよ」

「うふふ、すごく暴れるのよ。出て来たら大変かも。」


そうか、出て来たら別々に相手しなくちゃいけないから、
今はこうしてまとめて抱いておこう。こっちを向けるか?


佳代子がじたじたと寝返りを打って、やっと仁に向かい合うと

「佳代子・・・」

名前を呼ばれて、いっとき見つめ合い、やわらかい唇に塞がれる。
温かい波が満ちてくるように、体いっぱいに幸せが広がって行く。

キスにうっとりしているうちに、無骨なくせに器用な手は、
そろそろと柔らかなふくらみを確かめている。

いっとき、唇が外れた隙、

「仁・・・」

とがめるように呼んでみる。


し〜〜っ、静かに。
これから、お楽しみを開けてみるからな。

佳代子のネグリジェの前を外し、大きく開いて行く。

胸の先に冷たい空気を感じて、一瞬皮膚がちりっとするのへ、
もう熱い唇が胸いっぱいをふくんで、片方の手が優しく、
重さを確かめるように豊かになった胸をなぶり、なでて、つかみあげる。


「あ・・・」

「すごく・・・やわらかい。また大きくなったな。」


仁は佳代子のお腹を避けて、上手に上半身によりかかり、
豊かに張り出した白い乳房に顔を埋めている。


「じ・・・ん・・・」

「大丈夫だよ。医者はまだいいって言ってたからな。」

そんな・・・いつ聞いたの?

「さあ、いつだろう。」


仁が胸への口づけをやめようとしないので、佳代子の声も途切れがちだ。

手の方はさっさと佳代子を確かめに回っている。

妊娠してからと言うもの、体がいつも熱く火照り、
触れられるとすぐに充血して、ふくらんでくるのが自分でもわかった。


「ほら、俺を待ってる。佳代子・・・」

は・・・んん。


器用に佳代子を横向きにして、すぐに入ってくる。
大きな仁の体を、佳代子がなめらかに受け止めると、
ゆっくりあやすように揺れ始める。





7ヶ月の安定期を迎えると、少しずつ新入りの準備を整え始めた。

ベビーベッドはラグビー部の先輩夫婦から、
小さな産着まで一緒にゆずっていただいた。

赤ん坊用のチェストを一つ増やして、青いカーテンの陰にしまうと
仁の整然としたクローゼットが見える。

きちょうめん。
と言うのか、仁の場所はどこも整然としている。

佳代子にこれをどこへ置け、とか、
あれを元に戻せ、と指示したりすることはないが、
だまっていつの間にか、元の場所へと戻されている。

それぞれの置き場所がきちんと決まっているらしく、
気に入らないものはいつの間にか部屋から姿を消し、
あるものはきれいに整理されていた。



結婚前から気になっていた、仁のぴかぴかの靴。
ついに本人に訊いてみた。


「仁は靴が好きなの?」


訊かれたのが一瞬意外そうだったが、すぐに、



「ああ、好きなのかな。
 というより、俺に合うサイズで
 好きな靴を見つけるのは難しいんだよ。
 だから、見つかるとすぐに買ってしまう。
 靴屋も心得たもんで、俺が好きそうな靴をどっかから出してくるんだ。
 
 一度買ったら、割に大事に手入れして、
 長持ちするようにしている・・・かな。
 外で磨いてもらうこともあるよ」


仁のシューズ・クローゼットは、きちんと手入れされ、
鈍い輝きを放つまで磨かれた靴がそれぞれ木型をはめられて、ずらっと並んでいる。

開けると靴クリームのロウがかすかに匂っているくらいだ。

反対側の、スニーカーや、ラグビーシューズがしまってある場所も、
ドロを落とし、整然とならべられているので、
自然、佳代子も靴に気を使うようになってきた。

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