AnnaMaria

 

セピアの宝石 「桜月」

 

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大安の日曜日とあって、ホテルのロビーは華やかだ。

留袖の一行が通り過ぎたかと思うと、濃いブルーやピンクのドレスを着た
娘たちの一団が笑いさざめいていく。


合間に袴を履いた女子学生とその家族が立ち止まって、
母親らしい婦人が娘の髪飾りを直している。


仁はロビーの柱にもたれて、その光景を眺めながら、
色とりどりの金魚が行き交う大きな水槽みたいだと思った。


すいすいと泳ぎ渡るもの、つんと澄まして進むもの、
ぱたぱたと急ぎ足で通り過ぎるもの。


銀鼠の羽織に仙台平の袴をつけた老紳士が、杖を突きながらも胸を張って、
エラそうに進んで行った。

大股に歩いて行く右手に握った黒に金巻きの杖先が、
ロビーの椅子から立ち上がりかけた老婦人に当たったらしく、
老婦人が小さく声を上げ、べちゃりと前のめりに倒れた。


威張った紳士はまったく立ち止まることなく、悠然と行き過ぎて行く。

仁はすぐに駆け寄って、強い腕で助け起こした。


「だいじょうぶですか?」


すぐそばに、老婦人のものとおぼしき暗紅色の杖が落ちている。

片手で老婦人の体を支えながら、空いた手ですばやく杖を拾ったが、
体がなかなかまっすぐに伸びず、自力で起き上がれない。


迷った末に仁は、カーペットの床から老婦人を両腕に抱え上げると
近くに空いた場所はないかと見回した。

少し先のソファに座っていた中年の婦人が席を立ち、
場所を空けてくれるのが見えたので、大股で歩いて行き、
そうっと布張りのソファに下ろすと、そばに杖を置いた。


「お怪我はありませんか。」


声をかけてから、老婦人の足をのばさせ、大きな体を屈めて、
足元にひざまずいた。

老婦人の口からは、まだ痛そうに「つつ・・つ」とうめき声がもれ、
足首を気にしているようだ。

ぶどう色のスーツに真っ白な髪を結い上げた上品な老婦人で、
痛そうに顔をしかめているものの、顔立ちは整っている。

仁が老婦人の足首に触れて、どこが痛むのかを確かめようとした時、


「おばあさま!どうしたんですか。」


驚いた声がかけられ、ダークスーツの男が飛び込んで来る。
老婦人の足元にかがみ込んでいた仁を、一瞬、とがめるようににらみつけた。


「何をしたんだ?」


鋭い非難の言葉を浴び、仁は老婦人の足首を離して立ち上がった。


「おばあさまに、ぶつかりでもしたのか?」

「ちがうのよ。おやめなさい・・・」


うめき声だけを発していた唇から、存外しっかりした声が出され、
そろそろと右手を伸ばしたので、仁がソファに立てかけたあった杖を渡した。


「こちらの方は、わたくしが倒れたところを助けて下さったの。
 お礼を言って下さいな。」


凛とした声に若い男はひるんだようで、


「それは大変失礼しました。わたしはてっきり・・」

「相変わらずの早合点ですよ。
 わたくしが無様に床に倒れたのを抱えて、ここまで運んで下さったの。
 重かったでしょ?」


老婦人は落ち着きを取り戻したらしく、ゆったりと仁に微笑みかけた。


「いえ、何でもありませんよ。ご覧の通り、体のデカイだけが取り柄ですから。」


仁が微笑み返すと、老婦人は改めて感心したように仁を見上げた。


「まあ、頼もしいこと。そう言われれば、本当にご立派な体格ですわ。
 うちの友也もこれくらいたくましいと安心なのにねえ。」


孫らしい男の小柄な体つきを眺めて、ため息をつくと、
孫は苛立たしげに体を震わせた。


「それより、おばあさま。足首かどこかを痛められたのではありませんか。」

「そうねえ。もしかしたら、ちょっとやっちゃったかしら」


友也と呼ばれた若い男は改めて、老婦人の足元にかがみ込もうとした。


「こちらの方は、わたくしを軽々と抱えて、ここへ下ろしてくださったのよ。
 ちょっとお姫様になったみたいな気分だったわ。」


上品な顔立ちにいたずらそうな微笑みが浮かんでいるが、
それを聞いた孫は苦笑を隠しきれない。


「おばあさま、お姫様だなんて・・・」

「あら、そういう気分になった、って言うだけよ。
 よろしいじゃない。ね?」


うきうきと仁に笑いかけてくる。


「あの・・・友也さん、おばあさまが、どうかなさったの?」


男性の斜め後ろから、柔らかそうなドレス姿が近づくのが見え、
仁もつられて、そちらに顔を向けると、「あっ」と小さく息を飲む音がする。

硬直してしまった姿を見返すと、仁がかつてよく知っていたはずの女性が立っていた。


「・・・・」


口に手を当てたまま、棒のようにこちらを凝視する彼女へ


「久しぶり・・」


落ち着いた声をかけて、老婦人に軽く会釈をし、
「ではこれで・・」と何気なくその場を離れようとしたが、


「お知り合いなの?笑舞(えま)さん。」


怪訝そうに問いが放たれて、仁は足を止めざるをえなくなった。


「はい。いぜん、同じ会社にいた者です。」


名乗らずに済ませようとしたが、男がかがみ込んでいた腰を伸ばし、
こちらを不審気に見つめてくる。


どうしたものか・・・。
彼女は俺に会いたくなくて、逃げ回っていたんだよな。


「大場くん・・・」


相変わらず、貫禄と威厳をにじませた声で呼びかけられ、
堂々と近づいて来る姿を見て、仁は観念した。


そばに立ったロマンスグレーの紳士と、
あからさまに不機嫌な視線を向ける婦人の姿へ向き直る。


「ご無沙汰しております。」


元義父母へ会釈すると、おさえた声が返ってきた。


「こんな処で会うとは奇遇だね。どうしたんだ?」


どう説明しようかと、仁が一瞬言葉を飲んだところに、


「わたくしを助けて下さったのよ。
 礼儀知らずの年寄りがわたくしに杖をひっかけて、床に転んだところを
 素早く抱え上げて下さって、すごく助かりましたわ。

 さあ、あなた方からもお礼を申し上げて・・」


きっぱりとした命令に、元義父は一瞬、虚を突かれたようだったが、


「それはどうも。義母(はは)を助けて下さって御礼を申し上げる。」


仁に向かって頭を下げたが、元義母はあいまいに顔を伏せたものの、一向に声は出ない。

沈黙が漂いそうな場面に、ひとり老婦人だけがニコニコと陽気だ。



「ねえ、よろしかったら一緒にお茶でもいかがかしら?
 笑舞さんと同じ会社の方だったのでしょ。
 いろいろと懐かしいお話もあるんじゃなくて。

 ほら、あなたからもお誘いして・・ね?」


老婦人の声は柔らかだったが、どこか命令調子で、
他の者が困惑しているのが感じられる。


この孫息子には、俺が誰だかわかったのかな?

老婦人の命令と無表情の笑舞にはさまれ、困ったような男を見て、
仁はひそかにおかしくなった。


「いえ、僕は連れを待っているところですので、
 どうかお気遣いなく。
 それより早めにお医者にいらした方がよろしいかもしれません。」


「まあ、ありがと。
 あなたが一番、わたくしを気づかってくれているようね。
 でしたら、なおのこと・・・」


老婦人はうれしそうに言って、他の者の渋面にはいっこうに気にならないようだ。
仁がかなりお気に召したらしい。



「仁・・・」


向こうから姿を現した仁の待ち人は、
今や大きなボールを抱えているみたいだったが、弾んでは来られない。
廊下からこちらへと、ゆっくりゆっくり歩いてくる。

近づくにつれ、丸くふくらんだお腹と満足そうな笑顔がはっきりと見えて来た。
手に銀色の紙袋をぶら下げていて、足取りだけは慎重だ。

当然だ。
万が一にも走ったり、無茶をしたら、二度とどこにも連れ出さない、と脅してある。



「ずいぶん、早かったね。」


仁が微笑んで、ちらりと皮肉を言うと佳代子が照れたように笑った。


「だって、天才ショコラティエのピエール・エヴァン本人が来てたのよ。
 わたしのお腹を見て、さっと椅子まで用意してくれて、
 次々とお皿にチョコを入れてくれるんだもん。
 断って中座するなんて、どうしてもできなかったわ。」


そこまで一気に話し終え、たどり着いた仁の太い腕に無造作につかまると
ようやく辺りの妙な雰囲気に気づいた。


「あの・・・仁。お知り合いに会ったの?」


小さな声で尋ね終わる前に、固まっている笑舞の姿が佳代子の目にも入った。


「まあ、笑舞ちゃん!びっくりだわ。ひさしぶりね。」


驚いた勢いで、元後輩につい声をかけてしまった。
彼女とは同じ広報室で1年ほど一緒に仕事をしていたのだ。


「佳代子さん・・。お久しぶりです。」


笑舞は固い表情でぎくしゃくとお辞儀をすると、
佳代子の大きなお腹を凝視し、仁に目をやった。
びっくりしているようだ。


何度か口をぱくぱくさせた後、


「あの、もしかして・・佳代子さんが、大場さんと・・」

「そう。実は去年、結婚したの。」


佳代子が顔を赤らめながらも微笑んで答えると、笑舞が小さく息を飲むのが聞こえた。

笑舞は元夫と佳代子の結婚を全く知らなかったらしい。
自分が置き去りにした男が、すでに再婚して、さっさと妻をはらませていたとは
想像もしていなかったようだ。


「もう、おめでたなんですか」

「ええ、来月の予定なの。
 笑舞ちゃんは、あの・・・」


佳代子は自分たちを取り巻く、フォーマルな一団を見て、
何と言い当てたものか迷っていた。


「娘は本日、こちらの笹川くんと『結納』を交わしたんだ。
 笹川くんは医師で、ご実家の病院に勤務されている。」


佳代子の問いを引き取って、元義父が自慢気に答えた。


「そうですか、それは誠におめでとうございます。」


佳代子が祝いの言葉を述べると、傍らで仁も丁寧に会釈した。


「ありがとう。しかし大場君のところこそ、おめでたのようじゃないか。
 こんなに早く落ち着いているとは全く知らなかった。」


嘘をつけ。
今も常務とたびたび会っているのは承知している。

仁の結婚のこともきっと知らされているに違いないが、
妻や娘には黙っていたのだろう。


「まあ、良かったこと。じゃあ、みなさん、お知り合いなのね。
 こんなところで話し込まずに、お茶でも頂きましょうよ。

 友也、席が空いているかどうか、すぐ見てきてちょうだい。」


孫息子にあっさり言いつけると


「大場さんとおっしゃるの?
 本当にご立派な殿方で、お似合いのお二人ですわ。
 ご主人は何か運動でもなさってらしたの?」


屈託なく佳代子に尋ね、本当にカフェに走って行ったものか、
友也がためらって行きかねているのを、さっと片手で追い立てた。


「ええ、ラグビーです。ですが、もうわたしたちはこれで失礼致しますので・・」


佳代子がにこやかに答えて、仁の肩に触れ、微笑みかけた。


「まあ、ラグビー!どうりでご立派だこと。
 実は、わたくしの弟が日本で最初のラグビーチームに参加しましたのよ。
 宮様もご覧の試合で・・」


あの・・・。


佳代子は口をはさもうとしたが、老婦人の勢いは止まらなかった。
いつも自分の命令を聞いてもらうのに慣れているようだ。


仁の元義父までもが立ったまま、老婦人の説を拝聴していたが、
元義母だけは、露骨に横を向いている。


「友也にも何かスポーツをやらせていれば良かったのに。
 お勉強ばかり押し付けるから、体も心ものびのびとしないじゃありませんか。」


元義母の方にちらりと目をくれた。


「お誘いは嬉しいのですが、妻はあまり長い時間、外にいないようにと
 医者から固く言われております。
 そろそろ引き上げる頃合いですので、これで失礼致します。
 どうぞ、お気をつけて。」


仁がすばやく割り込んで、佳代子の肩をそっと支えた。


「あら・・残念。」


老婦人はきれいに口紅の塗られた唇をとがらせ、
お気に入りのおもちゃが取り上げられてしまうような顔をした。


「では、失礼します。
 どうぞ、お幸せに。」


佳代子が頭を下げると、一同からぎごちなく会釈が返ってきた。

一瞬、沈黙が落ちたあと、


「佳代子さんもお体に気をつけて、元気な赤ちゃんを産んで下さい。」


笑舞が最後に声をかけてきた。


「ありがとう。そうします。」


佳代子が傍らを見やると、仁は佳代子の銀バッグを取り上げてから、
心得たように腕を差し出して、二人でゆっくりゆっくり廊下を下がって行く。


佳代子が一度だけ振り返ると、老婦人だけが笑顔を向け、
他の人々は固まったまま、自分たちの背中を見送っている。

佳代子はもう一度、小さく会釈をした。


仁は今もう幸せだから、あなたも幸せになっていいわよ。
許してあげるわ・・・


佳代子が心の中でつぶやいて仁を見上げた。


「仁、幸せ?」


仁は佳代子の背中を抱き寄せて、面白そうに笑った。


「ああ、もちろん。最高に幸せだ。
 佳代子は幸せか?」

「もちろん!」


仁は右手で佳代子から取り上げた銀のペーパーバッグを振って、ウィンクを寄越す。


「コレがあるからだろ?
 ったく、ホワイトデーにチョコレート買わせるなんて、佳代子くらいだ。」


「うふふ。仁からチョコレートもらうのも嬉しい。
 ああ、来年も『究極の白いショコラフェア』をやらないかしら。
 キャンディとか絶対に要らないから、来年もぜひチョコにしてね。」

「来年はそんなヒマあるかな。」



ロビーを抜けて、駐車場へと進む道に桜が何本も植わっている。

枝全体がほんのりと白っぽく見え、
よく見るともう蕾がいっぱいにふくらんでいる。


桜が咲いて、満開になって、はらはらと散り始めた頃、
わたしのお腹もはじけているかしら・・・。


佳代子が無意識にお腹をさすると、どくんと返事が返って来た。


「仁!いま、けとばされた・・・」

「俺はけとばしてないぞ。」

「ちがうわよ、あらっ!このところ、あまり動かなくなっていたのに。」

「天気がいいから運動したくなったんだろう。俺の子だからな。」


そう言いながらも、仁は優しく佳代子の背中を支えてくれ、
足取りをさらにゆるめてくれた。


「仁・・・」

「なんだ?」

「あの人も幸せになれるといいわね。」

「・・・・。
 ああ、そうだな。」


仁の大きな手が、ゆっくりと佳代子の髪をすべる。


春は来ている。

いっぱいの花春が、ほんのすぐそこまで。

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