AnnaMaria

 

セピアの宝石 「のぞみ」4 "流星"

 

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あらゆる物が膨張し、動き、流れ込む中国。
ここでの時間は一瞬たりとも気が抜けない。

最終目的は、1元でも多く、利益を得ること。
事業を広げ、社会的地位を高め、家族に少しでもいい暮らしをさせ、
子どもに高等教育を施す。その為にはどんな努力でもする。

マグマのようなエネルギーに満ちていて、刺激的だと言えなくもないが、
エネルギーが枯渇すると、あっさり食われてしまう。


上海に飛んだ仁は、金曜と土曜、自社の上海支店に詰め、
製造スケジュールの確認、販路拡張、コストと販売価格の調整など、
朝からびっちりと打ち合わせをこなし、
午後おそくから、上海支店長の大熊と共に、
隆盛中の商業エリア、トレンドスポットの南京西路などを回った。

金曜夜の新天地は大変な人出で、仁は人と電飾に酔いそうになる。


「万博が開幕してから、上海の人口がさらに増えた感じだよ。
 空港からの便がすごくよくなったしね。 
 歩いている人の国籍もぐんと豊かになった。
 成長率、注目度から言えば、今、ここが世界一なのは間違いない。」


共に何度も修羅場をくぐり抜けた、大熊は興奮していた。


「どうだね、仁。まだこっちに来て、一緒に仕事をする気にならないか?
 中国の膨張スピードを見届けて、そこに切り込む、生涯またとないチャンスだぞ。」

「いや、大熊さん、実は・・・」


佳代子が臨月に入り、まもなく出産することを告げた。


「そうか、もうそんな時期か。いや、速いもんだ。
 前の奥さんが逃げ帰って、お前がマレーシアで孤軍奮闘していたのが、
 ついこの間のようなのに。」


仁は苦笑せずにいられなかった。


「大熊さん・・・かんべんして下さいよ。
 その後、どれくらい一緒に仕事をやってきたか、忘れたわけじゃないでしょう。」

「ははは、まあそうだな。そう言えば、結婚式にも出さしてもらった。
 ところで、本社での常務の旗色はどうだ?
 ここんところ、あまりよろしくないと聞いたんだが・・。」

「まあ、そうとも言えますが、万一、この事業が失敗すれば、社長の汚点になります。
 そうすれば、常務側に目が転がらないとも言えない。
 それまで、なんとかして取締役のまま、持ちこたえるつもりなんでしょう。」

「ふむ。その時は、俺たちの首もないだろう。 
 どうあっても利益を出さなければ・・」


大熊の日に焼けた顔で、きらりと目が光る。


「しかし、仁。
 奥さんの大変な時期なのはわかるが、家庭と仕事の事情が
 かみ合う時なんて、決して来ないもんだ。
 中国奥地に常駐、というワケでなし、
 ここなら、お前も家族も今まで通り暮らせる。」

「彼女は退社したワケじゃない。
 産休、育児休暇を終えたら、また本社に戻るんです。 
 ここに駐在するわけには行きません。」

「なぜ?佳代子さんなら、ここで仕事を手伝ってもらえるじゃないか。
 何なら、俺から社長や人事に掛け合うぞ。」

待って下さい・・・。

何としても、仁を上海に引っ張ろうとする大熊に
引きずられないようにしなければならない。


「とにかく、間もなく子どもが生まれます。
 いいですか、勝手に性急に進めないで下さいよ。」


元上司とは言え、しっかり釘を刺しておくのを忘れなかった。


「ふうん。ここに、いいラグビーチームもあるのにな・・」


大熊は聞こえていないふりをして、誘うように仁を見る。

その手にのるもんか・・・。

仁は、窓外にうねる人波から目を背けながら、ビールを空けた。





日曜日、仁は上海から高速鉄道に乗り、浙江省の省都、杭州に入った。
中国有数の景勝地「西湖」のある美しい古都近郊に、提携先工場のひとつがある。

新しいプロジェクトが立ち上がって半年、仁と提携先の工場オーナー、
王社長との信頼関係も幾分は、深まったと言えよう。
とは言え、お互い、一歩でも有利な条件を引き出そうと
日夜、様子をうかがっている状態には変わりない。

王社長はこの一年で上海のみならず、杭州にも工場を建ち上げ、
フル稼働させている。
仁の会社以外からも発注があるのは明らかだ。

王社長自ら、上海と杭州を行き来し、一体いつ眠っているのか、
早朝から深夜まで執務室に座っているそうで、
長時間の交渉にも接待にも、優雅なスーツ姿がくたびれることがなく、
髪も肌も艶つやと輝いて、余裕と自信をみなぎらせている。


「いつか逆転してやる。それもそう遠くない未来に」

交渉する中国サイドの人間に会う度、その気迫を見せつけられて来たが、
近年は「逆転する」という発想すら、中国側にない。
中国企業による日本企業の買収も増え、
自分たちがすでに追いつき、追い越しているという自負を感じる。

王社長も、下請け生産などにずっと甘んじている気は全くなさそうだ。
いずれ、王社長から注文をもらう日が来るかもしれない。




日曜の今日も工場は稼働中で、労働者たちが働いていた。
担当者が執務室に集まり、ひとたび打ち合わせを始めると、
休日だと言うことを忘れるほど、びっちりと厳しい交渉が続く。

替わって翌月曜日、午前中の打ち合わせを終えると、
王社長から、これから周庄に行かないかと誘われた。
何か新しい事業計画の予審かと思い、緊張して車に乗って行くと、
町全体が古い博物館のような、美しい古都を案内してくれた。

仕事人間の王社長がどういう風の吹き回しかと思ったら、
周庄は王社長の父親が生まれた地であった。
町全体が水に囲まれ、水面にうかぶ睡蓮にも例えられる。

明、清時代の建築物も多く残されており、かつての邸宅や、
あちこちに掛けられた古い橋を案内してくれる王社長は、
仕事の時とは違った目の輝きがあり、この美しい水郷の町を
心から誇りに思っているのが見受けられた。


「仁さんは、ベニスに行ったことがありますか?」

「いえ、残念ながら。僕はアジアばかりで、ヨーロッパには縁がない。」

「実はわたしもまだベニスに行ったことがありません。
『水の都』と言えば、まだ世界の人はベニスを思い浮かべる。
 わたしはこの周庄や朱家角を『東洋のベニス』として、世界に知らせたいのです。」


自分にとって大切なものを案内してくれるのは、
相手を信頼してくれている証拠に違いない。

仁は王社長の気持ちにも感動して、
古い絵のような周庄の眺めをたっぷりと楽しんだ。

著名な観光地だけあって、昼食を取った店も風流で、
おだやかな川辺の景色を眺めながらのものだった。



夕方、再び杭州に帰ると、王社長のお気に入りらしい店に案内された。

料理は、西湖をいだく杭州らしい川魚料理だけでなく、
日本人にとってもおなじみのシジミ料理や、
ぷりぷりととろけるような豚足料理などが運ばれて来る。

どちらかと言うと、仁はよく食べる方だが、
出張中は体調を崩したり、頭の働きがにぶったりしないよう、
普段の6、7割の量にとどめている。

若い王社長にはそれが不満のようだ。


「仁さん。お口に合いませんか?
 あなたの体格を維持するには、もっと食べる必要があります。
 沢山食べて、沢山働く、あなたの活力の元になりますよ。
 味だけでなく、体にもいい料理を選んでいます。
 どうか、遠慮しないで下さい。」


夜も10時をとうに回って、そろそろホテルに・・
とすら、言いだしかねる熱心さで、もてなしてくれる。

好意を受けたいのは山々だが、
仕事全体を台無しにする危険を犯すわけには行かない。

十分に堪能していることをしきりに伝えながら、
ホテルに案内してもらうタイミングを計っていた。


突然、店の従業員が現れ、王社長に大声で何か伝えている。
仁のにわか中国語の理解力では、何を言っているのか、皆目わからない。

王社長は少々驚いたようだが、仁に向き直り、
「日本の誰かが、あなたに連絡を取ろうとしているようです。
 彼について行って下さい。」

そういって、王社長に話しかけた従業員を示すと、何か指示をした。
従業員は仁に向かって手招きをしながら、店の奥へと連れて行く。

いつか、こんな風に店の奥に連れ込まれて、
艶めいた美女に引き合わされたのを思い出し、
いささか緊張したが、まさかまた同じ手は使うまい。

万が一、美女が出て来たら、どうやって断ろうかと汗をかきながら進むと、
小部屋に案内され、そこの電話を指差された。

この電話?俺に?

電話を指し、自分を指すと、中国人従業員はうなずいて去った。

おそるおそる電話を取り、


「もしもし・・?」

「小田島です。」


聞き慣れた不機嫌な声が流れてきて、仁はほっとした。


「ああ、お前か。
 脅かさないでくれ。俺はまたどこへ連れ込まれるのかと・・」


緊張が解けて軽口をたたき出した仁をさえぎって、


「仁さん、ご自分の携帯はどうしたんですか?」

「昨夜、うっかり充電しないで寝ちまったら、案の定、
 今日昼間、電池切れになってな。
 使えないから、鞄に入れっぱなしに・・・」

「お陰で、つかまえるのにえらい苦労をしました。
 そこにいるのがわかったのは奇跡です。」

「そうか。それはすまなかった・・・」


小田島の奴、のっけから説教しやがって・・・。


「仁さん、よく聞いて下さい。
 今夜、佳代子さんが救急車で運ばれて、緊急入院しました。
 運び込まれてから、帝王切開手術をしたのですが、
 経過が思わしくありません。
 すぐに出張を切り上げて、即刻、日本に帰ってきて下さい。」

「・・・どういうことだ?」

「僕も病院に行っていないので、詳しい状況はわかりません。
 とにかく仁さんを捕まえる役を仰せつかったので・・・。」

「子どもはどうなったんだ?」

「それも聞いていません。
 ここを突き止めるのに、1時間以上かかりました。
 とにかくできるだけ速い手段で、帰ってきて下さい。
 携帯を復活させて、連絡を取れるようにするのも忘れないで。
 搬送先は広尾のN病院です。
 経過が分かり次第、メールを入れますから、
 そちらも帰りの飛行機が決まったら、すぐ連絡下さい。
 いいですか?」

「わかった・・・。これから王社長に説明する。」

「僕も今度は、病院の情報を集めます。では」


走りだしたい気分だったが、走っても何の意味もないのがわかっていた。
とにかくなるたけ冷静に、とつぶやきながら、王社長の待つ席に戻る。

すでに王社長も、仁の顔色と、
こんな場所まで追ってきた電話の意味を察して、
じっと仁を見つめている。


「妊娠中の妻が救急車で病院に運ばれた。
 手術をしたが、経過が悪く、即刻日本に帰らなければならない。
 杭州から、日本への直行便はあるだろうか?」


王社長は、大声で店の奥に声をかけると、
PCを持った男がどたばたと駆け込んで来た。

テーブルに座り込んで、セットアップしている男に、
次々と指示をする。

「杭州」「日本」という言葉が聞き取れた。
男が必死に画面をクリックしている間に、さらに王社長は
別の男にも指示を出していた。


「今、車を用意します・・」

じっと歯を食いしばっている仁へ、告げた。

PCの男が声を上げると、王社長が画面をのぞきこむ。


「杭州と日本の直行便は、一日一便。
 13時40分だけで、月水金土だけ。
 明日の火曜日は飛んでいない。」

「では、上海まで電車で戻って、朝一番の飛行機に乗る。」


王社長はちらっと時計に目をやる。


「上海行きの特急列車は9時半が最終です。
 もう出てしまった。
 明日の朝までに、上海に行く電車はありません。」

う・・・。

仁は奥歯をかみしめた。ここは地方の観光地なのだ。

昨日、上海にいる時に事態が起こったのなら、
あっと言う間に東京に戻れただろうに。

考えても仕方ない。
自分が戻るまで、佳代子は待っていられるだろうか。
子どもはどうなったのだろう。
もう9ヶ月に入っていた筈。
帝王切開を施せば、十分外界に適応できる程度には育っているだろう。
早産でもっと早く生まれている赤ん坊だって、無事に育っている。

一刻も早くここを辞して、ホテルに戻り、
日本と連絡を取りたかったが、我慢した。
王社長の厚意を踏みにじってはなるまい。


「仁さん、どうぞ。とにかくホテルまでお送りします。」

「ありがとう。助かります。」


事情を把握していないらしいスタッフにも、なるべくきちんと挨拶しようとしたが、
自分が何を言っているのか、よくわからなかった。
声が遠くに聞こえる。

長々と始まった挨拶の返事を、途中で王社長が遮ると、自ら車の方へ進んで行く。

運転手がドアを開け、仁が乗り込むと、驚いたことに王社長も乗り込んで来た。
すべるようにホテルに向かう車中、


「仁さん。ここから上海まで、高速を飛ばせば3時間で着きます。
 車でお送りしましょう。」

「しかし・・・」


言いかける仁に手を挙げて制すると、


「大熊さんから、仁さんは去年結婚されたばかりと聞きました。
 お子さんも初めてでしょう。
 大事な時に、一刻も無駄にするべきではありません。
 部屋に行って荷造りし、チェックアウトして来て下さい。
 我々は、正面の車止めで待っています。」

「しかし、王社長にそんなご迷惑をかけるわけには・・・」

「さ、着きましたよ。いいから早く、言う通りにして下さい。」


王社長にぽんと肩をたたかれて微笑まれると、仁もそれ以上我慢できなくなった。

ドアマンが開けてくれるのを待たずに、自分でドアを開けて飛び出し、
フロントで大至急、チェックアウトする旨を伝え、清算を頼む。

その間、エレベーターで部屋に上がり、大急ぎで荷物をまとめると、
携帯の電源パックをつかみ出して、差し込む。

2分で部屋を出ると、フロントに駈け戻り、
せっかちにカードにサインすると、ボーイを断って自ら荷物を運んだ。

仁がロビーから出てくるのを見て、王社長が車から降り立つ。
運転手に言いつけて、仁の荷物をトランクに仕舞わせると、
何やら運転手から受け取った。
運転手が礼をして、車の側を離れる。

「?」

仁はいぶかしく思った。
ほんの5分前、上海まで送ると申し出てくれたのに。

王社長は仁の不審顔を見て微笑むと、さらり、上着を脱ぎ捨てた。
王社長と仕事をしてきて、ワイシャツ姿を見たのは、これが初めてだ。
常に、どんな時でも、完璧にスーツを着こなしていたのに。

どういうことかと固まっていると、


「仁さん。さあ、行きましょう・・・」

「しかし・・・」


王社長は助手席のドアを示して、仁を車内におさめると、
自ら運転席に座った。


「王社長が・・・?」


シートベルトを締めると、ブルーに白ストライプのシャツのカフスを開け、
2度、3度とまくり上げる。
たくましく鍛えられた左腕の上腕部に、ねじれたように大きな傷跡があった。

手首にはダイヤのきらめく金のローレックスが輝いている。


「わたしではご不満でしょうが、我慢して下さい。」


なおも言葉を失って、運転席を見やる仁に、


「杭州と上海なら、何度も何度も往復しています。
 工場が大きくなるまで、わたしが自ら運転して、納品していました。
 運転には少々自信がありますから、安心して下さい。」


はあ、と仁は息を吐いた。
こんなことになるとは思っていなかった。

仁のため息に王社長が笑い声を上げた。


「わたしは生まれたときから、社長だったわけではありません。
 親が共産党幹部でもない。
 二人、必死に働いて、わたしを留学させてくれました。」


仁はちらっと携帯に目をやる。まだ充電中だ。

助手席で座り直すと、王社長の横顔、左腕の傷跡を見えた。
仁の視線を気配で感じたらしく、王社長が自ら話しだした。


「これは工場の機械にはさまれてつけた傷です。
 あやうく、左腕を失うところでした。」

そうですか・・・。

仁はそれ以上、たずねなかった。
この傷のせいで、今まで決して上着を脱がなかったのだろうか。


「上海までは、この深夜なら3時間かからないでしょう。
 さっきのホテルで早朝まで休んでから、出かけてもよかったのですが、
 仁さんの気持ちが収まらないでしょう。
 一刻も早く帰りたいでしょうから。」

「ええ、その通りです。」

「今、12時を過ぎました。
 途中で一度休みを入れても、上海には3時前には着くでしょう。
 空港にはまだ入れませんがね。」

「朝1番の飛行機は何時かな。」


仁が携帯を開こうとすると、王社長が答えた。


「成田行きは、8時45分が始発です。
 お昼過ぎには日本に着くでしょう。席が空いているといいですが・・」


今度こそ、遠慮なく、仁が携帯を開いた。


「ちょっと失礼して、ここから席を取ります。」


ネットにつないで、飛行機の座席を確保すると、便名を小田島にメールする。
すぐ返信が来て、佳代子の病状を知らせてきた。

いぜん、意識がはっきりしないらしい。
子どもは、新生児集中治療室内でケアを受けている。

仁は唇を噛み締めて、携帯をぱちんと閉じた。
王社長は、ちらりと仁を見ると、ひとことも話しかけて来なかった。

日本に戻るまで、自分にできることは何もない。
祈るだけだ・・・。




車は灰色の闇を切り裂くように突っ走っている。
王社長のハンドルさばきは正確で、慣れていた。

中国の高速の制限速度は知らないが、130キロ前後のスピードを出し、
他車をぐんぐん追い抜いている。

まるで、仁のはやる気持ちを理解して、共に急いでくれているようだ。
王社長の心意気を感じて、仁は心底、感謝した。


路面の単調な光景を見ながら、仁はいつのまにかうとうとしていたらしい。
気がつくとパーキングエリアに駐車している。


王社長は、仁が目覚めたのに気づくと、

「コーヒーかお茶でも飲みますか?」

「いただこう。」


王社長が車外に去ると、仁も車を降りてみた。

だだっ広く、舗装された面が広がっているのは、日本と同じ。
標識が漢字だが、緑地に白の文字なのも同じだ。
車の数はそれほど多くなく、広い敷地にぱらぱらと止まっている。

真夜中である。
暗い夜空、低い所にうすく雲がかかり、星の見えるのは中天のみ。

工業化の進んだエリアでは空気が悪いが、
地上からの光が日本よりも少ないせいか、星がはっきりと見えることもある。

春の大三角形がここでも見えた。
オリオン座はもう沈みかけている。


「仁さん・・・」

王社長の声にふりむくと、缶コーヒーを渡してくれた。

「ありがとう。」

ふたり、黙ってコーヒーを飲みながら上を見ていると、
とつぜん、夜空の真っ暗な闇を大きく斜めに白い線が走った。

自分だけが見たのかと王社長へふりむくと、
王社長もびっくりしたように空を見上げている。


「流星・・・」


日本で流れ星を見たことがないわけではなかったが、
これほどはっきりと長く白く尾を引いたのを見たのは初めてだ。

仁は背中がぞっとした。
流れ星・・・。

その先を考えたくなかった。
ここは中国だ、自分に関係ある星ではあるまい。
無理にも、そう納得しようとした。

王社長は何も言わなかった。

仁に「飲み終わったか?」と仕草だけで尋ねると、
空き缶を受け取って、また車を遠ざかって行った。



上海浦東空港には午前3時前に着いた。
空港の駐車場に入ると、王社長は、6時までここで仮眠するといい、
と自らさっさとシートを倒して目を閉じてしまった。

仁もありがたくそれに倣ったが、穏やかな眠りが訪れるはずもなく、
さまざまなイメージや、事柄が頭に浮かんで落ち着かなかったが、
傍らの王社長がほとんど微動だにせず、眠っているのを邪魔したくなかった。

彼は武道の達人なんだろうか。

高い集中力と強靭な体力、自制心などを目のあたりにして、密かに感心した。




「本当に世話になった。心から感謝する。」


長い夜が明け、周囲が明るくなると、人の動き出す気配を感じる。
6時になったところで車を降り、王社長と固い握手を交わした。


「ご家族の無事をお祈りしています。」

「ありがとう。この恩は決して忘れない。
 昨夜、王社長が一緒に居てくれて、本当に心強かった。」


仁の言葉に王社長は顔をほころばせた。
腕まくりしたまま寝起きの髪をかきあげると、いつもよりぐっと若く見えた。


「気をつけて。さよなら。」

「さよなら。」


手を振って背を向けると、もう日本に帰ることしか頭になかった。

佳代子、待っていてくれよ。


仁はつぶやきながら、空港ターミナルに入って行った。






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