AnnaMaria

 

セピアの宝石 「のぞみ」5 "赤い長靴"

 

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佳代子は、長い長い夢の中を漂っているようだった。

猛烈なお腹の張りと痛みに襲われ、救急に連絡した挙げ句、
マンションのドア前で力つきたのは、覚えている。
どうやって救急隊に運び出されたのか、わからない。

おぼろに覚えているのは、体中に響く強い振動とその度に襲って来る激烈な痛み、
絶え間ない寒さ。

かすかに誰かの声が聞こえていた。


「・・・もう少しですよ。もう少しですから頑張って下さい・・。
 あと少しの辛抱です。眠っていていいんですよ。」


眠れないわ。こんなに痛くて寒いんだもの。
せめて体を温めてくれたらいいのに。
さむい、さむい、さむい、さむい・・・。


だが、その思いが声にはならなかったらしい。
口を覆っている何かが苦しくて邪魔だった。

わたしの赤ちゃん、わたしの赤ちゃん、どうなったの?
お腹の中で動いている気配が感じられない。
朝には元気に、お腹をけとばしていたのに。


「この場でエコーをかけるぞ。その間に血管を確保してくれ。
 このままだと血圧が下がりすぎてて、オペができない。」

「いくつ、確保しますか?」

「できるだけだ。何本でも、できるだけ確保しろ。
 時間がない。」

「このまま、オペ室に移動させます。」

「4人で移すぞ。いいか、せ〜の・・・」


眩しい、眩しい。
わたしの前から、あの明るい白い光を消して。
まぶしくて目が開けられない。


「しゃべらなくていいから。
 もう目をつむって、我々にまかせて。」


まかせるって何を?何をするの?
少しだけ体が温かくなったような気がする。

すごく寒かったのに、もう寒くはない。
でもどうしても目が開けられない。

いろいろな声だけが、空気の中をうずまいていて、
わたしに届いたり届かなかったりする。




そのあとの夢はもっと取り留めがなくなった。


あたたかい雨が降っている。
灰色のアスファルトの道に、小さな水たまりがいくつもできて、
水面に小さな輪っかが出来ては消える、

ぱしゃ、ぱしゃ、と誰かが踏み散らす音。

遠くからぼうっとかすんでくるもの。
赤い花?いえ、もっと大きくて、くるくる回っている。

傘だ。

ぱしゃ、ぱしゃ・・。

誰かが近づいてくる。
また赤いものが揺れる。
何だろう?
濡れたような赤がちらちらと灰色の中を動く。

長靴だ。
赤い長靴。

その上のやわらかそうな足も見えた。
赤い傘がゆれて、黒い髪の女の子がこちらを向いた。
小さなてのひらを握って、開いて、握って、開いて・・
くるりと傘を向け、びょんびょんと向こうへと歩いていく。

どこへ行くの?

待って!待って、行かないで。
戻って来て、もう一度、顔を見せて。

大輪の花のように赤い傘が揺れ、赤い長靴が踊るのが見える。
長靴は止まったり、飛んだり、歩いたりしながら、遠ざかる。

まだ行かないで。

ようやく声が出たように思ったのに、
乳色のもやの中にまぎれて、たちまち行ってしまった。

赤い長靴だけが、目の中に残る。



ガラガラとまた寒くて暗い場所を通る。
体がふわふわと浮き上がっているみたいだ。
色んな声がするけど、みんなずうっと遠く。
わたしはどこにいるだろう?
病院?・・・・なのかな。


がちゃんがちゃん・・。
ピー、ピー、ピー、ピー・・・。


体が石みたいに重くて全く動かすことができない。
泳ぎ疲れたあと、水から出るのがひどく億劫なように。

熱くて、のどが乾いて、妙に耳障りだった。
絶え間なく色々な音がする。
人声も混じっているようだが、何を言っているのかはわからない。
目を開けることがどうしてもできないのに、音だけは聞こえてきた。


さっきの赤い長靴の女の子。
あの子に会いたい。
あっと云う間に向こうに行ってしまった。


おおばさ〜ん、大場さん?

誰?誰の声?
仁に用があるの?

ああ、わたしだ。わたしも大場になったんだっけ。
わたしを呼んでいるのかしら。


大場さ〜ん・・・聞こえますか?

聞こえます。

声を出したつもりなのに、声が出ない。もう一度、声を出そうとしたが出ない。
しゃべれなくなってしまったのかしら。
わたしが聞こえていることをどうやって知らせよう・・・。


大丈夫です。このまま休んでいて下さい。
汗を拭きましょうね。熱いでしょ。


額と首筋に冷たい何かが触れて、すっと熱が去った。
唇も何か冷たいものが覆われて、少し楽になったけれど、
それがなくなるとたちまち、体中の熱がぶり返して来る。

どうしても目を開けられない。
何か固い物の感触が肌をさぐるのを感じたけれど、何かはわからない。


赤ちゃん!
わたしの赤ちゃんはどうなったの?

こんなに長い間、思い出さないでいてごめんなさい。
まだわたしのお腹にいるの?
お腹で動こうとしているの?

ああ、何にも聞こえてこない。

また、ぼんやりとかすんで来た。
乳色の世界に引き戻される。

さっきのあの子にもう一度、会えるかしら・・・。





仁が成田に着いたのは午後の1時前だった。

飛行機を降りるなり、小田島に連絡をし、
たった今、帰国したことと、このまま病院に直行する旨をつたえた。

じりじりしながら、荷物の出てくるのを待ち、
待っている女性たちを押しのけて、スーツケースを引っ張りだすと、
タクシー乗り場に走って行った。

スカイライナーの方が速いかもしれないが、荷物を抱えて、
あちこち乗換をする気力は残っていない。
まっすぐ佳代子の病院に駆け付けたかった。


飛行機の中では一睡もせず、降りてからの段取りを繰り返し考えていた。
今、抱えている案件で緊急性の高いものはどれか。
会社に行かずに今回の出張報告をするにはどうすれば一番いいか。

田並執行役員あて出張報告を送り、その後、電話で補足しよう。
抱えている仕事については、しばらく、小田島に頑張ってもらうしかない。

佳代子の状態がわからないまま、これ以上の予定を立てても無益だが、
何も考えずにいると、悪い方、悪い方へと想像が転がる。

ある日、出張から帰ったら、とつぜん空っぽになっていた部屋。
結局、あの後、前の妻は戻って来なかった。
それどころか、2度と会えなかった。
先日、佳代子とホテルに出かけ、偶然、先方と行き会うまでは。


また、あんなことが起こるのだろうか?
家族が増えると思っていた矢先に、逆に何もかも失ってしまうのではないか。

ええいっ!

何てぐちぐちとした、どうしようもないヤツだ。
佳代子も子どもも必死に戦っているかもしれないのに、
俺がこんなことでどうする。

そうだ、今のうちに出張報告の下書きでもしておこう・・・。

眠るのをあきらめて、メモを取り出すと、
論点を整理して、まとめる作業に没頭した。





傲然と輝いているような病院だった。
何から何まで、ぴかぴかに新しく、
佳代子の通っていた、雑然として庶民的な病院とはまるで様子が違う。

何年か前、試合中の怪我で入院した仲間を見舞いに来たときは、
建て増しを繰り返した、迷路のような病院だったのに、
いつ、こんな近未来の医療センターに様変わりしたのだろう。

患者でも見舞客でも、病院のICタグを受け取らないとエレベーターに
近づくことすらできない。

いったんロビーに入ると、おなじみの病院の光景が広がっていて、
緊張が解けると同時に、恐怖が胸元を這い上がって来る。

落ち着け!

自分を叱咤した。
最悪のことがあれば、今までに知らせが入っているに違いない。
とにかく、何がどうなったのかこの目で見ないことには。


産科は5階、ということだった。
一度だけ佳代子の検診に付き添って、一緒に病院に行ったことがあるが、
産婦人科の待合室に居座る勇気はなく、1階のロビーで佳代子を待っていた。


ナースステーションでICタグを見せ、佳代子の病室を教えてもらう。
ナースステーションそばの重点病棟。

入室前に殺菌手洗いをし、滅菌服を身につけてようやく入室を許される。


佳代子が寝ているらしいベッドにそろそろと近づくと、
出張前の元気な姿とかけ離れた様子に、驚愕した。

白いシーツから肩と両腕を出し、左腕には点滴の管が二本ぶら下がり、
その他にもよくわからないコードが何本もつながれている。

唇は真っ白にひびわれ、汗ばんだ額に髪が張り付いている。
目を閉じて眠っているようだが、体にはどこか動いたような跡があった。


「佳代子・・・」


触ってはいけないとか、安静にさせなければ、という考えが浮かぶ前に
もう名前を呼んでいた。


「佳代子!しっかりするんだ。
 目を開けてくれ」


管だらけになった左腕に触れて、そっと握りしめた。
肌の表面はひやりと冷たいが、その奥の熱を伝えて来る。


「佳代子・・・俺は帰ってきたぞ。佳代子も戻って来い・・・。」


佳代子の顔で、かすかにまぶたが震えたように見えた。
まぶたの下でごろごろと目の玉が動いている。

そのまま目を開けるか、と待ったが、佳代子の瞳は開かない。

しかし、かすかに唇がひらいた気がする。


「佳代子、佳代子、目を開けろ。俺はここにいるぞ。」


佳代子の左腕を両手でさすって、呼びかけ続けた。



「もうすこし・・・かかるかもしれません。
 先に先生にお会いになりませんか?」


仁のうしろに控えていた看護士が、そっと声をかけてくる。
案内してきてくれた人が後ろにいたことを、仁はすっかり忘れていた。


「ああ、そうですね。
 それより、子どもは・・・?」

「今、先生に連絡します。」


若い女性看護士は、仁の質問に答えずナースステーションに入り、
誰かに耳打ちをして、すぐ仁のそばに戻ると先に立って案内した。


「では、こちらの面談室でお待ち下さい。」


面談室は、ホワイトボード、PC、スクリーンなどの機器があり、
テーブル回りに椅子が6脚ほど並べられた、白い部屋だ。

窓のないこの部屋に、ひとりでいると閉じ込められた気分になってくる。
ここまで駈け通しで来たのに、病院に入った途端、足踏みをさせられている。


薄いブルーのオペ着のまま入って来た医師は、若く、やや小柄ながら、
きびきびとしていた。


「初めまして。オペを担当した鈴原です。 
 ご主人ですね。ざっと経過を説明致します。」


救急隊の要請でこの病院に搬送されたこと。
もともと佳代子の通っていた医院の提携先として指定されていること。

佳代子は『常位胎盤早期剥離』を起こし、腹腔内は大量出血状態で、
血圧、呼吸、体温とも低下していてショック状態にあり、
帝王切開のオペまで若干の時間を要したこと、

手術は成功し、母子ともになんとか命を取り留めたが、
母親、つまり佳代子は呼びかけに応じる気配があるものの、
まだ一度も意識を回復していない。
現在は熱が40度近くあり、点滴で抗生物質を投与中。


「わかりました。
 それで、先生、子どもの方は?」

鈴原医師の率直な説明は、仁の中に渦巻いていた疑問を多少解いてくれたが、
それだけに子どもの説明が後回しなのが気になった。


「これから、NICUの方にお連れします。
 まだ保育器から出せないので、抱っこすることはできません。
 外から様子を見るだけです。」

「はい・・・」

「それから・・・。
 お母さんのお腹の中で、胎盤がはがれてからしばらく、
 脳に酸素が回っていなかった可能性があります。
 その上、お子さんの首には臍の緒が一重に巻き付いていました。
 たとえ、あのまま何事もなかったとしても、
 結局は、普通分娩ができなかったかもしれません。
 それを知っておいて頂いた上で、これからお連れしましょう。」

「はい・・・」


仁はすでにさまざまな事を覚悟していたが、
大事な情報を医師は教えてくれていない。


「あの・・・先生、子どもはどっちなのでしょうか?」


早足で前を歩いていた、鈴原医師の足が止まって、人なつこい笑顔がふりむく。

やあ、若い先生だな。

今の仁には、まぶしいくらいの笑顔だった。


「すみません。お父さんになる人に肝腎なことを伝え忘れていました。
 女の子です。体重は3200gを超えていました。
 もう37週まで来ていたのかな。」


言いながら、また早足で病棟内を進んで行く。

NICUに入る前に、また殺菌消毒、滅菌服を着せられ、
帽子にマスクまでと、先ほどより重装備を整えて、やっとドアがスライドする。

いくつも小さな保育器が置かれ、か細い手足に管をつながれた、
まだ人間というより、猿そっくりの赤ん坊たちが、
おのおの、バスタオルの上に寝かせられている。

一番奥の保育器に近づくまえに、鈴原医師が足を止め、
そばに立っている女性看護士に告げた。


「大場さんのご主人だ。」


あいさつを返すのもそこそこに、仁は透明な保育器に近づいた。

母親、大場佳代子、帝王切開、4月19日と記されたタグがついている。

白い産着から突き出た子どもの手足は、ここにいる他のどの子より、
ふっくらと太く、赤ん坊らしいやわらかさが見えた。

しかし、赤ん坊の首から上、つまり頭部全体が濃い赤紫色に変色し、
首のところから、はっきりと色の境目が見てとれた。

最初のショックが収まると、仁はつくづく子どもを見つめる。

上を向いたまま目を閉じ、眠っているようだ。
頭髪が黒く生えていて、となりの子の丸坊主とは大違いだった。

う〜〜ん。

すでに他の子と見比べて、長所を探そうとしている自分に呆れ、
もういちど、わが子を見直す。

全身が赤くて、まさに猿のようだが、頭部の異様な赤黒さは
それとは全く別の要因によるものと思われる。

顔立ちは・・・よくわからない。
鼻のあたりはどことなく、佳代子に似ている気もしたが、
それより、もっと別の誰かに似ているような気がする。

馬鹿な考えだな。

仁は、会えばすぐにわが子とわかると、高をくくっていたが、
今のところ、血のつながりを全く実感できない。
しかし、確かにわが子なのだ。

ちゃんと呼吸ができているのだろうか?
変色した顔色は、いつか元に戻るのだろうか?
脳や、四肢の動きは正常なのだろうか?

疑問が顔に表れていたに違いない。

鈴原医師は、看護士に合図をすると、仁に外にでるよう促した。
出て反対側に回り込むと、NICU内の赤ん坊が見える位置がある。

ガラス越しに赤ん坊を眺めながら、鈴原医師がこちらを向く。


「先生。あの子は?」

「生まれてしばらくは、かなり危険な状態でした。
 しかし、一度、泣き声を上げて、今はちゃんと呼吸しています。
 生後間もない子のことで、何分、油断はできませんが、
 一番、危険な時期は脱していると思われます。」


はあ・・・と、仁は大きく息を吐いた。

ですが・・・と鈴原医師は言葉を続ける。

「あのくらいの子どもは、『急変』ということがあるので、
 まだまだ注意が必要です。」
 
「あの子の顔色は、ずっとあのままですか?」

「いえ」

鈴原医師によると、頭部の変色はうっ血によるもので、完全に取れるとも、
いつ無くなるとも明言できないが、徐々に正常な色に戻っていくこと。
ただ、脳や四肢の働きについては、もうしばらく経過を見ないとわからない、
と言うことだった。


「いずれにせよ、すぐには退院できません。
 もちろん、スタッフが24時間、全力でケアにあたりますから。」

「よろしくお願いします。」


仁は頭を下げた。


「奥さんの方が、かなり厳しい状況だったのです。
 出血がひどくて、もう少しで子宮を摘出しなければならないところでした。
 お子さんの命も絶望的だったでしょう。
 実にあぶないところでした。」


仁は唇を噛み締めた。
本当にあやうく、全てを失うところだったのだ。


「奥さんはまだ衰弱がひどく、意識が戻らないのが心配ですが、
 こちらの呼びかけに反応しているので、もう少しだと思います。
 ご主人も奥様によびかけてあげて下さい。」


わかりました・・。

仁は子どもの小さな顔を見ながら、自分の無力さを痛感した。






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