AnnaMaria

 

続・春のきざし 5

 

kizashi2_title.jpg




桜は、散ってしまった。
代わって少し重たげな八重桜が開き、どっしりと重なった濃色の花弁を揺らしている。

速水は一度だけ、電話をくれた。


「この間は、大丈夫だった?」

「うん、大丈夫。帰ったら、もう両親が寝ていたの。」

居間の家族に聞こえないよう、声をひそめながら、答える。
翌朝、父親は早くからゴルフに出かけてしまい、恵子と顔を合わせずじまいだった。

「そう・・・。」

速水の口調はやや心配そうだったが、それ以上尋ねて来ない。

「そっちはどう?」

「まあまあかな。
 CDショップの大型店とか楽器屋を片っぱしから回ってる。
 どこへ行くにも混んでて、疲れるけど。」

「へえ、何を買ったの?」

「帰ったら見せるよ。輸入CDの店が面白くてね。」

「楽しみにしてるわ。ご両親とはどう?」

「ああ、久しぶりだと待遇いい。」

笑い声まじりに言う。

「良かったわね。じゃあ、元気で親孝行して来てね。」

「ああ、ありがとう。それから・・」

「どうしたの?」

少し声の調子が変わったので、どきりとした。

「ちょっと、一週間では帰れなくなった。
 親戚やら何やらが集まるみたいだから・・・。

「うん、わかったわ。ゆっくり楽しんで来てね。」


電話を切ってから、少しため息が出た。
速水は東京で楽しそうだ。
行く前からあれこれ調べていたのも知っている。
目をつけて置いたものを、順番にチェックして回っているのだろう。

恵子はと言えば、朝早く弁当屋のバイトに行き、夕方帰って家の手伝いをし、
夕食後は部屋にもどって本を読んだり、音楽を聴いたり。
友人たちもそれぞれ忙しいのか、特に誰も連絡して来なかった。

本屋、CDショップには寄るけれど、他にはどこにも出かけず、
家とバイト先を規則的に往復しているだけ。

部屋に戻って独りになると、速水に会いたくてたまらなかった。

連れて行ってくれたライブハウスの熱気、ベースをつまびく指先、
踊った時の腕の感触、すぐ近くに見えた熱いまなざし。

それから・・・。

桜闇に紛れて交わしたキス。
何度も何度も唇の感触を思い返しては、そのたび、胸がぎゅっとなる。

一度など、急に部屋に律が入って来、びっくりして飛び上がったので、
「どうしたの?」と怪訝な顔をされた。

速水は忙しくて、わたしのことを思い出す暇もないだろう。
数えきれない刺激に満ちた都会にいるのだ。
音楽関係のショップだって、ライブハウスだって、数えきれない。

もしかしたら、卒業後は東京で就職するかもしれない。
そうなったら、どうなるのだろう・・・・。

速水が就職活動でだんだん忙しくなって、会える時間も少なくなって、
そのまま、東京とこことに別れてしまう。

ああ、いやだ!

恵子は自分で頭をふって、考えたくもない未来像を追い払った。

せっかく、好きな人とつきあい始めたのに、先のことでもう下らない心配をしている。
まだ決まっていないことを、うだうだ考え詰めても答えなど出ない。

止めよう・・・。

ころん、とベッドに転がると、自分の手首が見え、
これをつかんだ時の速水の手の感触が思い出された。

右手でそっと左手に触れてみると、かすかに血の中でざわめくものがある。

ああ・・・重症だわ。どうしよう。

速水を頭から追い出すのを完全にあきらめて、
いっそ思い切り速水のことを考えることにした。






「おねえさん?恵子さん・・・・?」


ぼうっとしていた恵子は不意にびくっと体を起こした。
教え子の奈々が面白そうに笑っている。

「あら、もうできたの?早いわね。」

恵子が奈々のノートをのぞき込むと、まだ半分しかできていない。
不審に思って奈々の顔を見直すと、

「おねえさん、何か変だな。
 誰か好きな人ができたの?」

「別に、そんなんじゃないわ。」

高校生にからかわれるとは、我ながら情けない。

「ほら、早く・・・」

問題集を指差して、英作文の続きをさせようとしたが、
奈々はほおづえをついたまま、恵子の顔を見て、問題に戻ろうとしない。

「ねえ、じゃあさ。この間いっしょだった背のたか〜い人は誰?
 おねえさんの彼氏?」

「この間っていつよ?」

恵子が少々うろたえたのを見て、奈々はうれしそうだ。

「ん〜〜、何曜日だったかな。
 駅の近くの本屋さんで一緒にいるのを見かけたけど。
 あの人、髪の毛茶色いね。サーファーなの?」

「ちがうわよ。」

つい否定してしまうと、奈々はますますうれしそうな顔になった。

「いいなあ、大学生とかって。あんなカッコいい彼とデートできるなんて。
 ああ、うらやましい!」

「大学生とデートは関係ないわよ。
 それより・・おばさんにそれ、話した?」

奈々は大きな目をくりくりさせて、首を振った。

「ううん!
 おねえさんとこのお父さん、すっごく怖そうだね。
 うちのママが、お姉さんとこにお茶飲みに行って、ちょっと遅くなったら、
 急にオジさんが帰って来て、ぎろってにらまれたんだって。
 いつまでしゃべってるんだ、みたいに。
 だから言わない。安心して・・」

恵子はほっと肩を落とした。

「ありがとう・・・。」

「あたし、ぜったい秘密にするからね。
 でも・・」

「でも?」

奈々は、芝居がかった位にぎゅっと口を引き結んだが、目は大きく見開いた。

「そのうち、あのお兄さんに会わせて。」

「ええ?」

「お願い。ちょっとだけでいいから。邪魔しないですぐ帰るから。ね?」

のぞき込むように恵子の顔色を伺ってくる。

「それは・・・約束できないわ。だって、向こうが何て言うか・・」

「お兄さんがいいって言ったらでいい。ね、お願い!」

奈々の調子につり込まれて、何となく頷いてしまった。

「ねえ、同じ大学の人?サークルとかがいっしょなの?おない年?」

「もうダメ!わたしは英語を教えに来たんだから。
 おしゃべりしに来たんじゃないの。」

「うふふ。早く会いたいなあ・・・」


わたしだって会いたいのに、今はいないのだ、と恵子は心で返事をした。

しかし、奈々にまで見破られるとは、よっぽど浮ついているに違いない。
これは、しっかりしないと・・・。

恵子は気持ちを引き締めて、問題集を見直した。






春は天気が不順だ。

ここ2、3日うららかな日が続いたと思ったら、
今日は一転、どんよりした曇り空。
昼過ぎから風も出て来たようだ。

弁当屋の前の幼稚園に植えられた八重桜が、風で重そうにしなっている。

昼時のピークを過ぎ、弁当を買いに来る人はぐっと減ったが、
今にも降り出しそうな空模様をついて、急ぎ足で買いに来るお客がぽつぽつ。

ピーク時以外は、恵子も裏の調理場に引っ込んで、
しょうゆの小袋や箸を梱包から解いたり、後片付けを手伝ったりしていた。


「雨が降ってきそうだね。」

奥で鍋をこすっていたパートさんが、暗くなった空をのぞいて言った。

「傘、持ってくりゃよかったかな・・」

恵子も傘を持っていなかったので、不安な目で外を見ると、

「ここに置き傘がいくつもあるから、持ってけばいい。
 どうしても、お客さんが置いてっちゃうんだよ。
 たまるばっかだ」

店長ののんびりした声に、そうですか、じゃあ安心だ、という声が重なった。

「すみません!」

表から声がかかって、恵子はあわてて手を拭き、店先に向かった。

「どれがおすすめですか?」

ショーケースにかがみこんでいる客に釣られて、恵子もかがんだ。

「もう『幕の内弁当』は終わっちゃったんです。
 唐揚げ弁当、カツ丼弁当、カレーならできますけど・・・」

「じゃあ、カツ丼弁当にしようかな。」

「はい、ありがとうございます。」

カツ丼弁当ひとつ〜〜、と奥に声を投げてから向き直ると、
サングラスの客が帽子を取った。

「!・・・」

恵子は大声を出しそうになって、あわてて手のひらで口をおさえる。

照れ臭そうに速水が立っていた。
見慣れないジャケットを羽織り、ぐんと大人っぽく見える。

「いつ・・・帰ってきたの?」

びっくりして、ちゃんと声が出ない。
かすれ声になってしまう。

「昼過ぎ。一度部屋に戻って荷物だけ置いて来た。
 あれこれ、すごい量になっちゃって・・・」

「まだだと思ってたのに・・・」

なおも話を続けようとすると、カツ丼あがり〜、と声がかかった。

「はい!」

厨房から弁当を受け取ると、すばやく包んで袋に入れる。

「お待ちどおさま。480円です。」

速水は千円札を出すと声を低くして、

「この先の喫茶店にいるよ、黒いドアの店。いつ終わる?」

「今日は3時。早上がりなの。」

「よかった、すれ違うところだった。じゃ!」

速水が10日ぶりに懐かしい笑顔をみせると、一瞬、辺りが明るくなったように感じた。
弁当を下げた後ろ姿を見送っていると、

「恵子ちゃんの友だち?ボーイフレンド?」

ばか、やめときなよ。いいじゃないか、聞くくらいなら・・。

厨房からいくつか声が聞こえた。

「いえ、別に。大学の先輩です。」

赤くなってくる頬は隠せないけれど、口元だけはきゅっと結んで、
恵子は店先の片付けに没頭するふりをした。





カランカランカラン・・。
ドアを開けると、重そうな鈴の音が響いた。

ついに降り出した雨の中、バイト先で借りたビニール傘をさし、
速水の告げた喫茶店に飛び込んだ。

黒いビニール張りの椅子が置かれた店内には、
3組ほどしか客がいない。

速水は窓際の席で本を読んでいたが、すぐに恵子に気づいて顔を上げた。

「降って来ちゃったな。」

うん・・・。

向かいの席に滑り込むと、注文を取りに来た女性に「コーヒー下さい」と告げた。

10日ぶりだが、速水の髪が少し短くなって、黒くなっている。

「髪の色、変わってる。」

ああ・・・

長い指で、自分の髪に手を入れると

「親が染めろって言うから、黒くしてきた。」

「うん、まともになったわ。」

恵子が言うと、速水が恵子の頭にすばやく手を伸ばして来たが、
恵子は笑いながら、さっとよけた。

「生意気だな。」

「うん、生意気だもん、わたし。」

速水は顔をちょっと横にむけて、にらんでいたがすぐ笑顔に変わった。

「おかえりなさい・・・」

「ああ。」

テーブルの上に帽子とサングラスが置いてある。

「本気で変装して来たのね。」

「ああ、岡崎の三角巾とかっぽう着がどうしても見たくてね。」

今度は恵子が速水の頭にさっと手を伸ばしたが、難なくよけられた。
ぷんと口をとがらせて言う。

「変装なんかしなくたっていいのに。」

「だって岡崎、最初に声聞いても、俺だってわからなかったじゃないか。
 案外にぶいんだな。」

「だってお客さんだと思ってたし、ショーケースにかがんでて見えなかったし・・・。
 びっくりしたわ。」

速水がにやりと笑った。

「だったらいい。びっくりさせたくて、ここまで来たんだから。」

「何よ、変なの。」

答えながらも、速水がまったく変わらないまま戻って来てくれたのがうれしくて、
ほんの少し涙ぐみそうになる。

「・・・・」

速水も黙ってほほえみ、テーブルの上に置かれた手がゆっくり開き、
また握りしめるのが見えた。

恵子も速水の手を握って、温かさを感じたかったが、
ここでそんなことをするのは恥ずかしい。

しばらく黙って向き合っていた後、恵子が尋ねた。

「東京はどうだった?話を聞かせて・・」

「ああ。ずいぶんいろいろ見たよ。
 ライブハウス一回、ジャズクラブに一回行った。
 踊りに行かないか、と従兄弟に誘われたけど、何だかすごそうで断った。」

渋谷のタワーレコード裏には、輸入版を扱っているレコード店が幾つもあり、
時に現役のミュージシャンが隣に居合わせたりして、驚いたことも話してくれた。

「来日中のミュージシャンも結構来るらしい。
 そういうスポットなんだな。」

その他に神田の楽器街で中古ベースや、楽譜を見たり、
毎晩遅くまで外をうろついていたお陰で、母親の機嫌が悪くなったことなど。

「少し勉強しろって言われなかった?」

恵子がからかい気味に訊くと

「いや。高校の時は毎日言われたけど。
 代わりに就職どうすんだって、何度も訊かれた。」

「そう・・・」

どうするの?と、恵子も訊きたかったが、訊けるわけがない。
速水だってまだどこまで決めているのかわからないし、
本人にわからないことを恵子が訊いても、答えの返ってくる筈はなかった。

「何を持って帰って来たの?」

速水がまた、唇をひゅっとひねってこちらを見た。

「いろいろ・・・こんど見に来いよ。」

「見に来いってどこへ?」

「俺の部屋。すごく沢山あるから、いちいち持って来られない。
 岡崎が見に来いよ。」

速水の視線が少しだけ鋭くなった気がしたが、気づかないふりをして、

「うん、そうね」と答えた。

「いつ、来られる?」

ほんのしばらく、沈黙が下りた。
答えが待たれているのがわかる。

いつなら出られるだろうか。
本当は今直ぐ行きたいくらいなのに。

「こんどの・・・日曜日なら。」

日曜日は弁当屋が休みだ。
春休みも、もう残り少ない。
早めに家を出て早めに戻れば、父親もとやかく言わないだろう。

「わかった。途中まで迎えに行くよ。場所がわからないだろう?」

「うん、そうね・・・。」

ゆっくり顔をあげると、速水にほほえみかけた。
速水は何か言いかけたが、結局口を閉じて恵子に微笑み返した。

無言の約束。
今、交わされた。





外は薄暗くなり、雨が激しく降っていた。
二人で恵子の借りて来た、ビニール傘の下におさまる。

途中で通り過ぎたバイト先の弁当屋は、とっくに店を閉めている。

冷たい雨が肩先を濡らすのを避けるすべも無いが、
速水が恵子の背中を抱いて傘を持ち、恵子を濡らさないように傾けてくれる。

「それじゃ、速水さん、濡れちゃうわ。」

「だいじょうぶだ。」

住宅街の道は雨で人影もまばらだ。
雨の煙幕ごしに車のライトがときおり、傍らを行き過ぎる。

不意に速水が、恵子のこめかみに口づけた。
びっくりして恵子が見上げると、速水の左腕が背中にきつく回って、
あっと言う間に、唇がふさがれる。

懐かしい速水の息、やわらかい唇の感触に、全身の血がざわめいて、
かあっと頭に上ってくるようだ。

雨の中、ほんのわずかの間、抱き合ってじっとしていた。

「会いたかったの・・・」

ぽつりと恵子が漏らした言葉で、さらに背中の腕が強く締めつけられた。

速水の答えはなかったけれど、もう一度、こめかみに口づけられると
二人、また雨の中を歩き出した。

日曜日。
今度の日曜日って、どのくらい先なんだろう・・・。


 ←読んだらクリックしてください。
このページのトップへ