AnnaMaria

 

続・春のきざし 7

 

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大学の新学期が始まると、にわかに忙しくなった。

速水はゼミ論にとりかかって、図書館通いを再開し、
恵子は購読の新しい教材が難物で、読み込むのに四苦八苦している。

夏までの約束で、速水はライブハウスのバイトを続け、
恵子も、相変わらず奈々の家庭教師を務めていたが、
以前よりは『軽音楽部』の部室に顔を出すようになった。
ちらりとでも、速水のベース姿が見られるからだ。

二人が付き合っていることを知られると、当初は、かなり驚かれた。

速水は無愛想だが、端正な外見からファンが多く、
「なんであの子が・・」と冷たい視線も向けられた。
だが、ふだんあまり女子に接触しない速水が、
恵子がいると視線で追ったり、それとなくかばったりするのを見て、
だんだんサークル内でも認知されてきたようだ。



「恵子、あの先輩とは何でもないみたいなこと言ってたのに。
 やっぱり付き合ってるんじゃない。もう!」

ある日、クラスメイトの直美とお昼を食べている時に、
そう言って冷やかされた。

「うん、でも、あの時は本当に何でもなかったから。」

恵子は自分の交際について、あけすけに話すのに慣れておらず、
自然と顔がこわばってくる。

「やあだ、恵子、彼の話をしただけで赤くならないでよ。
 ちょっととっつき悪そうに見えるけど、かっこいいね。」

「あ、うん・・・」

恵子のどぎまぎした様子に「いいなあ・・」と漏らした様子が気になり、

「直美はどうしたの?」

たしか、恵子の元彼と付き合っていたはずだった。

「あ、ダメになっちゃった。
 何か彼、落ち着かないって言うか、
 わたしのこと、そんなに好きじゃなかったみたい。」

「そんな・・・」

「そうなの。会ってても、どことなく上の空になってくし、
 わたしの話もちゃんと聞いてない。しょうがないよ。」

「そっか・・・」

「あ、わたし、次『比較文学論』だから、もう行くね。」

直美は立ち上がると、手を振って行ってしまった。

恵子はカフェテリアの大きな窓から、外を見下ろした。
キャンバスの前庭に植わっている桜は、すっかり新芽が出そろい、
美しい緑をまとっている。

足元には、山吹の黄色、こでまりの白などが新緑を彩り、
季節が次へと向かっていることを思う。

新学期が始まってから、速水の顔を見る時間は増えたが、
二人きりで会える時間はぐっと減ってしまったのが、少し寂しい。

恋人に会うのは、麻薬のようなもの。
会えば会うほど、もっと会いたくなる、一緒にいたくなる。

現実は、そううまく行かないのに・・・。






「こんにちは、二宮奈々です。わあ、かっこいい!
 お姉さん、こんなカッコいい彼氏だって言わなかったよ。」

「高一の教え子が会いたがっている」
恵子から言われたが、人見知りで、初対面の相手に会うのが不得意だからと、
速水は及び腰だった。

だが、恵子は何度も奈々にせっつかれ、
『友だちと映画を見る前に15分だけでいいから!』
の言葉に、ついに押し切られてしまった。


奈々ちゃん・・・。

恵子は困って、小声で奈々をたしなめたが、一向に調子は衰えない。

「ねえ、ギターやってるんでしょ?音楽は何が好きなんですか。
 兄弟とかは、いるんですか。
 お姉さんのドコが好きになったんですか?」

質問と質問のあいだに、5秒くらいあるのだが、
ぶつけられた質問に驚いているうち、すぐ次の質問に移ってしまう。

ついに速水が笑い出したので、奈々が目を見開いた。

「そんないっぺんに答えられないよ。」

「そうなの?わたし、大学生のお兄さんと話すのって初めてだから。
 いろいろ訊こうと思って、一晩中考えてきたんです。

 え〜っと、何を勉強してるんですか?
 好きな食べ物とかは?アイドルで言うと誰が好き?・・」

ちょっと奈々ちゃん・・。

いくらか声を大きくして、恵子が間に入った。

「そんな次々言われたって無理よ。」

「そうかな・・」

たしなめられて、奈々はようやく小豆ぜんざいにのったソフトクリームを
すくって食べ始めた。

「ギターじゃなくて、ベース担当。
 音楽はロックとジャズとR&Bが好きかな。
 兄弟は兄貴がいる。専攻は法律・・・・」

速水はちょっと微笑んで、さらさらと歌うように答えた。

「ん〜〜っ!答えられるんじゃない。
 でもお姉さんのドコが好きか、好きな食べ物とアイドルを答えてくれてない。」

「好きなアイドルはいない。
 好きな食べ物は多過ぎて言えない。」

「うんうん・・・それから?」

「あとは・・・」

速水がちらりと恵子を見たので、急に顔が赤くなった。

「内緒だ・・・。」

速水がほどけたように笑みを浮かべ、ささやき声で答えると、
奈々は一瞬おしだまり、驚いたことに顔が赤くなった。

見ていると、さっきより溶けて柔らかくなったソフトクリームを
あずきとぐるぐる混ぜている。

「いいなあ・・・。こんなお兄さんとデートできるなんて。」

ぽつりとつぶやくのへ、恵子がなんと答えようか、
へどもどしていると奈々が続けた。

「でもお兄さん、恵子おねえさんのお父さん、すっごく厳しいから気をつけてね。
 うちの母がお姉さんの家で、晩ご飯の時間までしゃべってただけで、
 ものすごくにらまれたもん。
 お父さんに嫌われると、お姉さんに会えなくなっちゃうよ。」

速水の顔にとまどいが浮かんだが、

「気をつけるよ・・・
 忠告ありがとう」

奈々はにっこりして、残りのあずきとソフトクリームをすくい、
全部たいらげてしまうといきなり立ち上がった。

「じゃあ、わたし待ち合わせがあるから行きます!
 お姉さん、邪魔してごめんね。土曜日、待ってる。
 お兄さん、ありがとう。」

ぺこりと頭をさげ、恵子にむかって手をふると、
さっさと店を出て行ってしまった。

奈々が出て行くと、一瞬、二人で顔を見合わせたが、
どちらからともなく、笑い出した。

「まいったな。冷や汗が出たよ。
 俺、面接に合格できたのかな。」

「奈々ちゃんはすごく元気で、ぜんぜん人見知りしないの。
 毎回、家庭教師のとき、いろいろ聞かれて、
 勉強に注意を引き戻すのが大変なくらい・・。」

速水はだまってうなずきながら、コーヒーをのんだ。

「今日はまだ時間ある?」

恵子はうなずいた。二人きりになれたのは久しぶりだ。
まだ別れたくなかった。

「新しいCDを2枚ほど買ったんだけど・・・。
 聞きに来ない?」

速水はコーヒーカップ越しに恵子を見て言った。
恵子の前のストロベリージュースは、氷が溶けて少し水っぽくなっていたが、
我慢して飲み干した。

「うん、行くわ。
 それほど遅くはなれないけど・・」

「ああ。」


地下のフルーツパーラーを出て地上に上がると、空模様が怪しくなっていた。
二人で空を見上げ、顔を見合わせる。

「朝はいい天気だったのに。」

「そうだな・・・」

ぐずぐずせずに速水の下宿へ向かおうと、まっすぐ地下鉄に乗り込み、
わずか3つほどの駅を過ぎて、目的の駅に降り立ったときには、
早くもぱらぱらと雨が落ちかけていた。

「どうするかな・・・」

心配そうに速水がつぶやいたが、下宿まではタクシーで行く距離でもないし、
小さな駅前広場に車の姿は見えない。

「急いで歩けば、大丈夫かも。」

ぽたぽたと落ちかける大粒のしずくを手に受けながら、恵子が言い切った。

「そう言うのなら・・・」

速水が恵子の手を引き、急ぎ足で進みでた。





目算は全く甘かった。
歩き出していくらもしないうちに、バケツをひっくり返したような豪雨となった。

ねずみ色に視界が閉ざされて、あらゆるものが歪んで見える中、
自転車や、制服姿の女子の走る姿が、コマ落としのようにカタ、カタと移り変わる。

速水が上着を脱いで恵子に掛けてくれたが、何の足しにもならず、
途中からあきらめて、二人でしっかり手をつなぎ、
見る間にできた冷たい水たまりに靴を突っ込みながら
ぐちゅぐちゅと急ぎ足で歩く他、どうしようもなかった。

ようやく下宿にたどりついた時は、二人とも全身びしょぬれで
ぼたぼた滴が落ちる有様だ。

玄関の中に飛び込んで、ようやく雨をよけると、

「ちょっとここで待ってて・・・」

速水は濡れた服のまま、急いで階段を上って行った。

ざあざあいう豪雨の世界から、いきなり音のない世界に飛び込むと、
玄関の静けさで、耳がおかしくなったように感じる。

「これ使って拭いて・・・」

速水が持って来たバスタオルを恵子に投げ、自分も玄関で濡れた体を拭くと、

「ざっと拭いたら、上がっておいで。いい?」

そこに恵子を置いたまま、自分の上着を受け取ると、先に2階へ上がって行く。

恵子はずぶぬれの髪、ジャケット、スカートを拭き、バッグの滴を拭うと
濡れた靴を脱いで玄関にあがり、ためらいながら階段を上った。
階段に速水の足跡が濡れて残っている。

おずおずと2階の居間をのぞくと、速水がタオルで頭を拭きながら、
奥の寝室から何かを取り出している背中が見えた。

恵子の足音に気づいて、すぐにやってくると

「とりあえずこれに着替えて・・・間に合わせだけど。」

スウェットシャツとパンツを渡された。

「ありがとう・・・」

「いや、洗ってはあるけど、俺のだから・・・。まあしばらく我慢して。」

苦笑しながら言うと、寝室と居間の境の引き戸を閉めた。

ぼんやり見ていると曇りガラス越しに、速水の背中がぱっと肌色になるのが見え、
恵子はあわてて目をそらした。

しばらく手渡された服を眺めていたが、選択の余地はない。
思い切って、ジャケットもブラウスもストッキングも脱ぐと、
速水のトレーナーをかぶり、スウェットパンツを穿いた。

ぶかぶかなのはもちろんだが、乾いた生地が肌に温かく、
逆に濡れたまま付けているブラの気持ち悪さを際立たせることになった。

しかし、ノーブラと言うわけにもいかないし、干すと言ったって・・。

恵子がおろおろと迷っていると

「着替え終わった?」

となりの部屋から声が聞こえて来る。

「あ、も、もうちょっと・・・」

思い切って濡れたブラも外してしまい、丸めたブラウスの中に入れた。
スウェットの生地がこれだけ厚ければ、下はそれほどわからないだろう・・・。

「あ、もういいです。着替え終わりました。」

恵子が声をかけると、仕切りの引き戸が開いた。
速水も新しいTシャツとジーンズに履き替えている。

「濡れた着替え、これで拭いておけば、少しは乾くと思うよ。」

新しいバスタオルとハンガーを恵子に突き出した。

そこらへんに掛けておけばいいから・・・。

手渡し終わると、速水は階段を駆け下りていった。

恵子はブラウスとブラをタオルに挟み、水気を吸い取ってハンガーに掛け、
ジャケットとスカートも同様にして、もう一度部屋を見回し、
新しいハンガーを借りると、ジャケットだけ別に掛け、ブラウスの下にブラを隠して、
見えないように新しいタオルで覆った。

途中、階下からケトルのピーッと鳴る音が聞こえてきた。

ようやくそこまで終わったところで、速水がゆっくりと階段を上がってくる。
部屋の中に紅茶の香りが漂った。

恵子は寝室側の鴨居にハンガーをぶら下げてから、居間に戻る。
温かいお茶がたまらなく飲みたかった。





隣り合って壁にもたれると、黙って熱い紅茶を飲んだ。
曲げたひざに腕をもたせ、少しずつマグカップのお茶を味わう。

「おいしい・・・」

恵子が言うと、速水がこちらを向いて微笑んだ。

「ひどい雨だったな・・・」

「部屋まで着けると思ったのに。ごめんなさい。
 わたしの読みが甘かったから・・・」

「いや、しょうがないよ。まったく・・」

恵子に向き直ると、自分の肩にかけていたタオルを手に取った。

「まだ髪が濡れてる・・・」

恵子は髪に手をやって、ぐずぐずに崩れた髪から髪留めを外すと、
テーブルに置いて髪をおろし、タオルをもらおうと手を出した。

「拭いてやるよ。」

「え?」

ばさっとタオルがかぶさって来て、ごしごしとこすられた。
タオル越しに大きな手が感じられて、なんだか恥ずかしい。

「もう・・いいです。ありがとう。」

速水がタオルをどけ、脇の椅子に放り投げて隣に戻って来る。

そのまましばらく二人でじっとしていた。
乾いた服と温かい紅茶、布越しに伝わってくる愛しい人の温もりがうれしい。

この前、部屋に来た時はなんだかとてもドキドキしたのに、
今日はゆったりと落ち着いた気分だ。

激しく雨の降りしきる音、ざざっ、ざざっと窓に打ち付ける音が響き、
嵐の波間を漂う船にいるみたいだ。

恵子が頭をそっと速水の肩にもたせて、目を閉じる。

「眠い?」

穏やかな声が降ってきたので、かすかにかぶりを振る。

「ううん。なんだか海の上にいるみたい。
 この部屋だけ切り離されて、外は一面水に囲まれてて・・」

速水が低く笑い声を立てた。

「泳げる?」

「少しならね・・・でもこんな嵐じゃ無理だわ。船にとどまらないと・・・」

「そうだ、しばらく船を出られないぞ。」


低くささやくと、恵子の肩を抱き寄せて口づける。
温かくて静かな触れ合いだった。

何度か柔らかい唇が触れては離れ、離れては触れ、
そのうち速水がうなじをつかんで引き寄せると、キスがぐっと深くなった。

まだ少し濡れた髪がすべって、速水の腕に落ちかかるのがわかったが、
一向に離そうとしない。

ようやく唇を離して、恵子を胸の中に抱き込むと、
「紅茶の味がする・・・・」とつぶやいた

「速水さんだって・・・」

恵子はすぐそばの瞳をじっと見つめた。

速水は答えずに黙って見つめ返して来たが、
ふと恵子から腕を解くとひざまづいて、
ひざの下に腕を差し入れ、ゆっくり恵子を抱き上げると立ち上がった。

問いかけるように、しばらくじっと立ったままでいたあと、
抱き上げたまま軽く、恵子を揺すった。

恵子は茶色の瞳から目が離せない。
首に手をかけたまま、一心に見つめていたが、
速水は不意に顔を寄せて、やわらかな頬に口づけ、

「船の中は、二人っきりだ。」

耳元でささやくと、もう恵子の顔を見ず、となりの寝室へ向かう。

ベッドに下ろされ、口づけを受けると同時に、
恵子には雨の音が聞こえなくなった。






「恵子、恵子・・・」


夢の中から呼んでいるような声に、しばらく反応できなかったが、
体を動かそうとして、はっとした。

すぐそばに温かく、圧倒的な大きさの体があり、
ぴったりと恵子を守るように抱き寄せてくれている。

その目が心配そうに、自分を覗き込んでいた。

「目が覚めた?
 そろそろ起きた方がいいんじゃないかと思って・・。」

そうっと背中を撫でる手にも、もう覚えがあった。
温もりを二人の肌で分け合うのは、不思議と恥ずかしくなかった。
体の中にまだ違和感は残るが、
好きな人と隙間なく触れ合えたうれしさにはかなわない。

自分と違う別の体をこんなにも近しく感じられるのは、驚きだった。

速水の言葉にもすぐには返事ができず、しばらく温かい胸に頬を当てていたが、
ようやく世界が戻って来た。

「今、何時かしら?」

速水がベッドから頭を浮かせて、そばの時計をみると
デジタルの文字がカタリ、と動く。

「5時40分・・・」

たいへん・・と小さな声を上げた。

今朝、家を出た時から、父は不機嫌な視線を浴びせて来た。
夕食までに帰らなければ、叱られるのは間違いない。

「帰らなくちゃ・・・」

「そうだね。ごめん、もうちょっと早く起こせばよかったんだけど、
 俺もとろとろしてしまって・・。」

ばたばたとベッドを出るのは嫌だったが、そんなことは言っていられない。

速水はすぐに起き上がって、ジーンズだけ穿くと居間へ行き、
さっき着ていたTシャツをかぶると、カップを集めて階下へと降りて行った。

ひとりで着替える時間をくれたことに感謝しながら、
恵子は立ち上がってハンガーから服を外し、急いで着た。
ブラはまだ微かに湿っていて冷たかったが、ブラウスとスカートは乾いている。

寝室の床に座ったまま、折りたたみブラシを出して髪を整えて、
小さな鏡で顔を見直し、立ち上がってジャケットを手に取ると、
ちょうど速水が階下から上がって来た。

「したくできた?じゃあ、行こう・・・」



雨はすっかり上がって空気は澄みわたっている。

「あ、見ろよ。」

玄関から出て道に降り立った時、速水が空を指さした。

最初、何を指しているのかわからなかったが、夕暮れのせまる空に
大きな虹が浮かんでいる。

一部はもう消えかかっていたが、確かに虹だ。
7色は無理でも5色のスペクトルは、はっきりと見分けられる。

「うわ、すごい!」

恵子も並んで、虹に向き合う。
そばを歩きすぎる人も気づいたと見え、虹を振り返りながら歩いて行く。

空の明るさが失せるにつれ、虹も急速にぼんやりして、
ついに輪郭を失った。

速水と顔を見合わせ微笑み合うと、温かい手が背中に当てられた。

「少し、急ごうか・・・」





虹に足止めされたせいか、ターミナルに着く頃には急速に暗くなり、
バスは夕闇の中、ヘッドライトを光らせている。

今日は大丈夫だからと、少々無理矢理に速水を帰らせ、
恵子ひとりでバスに乗りこんでしばらくすると、向かいの席の女性と目が合った。

よく見ると近所の顔見知りの女性である。
恵子はあわてて頭を下げると、向こうも笑顔を見せて会釈を返す。

どこまで見られただろうか、と少々不安な気持ちを抑えながら、
バスに揺られて行った。





夕食には間に合わなかった。

恵子をのぞいた家族が日曜の食卓を囲んでいるところに、遅れて混じるのは、
ばつが悪かったが仕方がない。

畳の上で遅くなったことをまず謝罪して、非難の言葉を待ったが、
食事中のせいか、父からは「あとで話を聞く」という言葉だけで終わった。

どことなく胸がつかえたが、なるべく普段通りに食事をして、
母の後片付けを手伝い、父が風呂に入っている間、
律がテレビを見ているそばから、できるだけ離れないようにしていると
電話がかかってきた。

母が電話に出て、玄関から恵子を手招きし、受話器を渡すと、

「短めにね・・」

ささやいて、居間に戻って行った。

「もしもし・・・電話代わりました。」

「こんな夜にごめん、俺です。」

速水の声だった。

「あ、はい、わかります。どうしたの?」

あんな午後を過ごしただけに、電話越しに声を聞いても胸がさわいだ。

「ひとことだけ。
 部屋に髪留めが落ちてた。
 探しているといけないと思って・・・。」

「あ、髪留め。」

探すどころか、置いてきたことにすら、今まで気づかなかった。

「ありがとう。わざわざ知らせてくれて・・・。」

「いや、それだけじゃなくて、他もちょっと心配だったんだ。
 大丈夫?」

「家のこと?それとも・・」

「両方だよ。すごくあわただしく出て来て、話ができなかったから。
 それも気になった。大丈夫ならいいんだ。」

「ありがとう。大丈夫よ。」

「CDを聞かせるの忘れたな・・・」


速水の笑い声が聞こえて、恵子も釣られて笑った。


「本当ね。そのために行ったのに。
 また今度聞けるとうれしいわ。」

「ああ、そうだね。じゃあ、おやすみ。」

「おやすみ・・」


受話器を置くと、ドアのすぐ外に父が立っていたので驚いた。


「ちょっとこっちへ来なさい。」


恵子はうなだれまいと懸命に顔を上げながら、
不安な気持ちを抑えて父の後に従った。


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