AnnaMaria

 

続・春のきざし 8

 

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すぐにも説教が始まると思っていたのに、恵子を居間に戻すと、
父はいったん部屋を出て行ってしまった。

風呂場のあたりから、何やら母と話している声が聞こえる。

居間に残っていたのは、テレビを見ていた律だけだ。
律も不穏な空気を感じて、こちらを見たので、声を低めて訊いた。

「わたしがいない時、何かあった?」

「いや、特に何もなかったよ。町会のお知らせとかって、
 誰かが回覧板を持って来たけど、それだけ。
 機嫌は特に良くも悪くもなかったし・・・
 何だろう?」

原因がわからないと余計に不安だった。
父は何を言おうとしているのだろう。

20分近く経った頃、父母が並んで居間に入ってきた。

「律は部屋に戻っていなさい」

のっけから父にそう告げられ、さりげなく律に援護してもらおうと思っていた目算は、
早くも外れた。

3人きりになってしばらく、誰も口を開かない。
律が付けっぱなしにしていたテレビから、
バラエティ番組のにぎやかな会話が流れて来ると、父が眉をひそめて立ち上がり、
「くだらん番組を・・」吐き捨てるように言ってテレビを消した。

しんとした沈黙が漂い、恵子は両親を見上げたが、父はこちらを見ずに、
隣の座敷の仏壇を凝視している。
母はひざの上で手を組み、じっと目を落としている。

「ウォホン!」

わざとらしい父の咳払いのあと、口を開いたのは母だった。

「恵子、あなた、誰かおつきあいしている人がいるの?」

まったく予想していない質問ではなかったが、
こうもはっきりと尋ねられるとは思っていなかった。

大体、家では、その手の話を口にするのをはばかる雰囲気があり、
誰かと交際しているなどと両親に話したことは一度もなく、
恵子はすぐには返事ができなかった。

無言でいるのを肯定と受け取ったらしく、

「あなたが男の人と、プラザの近くを歩いてたって教えてくれた人がいるの。
 その人とお付き合いしてるの?」

一体いつのことだろう?何を見られたのだろう?

恵子はうつむいたまま、頭ではあわただしく考えをめぐらしていた。

今日の午後来たという、回覧板の人だろうか?
うちへ持って来る可能性のある人と言えば・・・

「ちゃんと返事をせんか!」

父の一喝がとどろき、恵子はびくりと体を浮かせて、顔を上げた。

「はい、そうです。」

恵子の短い返事は、両親にショックを与えたようだ。
二人で顔を見合わせると、父はぷいと横を向いてしまい、
こめかみに血管が浮きだすのが見えた。

「おつきあいって、どの程度のおつきあい?」

「どの程度、と言われても・・・・」

恵子には、どう説明してよいのか、わからない。
一度もこんな話をしたことがないのだ。

「・・・あなたが手をつないで歩いてたって、聞いたのよ。」

父のこめかみの血管がびくりと盛り上がる。

「まさか、それ以上、分別のないことをしてないでしょうね?」

分別のないことって、何を指すのだろう。
間違いないのは、今日の午後、二人で過ごした時間は、
分別のないことに入るだろう、と言うことだった。

しかし、そんなことを白状するわけには行かない。

「していないわ。」

恵子の言葉を信じてくれた様子はなかった。

「さっきの電話のひと?」

恵子は頷かざるを得なかった。

「さっきの電話で・・・」

母が言いにくそうに、言いよどんだ。

「髪留めがどうのって、言ってたそうだけど・・。
 あなた、今朝髪留めをしてったように思ったけど、
 それはどうしたの?なぜ、今してないの?」

恵子は大きく目を見開いた。
父が電話を盗み聞きしていたのだ。
よっぽど聞き耳を立てないと、そんな言葉まで拾えまい。
かっと全身が熱くなった。

「お父さん、電話を立ち聞きしてたの?」

父に向かって、反射的に非難の言葉が出た。
仏壇を凝視していた父がさっとこちらを向き、まなじりが切れ上がって、
爆発しそうな顔が迫って来た。

「居直るな!たまたま聞こえただけだ。
 お前が夕飯にも間に合わず、何をちゃらちゃらと遊んでいたのか、
 これでわかったわ!
 だいたい、まだ学生の身分で、男と遅くまで遊び歩いて」

「そんなことしてないわ!」

「だまれ!
 朝も早くから外が暗くなるまで、ほっつき歩いて、
 夕食の手伝いも何もしとらんじゃないか!
 何をうつけてる!
 お前はそんな馬鹿な真似をしないと思っとったのに、
 親の信頼を踏みにじりおって・・・」

憤怒に唇が震え、言葉が途中で出なくなった。

おとうさん、そんなに怒鳴ったって・・

母のとりなしの言葉にも、

「うるさいっ!大体お前が甘やかすから、恵子がこんな風に成り下がったんだ。
 サークルだ、アルバイトだと、何をしとるかわかったもんじゃない。
 べたべた男と出歩いて、近所の物笑いだ。
 金輪際、家を出るな!電話もダメだ。休みの日は家の手伝いをしろ。
 わかったか!」

壁がびりびりと震えるほどの大音声で、父は逆上しきっていたが、
恵子は妙に落ち着いていた。

「おとうさん、わたし、悪いことをした覚えはないわ。
 勝手に決めつけないでよ。」
 
「ええ、まだ言うかっ!!」

ガシッ!
恵子の頬が鳴って、火がついたように熱くなり、
思わず手で押さえると、さらに拳が降りかかってきた。
視界が揺れ、思いっきり畳に打ち倒される。

「やめろよ!」

いつの間にか、居間にいた律が父を羽交い締めにして止め、
ふり上げた腕を母が必死に抑えている。

父は中背ながら頑丈な男なので、二人掛かりで押さえこむのがやっとだ。
なおも恵子に向かって来ようとするのを、必死で止め、
もみ合ううち、そばにあった座卓やポットが倒れて、急須のお茶がらが散乱し、
ポットからお湯がこぼれだした。

「お父さん、危ない!怪我するから、やめて!」

母が声をふり絞って、ようやく父は止まった。

「わかったな、恵子!
 わしは絶対に許さんぞ!」

自分を縛めていた二人を体ごとふり飛ばしたので、
今度は母がひっくり返って壁にぶつかり、すごい音がした。

「おかあさん!」

恵子が駆け寄ろうとしたが、母は「大丈夫・・」と体を起こし、
ゆっくり起き上がった。

父はなおも自分をつかんでいた、律の手をふりほどいて、
足音高く玄関に向かい、ガチャガチャ音を立てて扉を開けると
つんのめるように出て行き、バタン、と扉の閉まる音が家中に響き渡った。

し〜ん、と静寂が訪れた。

やがて、母がそっと立ち上がると台所に行って、布巾を手に取り、
畳にこぼれたお湯や茶殻を拭き始めた。

母の動きに恵子も呪縛が解けたようになって、のろのろ起き上がり、
床にころがっていた急須とフタを取り上げ、台所へ持って行き、
律はひっくり返った座卓を元通りに据えた。

部屋の秩序がやや戻ると、律が恵子の方を向いて目を丸くした。

「うわ、ひでえ・・・」

しかめっつらに異常を感じて、恵子が自分の頬に手を当てると、熱を持っている。
もう、腫れ始めているようだ。

「娘の顔をげんこつで殴るって、どういう親父だよ。
 ったく、姉貴、早く冷やしたほうがいい。」

律の言葉に、恵子は洗面所に行って、タオルを絞り、
頬に当てる前に鏡で自分の顔を見た。

真っ赤に汗ばんで、ぎょろぎょろとした目をしており、
左の頬骨のあたりが赤くふくれ始めている。
あごの横にも赤くなっている場所があった。

明日になったら、どんな顔になるだろう。

恵子はすっかり憂鬱になったが、冷たいタオルを頬に当てたまま、居間に戻った。

律は心配そうに恵子を見ていたが、母の表情は複雑だった。

「お父さんにも困ったもんだけど、恵子も恵子だわ。
 髪留めってどういうことなの?髪留めを忘れるって一体・・・・」

「午後にすごい雨が降ったでしょ?
 それに当たって濡れたから、雨宿りしてた時、髪止めを外したのよ。
 それを忘れて来てしまって、預かってもらっただけ。」

母は納得した顔を見せずに、ため息をついただけだった。

「しばらくはお父さんの言う通り、おとなしくしてなさい。
 恵子・・・・お母さんもがっかりだわ。」

がっかり?一体、何をがっかりしたの?

恵子は問いただしてみたかったが、それで何かが良くなるとは思えない。
今は、それぞれの頭に血が上っているのだから、まず落ち着かなくては。

自分を見ている律の視線を感じながらも、恵子は2階の部屋に引き上げた。





何を聞こう・・・?


ドアを閉めると、CDラックのそばに寄り、テープの棚をたどった。
マドンナの“Papa, don’t preach”のタイトルを見て、
ハマり過ぎだわ、と苦笑がもれた。

何か、心を鎮めてくれる音を・・・癒してくれるメロディを・・・。

迷った挙げ句、古いテープを取り出してセットした。
柔らかな女性ヴォーカルが流れ出すままに、
ひざを抱えて、じっと壁にうずくまる。


“・・・・
Will you dance?
Will you dance?
Take a romance and a big surprise?”
(踊りましょう、
恋をしてみれば、驚きの日々が訪れるかも)


ジャニス・イアンのささやくような声が、恵子の肌を撫でていく。

今日、自分のしたことは悪いことだったろうか?
親に言えないのだから、いいことではないのかもしれない。

“じゃあ、後悔している?”

恵子は自分に問いかけて、目を閉じると、
体の奥から甘い衝撃がわき上がって来る。

優しい肌に包まれて、身も心も溶け合わせること。
胸につまった思いを言葉ではなく、熱や仕草で伝え合い、受けとること。
体中がびりびりしびれ、甘くて激しくて、涙がでるほど幸せだった。

あのひとときのせいで罰を受けるならば、仕方がない。

頬の熱は今や、ずきずきとした痛みに代わりつつあった。
氷で冷やせば、明日の朝にはもう少しましになるだろうか。

速水さん・・・。

小さく名前を呼ぶと、急に部屋の様子が歪んで見えた。

泣いてはいけない。
だって、一ミリも後悔なんかしていないのだから・・・。





よく晴れて、美しい月曜日だった。
昨日の雨が大気を洗い流し、新緑をいっそう鮮やかに照り輝かせている。

薄暗い図書館棟を出て、食堂棟へと向かうペデストリアン・デッキで、
速水の前を恵子らしい姿がちらりと横切った。

友人たちと離れ、売店のある地下への階段を降りようとしている。
肩からかけたバッグに見覚えがあり、確かに恵子だ。

速水はつかまえることに決め、足を速めて後を追うと、
売店に入るガラス扉の前で、ひとり立ち止まっている恵子を驚かそうと、
ぱっと後ろから両腕をつかんだ。

びくん!

恵子の背中が大きく痙攣し、ゆっくり体をふりむかせると、
自分を捕まえた男を見て、凍り付いたように両手で顔を覆う。

「どうしたんだ?」

驚かされたのは、速水のほうだった。

恵子の左目は白い眼帯に覆われ、頬から顎のあたりも赤らんで腫れている。

「怪我したのか?いつ?」

何も言わない恵子を捕まえて、顔をのぞき込もうとすると、
恵子が抗って、後ろに飛び退いた。

「昨日、あわてて帰ろうと転んじゃって、顔を打ったの。
 ひどいでしょ?」

「転んだって?」

速水はしばらくじっと恵子の顔を観察していたが、
ふと自分たちのいる場所を思い出し、
恵子の手首をつかんで、売店横の通路に引っ張って行った。
教科書や本を積んだカートが幾つも止められている。

カートの裏に引っ張り込むと、手を伸ばして、恵子の眼帯を外そうとした。
「やめて」と恵子が手を払って横を向く。

「ひどい顔なの、見られたくないわ。」

速水は黙ったまま、なおも手を伸ばして恵子の目を調べようとし、
それを止めようとする恵子の間で、ちょっとしたもみ合いになった。

荷積みのカートだらけの通路へ、わざわざ入るものは居ない筈なのに、
男子学生がひとり、遠目に二人の様子を見るとつかつかと近づいてきて、
いきなり割って入った。

その瞬間、速水がつまんでいた眼帯が外れ、恵子の左目があらわになると、
速水とちん入者の口から、同時に「わ・・」と声が漏れた。

目の下全体が赤く腫れ上がり、頬骨の一番高いところは毒々しい紫に変色している。
あごにも内出血の跡があった。

「これは、あんたのせいなのか?
 付き合ってるって、こんな男とか?」

ちん入者の男子学生は、目をむいて速水に食ってかかった。

「やめて、やめて!ぜんぜん違うのよ。」

恵子が後ろから男子学生の肩を引っ張ったせいで、三人で向かい合う形になり、
一瞬、沈黙が流れたが、恵子が再び口を開いた。

「あなたには関係ないわ。
 話しかけるな、顔も見せるなって言われたんだから。」

「俺は高校からずっと、お前の同級生だったんだ。
 お前にこんな真似されて、黙ってるわけに行くかよ」

「だから、違うってば!速水さんじゃないわ。」

カートがあって、直接表からは見えないものの、言い争う声に何事かと、
伸び上がってこちらを覗いている好奇の目がある。

「じゃあ、誰にやられたんだ?」

速水の落ち着いた声が響いた。

恵子が答えられずに横を向いて、速水の開いた手のひらから、
眼帯を取ると、もう一度付け直した。

曲がってしまった眼帯を、速水の指がそっと直し、男子学生に目を向けた。

「誤解が解けたんなら、行ってくれ。」

一瞬、ぐっと詰まったようだが、なおも立ち去らずに

「もしかして・・・おやじさんか?」

男子学生の言葉に、恵子は首をふることができなかった。

「お前、おやじさんに怒られるようなことをしでかしたのか?」

「大輝」

恵子が我慢できずに言い返した。

「あなたには関係ないって言ったはずよ。
 なるべく顔を見せないようにするから、そっちもそうして欲しいわ。」

急ぎ足で通路を出ようとする恵子に、
速水が大きなストライドで楽々と追いついた。

「昼飯を食いに行こう・・・」

さりげない誘いをありがたく思いながらも、

「ごめん・・なさい。口の中が痛くて食べられないの。
 食欲もないから、速水さんだけで食べて来て。」

ふりきろうとする速足の恵子に、余裕の足取りでついてくると

「午後の講義は?」

「中世叙事詩、アーサー王物語。今日は湖の騎士、ランスロットが出て来る筈なの。」

「ふうん、じゃあ、すごろくをしようかな。」

「え?」

「じゃんけん、しよう。
 じゃんけん・・・・」

唐突に言われて、反射的に恵子は拳を出した。

「ぱー、恵子の負けだ。一回休み!いいな。」

「ええ?だって・・・」

「きちんと事情を聞くまで帰さないから、そのつもりで・・・」

そんな・・・。

ためらっている恵子に向き直って。

「俺のせいでもあるんだから、どうしてもちゃんと話を聞きたい。
 そうだろう?」

恵子はまだ、ためらっていたが、しばらくは思うように会えないし、
連絡もできないかもしれない。
かと言って講義の後、話し合っていたら今日も遅くなってしまう。

「わかったわ、クラスの友だちに伝えて来る。
 売店のスポーツ用品売り場で待っていて・・・」

了解のしるしに速水はちょっと手を挙げて、売店のドアに吸い込まれて行った。




直美たちに午後の講義を休むと伝えるのは簡単だったが、
売店に戻るのはそうあっさりとは行かなかった。

食堂から戻る通路の近くで、大輝が行く手を阻んだからだ。

「何度もどうしたの?
 急に顔を見たくなったわけでもないでしょ。」

「そうだって言ったらどうする?」

「こんな顔見てもしょうがないわよ。
 急いでるんだから、どいてくれる?」

恵子の返事を聞いた大輝は顔をしかめ、

「お前、何だかきつくなったな。
 前はそんな言い方しかなったぞ。」

「そう?あれから強くなったの。」

恵子が挑戦的に瞳を上げると、大輝が何とも言えない表情をした。

「あの時は・・・俺も言いすぎた。
 いや、ひどいことを言ったから、いつか謝ろうと思っていたんだ。」

恵子は驚いた。なぜ、今更、こんなことを言いだすのだろう。

「恵子が真面目で、家が厳しいのはずっと分かっていたのに、俺が無理言った。
 わかってたんだが、納得できなかったんだ。
 
 俺らは高校の時から、お互い見てきただろう?
 俺はずっとお前が好きだったし、お前だってそうだ。
 そんな相手、他にいない。
 お前ほど、俺のことわかってくれる女はいないって、やっとわかったんだよ。」

「わたし、大輝のこと、わかってなんかなかった。
 大輝もわたしのこと、わかってないと思う。
 ごめんね、急いでるの。そこを通して・・・」

「恵子・・・」

大輝に腕をつかまれそうになり、さっとよけようと思っていたのに、
片目で遠近感がつかめず、うまく逃げられなかった。

「ちゃんと話を聞いてくれよ。あんな軟派なヤツのどこがいいんだ?」

「大輝には関係ない!」

自分をつかむ手をもぎ放そうとしたが、うまく行かない。
午後の講義がすぐにも始まる時間なので、通路を通る学生も少なかった。

「しつこいな・・・君は。」

後ろから長身の姿が現れると、大輝の目の色が変わった。

「お、ナンパ男が俺に喧嘩売るのか?
 ちゃらちゃらギター弾いてるだけのヤツには、負けないぞ。」

大輝は高校でレスリングをやっていた。
市の代表になったこともあり、それなりに名前が通っていたこともある。
大学でレスリング部に入らなかったものの、完全な体育会系男子で、
文科系の活動を「ちゃらちゃらしている」と馬鹿にすることがあった。

「確かに腕力では負けるかもしれないな。
 まあ、彼女と同じ顔になるのも悪くないかもしれない。」

速水はせせら笑った。

「だがそれは今度にしてもらおう。
 彼女が急いでいるって言うのは本当なんだ。」

恵子に軽くうなずきかけると、恵子は手をゆるめた大輝のそばを離れ、
すばやく速水の隣に収まった。

「じゃあ、行こう。」

速水は並んだ背中に手を当て、二人で大輝を置き去りにして出て行った。





真っ昼間の平日、病気以外の理由で講義をさぼったのは、初めてだった。
空いた電車に揺られながらも、どことなく罪悪感を感じる。

しかも・・・。

恵子は隣で腕組みをし、黙ったままの速水をそっと見上げた。
平たく言ってしまえば、恋人と一緒にいるためなのだ。

速水は恵子の視線に気づくと、「どうする?」と無言で問いかけて来た。

「あの・・・速水さんの部屋に行ってもいい?」

恵子が耳元でささやくと、速水は少し意外そうな顔をしたが、

「もちろん、構わないよ・・・」

昨日の今日で彼の部屋に行くのは、少しためらわれたが、
「プラザ周辺で二人を見た」という目撃者がいる以上、
今日は誰かに見られる危険を絶対に犯したくなかった。
 



部屋は散らかっていると言うほどではなかったが、
昨日ほど整然としてはいなかった。
ベッドカバーはかかってないし、居間のカーペットには雑誌がちらばっている。

だが、却って居心地よく感じられるのが、不思議だった。

ここへ来る途中で買った弁当を速水が食べ終わると、
恵子は昨夜、帰ってからのできごとを話した。

今後しばらく、日曜日が外出禁止になるのも、電話を止められたことも、
なるべく深刻にならないようにさらりと告げた。

速水は一言もさしはさまず、黙って恵子の話を聞き終わると、
テーブルの上に手を組み、深刻な表情で黙り込んでしまった。

「悪い。俺がよけいな電話をしたせいだ。」

「ううん・・・それより、ちょっぴり寝過ごしちゃったせいよ。
 夜遅くなると、うちの父、理不尽に激怒するの。前からだから。
 でもいいの。」

「何がいいんだ?」

恵子は微笑もうとして、頬に激痛が走るのを感じ、
思わず顔をゆがめた。

った!イタッ!

速水が何とも言えない顔で、恵子の顔をつくづくと見やった。

「ひどい顔で来ちゃった。ごめんね。」

「恵子があやまることは全然ない。俺が殴られるべきだったのに。」

「そんなことないわ。
 夕飯に遅れたのはわたしだし、親に言えないことをしたのもわたしだもん。」

「だが、ひとりでしたわけじゃない。」

「そうね・・」と恵子がまた微笑もうとして、顔をしかめるのを見て、

「無理に笑おうとするなよ。却って痛々しい・・」

わかったわ・・・。

速水はため息をつくと、そうっと腕を伸ばし、恵子の腕をつかんだ。

「どうするの?」

「こっちに来いよ。」

でも・・・。
いいから・・・。

速水は腕を引っ張り寄せて、恵子を足の間に挟むと、
すっぽり胸の中に抱き寄せた。

たちまち、波のように速水の匂いに包まれ、ほうっと息を吐く。
あまりの安心感に、かすかに身震いすると速水の顔を見上げた。

「心配するな、すこし、なぐさめようとしてるだけだ・・・」

「なぐさめる?」

「ああ・・・」

速水の指がごくごくかすかに恵子の頬にふれ、最初はびくりとしたが、
そのうち、優しい感触に痛みが和らぐような気がしてきた。

かわいそうに・・・・。

「痛かっただろ?」

低くつぶやきながら、恵子のあごをそうっと撫でた。

優しい手がさらに肩を撫で、背中を撫で、
髪に頬ずりをし、おでこにキスをもらって、恵子はとろけるようだった。

目を閉じて、じっと速水の胸にもたれながら、
こんな風に優しくしてもらえるのなら、
殴られた甲斐があったかもしれないとすら思え、笑みが浮かんでくる。

「少しは・・・痛くなくなる?」

「・・・少し痛くてもいい。」

「どうして?」

「だって、こんなに優しくしてくれるから。」

恵子がささやくと、速水の指が恵子の髪を割って、うなじに入り込んだ。

「キスしたら・・痛いかな?」

「きっと・・・」

「ん?」

「きっと痛くなくなるわ・・・・」

返事を告げるとすぐ、この上なく優しいキスが降りて来た。
そっとこするように、なでるように、いやすように。

恵子が少し唇を開いて、触れ合っている柔らかな唇をついばむと、
誘われるように速水が入って来た。
しびれるように甘くなめらかで、口の中の痛みなど忘れてしまった。




結局、キスだけで癒してもらうと言うわけには行かなかった。
既にその先を知っている二人が、それほど簡単に止まれるわけもなく、
速水は少しためらっていたが、恵子はそれを望んでいた。

ただひたすら優しく抱きしめてもらっている途中で、
不意に速水の動きが止まったことがある。

「どうしたの・・・?」

速水の目と指は、むきだしになった恵子の右腕と横ばらを注視していた。

「いや、ここにもアザがある、と思っただけだ。
 ここも、ここも少し赤く痕になってる。
 お父さん、思い切り殴ったんだな・・・」

小さなため息をつくと、そっと指の腹で撫でてくれた。

「俺が受けるべきだったのに・・・。
 恵子だけに痛い思いをさせてすまない。」

その言葉だけで、恵子にはもう十分だった。


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