AnnaMaria

 

続・春のきざし 9

 

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恵子の顔色は毎日変化した。
翌朝は頬が赤く腫れ上がって、目の辺りは紫に沈殿し、
翌々日はさらに腫れて紫エリアが増大し、試合後のボクサーのようだった。

律は恵子を見るたび「ひっでえ顔色!」を連発し、
「朝飯、食えんの?味噌汁しか飲めないんじゃない?」
「噛むと口の中、痛いだろ?」
「姉貴痩せたな・・・」

姉への同情というより、一言もしゃべらず、
不機嫌な顔で食べ続けている父親への、当てつけなのは明らかだった。

もっともほとんどしゃべらないのは、恵子も同じで、
律の言葉にも短く受け答えするだけで、父とは一切言葉を交わそうとせず、
母とは、食事の支度や家の手伝いなどに必要最低限の会話のみ。

家の中が実にぎくしゃくした雰囲気だった。

土曜日になるとほとんど腫れは引いたが、目の回りは青く、黄色く変色し、
あごの周辺にも青い沈殿がぼつぼつ飛んで、かなり目立つ色合いだった。


「恵子、今日も奈々ちゃんところに家庭教師、行くの?」

ためらいがちに母が訊いたのは、「やめる」と言って欲しかったのだろう。

「どうして、そんなこと訊くの?」

「いや、だってすごい顔じゃない。あちらが心配するかも・・」

「そうね。」

新聞越しに父のうなり声がし、
「今日は止めとけ」という声が聞こえて来た。

「どうして?」恵子の声は鋭かった。

「こっちの勝手な都合で仕事を放り出すんじゃないって、いつも言ってたでしょ?
 奈々ちゃんは中間テストの勉強が必要だから、わたし、行きます。」

きっぱり言われると、両親には止める理由がなくなってしまった。





奈々の家にあがるなり、

「わああ、恵子ちゃん、一体どうしたの?
 すごい顔色になってるわよ。だいじょうぶなの?」

「もう、それほど痛みはないから、大丈夫です。
 おばさんにまで、ご心配かけてすみません。」

奈々の母親に向かって頭を下げると、淡々と答えた。

「ねえ、どうしたの?事故にでも遭ったの?」

声を低めて、心配そうに訊いてくる。
恵子はこのおばさんだけには、本当のことを言ってしまおうと決めていた。

「実は・・・父に叱られて・・・」

「まあ、あのお父さんが!
 ひっどいことするわねえ、女の子の顔にこんなむごいアザ作って!
 親だからって、やっていい事と悪い事があるのに。
 今度会ったら、どんなににらまれても言ってやるわ!」

恵子の父に対し、もともと良い感情を持っていない人だけに、
無惨なあざを見た今、本気で怒っているようだ。

「ありがとう、おばさん・・・。」

「いいのよ、恵子ちゃんは本当に真面目ないい子なのに、
 あなたのお父さんは頑固で融通が利かなすぎるのよ。
 ちょっと本当にひどいわ、これ・・・」

奈々の母親は恵子のあざを調べ、ため息をついた。

「恵子ちゃん、よく我慢してるわねえ。
 いい?おばさんは恵子ちゃんの味方だから、
 どうしても我慢できなくなったら、構わないから家出て、ここへいらっしゃい。
 今度、あなたに手をあげるようなことがあったら、我慢しちゃいけないわ!」

「おいおい、よその娘さんに過激なことを勧めるなよ。」

奈々の父親が玄関先に顔を出して、母親をたしなめた。

「だってお父さん、見てよ、これ!
 これやったのが、あの頑固親父だって言うんだから、
 わたしはがつんと言ってやりたくて、むずむずするわ。」

「そう言ったって、それぞれの家の方針ってものが・・・。
 ああ、しかし、こりゃあまた、むごいことだな。
 ちょっと診せなさい。」


奈々の父親は医師だった。

専門は精神科で、現在は公立病院で研究と臨床に携わっているのだが、
医師には違いなく、恵子の顔を仔細に調べると
「痕が残るようなことはないだろう」と告げた。


部屋に入って来た恵子の顔を見るなり、奈々はうっと息を呑み、
誰がやったのか、どうしてそうなったのかを詳しく聞きたがったが、
恵子はごく簡単に答えるにとどめた。

自分から話してしまったとは言え、これ以上、
奈々の家族を家のトラブルに巻き込みたくなかった。

「お姉さん、本当に大丈夫?」

「大丈夫って言ったでしょ。もう見た目ほど痛くないの。
 奈々ちゃんのお父さんにも診てもらったわ。」

「でも、うちのお父さん、精神科だからなあ・・・」

奈々はやや不安そうに言うと、

「ね、お兄さんに会えてる?」

「ううん。今はあんまり会ってないの。」

「どうして?」

「ちょっと色々あって・・・」

恵子がこれ以上、訊いて欲しくないのを感じたのか、
奈々の追求もそこまでで終わった。





奈々の家を辞した帰り道、恵子の気分はさらに落ち込んでいた。

誰かに味方して欲しくて、奈々の母に父のせいと打ち明けてしまったが、
いざ、父を思い切り非難し始めるのを聞くと、だんだん憂鬱になってきたのだ。

恵子を擁護しての言葉とわかっているのに、
親の悪口を聞くのがつらいのが不思議だ。

帰るべき家は、お互い意地を張るように黙り合ったままで、相変わらず重苦しく、
明日は日曜日なのに速水にも会えず、一日閉じ込められたままだろう。
恵子はため息をついた。

のろのろ自転車を走らせて行くと、国道沿いの電話ボックスが目についた。
今頃、速水はバイト中で、土曜の夜はライブハウスが最高潮のはず。
電話しても、ゆっくり話せるわけがなく、速水に迷惑をかけてしまうだろう。

それでも・・・ちょっとだけ。

ボックスに入って、アドレス帳を取り出すと、
ライブハウスの番号を押す。
呼び出し音の後に聞こえたのは、陽気な声だった。


「Hi!こちら『ライブハウス、ピーボディ』・・・」

「あの、アルバイトの速水さんをお願いしたいのですが・・」

「コーヘイ?今、ステージにいるよ。どなた?
 あとで電話するように伝えとくから。」


英語なまりはマイケルに違いない。


「ああ、恵子です。特にメッセージはないです。忙しいのにごめんなさい。」

「ケイコ?わかった、コーヘイに言っておく。
 また今度、店に遊びにおいでね。待ってるよ。」

「ありがとうございます・・・」


心配をかけさせるだけの電話になってしまったかもしれないが、
店に流れる陽気な音楽の一部を、創りだしているのが速水かと思うと、
うれしかった。

電話越しに聞こえた曲・・・何の曲だったかな。
ワムの“Wake me up, before you go go”だったかも。
あの黒くなめらかなベースを抱いて、リズムを刻んでいるのだろう。

ああ、見に行きたい。この耳でじかに聴きたい!

想像するだけで、今すぐ飛んで行きたい思いに駆られる。

ボックスを出て、車ばかりが流れて行く国道沿いの歩道に降り立ち、
夜の景色を見ていると、つくづく情けなくなって来た。

自分の恋人がステージに立っているのに、見にも行かれないなんて。
見に行くどころか、もう一度あの店に行けるかどうかさえ、あやしかった。
よっぽど手の込んだ嘘でもつかない限り、難しいだろう。

どうしたら、この束縛を逃れられる?
卒業して、就職して、独立して、自分ひとりでやっていけるようになれば、
誰にも文句は言われないはず。

でもその時には、速水はもう、ライブハウスで演奏していないかもしれない。
仕方がないのはわかっている。

だが、まるで檻の中に捕われているような気分だった。
息苦しい、家に帰りたくない。

だがそれでも、早く帰らなければならなかった。





大学と家庭教師先である奈々の家以外、どこにも出ないまま、
4月が過ぎ、連休が過ぎ、ようやく普段のペースが戻って来た頃、
奈々がひさびさに家に遊びにきた。


「お!奈々ちゃん、久しぶり。髪の毛伸びたね。」

「律くんは少しふんわりしたみたい。
 部活やってないでしょ?さぼり過ぎだよ〜!」


奈々が来ると、停滞気味の家の中にも陽気な風が吹く。

律のことは、お兄さんと呼ばずに「律くん」と呼び、
奈々とは二つ違いだがまるで遠慮がなかった。

恵子はこのところ体調を崩し気味で体がだるく、何をする気も起きなかった。
奈々のところに行く度に心配され、昨夜はとうとう奈々の父親につかまって
20分ほどカウンセリングめいたことをされた。

自分は病気なのだろうか?

大学で、速水の姿は見かけるものの、授業のスケジュールが合わず、
二人きりで過ごす時間はほとんど持てない。
帰宅時間が遅くなるので、部室に寄る回数もぐんと減らした。


恵子がライブハウスに電話した週末明けに、
食堂で恵子を待ち構えていたらしい速水と、顔を合わせることはできたものの、
次の講義が迫っていて、いそいで昼食をとらねばならず、
ゆっくり話をする時間はなかった。

それに電話した理由を問われても、特に用事があったわけでなく、
何かあったのかと心配する速水に、答えられることは何もない。


「マイケルが恵子から電話だからって、
 店から電話しろ、電話しろってせっつかれたよ。
 彼女の家は厳しいから、こんな時間に電話したらマズイって
 何度も説明したんだけど。」

「ごめんなさい。心配かけちゃった。
 公衆電話を見たら、急に声が聞きたくなっただけなの。」


そう言って、うつむいた恵子の姿は、
5月に入って夏めいた陽射しの日もあるのに、透明なほど白かった。

家からあまり出ないせいだと納得してはいたが、白いだけでなく、
体全体がうすくなって、生気が感じられないのも心配だった。

「大丈夫なのか?」

恵子は速水の心配そうな視線を察して、

「別にどこも悪くないわ。
 授業がタイトで、課題も多いのに、図書館厳禁、って言われちゃって、
 その分、家で少し夜更かしが続いているかも。」

なおも緊張を解かない速水の表情に、恵子は無理に笑ってみせた。

「まだ、お父さんと仲直りしてないのか?」

「う〜ん。ろくに口も利かないし、こっちも見ない。話を聞く気もないみたい。 
 だから、仲直りって言うのはむずかしいわ。
 ほとぼりが醒めるのを待つのが一番かな・・・」


恵子の髪が肩をすべり、さらさらさら、と速水の鼻先をかすめた。

すこし、髪が伸びたような気がする。
この前、あの柔らかい髪に触れられたのはいつだったろう?

このまま午後の講義をすっ飛ばして、どこかへ恵子をさらって行きたかったが、
思い詰めた目をした恵子が、それを承服してくれるとはとても思えなかった。





「おばさ〜ん!」

朝から、奈々がまた遊びに来ていた。
屈託なくあれこれしゃべる声に、恵子の家の誰もがほっとしていた。

「プラザの近くに、新しいアイスクリーム屋さんができたって聞いたの。
 ちょっと並ぶんだけど、すっごくおいしいんだって。
 お姉さんと一緒に行っちゃダメ?」

恵子の父がゴルフの打ちっぱなしに出かける用意をしているのを、
ちらりと横目で見ながら、奈々が甘い声で訊いた。

「そうねえ・・・」恵子の母も父の背中を窺っている。

「アイスクリーム?俺も行こうかな。他にも寄りたいところがあるし・・。
 姉貴、行くだろ?」

律が声をかけてくれたが、恵子はもうひとつ乗り気になれなかった。
何となく体がけだるくて、食欲が湧かない。
夜もあまり眠れないことが多くなった。

自分から始めたようなものだが、父との長い冷戦は、かなり神経に応え、
解決の道がまったく見いだせないだけに、日々、消耗して行くのを感じる。

「う〜ん、でも課題が終わってないから、わたしは家で調べものをしなくちゃ・・。」

一瞬、奈々と律が顔を見合わせた。

「そんなのダメッ!
 実はお姉さんに付き合ってもらいたいところがあるの。」

「律じゃ、ダメなの?」

「ダメよ!だって・・・」

奈々がめずらしく、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「だって・・・下着屋さんだもん。
 律くん、連れては入れない。」

「別に俺はいいけど・・」律が澄ました口調で言いかけると

「やだっ!お姉さんがいいっ!」

むきになった奈々が可愛くて、恵子は微笑んだ。
ブラでも見立ててもらいたいのかな。

しょうがない。妹分の買い物につきあうなら、お父さんも文句ないだろう。
恵子が玄関に目をやると、父はゴルフバッグをかついで立ち上がるところだった。

「お父さん、お出かけですか?」

「ああ、ちょっと行ってくる。」

問いかける母に答えて、父は出かけてしまった。
恵子たちの会話は聞こえている筈だから、
あれでも間接的に許可しているつもりなのだろう。

「じゃあ、恵子。
 それだけ奈々ちゃんが誘ってくれるんだから、行ってらっしゃい。」

母がふりむいて、恵子もうなずいた。

「そうね。じゃあ、ちょっと付き合うかな。」


日曜にターミナルにまで出るのは、ひさしぶりだ。
気晴らしになるかもしれない。

恵子が、履いていたジーンズに短めのTシャツを合わせ、
無造作にポニーテールにまとめて出て行くと、

「お姉さん、それで行くの?」

奈々がやや不満そうな顔で恵子を見上げた。

「なんか、まずい?」

「だって・・せっかくだから、ちょっと洋服も見てもらおうかと思ってたのに、
 それじゃ、ラフ過ぎるわ。」

「なによ。奈々ちゃんの好きなお店に行くのに、ジャケット着て行ったら、
 PTAに間違われちゃう。これでいいじゃない。」

「う〜〜ん。」

奈々の不満顔は気にしないで、上にタイトなコットンシャツを羽織り、
口紅だけつけると素足にサンダルを穿いて出かけた。


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