AnnaMaria

 

This Very Night 第40章 -トゥーランドット-

 

tvn_title.jpg




「私、自分のお洋服が着たいの」


「わかってる・・・。だけど、君の服を取りにホテルまで戻ったら、
 オペラの開演に間に合うようには行かれないよ」


ジニョンは気が進まないまま、しぶしぶクローゼットを開けた。
その間もずっと心の中で文句をつぶやいていた。


「彼女の洋服なんて着たくない、彼女の洋服なんて着たくない!」


ジニョンはドレスを手に取った。
シンプルなデザインだったが、仕立ては素晴らしく文句のつけようがない。
ジニョンは自分が誰か他の女性のドレスを着ることになるなど、夢にも思っていなかったが、
この女性の好みが素晴らしいことを、否定するわけにはいかなかった。

クローゼットを閉める前に、中に掛かっている他の洋服にもつい目が行ってしまう。


     ・・・こんなきれいなお洋服・・・
     これはフランクの例の女性に対する明らかな愛情のしるしじゃないの。
     なのになぜ、彼はこんなにも情熱的にわたしを追い求めてくるの?

     そのくせ、前のガールフレンドに対してまで、今でも強い気持ちを抱いているらしい
     のが、どうにもわたしにはわからないわ・・・



彼女は玄関のドアを出て外に歩いて行くと、
フランクが中庭にたたずんで、自分を待っているのが見えた。
彼は少し悲しそうな表情を浮かべていたが、
彼女を見ると、穏やかな微笑みがぱっと広がった。

ジニョンは無言のまま、考えずにはいられなかった。


     ・・・フランクはわたしを見て本当にうれしかったのかしら、
     それとも例の女性のドレスを着たわたしを見て、うれしくなっただけなのかし
     ら?・・・


彼女はつい、冷たい言葉が口から出てしまうのを自分でも止められなかった。

その言葉で、たちまちフランクの表情が一変した。
穏やかな微笑みに満ちた顔が、うつろな無表情に変わってしまった。
彼はなんだか不自然な声で返事をした。
何故だか、フランクが例の女性の話をするときはいつも、
ずいぶんとためらいながら話をする。

いつも決して余計なことは言わず、自分の返事をよく吟味しているようだ。


     ・・・たぶん、彼はわたしより例の女性を、ずっと愛しているんだわ・・・



木々の葉が夕べのそよ風に揺れて、さらさらという音を立てる。
フランクの車に乗り込むときに、彼の低いため息が聞こえ、
さらさらという葉ずれの音は、彼の無言の抗議のようにも響いた。

劇場へと向かう道で、フランクはハンドルをしっかりと握り、
ただひたすら車を走らせた。




春が近づいて来ている。
通りの両側に植えられた生け垣が、柔らかい緑の服をまとい始めている。
車が進んで行くにつれ、その緑の生け垣が青々とした緑のリボンとなって、窓の外をなびいていく。

車の中の狭い空間で、二人はお互いの息の中で呼吸し合っている。
その感覚は、いつもジニョンにとても親密な感じを抱かせるのだった・・・

ジニョンは運転中の彼をちらりと盗み見た。
彼の横顔を見ながら、自分だけの妄想へと漂い出す・・・
運転している彼の身体の輪郭が、今朝起きた出来事の情景と重なり合って行く・・・




---------------------



     ・・・家の通路に並んだ収納ボックスの影。
     じっと見ていると、どっちが影でどっちが本物かわからなくなってくる。
     それに・・・様々なフランクのイメージがわたしの中で重なり合い、どれを取ってい
     いのか、自分でも判別できなくなってくる。

     何故?
     どうしてあなたはこんなにも、わたしの頭の中に戸惑いと混乱を引き起こすのかし
     ら・・・


そんなことを考えながら、さっきふたを開けた箱の中に入っていた粘土を無意識に手でこね回していた。
フランクが振り向いてその様子を見、眉を上げると


「気に入ったの?だったらしまい込む必要はないよ。取っておけばいい」


彼女は自分でも気付かなかったが、その粘土を箱に戻すのを忘れて、
つい手にしたまま、無意識のうちにずっとこねまわしていたらしい。


フランクはそういったリハビリの道具は、友だちのものだと言っていた。
その友だちは事故にあって、ケガを負ったのだと・・・。
その箱に入っていたのは、その友だちの手の機能を回復させるためのものだったのだ。
その後その友だちは回復して、そういった道具が要らなくなったので、
フランクが箱に入れて、地下にしまっておいたのだ。
フランクは「友だち」という男女の区別のつかない言葉を使った。


     ・・・そう・・・その人は彼なの?彼女なの?・・・


ジニョンは心の中で問いかけた。




フランクは運転しながら、彼女にその話をした。
その話をしている時の声は、何気なくて、やや平板な調子で、
まるでずっと以前に起こった出来事を話しているようだった。

だけど彼の表情は・・・
フランクが例の女性について話す時にうかべるいつものあの表情。


ジニョンは大急ぎで顔を背けて、手の中に持っている粘土に視線を移した。
しばらくそれをこねるのに集中し、必死で彼の方を見ないようにしていた。
彼女は自分のこんな顔をフランクに見られたくなかった。
自分の目の中の嫉妬の光を、フランクに見とがめられるのを恐れたのだ。


     ・・・あなたの告白、あなたの話・・・
     ひとつひとつが気持ちをかき乱し、わたしの心の中に疑いを生んでしまう。
     ひとつひとつがわたしの心にたちまちのうちに突き刺さって、
     驚くほどすばやく、まるで毒ヅタのようにわたしの心を侵していく。
     わたしの中に生まれた疑いや猜疑心の芽が、あっと言う間に蔓となって伸び、
     皮膚を突き破って出てきそうなほどだわ。

     あなたの以前の彼女、彼女に関する全てのこと・・・
     彼女のケガ、彼女のバイオリン、彼女の服がわたしの体にぴったり合うこと・・・
     こういったこと全部が単に偶然の一致に過ぎないと言うの?


     ・・・それとも・・・?


     わたしの中に育った毒ヅタが意志を持ったかのように、
     わたしの中で狂おしい問いを発する・・・


     あなたは、わたしが以前ニューヨークで行方不明になったことを知らない。
     わたしが銃撃されたことも、もちろん知らない。
     だけど・・・だけど、なんだか気味が悪いくらいの類似性があるようで、
     わたしの猜疑心はますますふくらむばかり・・・

     きっと、どこかにこのジグソーパズルを完成させる、失われた一片があるはず
     よ・・・



ジニョンの疑いも推測も壁に突き当たっていた。
     

     ・・・わたしが行方不明になっていた8ヶ月の間、
     とても手厚い治療を受けていたようだとお医者さまが言っていた。
     どんな意味においてもぞんざいに扱われたり、何ものにも侵されたりしてはいなかっ
     たと・・・

     だけど、わたしがあの期間どこにいたかについては、誰も本当にはわからない。

     わたし自身によく似た例の女性・・・
     彼女はかつてフランクの家に住み、
     以前はとても彼と親密だったように思われ、
     どうしてだかわからない理由で、フランクの元を去った。

     そして・・・そして、わたし、ジニョンが今度は彼の人生に現れたというわけ。
     二人の女性が同じ部屋を使っている。
     これはどういうことを指しているの?・・・


ジニョンはフランクの方を見上げた。
車のスピードが上がるにつれ、彼の顔の輪郭がぼやけていく。


     ・・・それはもしや・・・?そんなことあり得る・・・?


フランクは彼女の視線を感じたらしく、
手を伸ばして、優しく頬に手をすべらせてくる。
どうかしたの?と問いかけてくれているようだ。

でも、ジニョンにはフランクの声が聞こえなかった。
自分の世界の中に入り込み、自分だけの思いの中を出たり入ったりし、
毒ヅタでいっぱいに覆われてしまった、心の壁をよじ登ろうとしていた。


     ・・・フランク・・・そんなことってある?
     あの女性って・・・


彼女の頭はある憶測でいっぱいになり、ますます混乱してきた。
こんな途方もない考えを追い払おうと、何度も頭を振り続けた。


     ・・・わたしの想像力をこんなにも好き勝手な方向に向かわせていいものだろうか?

     ああ、神様!
     実はわたし、わたしこそがあのフランクの例の女性かもしれないって考えています!
     でも、そんなことがあり得るかしら?・・・


フランクの例の女性に関して、自分の心に浮かんだ突然の考えがジニョンを揺さぶり、
それをどう考えたらいいのか、どう行動したらよいのか途方にくれていた。

心臓の鼓動が急に速くなり、
車内の空気が急に薄くなったように感じられて、
あわてて深呼吸をし、心臓の鼓動をしずめようとした。


     ・・・そんなことあり得る?
     確かにそんな筈はないのに・・・!?





ドンヒョクはジニョンの様子がおかしいことに気づいた。
気分でも悪いのだろうか、と考え、車を道路の端に寄せて停めると、


「どうかした?」


と、心配そうな声でたずねた。


彼の言葉の乱れた調子にも表れていたが、
彼女が心配で、パニックを起こしそうだった。
とにかくジニョンが大丈夫なことを見て取ると、自分も何とか落ち着こうとした。

ジニョンは自分を気づかう優しい腕に包まれていったが、
彼もまた彼女を抱きしめることで、安らぎを見いだそうしているようだった。



彼の体の温もり、規則正しい鼓動の音が、
ジニョンが自分の心の中に築き上げてしまった氷の壁を、ゆっくりと溶かしていく。
優しく彼の胸に抱きしめられて、嵐のように乱れていた頭の中も徐々に落ちついていった。

ジニョンはフランクの肩に頭をもたせかけて、そこに心の平和を求めた。
フランクの柔らかくささやく声を聞きながら、
彼女の指は、彼の毛先の少しカールした部分をそっと触り始めた。

ジニョンは自分で自分を笑ってしまった・・・


     ・・・わたし、頭がおかしくなりかけていたに違いないわ!
     何で、このわたしがあなたの以前の恋人だったはずがあるの?
     変なことを考えたものだわ・・・

     こんなこと、フランクにとても言えない。
     それどころか、わたしの考えていたことがわかったらショックを受けるかも!
     ホントに・・・正気の沙汰とは思えない。

     きっと嫉妬がわたしの心を蝕んで、あんな妄想を起こさせたんだわ!
     今回ニューヨークに来るまでは、わたしはフランクを知らなかったんだし、
     前にあなたに会ったはずもない。

     この見知らぬ国で、今、わたしを恋に落とそうとしているあなた・・・
     もし、あなたに恋をしたことがあったなら、
     こんな人をすっかり忘れてしまうなんて、到底できるはずがないわ!・・・




―――――



ドンヒョクはじっとジニョンを見つめていた。


     ・・・顔色もそれほど青白くなくなったし、呼吸も落ちついたようだ。
     だいぶ気分が良くなったように見える。
     一度、病院で徹底した精密検査を受けるようにと、
     何と言って君を丸めこもう、どうやって説得したらいいだろう・・・


そう考えて、ドンヒョクは眉をひそめた。


     ・・・今も頭痛がすると言っていたではないか。
     どこが悪いのか、君はそれ以上はっきりしたことを言わない。

     君が前に僕と一緒に暮らしていた8ヶ月の間には、
     こんなにひどい痛みを訴えたことはなかった。
     何故今になって、君はこんなにも激しい痛みに悩まされるんだろう。

     君の頭痛のことを考えるととても不安になる。
     だが、今の君は前の君と同じではない。
     痛いときは痛いと言って、僕に泣いてすがってきたあの少女ではないのだ。

     ああ、僕の愛しい人!

     君が僕を思い出せるまで、僕はどのくらい待たなくてはならないんだろう。
     いつになったら、僕を愛してくれる?
     そして、僕は・・・
     いつになったら君に真実を告げられるんだ?・・・




――――――




劇場に着くと、ほの暗い照明に照らされた客席に二人で並んで座り、
『トゥーランドット』の舞台の幕が開くのを待った。

やがて深い栗色の緞帳が引かれて、幕が開く。
舞台の上には、宮殿とその外の世界がしつられられ、
赤いレンガの壁が二つの世界を分けている。
聴衆は期待に胸をはずませて、目の前に繰り広げられるドラマを待っていた。


舞台の上で歌が始まった。
ドンヒョクはそっと隣の彼女に目をやった。

ジニョンはクリーム色のドレスを着て、柔らかい髪を肩までたらしている。
その姿があまりにも美しいので、なんだかこの世のものとも思えないほどだ。
彼女の注目は一心に舞台に向けられている。
ドンヒョクはふと、舞台上の歌手たちがうらやましくなった。


     ・・・君たちはこんなにも、僕の愛する人の注目を集めているんだな・・・



彼女のクリーム色のドレス、それはかつてドンヒョクが買ったものだ。
以前は彼女のお気に入りの一着だったのに、今回はお気に召さなかったらしい。

自分のスーツケースにぴったりの服がないから、
だが、ホテルまで自分の服を取りに戻っている時間もないから
ジニョンが仕方なくそのドレスを選んだこともわかっていた。

クローゼットからドレスを選んでいる間中、彼女はずっとふくれっ面をしていた。
二人で車に乗り込む時にも、ちょっと冗談めかせて尋ねてきた。


「他の誰かさんのお洋服を着て・・・なんだかあまりにも都合よく行き過ぎね。
 劇場であなたの以前のお友だちにばったり、なんてことはないわよね?」



ドンヒョクは答えた。


「いや、そんなことには決してならない。
 彼女は・・・彼女は、ずっと遠い所に行ってしまったから・・・」


彼は、今にもぶちまけてしまいたくなる気持ちを必死にこらえようとしていた。


「その服は全部君のものなんだ!」と。



     ・・・君が本当に僕を愛しているとわかるまでは
     僕はまだ真実を告げるべきじゃない。
     僕らが以前、恋人同士だったことも告げるべきじゃない。

     僕の人生に、他の女性の存在などなかったんだ。
     君の気持ちが確かめられるまで、僕にはこれ以上のことを告げる勇気がない。

     あの時・・・あの時、僕は君を永遠に自分のそばに置いておきたかった。
     もちろん、それが間違っていることもわかっていた、
     こんな風に君を匿うのは悪だとも。
     だが、他に方法がなかった。
     あんなにも君を愛していたから!


     今また君は僕の傍にいる、
     しかし、僕の方から何かを変えるほんの一歩が踏み出せない。
     今の君が過去の事実を知ったとき、どう反応するのかがわからない。

     だから、君が僕を愛してくれていると確かめられるまで、
     何もかもこのままにしておくのが、たぶん一番良いのだ。
     君が事実を知った時どうなるのか、僕には全く自信がない・・


     もう一度君を得るには・・・

     だが、僕には秘密を打ち明ける勇気がない。
     おお、神よ!僕は一体何という男になったのだろう。
     自分の本当の名前さえ、彼女に告げる勇気がない!


     前には、僕の名前を口にしてもらおうと、あんなに熱心に教えたのに。
     君が僕の名前を呼ぶ声だけを、何よりも聞きたかった。
     いつも、いつも君に繰り返していた。


    「僕はドンヒョクだよ、君のドンヒョクだ
     おいで、僕の名前を言ってごらん。
     ドン・・ヒョク・・・僕はドンヒョクだ」・・・


舞台の上では、歌手たちが思いのたけを歌い上げていた。
その美しい、力強い声が劇場のすみずみにまでに満ちてゆく・・・
姫への愛を歌う、王子の声・・・


   わたしの秘密はわたしの胸の奥深くに隠してある・・・  
   誰も私の名前を知らない、誰も、誰もだ  
   あなたの唇の上に、私の名をそっとささやこう、  
   朝日が射したら、  
   そしてわたしの口づけが沈黙を溶かしたら、  
   その時こそ、姫よ、あなたはわたしのものだ・・・  
   (プッチーニ、「トゥーランドット」『誰も寝てはならぬ』より)  


彼は目を閉じると、心の中で声にならない叫びをあげた。


     ・・・ああ、ジニョン!僕のトゥーランドット!
     君は僕の秘密の恋人だ、僕をこんなにも苦しめる!
     だけど、君に会うまでは・・・こんな甘い気持ちを知らなかった!・・・



------------------------------
出典
Original in Chinese by Jenny Lin
Translated into English by happiebb
Translated into Japanese by AnnaMaria

2004/7/15 ~ 2004/7/29, 2005/10/25 dreamyj
2004/8/5 ~ 2004/9/8 BYJ Quilt (by happiebb)
2004/8/8 ~ 2004/9/8 2005/11/30 hotelier 2002(by happiebb)

 ←読んだらクリックしてください。
このページのトップへ