ボニボニ

 

My hotelier 125. - ブルームーン - 

 




ソウルホテルのバラ園には とても素敵なあずまやがある。


あずまやは 開業当初からあったものでなく
このバラを見ながらお茶を飲みたいと願った ある貴婦人のために造られたものだった。



「・・この暑い盛りにも お前は『レディ・エックス』を咲かせるのねぇ。」

卓上の器に飾られた 淡い紫青色のそのバラを レディ・キムはうっとりと見る。
かつて「ソウルの薔薇」と呼ばれ ヨーロッパの社交界にまで知られた女性に
丹精した花をほめられたガーデナーは 日焼けした顔を ほころばせた。


生まれた時からかぶっている様に 身体に合った 麦藁帽子。

草花の具合を見ながら 夕方の水をやる庭師は まるで一幅の絵のようで
レディは このあずまやで飲むお茶を ことのほか気に入っているのだった。



「このバラの株は確か うちの庭から出たものでしょう? うちより花の出来がいいわ。」

へやっ、へやっ、へやっ、・・・
レディの御屋敷は 純英国式庭園ですから。フランス生まれのこいつは拗ねるんでしょうて。
「ところでレディ。 今日はどうなさったんですか? こんな時間に。」


1日の熱が引きはじめ 漢江から吹き上がる風が ほんの少しだけ涼しくなる。
貴婦人は ハイ・ティーを運ばせて たそがれの時を 楽しんでいた。


「ドンヒョクに用があるのよ。 本当は向こうから出向いてくると言ったのだけど。」
「へぇ。」
「彼が来ると マスタードが少ないだの何だの。 ・・サンドイッチにウルサイから。」

大げさに眉根を寄せながら レディ・キムは 文句を言ってみせる。
ガーデナーは 取り澄ました老貴婦人の嬉しげな含み笑いを まぶしそうに盗み見た。


―・・うちの理事さんは すっかりレディのお気に入りだよ。




「ああ ここは風が涼しい・・わ・・。」
ゆったりと話していたレディの声が 何やら 怪訝そうに途切れる。
「?」
「ねえ・・ あれは どなただったかしら?」

美しい人の問いかけに 振り向いて視線の先を追った庭師は 思わず破顔一笑した。
バラの茂みのその向こう。 サファイア・ハウスの門扉から 
手持ち無沙汰な顔をして ソ・ジョンミンが 出て来たところだった。


「ありゃあレディ、ジョンミン先生だ。 ジニョンのお父っつぁんです。」
「あぁ。」

レディ・キムが ふわりと笑う。 忘れようもない花嫁の父。
バージンロードの目前で 娘愛しさのあまりに凍りついて 滝の汗を流した あの彼ね。 
「あたくし 彼にご挨拶をいたしましょう。 ガーデナー 取り次ぎをお願い。」

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―不良生徒につきあって コーラを飲んだ事はあっても  
 “レディ”と 呼ばれるような貴婦人から お茶に誘われたことはない。

気高く 美しいその老婦人の前で ジョンミンはひどく戸惑っていた。
貧乏教師の分際で 「本物の」レディ・キムから 砂糖の数を聞かれるなんて。
まったく特級ホテルのVIP担当支配人などを 娘に 持つものじゃない。
引き締まった長身を ぴしりと固定して 先生は鼓動を速めていた。 


「スコーンを召し上がる?」
「いえ! 結構です。  あ・・すみません。  その 夕飯前ですので。」

あぁ そうね。 貴婦人が はじかれたように楽しげに言って ソ・ジョンミンを驚かせる。 
「この前 ドンヒョクは うちのキューカンバーサンドイッチを食べ過ぎて 
 帰ってから食事が 出来なかったんですってよ。 ホホホ・・。」
「は?」

コロコロと 玉を転がす笑い声で 美しい人が口元を揺らす。
他所のお茶で お腹を一杯にしてくる様な お行儀悪はいけないわね。
「ドンヒョクったら グラスホッパーみたいに胡瓜が好きなのよ。」

くすくすと レディ・キムは 可笑しげに笑い
ジニョンのパパは こっそり 咳払いをした。



「・・胡瓜が 格別好きな訳ではありませんよ。」 

うす青く 宵の色が降りはじめた庭に ベルベットの様な深い声が 響く。
「レディのお屋敷のサンドイッチが 好きなんです。」
背の高い男は 貴公子の様な足取りで 涼やかにあずまやへやってくる。
ぎくりと ジョンミンが目を上げた。
 

「書類の確認に ダイアモンドのミーティングルームを取ってありますが?」
「ここがいいの。 書類なら執事に渡しておいてちょうだい。 サインは要るのかしら?」
「ええ こちらへ。」

これであたくしは 何と言う会社の株主になるの? 
さらさらとペンを走らせながら とってつけたような レディの問い。
「悠長な方だな。シーゲート・テクノロジー社です。 ご説明は しましたね?」

聞いても憶えていないもの と 貴婦人は退屈そうに言い 辣腕ハンターを笑わせる。
ソ・ジョンミンは2人の会話を 歌劇でも見るように眺めていた。

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「おくつろぎいただいておりますか レディ・キム?」

給仕のボーイを従えて ソ支配人がやってきた。


「新しいお湯を お持ちいたしました。 ・・オモ!」
にこやかなジニョンは レディの卓に並ぶ男達を見て 目を丸くする。

パパったら・・! 何してるのよ こんな所で!
声を出さずに 口パクで父親を恫喝するジニョンを ちらりと流し見て 
書類を確認しながらの ハンターは 唇の端で薄く笑った。

「いいのよジニョン。 お父様は あたくしがお招きしたの。」
「は・・ぁ。」
「ジニョンも お座りなさい。」
「いいえ レディ。 申し訳ありません。 お客様とは同席できない規則です。」



夏の宵。

このまま夜まで遊びたいような 心の揺れる時間の中で
シン・ドンヒョクは ゆっくりと目をつぶる。


“規則ですから。  お客様とは 私的な時間を過ごせません。”

―ああ そうだ。
 僕のジニョンは 今でも いつも “お客様”にはこの言葉を言うんだ。

そして君の “私的な時間”の住人になった僕は 
もう この言葉には 出会わない。  



ふふ・・。

「あたくしのサインが 可笑しくて?」
「あ いえ。」
コホと 背筋を伸ばし直して ドンヒョクはビジネスマンを取り繕う。 
仕事中にジニョンの事を考えたでしょうと 貴婦人が 柔らかく耳打ちをした。



「ああでも 素敵。 いい宵ね。」

誰にともなく歌うように言って レディは バラ園へ眼を向ける。
ガーデナーはまだそこにいて?  問う声に 薄暮の庭から園丁が顔を出した。
「ねえ? ここ 『ブルームーン』に植え替えたのね?」

たっぷりとした八重の花弁。
ふわりと 夜を抱き込んだような 丸みを帯びた青いバラが
あずまやの周りを囲んでいる。
「この頃お前は ラベンダー系のバラに 凝っているのかしら?」
「あ・・いえ!レディ。 そこは・・その。」


困っちまった・・な。

珍しいほどに恐縮しながら 無骨なガーデナーが 頭を掻く。
「実は・・・去年のことになりますが  ちいっと 覗き見をしましてね。」
「覗き見?」
そりゃあきれいなカップルが 月夜のあずまやで よろしくやっていたんですよ。
「いや! 俺・・わっしはただ 花の様子を見に来たんですよ。 ・・・それでも つい ね。」

赤いバラは 夜に溶けて 見えなくなってしまいましょう?
あぁ これじゃいけねえなあと  その時思いまして。
とは言え 白いバラじゃ 明るすぎて照れくさかろうし。
ブルームーンなら  ・・夜の庭に きれいに映ります。

「ラブシーンには やっぱり バラがなくちゃいけませんやね。」※
「まあ ホホホ。 随分ロマンチックな事を言うのね。」


「・・・・・・!」
みるみるうちに ジニョンの顔が赤くなった。
うなじから朱が立ち上り 気温がもう少し低ければ 湯気が見えそうなほどに染まる。

シン・ドンヒョクは そ知らぬ顔で ティーカップの縁に唇を落とす。
宵の風が 暑さを逃れて一息ついたバラの 甘い香りを漂わせている。

レディの きれいな眉が上がり ソ支配人の 表情を読んで
さも楽しげに扇子をあおぐと お茶のおかわりはいかが とジョンミンに聞いた。

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「あの貴婦人が “年上の女”か?」


サファイア・ハウスへの 帰り道。 ソ・ジョンミンが 呆れた声を出した。 
言い訳をすれば 良かったじゃないか。
「・・・あの日はいささか 運動不足でしたから。」
「ふん。」


夜の気配を感じ取って ソウルホテルは まばゆい灯りをともす。
海原を行く豪華客船のような灯りを ジョンミンは 明るい目で見上げて歩く。

「ドンヒョク。」
「はい。」
「ここは 温かい場所だな。 皆が お前の事を大切にしてくれる。」
「はい。 有難く思っています。」




「お前が全力で守ったからだよ。 よくやったな。」
「・・・。」

いつも  心の底の底で 誰かに言って欲しいこと。
“お前は とてもよくやった。”
お世辞ひとつを 決して言わない人の言葉だから まっすぐ胸に刺さってくる。
ドンヒョクは 少し照れながら うつむいて義父の後ろを歩いていた。



「・・・ところで。 あずまやでよろしくやっていたカップルと言うのは お前達だな。」

笑いを含んだ 「舅」の声。
ハンターの センサーが ぴりりと鳴り始める。

「去年の 話だな?。」
「・・はい・・。」
「まだ 嫁にやるとは 言っておらん頃だな?」


Oh, my god.
ジニョンときたら まるっきりポーカーフェイスが出来ないんだ。
ほくほくと 嬉しげに追い詰めるジョンミンに 婿殿は早くも降伏する。

「あの・・ お義父さん。」
「うむ。」
「今晩 腕立て伏せを100回させていただきます。」
「150。」
「ジニョンの分も 出来れば 僕が・・。」
「では 200。」

やれやれ・・。  明日は 筋肉痛になりそうだ。
こっそりと 情けなさそうに眉を上げて 不埒な婿殿はため息をつく。
1年も前のことなんだぜ。 もう とっくに時効だよな。


あはははは・・。
愉快そうな 義父の笑い。 

「嘘だよ。 お前は ジニョンのこととなると本当に弱いな。
 腕立ての代わりに 私を車で送ってくれ。 今夜のうちに帰りたいんだ。」
「今夜はジニョンが夜勤です。 明日にされては?」
「母さんがクロスワードが解けないと 電話で泣きついてきたんだ。 早く帰らなきゃ。」


さあ行こう。 帰るとなったら 気が急いてきた。
熱血ジョンミン先生は 息子の背中をぱんと叩くと 気短に歩を進めていく。
呆れたように ふ・・と鼻を鳴らして ドンヒョクが後を付いていく。



薄暮は すっかり夜になった。

湿度の高い夏の夜空に 月は ゆらりと寝そべっている。
もう 顔の見えない男達は 裸の女を 奪い合っている。


「なあ・・・。 土産にくれんか? あの彫像。」
「だめです。」
「即答だな。 父親の願いだぞ。」
「だめです。」

「“親孝行”という言葉が 韓国にはある。」
「アメリカでは “She belongs to me” という風に 言います。」

「貸りる というのは。」
「絶対 だめです。」



2人の男は 遠ざかる。
ジィッと ひとつだけ 短く鳴いて  ゆるやかな夜に 蝉が飛んだ。

        *        *         *         *

 ※このお話の中で出てくる 「バラ園でよろしくやっていたカップル」は 
  My hotelier 16. - 月夜の散歩 - のドンちゃんとジニョンさんでした。
  いやん。 見てたのね・・ガーデナーったら。

  My hotelier 16. - 月夜の散歩 - はこちらから♪

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