ボニボニ

 

My hotelier 139. - 2つ目のMy hotelier - 

 




ソウルホテルの 午後4時。 バラ園の先の門が開いた。



ゆっくり歩いてくる長身の男は 左手をズボンのポケットに挿し
漢江からの川風に 涼やかに頬をなぶらせる。
男はバラ園の中ほどで立ち止まり 探すような眼で周囲を見回した。


― 僕が 時間に遅れない男だと 知っているくせにな。

お目当ての影が見えないので 困ったドンヒョクは小さく咳払いをした。


「お・・・?! 理事さん。 来たかい?」
しゃがれたような声がして マリア・カラスの茂みから
小柄な老人が 立ち上がった。

まったく ちいっと油断すると すぐ油虫がついっちまう。
「こいつはまた 一際艶やかだからな。 虫も 放っておかねえよ。」

へやっ へやっ へやっ・・・

稀代のディーバの名を冠した大輪のバラを 愛しそうに眺めて
陽に焼けたガーデナーは 見事な赤銅色の顔をほころばせた。

「ガーデナー? ・・ところで あの。 頼んで おいたものは?」




その控え目な問いの声に 老いた庭師は鼻を鳴らした。

まったくなあ。 この理事さんには呆れるよ。
虎のように強気なくせに 少年みたいに頼りなげな表情を見せる。

はねっかえりジニョンのためとなると 結婚したってこれだからな。
ジニョンも丹精してくれる旦那様で まあ 大変けっこうなこった。
「まかせとけって言ったろ?理事さん。 うまい按配の開き加減だ。」

ほらこれよ と ガーデナーは小腰をかがめ 
ガーデニングバスケットに入れておいた 1輪の花を取り出した。


程よい大きさのそのバラは 明るく愛らしいオレンジピンクで
色を揃えたグラシンペーパーとセロファンで包まれ 洒落たリボンがかかっている。

センス良くラッピングされたささやかな包みは
無骨で皺だらけのガーデナーの手中でさえ 奇跡のように美しかった。
「きれいだな。 ・・・ラッピングも?」
「いんにゃ あいにくそっちは専門外だ。フローリストの娘っ子にやらしたのさ。」


持っていきな。 バラの包みを手渡したガーデナーは  
花を受け取った男の姿に 思わず ゴクリ と喉を鳴らした。
    
― お・・・・


端整な目元を少し伏せて ドンヒョクがバラを覗き込む。
薄く笑んだ口の端に男らしい艶がにじみ それは 眼も離せないほどに美しかった。

― おいおいおい。 ウチの理事さんときたら まったく水もしたたるって奴だな。
  ジニョンよぉ。  お前ぇ 油虫が心配なのはこっちだぜ。

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「ソウルホテルフロント ソ・ジニョンです。はいっ かしこまりました。」

きりりと髪をまとめたうなじが 受話器を置いて振り向いた。



「ねえ? 誰か 923号室へポーターを行かせて。」
「はい。・・ソ支配人? もう4時過ぎていますよ。」
「うん。そろそろ上がるわ。」
「今日。遅刻しちゃまずいんじゃないですか?」

どうして? とキョトンと開く瞳に 後輩が はぁとため息をついた。
「・・・・やっぱり忘れてる。 今日 5月15日ですよ。」
「ん?」
「理事がチェックインして ちょうど2年目です。」
「オモ!!」


大変じゃないの?!私ってば! ええ? 今日私!何着てきたっけ?
ドンヒョクssi どこへ連れて行ってくれるのかしら!ド、ドレスコード大丈夫かな?
「ソ支配人。 ・・お見えです。」
ひっ!!
あたふたと髪やら胸元やらを撫でるジニョンは スタッフの指さす先を見る。
「ド・・」 

狼狽に沸きあがっていたジニョンは 一瞬 固まり。 ・・・やがて柔く息を吐いた。
ロビーにすらりと立つ男性が 撫でるような眼で微笑んでいる。
「・・ド・・ン・・・ヒョク・・ssi」

コホン 小さな咳払いをひとつ。 ジニョンがフロントを滑り出る。
行き交うホテリアーたちが眼を留めて あちらこちらで 立ち止まった。

クスクスとした目配せ。 温かい囁きがフロアを満たす。
年に一度。 ソウルホテルのエントランスロビーで あの日の恋が蘇る。

一歩二歩・・ 
あの日のように制服のまま ジニョンはドンヒョクへ歩いて行き
目の前に向かい合った時 ドンヒョクが 小さな包みを差し出した。

「去年は 派手な花束で怒られた。」
「お客様からプレゼントをいただくのは規則で禁じられております。」
「僕は もう・・・客じゃない。」

ふふっとジニョンが噴き出して ロビーが陽気にさんざめいた。
まったく理事はロマンチストだわ。 もうラブシーンはしないんですかぁ?
「見たいか?」
「ち、ち、ちょっと!! ドンヒョクssi!」

澄まし顔で眉を上げる夫の背を ジニョンがパタパタと拳で打つ。

もぉ従業員口で待っててよ。 君が遅刻したくせに。
「カサブランカで待っている。 着替えの猶予は15分だ。」

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― もうちょっと 華やかな服で来れば良かったな。



シンプルなワンピースの胸元を撫でながら ジニョンが口を尖らせた。
― 家まで 着替えに行っちゃだめかしら・・
ドンヒョクssiったら 待つ間 腕時計を見てカウントするんだもん。
「・・ソ支配人?」

ロッカーの間を歩いてきた 花屋のスタッフが立ち止まった。
「そのバラ。生のコサージュにしましょうか?」
「え?」
フローリストの彼女の手には リボンやかすみ草が握られていた。


シンプルなワンピースの胸に 明るいバラのコサージュが華やかだった。
鏡の前でにっこり笑い ジニョンはフローリストへ笑う。
「うふふ 助かっちゃった。」
「きれいですよ。理事の眼尻が下がりそう・・。」

そ・れ・に・し・て・も ねえ~!!
「かつては300本のバラの花束が 2年たったら一輪挿しなのねぇ~」
「!!」
不躾な声。 むっと膨れるソ支配人に 初めて気づいたようにスンジョンが笑った。

「オモオモ! 聞こえた? ・・まあねぇ 釣った魚ですものねえ~。」
うちの旦那様なんて 結婚記念日には そりゃあ豪勢よぉ。
「ま、でも。 無理もないわね。」
同じ釣った魚でも 逃がして惜しい魚とそうでない魚が・・
「イ・スンジョン!」

バタン!
ぷりぷり膨れたソ支配人が 更衣室から出て行く。
すんなり形のいい脚が 床を蹴って去っていった。



ジニョンの去った更衣室で呆れ顔のフローリストが イ支配人を横目に見た。

「な・・何よ! あたくし ただ事実を指摘しただけじゃない?」
「イ支配人? ソ支配人のバラは 普通のバラ300本程度の値段じゃ買えませんよ。」
「嘘! そんなに高いバラがあるわけないじゃない。」

「あのバラは 新種です。」
切り取った葉を片付けながら フローリストが可笑しげに笑う。
「ガーデナーが試作していたのを 理事が見つけて買い取ったんです。」
「オモ・・・。」

バラ一輪と言っても あの後には膨大な時間と栽培があるんですよ。
「その中から たった一輪。 ちょうどいい咲き加減になったのがアレです。」
理事って 本物のロマンチストだわ~。
フローリストのため息に 更衣室中のホテリアーがざわめいた。

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ええと・・。

「“My hotelier”ですね? 理事。」
「うん。」
チェックイン記念日 おめでとうございます。
カサブランカの女性バーテンダーが 心得た顔で ジガーを取った。
「よく憶えていたね。 ジニョンなんか 案の定忘れていた。」

理事? 理事のチェックイン記念日は このカクテルの誕生日です。
「自分のカクテルの誕生日を忘れるバーテンダーはおりません。」
「そうか。」

コトリとカウンターに置かれたグラスを 長い指が持ち上げる。
ジニョンのように明るくて 陽気な芳香を放つ酒。
「・・今日からさ。 もう1つ “My hotelier”が出来たんだ。」
「はい?」

バーテンダーが眼を上げる。 幸せそうな微笑がグラスの縁を舐めている。
「?」 小首を傾げるバーテンダーの向こうから ジニョンがバタバタとやってきた。

「やっぱり遅れたな。・・・あ そのバラ?」
「花屋の子がコサージュにしてくれたの。 まあね たった1本だけど!」

よく似合うよ。 そのバラの名前を知っている? 栽培品種。
「?・・ 知らないわ。」
「“My hotelier”って言うんだ。」
「オモ!」
「!!」 グラスを磨く手が止まり バーテンダーは瞼を閉じた。


“今日からさ。 もう1つ My hotelierが出来たんだ。”



「へえー バラの品種って そういえばいろいろあるものねえ。」
でも そんなバラ。 良く見つけたわね ドンヒョクssi。
「可愛い奥さんに 喜んでいただこうと思いまして。」


「ううーん。 ドンヒョクssiったら ロマンチストじゃなーい!!」
「ふふ 気に入った? お礼はさ ベッド・・」
「ちょっ!止めて止めて! 何を言おうとしているのよ!」


え・・へへへ・・ 

バーテンダーに愛想笑いをして ジニョンは 夫の服を引く。
ねえぇ おなかが空いちゃったから 早くレストランに行きましょう!


恋人たちがもつれるように 抱き合いながら去った後
カサブランカのカウンターで バーテンダーが忍び笑う。
「ソ支配人・・。」

「My hotelier」なんて名前のバラが 「偶然」あるわけないでしょうに。
それだから 理事が易々と ソ支配人で遊べるんですよ。



まったく お幸せで何よりですね。




今夜の最後に 私も1ショット。 「My hotelier」をいただこうかな。

リネンをグラスにまわしながら バーテンダーは考えていた。

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