ボニボニ

 

My hotelier 141. - 失くせないもの - 

 




“パールヴィラのお客様の様子が・・? ”





この1週間。 ソウルホテルのホテリアー達に 戸惑いと不安が広がっていた。

長期滞在をしている 初老の夫婦連れ。
豪勢な滞在ぶりが なんとはなしに眼を引いた。


ホテルの中だけで ゆっくりと時間を過ごしている2人を
初めは誰もが 定年記念の夫婦旅行かと 微笑ましく見ていた。

高額なヴィラに連泊して シェフの特選メニューやショーを 夜ごとに楽しんでいる。

やがて 質素な身なりにどこか不似合いな宿泊が 
ホテリアー達の首を傾げさせた。


支払の不安などではない。 かなり多額の料金が 前払いされていた。 

ただ2人のたたずまいが 経験豊富なスタッフ達のセンサーに“ある警告”をしていた。





「自殺だぁ?!」

テニスコート脇のベンチで テジュンがジニョンを振り返る。 
「しぃっ! ・・・ええ そうじゃないかって皆が言い出して。」

どこが と言うわけじゃないのだけれど。
連泊するには荷物が少なすぎる。 高価な料理を頼むけれど 買い物は一切しない。
「それより何より ・・・思いつめたというか そんな雰囲気が・・。」

シェフの料理にしみじみと舌鼓を打ったり 時おり 涙を浮かべたり。
「漢江を見下ろして お2人で何時間もじっと座っているの。」


「ふうん まずいな。 ・・・滞在のご予定は?」
「チェックアウトは 予定では 明後日。」
ともかくさりげなく見守って 眼を離さないように。
「だけど! お部屋に入られたら? 邪魔はできないのよ。」 


そうだよな・・。

心配そうなソ支配人に テジュンは返す言葉が無かった。

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「ねぇジニョン。 あのご夫婦 ダイアモンド・ヴィラの方へ歩いて行ったわよ。」


退勤間際の イ・スンジョンが 落ち着かない声を出した。
ねぇ?  あそこの庭から飛んでも ・・・し、死なないわよね?
「イ先輩! そんな縁起でもないこと。」
「だって!」 


「あの・・・・。」

控え目な声に振り向くと ビジネスセンターのセクレタリーだった。
「これは いけないことだと思ったのですが・・・。」
「?」「え?」

「お2人について。ちょっと・・ネットで取れる情報を調べたんです。」
「オモ!」
釜山の方で そこそこの会社を経営しているご夫婦でした。でも・・
「会社は不渡りを出して ・・・先月 倒産しています。」
「!」「!」


経理担当者が業務上横領をしていたらしく 新聞記事になっていました。
報告するセクレタリーは うつむいて 小さく唇をかんでいた。

「あぁ どうしよう・・。 ねえ! ジニョンどうする?」

お客様が ソウルホテルを「最後の宿」にしたら・・。
狼狽しきったイ支配人の声。 ジニョンは 衝かれたように席を立った。
「とにかく! 私 様子を見てくる。」

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漢江から吹く風は  もう 夏の匂いがした。

金色の陽が川面を染めて 橋梁が 見事な黒いシルエットになっている。



「きれいですね。」
「・・・ああ きれいだ。」
日が暮れるわ。 どんな一日も その時が来れば終わるものね。
「・・そうだな。」

ダイアモンド・ヴィラの芝生の庭に 二つ並んで置かれた椅子。

初老の2人は寄り添うように座り 落陽が 最後の光芒を投げる様子を見ていた。
「・・・・もう いいか。」
「そうですね。」



「こんばんは。 おくつろぎですね?」


にこやかに近づくソ支配人に 2人は ゆっくりと眼をあげた。

きりりと髪を結い上げた 若いうなじ。
温かな笑顔のホテリアーへ 夫婦は まぶしげに眼を細める。
「あぁ これはジニョンさん。 勝手に入ってしまって・・。」

かまいませんよ。ここの夕陽は とても素敵なんです。
「本当だね。 最後に いい思い出になったよ。」
「!」


ぱあぁ・・


その時 宵に気づいたように ダイアモンド・ヴィラが灯をつけた。

双翼を広げた美しい迎賓の館が いっせいに輝き 豪奢な光の箱になる。
建物の まばゆい灯りの観客席のように 芝生の椅子は闇に沈み
初老の男性は その見事さに は・・とちいさく嘆息した。

「素晴らしいな。 優雅で 華麗だ。」
「ありがとうございます。」
「我々には ・・・もう手の届かない灯りだな。」
「・・・・・。」


自嘲を込めた物言いに ジニョンの眉が少し 曇る。

何か。 ・・・何か このご夫婦を支えられる言葉が 私にあればいいのに。




“ジニョン!”

薄暮に 柔らかな声がした。

「ドンヒョクssi・・?」
「やっぱりそうか。 君かなと思ったんだ。」
彼誰時の風の中を すらりと長身の人影が 芝生を踏んで近づいて来る。

片手を左ポケットへ挿して 迷いなく歩く足取りが 
妻の傍らの椅子に座る人影を見つけて 少しだけゆるんだ。


「・・・失礼。」

「まぁ嬉しい 理事さんね。 ジニョンさんのご主人でしょう?」
「え? ええ・・・。」
「お話してみたいと思っていたの。素敵な声ね。」

意外な展開。 唐突な恋人の登場に ソ支配人がうろたえる。
婦人はジニョンを横目で見て からかうような声をかけた。


「聞いたわよ。 全財産を投げ打った“世紀のロマンス”でしょ? ・・ふふふ。」
「オモ・・そんな。」
「全・・財産・・?」

こちらの方 ソ支配人のご主人なの。
ソウルホテルが人手に渡りそうになった時に 私財を投じて 窮地を救ったそうよ。
「ジニョンさんのために・・。それで プロポーズしたんでしょ?うふふ。」



「全財産を投げ打っての プロポーズ・・か。」

若さというものは素晴らしいな。 無茶をしても いくらでも人生が取り戻せる。
諦めまじりの男の言葉。 婦人が ゆっくりと笑みを浮かべる。
「若さ・・・?」
シン・ドンヒョクが 怪訝そうに 男の言葉を聞きとがめた。


「違いますね。」
「違う?」
年齢の問題ではない。 僕にとって あれは選択の問題でした。
「・・選択?」

揺らがないドンヒョクの意志の眼が まっすぐに男を射すくめる。
弛緩していた男の瞳が ハンターの視線にたじろいだ。
「・・そう。 何が失えないものか という選択です。」 


僕にとって失くすことの出来ないものは ただ ジニョンだけでした。
「!」
ドンヒョクssi! 
たしなめる恋人の小声に いたずらそうな眉が上がる。

本当だよ。80になっても90になっても 同じ事があれば 全財産なんか惜しくない。
「ジニョンが いればいい。」
愛しい人の耳元へ告げる ベルベット・ボイスの 真摯なささやき。
呆然とした男の耳に それは福音のように届いた。



は・・・

「私は 大事なものを失くすところだったな。」
「・・・・あなた?」

初老の夫は妻の手を ゆっくりと握って笑いかける。
ねえ君 お終いにすることはないんじゃないか?
「せっかく まだ君といられる時間があるのに。」 

何もない所から作った会社なんか 時間をかけて作った積み木と思えばいい。
この先 贅沢は出来ないだろうけれど 


「君と 明日も見事な夕陽を見る事はできる。 ・・だめかな?」

「あなた・・」

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サファイア・ハウスへの帰り道。

ジニョンは 薄く笑っている。
初老の2人は 明日の朝食にアワビのお粥を食べると言っていた。


「自殺? ・・あんなに 仲のいい夫婦が?」

例え無一文になったとしても 寄り添って夕陽を見る半身がいるなら
それだけで もう十分 生きるに値する人生だろう? 


いきなり 白い腕が伸びて ドンヒョクの首に抱きついた。
「!!」
・・・ジニョン・・?

寂しそうで見ていられない程 孤独だった人。
あなたはもう 何があっても 大事なことを見失わない。
そして きっとあの2人も。 
「愛しているわ。 ドンヒョクssi・・。」
「ワオ・・」


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ジニョンが先に 愛していると言ったんだろう?



「律儀な夫が ちゃんと妻に応えてあげようとしているんだ。」




だからジニョン こっちへおいで。

リーチの長い腕が伸びて 華奢なウエストを引き寄せる。
じたばたと逃げる形のいい脚を 男の膝が割って
たくましい背中が嬉しそうに 愛しい半身を 組み敷いてゆく。


寝る間も惜しんで愛してあげようという 献身的な夫の申し出だぞ?

「眠いなんて そんな 世迷言は聞けない。」
「だって・・。」
「さあ もう一度言ってごらん? 愛しているって。うん?」
「だって。」

また「だって」だ ソ・ジニョン。許せないな。


しびれを切らしたハンターは もう抗議を受け付けない。

形ばかりのジニョンの抵抗を ものともせずに愛撫を始めて
不満の言葉が 甘い泣き声になるまで それほどの手間はかからない。

ほら もう一度 さっきみたいに言ってごらん? 
「愛しているわ ドンヒョクssi・・」って。



言うまで 放してやらないぞ。 

愛しい人を 脅しながら 深夜のハンターは笑っていた。

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