ボニボニ

 

My hotelier 171. - カウントダウン - 

 




ニューイヤーズイヴの早朝 ソウル。

ソ・ジョンミンの持つ木刀は ぴたりとその切っ先を宙に止めた。



小さな気合の言葉とともに ヒュンッ! と空気が切り裂かれる。

漢江を渉ってくる川風のせいで -8℃の予想気温を下まわる厳しい寒さの中
熟練した剣士の姿勢は揺るぎなく 真冬の冷気を切り刻んでいった。

「?」



張り詰めていた緊張が 軽やかな足音をとらえて 解けた。

眉根をゆるめたジョンミンが 静かに木刀を下げて見る先には
見事なスピードでこちらへ走ってくる 背の高い男の姿があった。

「・・ドンヒョク・・」


ドンヒョクは サングラスをかけた眼をわずかに下げて 凍てつく空気を切って走る。

スピードを上げて最後の坂を 跳ねるように駆け上がった彼は
ゴールに用意したミネラルウォーターのボトルを 慣れた仕草ですくい取った。



「・・・」



「短距離走のように走るんだな」

「? あぁ お義父さん」
「そんな所へ水を置いて グズグズしていると凍るからか?」
「・・・」


・・・ふ・・・・


ソ・ジョンミンが眉を上げた。

いつもならアメリカンらしく 気の効いたジョークを返してくる娘婿が
ペットボトルの封を切ろうとした手を止めたまま 思いに沈んでいた。



「・・気に入らんな」

「え?」


「仕事は順調だとお前は言った。その上 待望の第一子が今にも産まれんとしておる」
「はい」
「どうしてそんなに不景気な顔を しなくてはならないのだろうな?」

「すみません・・」
「不安なのか?」
「・・・」


・・・・ふむ・・・・・





ジニョンの 出産が迫った年の瀬。


ドンヒョクは ジニョンの母親を サファイアハウスへ呼び寄せた。
実家へ戻っての出産など 最愛の妻と離れられない彼に検討すらされなかった。

もちろんジニョンの母親には 妻と離れたくない熱血教師が 当然の如く付いてきて

2011年の大晦日 サファイアハウスは賑やかだった。




「まあな。 出産と言うものは 女性の大きな試練である」
「・・無事に 産まれてくれるでしょうか?」
「?!」


喝!!!!!!!

「!」


「男が 何を情けない。 お前が弱音を吐いてどうするっ!」
「?!」
「妊婦であるジニョンの不安を支えるのが 夫のお前の役目だろうっ!!」

「! ・・すみません」
「根性がなっておらん! 罰として校庭20周だっ!行って来い!!」
「校庭って お義父さん」
「やかましいっ! とっとと行け! 10周追加するぞ!」


蹴り出すように熱血教師は お気に入りの娘婿を追い立てた。

ドンヒョク?  思い悩むより 腹を据えるしかないこともあるのだ。


---------




「あっはっはっは! それで あんなに走り回っていたんですか」


やって来た理事にソファを勧めながら テジュンが 大きな笑い声を上げた。
いったい理事は何をしているのかと スタッフ達が噂をしてましたよ。

「笑い事じゃない。 この大晦日に フルマラソン程も走らされたのだから」



不機嫌にソファへもたれると ドンヒョクは長い脚を組んだ。

舅殿にどやしつけられて 家から逃げてきたって訳か。
テジュンは心の中で笑いつつ 同情するような顔を取りつくろった。


「しかしねえ。 大晦日のロビーに ジニョンを早く連れ帰ろうとする理事の姿が
 見えないと調子が狂いますね。 我がホテルの風物詩みたいなものですから」
「ふん」
(だ・か・ら! ジニョンジニョンと 人の妻を呼び捨てにするな!!)

「で? ジニョンは順調なのでしょう?」
(馬鹿みたいに心配性のお前が ここにいるってことはさ)

「ええ お陰様で」
(ジ・ニョ・ン・と・呼ぶな! 順調じゃなかったら 誰がこんな所にいるか!)

むっつり黙り込むドンヒョクを テジュンは面白そうに見やった。

自信の塊みたいな理事が 愛妻の初産にうろたえる様は微笑ましくも見ものだった。
こんな時くらいしか この男をイジめるチャンスはないだろう。


「『10ヵ月』ですか。 もう いつ産まれてもいい頃ですよね?」
「?!」

「・・予定日は あー いつでしたっけ。 あと何日だ?」

「・・さて。 ご多忙中に邪魔をしました」
「いえいえ全然。 今 秘書にコーヒーを持ってこさせます」
「いや! 繁忙期のホテリアーの営業妨害をしては 申し訳ないですから」



失礼します。

魔物にかかとを齧られたように ドンヒョクはそそくさと立ち上がる。
ことさらゆっくり出て行った後 ドアの向こうで理事が走り去ってゆく音がした。

クッククク・・・


『10ヵ月』と聞いて焦りやがったな。 まったく どれほど心配なんだか。

ひとしきりケンカ友達を笑った後で テジュンは静かにうつむいた。
かつて自分が恋した女性は もうすぐ 母になろうとしていた。

「・・・頑張れよ ジニョン」


--------



ドンヒョクが家に戻った時 ちょうどタクシーが玄関先へ入って来た。

中から大きなお腹のジニョンが 母親に付き添われて降りてくる。

ジニョンが大儀そうに身体を曲げて 座席から紙袋に入った荷物を取るのを見るや
ドンヒョクは厳しい表情に変わり 大股で妻に歩み寄った。



「こら! またそんな。 荷物なんか持つんじゃない」

「ドンヒョクssi? 平気よぅ そんなに重いものじゃないの」
「君の“平気”の信用格付けは Bにも満たないんだよ。奥さん」
「まぁ ひどい」


ひどいと言うのは 僕の誠意ある注意を ことごとく聞き流す君のことだろう。

ジニョンの手から紙袋を奪いながら ドンヒョクは冷たい眼でにらんだ。
どきなさい 荷物はすべて僕が持つ。


「買物なら 僕が付き合うから言えばいいのに」

「もぉ・・。 男の人と一緒には 買いたくないものもあるでしょ!」
「“緊急時”に 無用な気遣いをするものじゃない」
「も~~~~!」


ぷうっと膨れるジニョンの顔を ドンヒョクは素早く楽しんだ。

まったく。 聞き分けのない妻だけど 膨れっ面はやはりとても可愛い。



「そうそう。 パパが夕食は『フォーシーズンズ』でしようと言い出したの」

「いや・・今年はホテルへ行かずに 家でゆっくりするんじゃ・・」
「それがね」



ノ料理長が 私の為に“カウントダウン特別ディナー”を考えたと言ったものだから。


「パパったら すごく感激しちゃって」

「ジョンミン先生にそんなことを言ったら ・・そりゃ 感激するだろうな」

「“それは 是非とも味わわせてもらわないと。 なあっジニョン!”って」
「燃え上がったのか」
「ええ」
「・・やれやれ」



仕方ない。 

どのみち今年は 結婚記念日といえども 2人で甘くとはいかないのだし。

「まあいいか。じゃあ今夜は『フォーシーズンズ』でディナーを食べよう」


シン・ドンヒョクは鷹揚に 今夜のスケジュールを受け入れた。
そして 後からドンヒョクは この決定をひどく後悔することになった。


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『フォーシーズンズ』の大晦日。

ホリディ気分の客達が 楽しげにさんざめいている。


あと数時間でカウントダウンと人々が 少し浮き足立つ宵。

ソウルホテルの王の如き男は 背中に冷たい汗をかきながら
眼の前に出されたディナープレートをにらんで こわばった笑みを浮かべていた。




・・“カウントダウン特別ディナー”とは こういうことか・・・



ナイフとフォークを握る手に 知らず知らずに力が入る。

うっかり年越しのカウントダウンの事だと 思い込んでいたんじゃないか。



ボンボンの様に丸く作り 野菜が“ぎっしり詰まった”オードブル。

お腹の中に詰め物をして “パンパンに膨れた”ウズラのロースト。
クラムチャウダーは “ふんわり丸い”パイのドームに入っているし。

スウィーツの上には“実がはじけた”ザクロからルビーの粒がこぼれていた。



「美味しいわねえ さすが料理長だわぁ! ね? ドンヒョクssi」
「・・・」

「そうだなジニョン。 沢山食べなさい。しっかり体力をつけないとな」
「ええパパ! ・・あら ドンヒョクssi食べないの?」

「ふふふ! もう間もなく産まれるのだから ちょっと位太っても平気よジニョン」
「そうよねママ。 もう“いつ産まれてもいい”んだもの」
「・・・・・」


だから ジニョン。

胸いっぱいに息を吸って ドンヒョクは静かに眼をつむる。



君の出産を考えるだけで 僕は 心臓が縮みあがる。

そんな事を言ったなら またパパ・ジョンミン先生に

「男が何を情けない。 お前が弱音を吐いてどうする」と言われてしまって
校庭20周のペナルティーを 言いつけられるのだとしても。



「・・・」


「う~ん♪ 美味し! ねえドンヒョクssi 後でカウントダウンしない?」

「えっ?!」

「シアターで カウントダウンライブをするんですって。 行きましょ!」
「でもぁの・・ジニョン 体調は?」
「もう元気一杯! “いつ産まれてもいい”んだし」

「・・・・・・・・」


はちきれそうな腹のウズラを前に ドンヒョクは少し青ざめている。 


2011年の大晦日。 

カウントダウンの目前で 新米パパ候補は 鼓動を早めていた。 

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