ボニボニ

 

My hotelier 176. - 欲しいもの - 

 




ホテリアーという職業において 「お客様」という言葉は絶対で

スタッフ個人のプライベートな事情など 時に あっけなく後回しにされる。



かくて 8月29日の午後 ソウルホテルのVIP支配人ソ・ジニョンは 

本当ならば 午前8時で勤務時間が終わっているにもかかわらず
その日は 夫ドンヒョクの誕生日を 祝う約束になっているにもかかわらず

ソウル市内の総合病院で 医師の診断を聞いていた。



「検査の結果 脳に異常はありませんね。 お帰り頂いて結構ですよ。
 まあ出来れば今日1日は 安静にしていただいたほうがいいでしょう」

「あぁ 良かった・・・。 どうもありがとうございます」



ヴィラに宿泊していた客が 絨毯のへりにつまづいて 転んだ。

彼女はかなり高齢だったので ふいの転倒に身構えることが出来なかった。

もんどりを打って転んだ客は 頭を床に打ちつけてしまう。

折良く 客室担当が ルームサービスを運んで来て
床に倒れてうめき声をあげている彼女を見つけ その後は 大騒ぎになった。



「すっかり迷惑をかけてしまったわね ソ支配人」


「迷惑だなんて・・。 大したことがなくて本当に良かったです。
 この後は 本当にご自宅へお帰りにならなくてよろしいのですか?」

「息子が出張中なのよ。 ヴィラに居る方が 何かあった時に人がいるでしょ?」

「そうですか。 それでしたら客室担当が 時折お部屋へ伺うようにします」
「平気よぉ・・ お医者様も何でもないと言ったじゃない」

「いえ それでも 心配ですから」





ジニョンがヴィラを出た時間は 午後と言うより もう夕方だった。


本館への道を歩くジニョンの ヒールの音が 次第に高くなる。

スタッフ用通用口を通る頃には 小走りになっていたジニョンは
バックヤードの廊下に フロント担当の女性スタッフが歩いているのを見つけた。



「あ! ねえ! ロビーにドンヒョクssi 座ってた?!」

「いいえ。 まあ ソ支配人? 今日は理事のお誕生日でしょう?」
「だから慌てているんじゃない! ヴィラで転んだお客様の病院へつきそったの」

幸いお客様の方は 異常なしで大丈夫だったけれど。

声をかけたフロント係を追い越して ジニョンはスタッフ用更衣室へ飛び込む。
フロント係は ジニョンにつられて あたふたと更衣室へ走り込んだ。


「わあ じゃあ大変。 お客様は異常なしでも・・理事の方が」

「言わないで!」 

「どこかへ行く予定だったんですか?」
「え? えぇ・・何か プランがあるんだって言ってたけど・・」
「ご自分の誕生日だと言うのに 理事が プランを立てるんですか?」

「?!」





そういえば・・。

消防士並みのスピードで 制服を脱いで着替えながら
ジニョンは 今さらながらに思う。


ドンヒョクssiの誕生日なんだもの 本当なら 私が企画して

サプライズだとか何だとか 考えて・・あげるべきなんじゃない?


跳ねるようにパンプスを脱いで 飾りのないローファーに履き替える。

ドンヒョクssiったら 自分の誕生日の計画を 毎年自分で考えるなんて
ひょっとしたら 私って・・

「ひどい奥さん ってことにならない?」



-----------



サファイアハウスが見える頃 ジニョンはすっかり沈んていた。

プレゼントだけは買ってあるけど それだけ。
その上 今日に至っては メール1本で こんなに遅くなって・・。

「・・・」



玄関のドアを恐る恐る開けると 家の中は 奇妙に静まり返っていた。

アンジーの声が 聞こえない。

嫌な予感に震えながら 誰もいないエントランスホールを歩く。
リビングのドアを開けたジニョンは ドンヒョクを見つけて 固まった。



灯りをつけない室内は 夜のように暗かった。

テーブルに置かれたキャンドルが よけいに周りを闇へ沈める。


ドンヒョクはジャケットを脱いだ姿で テーブルの向こうに座っている。

優雅な手が 卓上のワインボトルを取り上げて
2つ並んだリーデルのグラスに 暗赤色の液体を注ぎ入れた。

・・・ドンヒョク・・・ssi・・・・

ぁの ごめんなさい今日は・・


「座って」

「・・・」


ドンヒョクは静かに眼を上げて ワイングラスの片方をジニョンの方へ滑らせる。
ジニョンは こわばった表情のまま 置かれたグラスの前の椅子へ座った。

「・・ドンヒョクssi・・・あのね」

「飲んで」
「・・ぇ?」

「飲めば 気持ちが落ち着く。 ジニョン 息が乱れてる」



あ・・・その 慌てて帰って来たから


「倒れたというお客さんは?」

「あ・・の・・検査して。 異常なしだって」


「それは良かった」
「・・・」
「飲めば?」

「?! ええ!」

ごきゅごきゅごきゅごきゅごきゅ・・・


「!」


緊張のあまり ソ・ジニョンはグラス1杯を一気に飲み干す。

ドンヒョクssi  すすすごく怒っているみたい。
だけど思えば 無理もないかも・・

私ときたら いつもいつも 仕事だからって彼のことを後回しに。



ジニョンの瞳が ゆっくり潤む。 ドンヒョクが驚いて眉を上げた。

こんな私に ドンヒョクssiは うんざりしているのかもしれないわ。


「ジニョン 大丈夫?」

「ド・・ドンヒョクssi」

「うん」
「ァ アンジーは?」
「いない。 お義母さんに預かってもらった」

「・・ぇ?」

「君と 落ち着いて話したいことがあるから」
「!!」



まっすぐジニョンを見つめる眼は ほんの少しも笑っていない。
ジニョンは 何か熱いものが 喉元までせりあがってくるのを感じた。

ドンヒョクの眼が いつもと違う 強い光を帯びている。
ジニョンは もはや半泣きだった。

助けて神様。 ドンヒョクssiが とんでもないことを言い出しませんように。



「はな・・話したいことって何?」 

「誕生日に」


誕生日なのにこんなことになって 本当に ごめんなさいドンヒョクssi。

「欲しいものがあるんだ」
「本当にご!  ・・ぇ?」

欲しいもの?

「2人目」




え? 2人目って。   「・・・2人目?!」

眼の底を白く光らせて シン・ドンヒョクが立ち上がる。
お義母さんもお義父さんも「大賛成」だって。

「ジニョンも そろそろいい歳だし」

「あ・・のぅ ドンヒョク・・・ssi・・・・」


ゆっくり近づくドンヒョクは 獲物にしのびよる虎に似ている。

ジニョンは 思わず椅子の背をつかむと オロオロと立ち上がった。

「ジニョン」

「ひゃい」

「後ずさりするのは そっちじゃない」
「え?」
「ベッドルームは 左後ろ」

「あ・・の」



じりじり。  辣腕のハンターは 愛しい獲物を追い詰める。

ちゃんと周期計算もしたんだから 絶対 今夜で作ってみせる。 

ハンターの意志は鋼のように硬く ジニョンから眼をそらさない。
引きつりながら後ずさるジニョンが ラグのへりにつまづいて転びかけた。

「?!」「!」


ドンヒョクは まるで閃光のように 倒れるジニョンを捕まえる。

そのまま腕に抱え上げて ベッドルームのドアを蹴った。

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