バックヤードに続くドアを開けて、小柄な女性がフロアに滑り出てくる。
少年のような短髪。細い腰にワークポケットを下げ、手にはツールボックスを提げている。
地味なシャツに黒のパンツで、滑らかに歩く彼女は、
人々が華やかに行きかうロビーで、影の様に目立たない。
やがて一つのテーブルの前でリペアラーはツールボックスを開けた。
「・・・」
テーブルには、ほんの少し剥げた部分がある。
微妙に色の違うワックスバーと傷を見比べて、その一本を削る。
シュウ・・小さなコテが外れると、テーブルの傷が魔法のように消えた。
ソウルホテルには、美しい木調家具が、いたるところに置かれている。
その高価な「芸術品」が、人の流れにさらされて、日々、小さく傷つく。
それを補修してゆくのが、彼女の仕事だった。
“いいか、ホテルっていうのはな、豪華なら輝くってもんじゃねえんだ。
ホテリアーが丹精込めて磨き上げてこそ、本物のホテルは輝くんだ!”
顔に似合わずロマンチックなことをいう親方が、彼女は好きだった。
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濃淡のローズウッドを貼り分けた、美しいハイテーブル。
その傷と2色のバーを見比べて、若きリペアラーが長い間迷っている。
「右・・・」
深い声に目を上げると、理事が新聞の端からこちらを見ていた。
「・・・・」
左のバーを削って、コテを当てる。テーブルにわずかな色ジミが出来た。
「・・・すみません。」
リペアラーが謝ると、理事は不思議そうに彼女を見た。
「プロは、自分の仕事の責任を負うのだから、判断は自分ですればいい。
無礼な素人の言った方が、たまたま正解だったからって、何も謝る事はない。」
「!」
「随分悩んでいたから・・、たまには、誰かの言う方へ行くのもいいんじゃないかと思って、
声をかけてみたんだ。」
・・・悪かったと言って、理事が去って行った。
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その時彼女が滑ったのは、ワックスが手についていたからかもしれない。
高い吹き抜けの手摺り。身を乗り出してニスの剥がれを直していたリペアラーは、
ずるっと滑って、落ちかけた。
手摺りにつかまって、宙吊りになる。慌てて下をのぞくと、床が遠かった。
誰か・・と言っても人影がない。
仕方ないわ。ここからなら足を挫くくらいで済むだろう、彼女は、そう決心した。
「・・どうやったら、そういう状況になるんだろうな。」
下から見上げるシン・ドンヒョクの声には、面白いと言わんばかりの響きがあった。
背の高い彼が、長い双の手を差しのべる。大きな手が、リペアラーの靴を
底からつかんだ。
「届いたな。じゃあ、手を放せ。」
「・・・あの・・・」
「ほら、早く。」
一瞬。 ドンヒョクのリフトで、小柄な彼女が空中に立つ。
そのままふっと落ちて、リペアラーはドンヒョクの腕に収まった。
数日後、彼女は、ジニョンと連れ立って歩くドンヒョクに会った。
軽く礼をして行きすぎると、背中に、ソ支配人と理事の会話が聞こえた。
「あら、なあに? 彼女のことも知っているの?すごいわね。」
「知っているも何も・・、クク、彼女は僕の“手乗りインコ”なんだよ。」
―!!
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「マティーニ。」
『カサブランカ』のカウンターで、ドンヒョクがいつものオーダーをする。
その夜のオリーブには、黒檀の美しいピックが刺さっていた。
「へえ、きれいだな。オリーブの緑によく映える。」
グラスを拭きながら、バーテンダーがふっと笑う。
「これ、理事専用のスペシャルピックなんですよ。」
手元に小さな銀のインコが象嵌されたピック。
それはカクテルの中で、少しだけ揺れた。