ボニボニ

 

My hotelier side story - ブーランジェ -

 




ホテルの1日には 切れ目がない。


前日の尻尾に噛みついて 次の日が夜中に立ち上がる。
切れ目のない1日の 先頭を切って動く者
ソウルホテルの「今日」の先頭には ブーランジェが立っていた。



午前2時。
暗闇の室内を 酔った女が ふらふら歩く。
揺らぐ千鳥足は それでも細心の注意を払って 寝床の位置を探り当てる。


女はネコの様に身をひそめてシーツの中へ滑り込む
そのわずかな振動を捕らえて 寝床の中から黒い影が起き上がった。




「おい化粧…。」

粗野な男の声は 女と入れ違いにベッドを抜けて 闇の中で動き出した。


「ごめんなさぁい。 ・・起こしちゃった?」
「もう仕事だ。 おい顔!」
「いい・・・。 も・・う・・疲れちゃって。」


女の声は語尾が溶けて もう眠りの淵へ向かっているらしい。


しょうがねえな・・。乱暴な声と裏腹 男は枕元のケースを開け
慣れた様子で 紙を1枚引き抜く。
化粧落としのウエットシートで 女の寝顔をゴシゴシと拭く。

「いたぁい…。」
女は 余程眠いのだろう。 
力まかせのクレンジング中にも 夢の中へと沈んでゆく。



夜の女に引導を渡して 男はすくと立ち上がる。

午前2:30分。 
彼と共に ソウルホテルは新しい日を迎えた。


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パン屋に必要なものは 早起きの習慣と太陽の手。


粉がパンへ変わる間 酵母の機嫌を損なわない
大きくて 温かい手が必要だ。
ソウルホテルのブーランジェは 女の腿ほどもある腕と太陽の手を持ち
パン・ド・カンパーニュからパリジャンまで あらゆる種類のパンを焼く。


午前3時。
石釜が音を立てて燃え始め パン屋はむっつりと台に粉を撒いた。

その日最初に焼きあがるのは 早朝に発つお客様の朝食用。
ふんわり軽いヴァイスブロット、パリリと焼ける小ぶりなブール。
そして ブーランジェが近頃仕上がりを気にするのは全粒粉のバゲットだった。


-今日こそは このパンで理事の足を向けさせて見せる。


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最近ジニョンは 毎日のように全粒粉のバゲットを買ってくる。
身体にいいのだと得意げな顔をして 自分が焼いたように勧めるんだ。
「・・・?。」

ランニングの途中でパンの事など思い出したのは この香りのせいか。
サングラスに隠れたドンヒョクの眼に 困惑気味の笑顔が浮かび
口の端が 持ち上がった。



ソウルホテルの早朝。
ハンターは いつもより早いランニングをしていた。

夜明けに始まったN.Y.市場のディールで 
彼はまんまと お目当ての株を買い占めた。
マカオの街が目覚める頃 ターゲットはきっと青ざめるに違いない。

ゲームの後の高揚感に ドンヒョクは軽く酔っている。
仕事がうまく運んだ時 本当は ジニョンと遊びたい。
だけど 早番の今朝 彼女の眠りを妨げる事は 虎の尾を踏むに等しかった。



ふわり・・


明けてゆく黎明の中 朗らかな匂いが流れてくる。
胸の奥まで吸い込みたいような 健康で 陽気な芳香。
-まるで ジニョン・・・みたいだ。


ドンヒョクは 足を止めた。
焼きたてのパンを買っていこうか。 きっと彼女は喜ぶだろう。

スタッフヤードへのドアを開けて シン・ドンヒョクが悠々廊下を進む。
時ならず現れた理事の姿に ホテリアー達の眼が慌てて開く。

ブーランジェは待っていた。
バックヤードに拡がるこのざわめきは 「あの人」が来た証拠だろう。
ついに この朝俺は チャンスをつかんだ。



「・・・いいかな?」

待ち望んでいた深い声がした。
遠慮がちに首を傾げて 理事が入口からのぞいている。
「ええ!どうぞ。 お待ちしていました。」
「・・待っていた?」


「全粒粉のバゲットですか?」
よく判ったね。

手早くバゲットを包みながら ブーランジェの胸は高鳴る。
「このパン ソ支配人がこの頃お気に入りでしたので・・・。」
ブーランジェは照れて笑う。その見事な上腕筋にハンターのきつい視線が走った。
「君は ジニョンと親しいのかな?」

はっと パン屋が息を飲んだ。
ドンヒョクの眼の底が 白く光っている。
「ち、違います! ソ支配人がこのパンをお気に入りだから
 ・・・理事がお求めになるのではと思いまして。」
「僕?」


サリーと言う踊り子を ご記憶ですか?
「キャバレーで 踊っています・・・。」
ブーランジェの声に愛しさがにじむ。貴方が借金を肩代わりしてくれた女です。
「俺の 女房になりました。」

ふうん・・・


受け取った袋に眼をつぶってドンヒョクは 深く息を吸う。
ああ これだ。 愛しいジニョンのお気に入り。

袋から出たパンの頭をパリと指でつまんで ハンターが笑った。
夜の女と 早起きのブーランジェが よくもまあ出会えたね。
「はあ あいつはパンが好きで・・。仕事明けに買いに来ましたから。」


は・・・。

パリともうひと口をかじりながら ハンターが笑う。
「そうか・・。夜の終わりは 朝の始まりだ。」
「はい・・。」

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昨夜の疲れを身にまとって 「昨日」の女がパンを買う。
それは「今日」のブーランジェが 一番に釜から取り出した物だ。
酒の匂いに揺れながら それでも大事そうにパンを選ぶ女。

好きなのだろう。
店を出たところで マニキュアの指を袋へすべらせ 少しちぎって味見する。
カウンターへトレーを運びながらブーランジェは 最初の客の反応を見る。


ふふ・・。
禿げかけの化粧には不似合いな 幸せそうな女の笑顔に
ブーランジェの無骨な頬が揺れた。


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「あの・・。 理事はどうして あいつの借金を肩代わりしてくれたのですか?」


失礼と知りながら ブーランジェは問わずにいられない。
真っ赤になった職人の顔を 興味深そうに眺めながら
ドンヒョクは 眉を高くした。
「・・・脚かな?」
「あ・・し?」

―焼きたてのパンは美味いものだな ジニョンを起こして食べさせよう。

「・・あの? 脚・・ですか?」

キツネにつままれた顔の男へ ハンターは悪戯な目線を流す。
「あの踊り子の脚が ジニョンに 似ていたんだ。」
「え・・?」
「君の奥さんになったとは おめでとう。」

見事な体躯の ブーランジェは しどろもどろに言葉をつないだ。
「あ、あの俺 必ず借金は返済しますから。」
「・・・じゃあ このパンはタダでもらえるのかな?」

は・・?
パン屋が顔を上げた時 ドンヒョクは出てゆくところだった。
ジニョンの元へと急ぐ背中は もうそれ以上の会話を拒絶していた。
「・・理事・・。」



-やっぱり 早番の朝に起こしたら 怒るかなあ・・?

睡眠欲と食欲。今日のジニョンは どちらが勝つだろう。
「熱いうちが 勝負だな。」



焦る男はパンを抱えて サファイア・ハウスへ走り出した。

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