ボニボニ

 

愛しのプロフェッサー 4

 




手を洗いたいと私が言うと プロフェッサーは眉を上げて

飲みかけた烏龍茶の茶碗越しに どうぞ と柔らかく微笑んだ。



「ねえ Ms.ユナ?」
「はい」

“なるべく早く 戻ってきてください”



「!?」 
まるで 恋人に言うようなセリフ。
心臓が私を裏切って ドキドキと勝手に盛り上がる。 な、何を言っているのよ。
「わ・・かりました。 失礼します」




レストルームの大きな鏡は 真鍮を象嵌した透かし彫りのフレームで
覗きこむと自分の頬が 呆れるほど 朱に染まっていた。
まったく もう・・・

素直に認めるしかないけれど 今夜の食事は 楽しかった。
プロフェッサーが箸でつまめば ピータンまでもが華やいで見えた。


男なんて もうこりごり。 

だけど 確かにあの教授には 鑑賞に値するだけの価値があるわ。
薄く笑んでドアを出た私は いきなりその場に凍りついた。
「!!」


「やっぱり室長だ。こんな所でお会いするなんて 奇遇だな」
「・・・・」
「今 どうしてるのですか? プリンストンには何か用で?」

「・・・・」

まあ、ね。 マンハッタンから車で1時間半だもの。 
こういう事もあるのかもしれない。
だけど 誰にも会いたくなくて 私はすべてを捨ててきたのに。


「そうそう。主任がフルトン・ストリートにオフィス構えたのご存知ですか?」
「・・・・」
驚いたことに彼 エマを引き抜いて行ったんですよ。
「・・・・」

あぁ そうだ室長! 「この後一杯どうですか? 俺・・」
「それは 困りますね」
「?」「!」


肩先で壁にもたれかかって プロフェッサーが微笑んでいた。

「その女性は僕の連れです。 ね? Ms.ユナ」
「ぁ・・・はい」
「早く帰ってきてくださいと 言いました」
「すみません」


すぅ・・と大きな手が回り 私の腰を引き寄せる。
とてつもなく優雅にエスコートしながら 教授は きっぱりと話を切った。

「お返しいただけますか? それではMs.ユナ 行きましょう」

-----



車が走り始めると プロフェッサーはパワーウィンドウを下げた。
「あぁ お酒を飲んだから 夜風が気持ちいいです」

ふふ・・。 Ms.ユナはドライバーだから 飲めなくて残念だったでしょう。
ハンドルを握る私の沈黙から プロフェッサーは眼をそらしていた。

ささくれだった神経がきしみ 私は 攻撃的になる。



「どうして 迎えに来たんですか?」
「いけませんでしたか?」

冷静な声で切りかえされて 返す言葉を失った。

そうね。 「いけない」どころじゃない。
・・本当は とても助かったのだから。


ジウォン教授はことさらに 親しげな風を装ってくれた。
相手は 凛とした彼に気圧されて 不服そうに引き下がった。
「Ms.ユナの席からは判らなかったけれど 彼は 貴女をチラチラと見ていました」

「!?」
「あまり好感の持てる視線ではないのが 気になりました」
・・・・ぁ・・・・


“なるべく早く 戻ってきてください”

思わずプロフェッサーの方を見る。 教授は 窓外に眼を固定していた。
笑いを退いた まっすぐな瞳。
あれは・・・そういう意味だったんだ。


「あの人は 前の職場で同僚でした。 会いたくない相手です」
「・・・」
「お気遣いいただいて ありがとうございました」

It’s my pleasure♪ 
「おかげで 美人をホールド出来ました」
ジウォン教授は肩をすくめて 少し 残念そうだった。

きっと彼は もう少し 気の利いたジョークを言いたかったのだろう。

ぽ・・ろ・・・

とんでもないタイミングで 涙が出た。
私は だって 辛かったのだ。
瞬間冷凍して封じ込めたはずの心が 教授の優しさに触れて 揺らいだ。

取り繕いようもなく言葉が出る。
ううん・・。 聞いて 欲しかったのかもしれない。



「逃げて来たんです。 ・・私」

優秀なアナリストだと 自負していた。
同じ職場の恋人と 独立してオフィスを構えるはずだった。
新居も 仕事の開業資金も 信じた人の名義にした。

彼を追い越して室長になった時も 別段 気にもしなかった。
「後輩が彼のプロポーズを受けたと ある日突然 聞いたんです」


口に出せば馬鹿馬鹿しいほど 陳腐な 女の裏切られ方だ。

世の中に多分 ゴロゴロある話。
ただ それが自分の現実になるとは まったく思いもしなかった。



ポン・・・

教授は シフトレバーを握りしめた 私の腕をそっと叩いた。
温かな掌がほんのつかの間 好意と慰めを告げて 離れた。

「すみません。 ・・こんな話 お聞きになりたくないですね」
「Ms.ユナ?」
「・・はい」

貴女は とても 素敵な女性です。

ベルベットのようになめらかな声が 優しく 心を撫でていった。
私の涙は止まるすべを知らず プロフェッサーは無言だった。



教授宅前で 車を停めた。

ハンドルにしがみついたままの私は 助手席を見る勇気もなかった。
プロフェッサーは 影のように静かに車を降りて
ボンネットを廻って 運転席の外に立った。

「・・・・・・・」
「Ms.ユナ」
「はい」
次は 貴女も買いませんか? 『Tom’s Sandwich』のBLT。


「できれば 明日も乗せて下さい。 僕 もう少し頑張ります」
「・・・・」
私は掌で涙をぬぐい 穏やかな微笑を なんとか見上げる。

静かな プリンストンの住宅街。 
プロフェッサー・ジウォンの笑みは 
まるで 内側から発光するように 夜の中できらめいていた。



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「・・・・・・」


次の朝。
プロフェッサー・オフィスのドアを開けて 私は 呆然と立ち尽くした。
床板の節穴から伸びた茎が 30センチ程になっていた。


・・この成長の早さはやっぱり南方系?  って いやそういう事じゃなくて。
とぼけた顔したぴよぴよの茎は 
はーいと片手を上げるみたいに 葉らしきモノまで出し始めている。

書架にびっしり並んだ本。 シックな机にデスクトップPC。
床の穴から茎を伸ばした 名も知れぬ(多分)南方の植物。

それらはプロフェッサーが椅子に座ると 妙に しっくり納まって見えた。



郵便物を揃えていると 一通のエアメールに手が止まった。
エアメールなどプロフェッサーの元へは DMのように送られてくる。
その封書が目立ったのは 差出人のせいだった。

『Lee Juni』 

イ・ジュニ?
教授と同じ姓。 私信風の封筒だから 家族からなのかもしれない。
ともあれ他の書類と共に プロフェッサーのデスクへ届ける。

秘書席へ戻ってしばらくすると 「ワーオ!」という歓声が聞こえた。


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「僕は買い物が苦手です。 Ms.ユナに お願いできませんか?」
「はい。もちろん」

・・・あんな物を 置かなければ良かった。
セクレタリールームの書架の隅に 私が据えた クラシカルな椅子。

教授はそのコーナーが気に入ったようで 何かというと座りに来る。
珍しいものでも見るみたいに 興味深そうな顔をして
私の仕事を 覗きこむ。
「えー プロフェッサー。 ご入用のものはなんですか?」

「ふふ。あのね」
・・・だからそんなに なつかないで欲しい。



ちょっと意外なことだったけど 教授は 女性にあまり愛想がない。

まあね。 
マクドネル事務長が言うとおり 彼の周りには 
“女性的かつ家庭的なサービス”を自発的にしたい女があふれていて
教授はどうやら そういう相手から 距離を置こうと注意しているらしい。


だけど 根が人懐っこい性格なので
ビジネスライクを宣言する秘書には 安心して 極めてフレンドリー。

プロフェッサー・・・

貴方はご自分の放つ魅力が どれほど強力か ご存知ないです。



「フォトフレームが欲しいんです。赤いやつ」

「赤? どんな赤でしょう?」
ローズマダーと言うのかな。 
「うーん。 チャートで言うとC5 M100 Y80」

画像ソフトのカラーパレットを開いて 指定の色を確認する。
サイズはこれですと言いながら 教授は 写真を取り出した。

「・・・・」
教授と女性が写っていた。 女性というより女の子と言いたい若さ。
「留学中の息子から 先程 送ってきたんです」
留学? そんなに大きな息子さんがいるの?


あいつもひどいな。 やっと今頃送ってくるんだから。
「あぁ 本当に可愛いです。 ・・ね?」

「え? ええ 可憐なお嬢さんですね」
「ふふ♪ 茜さんと言うのです。 僕の希望、いや天使です」
「・・・・」

「茜」という名は 日本語でローズマダーという意味だそうです。 
「ああ それで・・赤い額ですか」


1枚は パーティにでも行くように ドレスアップした教授と彼女。
もう1枚。 これは多分 日本の「キモノ」と呼ばれる正装だろう。
嬉しげにその娘に寄り添う教授は 口元に髭をたくわえている。

「オモ 以前は 髭がおありだったんですか?」
「はい。でも 茜さんに笑われたから止めました」
朝食の時に ぼーっとしていたら “お髭にポタージュが乗ってるわ”って。


『朝食』。

私は 自分が驚くほど 衝撃を受けていることに気づく。
教授に息子や 年若いGFがいても 私には無関係のはずなのに。

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講義の少ない日だったので 私達は 早めに帰った。

家まで 数百メートルという所で 
派手なロックを大音響でかけた ランドクルーザーに追い抜かれた。


ドライバーはひょっとして ドラッグをやっていたのかもしれない。
私の車をこすりそうなほど 大きくよろけて迫ってきた。
「危ない!!」

は・・・・ぁ・・

一瞬。 頭が真っ白になった。
車がぶつからなかったのは プロフェッサーが手を伸ばして
ハンドルを切ってくれたからだ。



「大丈夫ですか Ms.ユナ?」
「す、すみません! ・・びっくりして」
「貴女のせいじゃありません。 あの車はクレイジーです」

警察へ コールした方がいいかもしれない。
プロフェッサーが去ってゆく車を 険しい瞳でにらみつける。
その時 数百メートル程先で 派手なクラッシュ音が聞こえた。

キキキキィー!! ガーンッ!!

「ああ! ぶつかったわ!」



一瞬 時が止まったあと ドウンッ!!と火柱が吹き上がった。



プリンストン 引越し6日目の 夕方。

私の家はランドクルーザーに突っ込まれて ものの見事に吹き飛んでいた。

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