ボニボニ

 

愛しのプロフェッサー 7

 




プロフェッサー・ジウォンの家に 住み始めて以来
私の頭の中に もっとも多く登場した単語は   「絶句」。


“生活能力が皆無に近い”



周囲の人は ジウォン教授をそう形容する。
生活能力が 皆無に 近い?



私に言わせれば プロフェッサーは “今まで生きていたのが奇跡”だった。

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プロフェッサー・ジウォンは・・・家中の 至る所で倒れている。


洗濯機(まだ買っていない)を借りようと ランドリールームへ降りて行くと
タンブルドライマシンにもたれて プロフェッサーが眼を閉じていた。

きれいな額に後れ毛がこぼれ 長い脚を 折り曲げている。
ぴくりともしない白皙の頬は 大理石の彫像みたいに見えた。

「き、教授!? しっかりしてくださいっ」

「・・・ぁ・・・・Ms.ユナ・・・・」
「お加減でも悪いんですか!」
「・・ぅ・・ん?」

・・・調べ物に夢中になって 昨夜「寝るのを忘れた」そうだ。



日曜の夕方。 キッチンの床に丸まって ネコのように倒れていた彼は
あまりにお腹が空いてしまって 「冷蔵庫の扉を開けられなかった」と言った。

「・・・・・」


冷蔵庫のドアって割と重いですね。 ユニバーサルデザインが必要です。


・・・1つ お伺いしていいですか?

「確か昨夜は MITの教授とご会食したのではありませんか?」
「ええ! お会いしたら とても話が弾みました」

彼との議論で すごくインスパイアされた事があって 
「忘れたくないから 急いで大学へ戻って検証したのです」
会食は えーと 「断っちゃいました」
「・・・・・」


「で、でも、昨日はお昼用に チキンサンドをお買いだったでしょう?」
「考え事をしていて 食べるの忘れました。 ・・そういえば あのパンどうしたっけ」
「・・・・・」

確か 教授は昨日の朝 「食事をしていない」と言っていた。 
「それではプロフェッサー。 昨日1日 何もお食べじゃないのですか?」
「えーと 一昨日の夜も忘れたから。 ・・1日半くらいです」

「・・・・・」




面接の時。 確か私に マクドネル事務長が聞いたと思う。

“あなたは例えば 食事の用意に事欠いている男性に 
料理を作りたくなるタイプですか?”

「・・プロフェッサー」
「はい」
「“教授側”の冷蔵庫。 拝見してもいいですか?」

フランケンシュタインを丸ごと保存できそうな 2枚ドアの冷蔵庫。
“Ms.ユナ用に 左側を空けましたから どうぞ使ってください”


そして 開けた右側には
カートン丸ごとのミネラルウォーターに ハイネケンの1群。 
マクビティ・ビスケットと  脱臭剤が ひとつ。
「・・・・・」


“・・・料理? 他人の為になど 作る気もしません!”


これは「他人の為」じゃない。 
自分の 精神の平衡を維持する為よ。
私は “ユナ側”のドアを開けて 野菜や米を取り出した。

モチロン言い訳だったけど 身体の方が止まらなかった。

そんなに食べていないなら 胃に優しいものにしなくっちゃ。
リゾットの深皿をテーブルに置くと プロフェッサーは眼を丸くした。



「・・・ワ・・ォ・・」

「少しずつ ゆっくりと食べてください」
ええ、ええ、コウサカもよくそう言いました。
「いきなりガツガツ喰うなって。 ふふふ Ms.ユナは やっぱり似ています」

嬉しげにスプーンを取り上げた彼は ひと口食べて 微笑んだ。
「あぁ・・美味しいです。 身体に沁みてゆく気がします」


これは 何が入っているのかな? 
ジウォン教授は楽しそうにスプーンでリゾットをかき混ぜる。

お皿をのぞく伏し目の美しさに 私は やっぱり目眩がした。



銀行口座を取り戻したので せっせと 要る物は買い戻したけれど
衣服やPC、生活用品とプライオリティの高い順になって。
私は ケイト・オコナーの言うとおり 文無しの居候に近かった。

そして 私の「寄宿主」。 

善意あふれるプロフェッサー・ジウォンは 
放っておくと 寝食を忘れる。


私達は 何の話し合いも 口約束をするでもなく 
自然と互いの過不足に対して 自分の持つものを出すことになった。

つまり 教授が家を提供して ・・・私が 彼にご飯を作る。


ある朝。  
教授は トーストに山とジャムを盛り上げて(甘党なのだ)
幸せそうにため息をついた。
「Ms.ユナがいるととってもいいなあ。 運転もしてくれるし ご飯も食べられる」

「・・・・・」

プロフェッサーはパンを傾け 滑り落ちてくるジャムを受け止める。
子どものような行儀悪。 だけど 上げた顎のラインがきれいで
眼を奪われるほどに 魅力的だ。


“・・料理? 他人の為になど 作る気もしません!”

だから これは・・他人じゃなくて
自分の精神の均衡を保つ為なの。

もじもじと自分に念を押しながら 私は 少しだけ笑っていた。

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「・・・・・・」


プロフェッサー・オフィスの床から生えた植物は 50センチを 少し超えた。
すでに「茎」というよりは 
「幹」という感じになってきて ピヨピヨの芽とは言い難い。 


この成長の早さから行くと 
木と呼べるものに 成長するまで あまり時間はかからないだろう。

葉や 樹皮の形がわかってきたので ウェブの植物サイトで調べた。
確実かどうかは怪しいけれど
『ケルベラ』 と呼ばれる植物が 近いように思われた。

種は 小さなヤシの実状のもの。  本当に リスが運んだのかもしれない。




「ワォ! また大きくなりましたね。 元気な奴だなあ」
「あのぉ 教授。 どうなさるんですか? これ」
うーん・・・

『ケルベラ』らしいと伝えると 教授は 楽しげに眉を上げた。

「ふぅん?  その名前はもしかしたら ケルベロスから来ているのかな?」
「ケルベロス・・・ですか?」
「ええ。 うふふ♪ 神話に出てくる地獄の番犬の事です」
「地・・・」


それじゃあ コイツの名前は『チビ』にしようか。
実家で 飼っている番犬の名です。
「日本語で“小さい”という意味だけど すぐに大きくなったから あはは・・」

・・・・プロフェッサー。

この植物に名前までつけて お部屋で「お飼い」になる気でしょうか?
思わず イメージしてしまう。

書物で溢れたプロフェッサー・オフィスに 青々と繁る木が一本。

木陰になったデスクの上に 肘をついているジウォン教授は
大人になった星の王子様みたいで 何だか とても似合っていた。

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「貴女 料理なんて出来るの?」

教授はすぐ食事を忘れてしまうけれど 味覚はとても鋭いの。
「優しくて断れない方なんだから 変なモノは 食べさせないでよね」 

「・・・あのねぇ」


ケイト・オコナーとは あれ以来 時折ランチを一緒にするようになった。

彼女は 今もプロフェッサーが 気になって仕方ないらしく
昼時になるとインスティチュートから車を飛ばしてやって来ては
教授の近況を 聞こうとする。

私にすれば迷惑で うんざりする相手のはずだけれど
知るほどに 彼女は理知的で 

高い常識力を備えた ・・まあ イイ女の部類だった。

「そう馬鹿にしたモンでもないわ。 私 全羅南道の出身なの」
「何それ?」
「韓国で 食都と呼ばれる地方。 料理自慢のメッカみたいな土地柄よ」



そうか。 じゃあ まずは安心ね。 言い寄ってくる女はいない?

「いるわね。 ダイレクトメール並みに来る」
えぇと雑誌の編集者でしょ。 以前 講義を聴講した女。
昨日は カメラマン志望だという娘が 教授をモデルにって家まで来たわ。

「貴女 そういう時どうするの?」

大学と同じよ。 コーヒーを出して 頃合いを見て声を掛ける。
「“教授、お時間です”って。秘書どころか 口うるさい執事の気分」
「素敵」
「プロフェッサーもそう言うわ。 “Ms.ユナがいると 皆さん帰ってくれます”」
「素晴らしい♪」



教授の魅力に落ちないなんて 貴女も相当 変わり者だけれど

「ユナみたいな人がいてくれて 本当に良かった。どうもありがとう」
ケイトはまるで女優のように 大仰な笑顔でお礼を言う。
美人・・よね。
プロフェッサーはこんなに華やかな美女から 呆れる程に想われている。


彼女の笑顔に 薄く笑い返しながら 何故だか チクリと胸が痛んだ。
慌てて 視線を窓外に移すと 鮮やかなピンクの花木に眼が留まった。

「・・きれいね。 韓国にも似た花があるわ」
「どれ? あぁOleandere(夾竹桃)ね」
「Oleandere・・」

ぼんやり 花木を見ているうちに 突然ドクリ・・と胸が鳴った。


夾竹桃。

笹竹に似た細長い葉は 『ケルベラ』のそれに 似ている気がする。
キョウチクトウ科の植物って・・・確か 毒があるんじゃなかった?

“ケルベラって ケルベロスから来ているのかな?”
“ケルベロス?”
“うふふ♪ 神話に出てくる地獄の番犬です”

地獄の・・番犬。  「!!」

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カフェのテーブルを立った時には 膝がガクガクと震えていた。

バーベキューのスティック代わりに 庭木の枝を折って使い 
死んだ人がいたという 古いニュースを思い出した。

平気よ。 教授はあの枝を 折ろうとしてはいなかったもの。
・・だけど 最初に会った時、 
ピヨピヨの 小さな芽の先を 嬉しそうにいじっていたわ。


落ち着いて 歩き出したはずなのに 
知らないうちに 歩が早くなった。




“ああ。 Ms.ユナはちゃんと笑える方でしたね。 とても愛らしい笑顔です” 
“Ms.ユナ! カフェテリアでBLTサンドを食べたでしょう?!”
“ふふ・・コウサカみたいな秘書が出来て 僕は すごく嬉しいです”

“貴女は とても 素敵な女性です”



プロフェッサー・・・


最後は 全力疾走になった。
緑したたるプリンストンは どこまでも芝生が明るかった。
「何にもないから」選んだ街で 出会った 奇跡のような人。


ノックすることも忘れて プロフェッサー・オフィスのドアを開けた。

とぼけた顔の 低い木の横に 
崩折れたように 横たわる 身体。
「だめです・・・プロフェッサー・・」


お願いです。 

私はまだ ただの一度も 貴方に感謝を伝えていない。

どん底の私へ手を伸べて 光へと 誘ってくれたことに。
世界の全てを拒絶した私に 見たこともないほどの温かさと
笑顔を 教えてくれたことに。

「だめです・・プロフェッサー・・・」


力なく落ちた首の下へ 腕を差し入れて抱き起こす。
私の 腕の中で教授は 美しい眼を閉じている。
喉が詰まるほど鼓動がして 涙が パタパタと頬から落ちた。

「プロフェッサー・・・・起きて・・ください・・・」


ふわり・・と 目の前を何かが横切り
涙で濡れた 私の頬は 大きな掌に包まれた。

「・・・どうしました? Ms.ユナ。 泣いているんですか?」

・・ぇ・・・?・・

あぁふ・・ と伸びをした教授は 私の膝枕から起き上がった。
呆然と流れる私の涙を 心配そうに指でぬぐう。
「どうしました?」


「・・・教授は・・・どうして 倒れていたんですか?」

「あぁそうそう! 大変なんです。 Ms.ユナ」
教わった木の名が気になって ちょっと検索してみたんです。

「この木は 毒があるのです」
「やっぱり・・」
Ms.ユナもご存知でしたか? で 伐ろうかと思ったのですが。


「樹液が飛んだりしないかと いろいろ考えているうちに」
「・・・・寝・・ちゃったんですか?」



すみません。 昨夜 遅くまで本を読んでしまって。

柔らかな声が 叱られた子どものように戸惑っていた。


力の抜けて行く私は  自分の想いに困惑していた。

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