ボニボニ

 

スジニへ 12

 



カンミ城主は久しぶりに 自分の森へ帰ってきた。

決して悲しい訳ではなかった。 ただ 少し1人になりたかった。


倒れ樹の陰にもぐりこんで  湿った緑の 匂いを嗅ぐ。

高い梢を風が渡り 空を 鳥の影が横切る。
人の存在など 気にも留めない森の中で チョロはひっそり息をしていた。




“ねぇ 大丈夫?”

異形の自分を怖れることもせず 心配そうに手を伸べた人を思い出した。

高句麗王軍の兵達を 薙ぎ払った時
仲間を救いに駆け寄ってきた 女戦士を思い出した。



判って いたのだ。

スジニをさらった自分の元へ タムドクがたった1人でやってきて
戦果を全て差し出して 彼女を返せと 言った時から。

判っていたのだ。
たとえどんな逆境でも タムドクに付き従ってきた彼女が
自分が彼の災いになると知るや その身を捨てて 去った時から。



2人が離れた 8年の間にも

スジニは遠い王を案じ 王は スジニの面影と生きていた。

あの2人は 例え背中を向けていても 互いに想い合っている。
そして今2人は やっと 相手の気持ちを見つけたのだ。
「・・・・・」

風がさややと 葉を揺らした。 森は 密やかに息をしていた。

ぼんやり先を見るチョロの向こうで 
ふいに何かが ふわり と動いた。
見れば 幽玄の森の中を 美しい女が歩いていた。
「・・?」



トヤだった。

虚ろに周りを眺めていた女の眼が 一瞬 怯えた色になった。
「!」
チョロはしばらく彼女を見つめ やがてまた 自分だけの思いへ沈んだ。

「・・・・・・・・」

自分に関心が無さそうなことを知って トヤは おずおずとやってきた。
「城・・主・・・サマ・・?」



私に かまうな。
 
チョロは小さく手を払った。 ただ 1人でいたかった。
「気遣いは無用だ。 お前は 好きにしていればいい」

じっと不思議そうな眼で トヤは 城主を見つめていた。
瞳は 哀しいほど青く透きとおり 絹の髪が柔らかだった。


傷を抱えた者の触手が そこにある密かな痛みを感じ取った。

トヤは チョロのそばへ座る。
何か 慰めたい気持ちになったが 彼女は語る言葉がつたなかった。
「・・・・・」



黙って傍へ座った女に チョロの気持ちが苛立った。

「言っただろう? 気にするな。お前は どこへでも・・・」

言いかけた言葉が 虚空へ 消えた。
無いのだ。
どこへも 帰るところなど。 目の前の娘には無いのだった。


「・・・・」
「・・・・」

森は深く 静かだった。 樹裏の苔に 蛇が這っていた。
樹海の大気の底に座って 2人はいつまでも ただ黙っていた。

-----



渡殿を歩いて来た王は 扉の前で足を止めた。

柔らかな女の話し声と かん高い 子どものはしゃぎ声が聞こえてきた。

ふ・・
小さく咳を払って 王は 妃の寝間の戸を開ける。
夜具の中から王太子が 勝ち誇ったように頬を上げた。

「イモは 今夜 僕と寝るんだ」



アジク・・・
困った笑顔で子をたしなめるスジニを 王は 小さく手で制した。
子どもは油断をしない眼で 椅子へ座る父を見つめていた。

薄い笑みを口元に浮かべて タムドクは 妃へ話しかける。

「聞いたか?スジニ。 県境にこの頃 大鹿が出るそうだ」
「・・?・・、作物が荒らされて 農民が困っているそうですね」
「帯方界の方も片付いたし 皆で 鹿狩りでもするか」


「えっ?! 鹿狩り?!」

僕も行きたい! 父上! 連れて行って!

子どもの瞳がきらめいて 少年らしい表情になる。
その喜びを横目に見て 父は 悠々とした笑みを浮かべた。

「お前はまだ小さいからな。 鹿狩りは 危なかろう」
もう少し・・。 そうだな 1人で寝られる位になったら連れて行ってやる。
「その時は 太子に 馬1頭と弓を授けよう」


僕の・・馬と弓・・?

小さな頭が丸い眼で くるくると知略をめぐらせていた。
スジニは今にも噴き出しそうに 太子に見えないように 王へ眼を遣った。

「あのね・・イモ・・・」
「ええ」
「僕はお部屋に帰るけど あのぅ イモは・・大丈夫?」





作戦勝ちだ。 

したたかに言い放つタムドクは 少年のような笑顔になった。
スジニが 呆れた顔で言った。
「王様があんな手を使って 子どもを追い払うなんて・・」


仕方なかろう? 子ども相手に戦も出来ぬし 
「あれがいては お前を抱けん。 調略は 戦いの基本ぞ」

タムドクが妃へ背中を向けて ほら、と肩を揺すってみせる。
スジニはもじもじと後ろへ添って 王が絹衣を脱ぐのを手伝った。

まだ恥ずかしげな女の手が 寝間の衣を着せ掛ける。
絹に腕を通しながら タムドクはうつむいて小さく笑った。



「スジニ、本当に鹿狩りをしよう。 お前もまいれ」

陛下自ら 農民の為に害獣駆除ですか?  「・・・えぇお供します」 

「それが済んだら 出兵する」
「!」




白絹の背中が 沈黙した。

息を飲み込んだスジニの 震える視線を 背に受けながら
タムドクは 前を見据えていた。

「燕を 攻める」



呑まれる訳には いかぬのだ。 倭にも、燕にも、他のどの国にも。
妃へ語る風をしながら タムドクは 自分へ言い聞かせていた。

南を守れば 北が攻め入る。

朝貢を贈り どれほど友好を図っても 
力のある大国は 隙あらば こちらへ侵略の手を伸ばそうとする。

「高句麗を 呑まれぬ程に大きくするのだ」

大国を怖れぬ程の力を持って この地に 堂々と強い高句麗を成すのだ。
拡げた土地からは奪わずに 民が 共に歩める国にすれば良い。

まっすぐに立った王の頭が ほんのわずかだけ うつむいた。



「・・・お前は どう思う」

決して 他には聞かせない声で タムドクがスジニに問いかけた。
戦場では 万の軍勢を引き連れて 傲然と行く広い肩が 
今は 孤独に沈んでいた。



「・・・」

スジニが そっと腕を回した。

誰よりも戦を避ける人が 攻めることを決めたのだ。
少し丸まった愛しい背中を 妃は柔らかく抱きしめた。 


スジニに難しいことはわかりません。でも・・

「私 王様の民は 幸せだと思います」
「・・・・」
「王様の統べる地が広がれば 幸せな人が きっと増える」


いつか 国と国が争わずに済む方法を 
人は見つけられるのかもしれない。

「それまで王様は 自分の民を 守りぬく決心をしたのでしょう?」



スジニの柔い腕の中で タムドクがそっと振り向いた。
知略と深謀を謳われる王が 惑いの瞳を 揺らしていた。

「スジニ」

スジニの腕が滑りあがり 王の孤独を抱きしめる。
「私は 王様のもので幸せです」
「・・・・・」

本当か。 無骨な男の髭面が ふわりと綿毛のように揺れた。

-----



鹿狩りの日は 見事に晴れた。

常には甲冑の武者達も今日は狩衣に身を包んで ひと時の野に獲物を追った。


「あっちだよ! あっちあっち! しろ・しょうぐん!」
王太子の キンキンと高い歓声が響く。


アジクはこの日 念願の馬をもらった。

飴売りウヒョンが 太子の馬のくつわを取って傍に控えた。
太子の前を通る兵達は 笑いながら 閲兵の如く敬礼をして行った。


チュムチの率いるシウ族が 鹿の群れを追い立てた。

跳躍して逃げる一群れに 弓をつがえた騎馬が射掛ける。
スジニが疾風のように馬を駆って 野を行く姿は涼やかだった。



「スジニ! 戻れ!」

放たれた矢のように行く妃を 王の声が呼び止めた。
振り向くスジニが口いっぱいに笑う。 タムドクは 呆れて息を吐いた。

「師匠」
「あ? はいっ! はい陛下」


「確か私は 王ではなかったですか?」
もちろん。陛下は 世に名高いチュシンの太王でございますとも。
「ですが あの跳ねかえりの妃ときたら ちっとも王の言うことを聞きませんが?」

あ・・いや これは。 

しどろもどろの親代わりへ タムドクが悪戯そうに笑いかけた。

「灸でも据えれば 聞きますか?」
「陛下・・スジニに火は効きません」
ガキの時分なら 頬っぺたねじり上げてやりましたがね。


王と師匠が笑い合っている時 遠くで 派手な歓声が上がった。

見れば スジニを追い越したチョロが 大鹿を仕留めたところだった。

-----



今日の一番手柄は カンミ城主だな。

並べた獲物を前にして 男達が賑やかだった。

チョロの仕留めた大鹿は めったに見られない程の巨体だった。
この身体で 農作物を食われては さぞ被害も甚大だったろう。
「見事だった。これは民が喜ぼう。褒美でも出さねばなるまい」

陽気に笑うタムドクに 将軍達もうなずいた。
「どうだ? 何か欲しいものはないか?」


親しげに問いかける王に チョロが 静かな口を開いた。



・・・・瑠璃・・を・・・

「瑠璃を 一対 所望します」
控え目に答えるチョロの顔には 珍しいことに 心の揺れが見えた。
「瑠璃? 瑠璃の何だ。 一対・・の?」

怪訝な顔のタムドクが 思い出す様な顔になる。
瑠璃の宝物などあっただろうか。 高杯? それとも・・
「!」

突然 王は思い出す。
瑠璃の色をした一対の瞳。 涙と絶望をいっぱいにたたえた あの娘。



チョロが そっと上げた眼に 唖然とした王の姿が映った。
「カンミ城主」

「そなたは その 私より 少しく年上であった筈だが」
「・・・・」
「トヤでは 随分その 年下になるな・・」
・・・・・から・・


視線を逸らしたチョロは横顔のままで 言いにくそうにつぶやいた。

・・あれが・・・森に居たい・・と言うから・・



周りの者は口を開けて 不思議なものでも見るようだった。
どんな時にも落ち着き払っているカンミ城主が 淡く 頬を染めていた。


「・・・先に帰ります」

周囲の視線に耐え切れなくなって チョロが憤然と踵を返す。
銀交じりの髪がふわりと舞って まっすぐな背が去って行く。


歩き始めた青将軍に 慌てて 王が呼び掛けた。
「幸せにしてやれ」





すらりと端正な後姿が ほんの一瞬 歩をゆるめた。

そのまま チョロは振り向かず 自分の馬へと歩いて行った。


 ←読んだらクリックしてください。


このページのトップへ