Lusieta

 

ジムノペディーⅠ プロローグ

 

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四つん這いになってキョロキョロ頭を動かす姿は、

腹ぺこな犬のようで、おかしい。

自分で気づいていないと思うけど、

ノッコはもともと、身のこなしが犬っぽい。




「あぁ~ん、ないよ~!

もう・・・・なんであんなこと言っちゃったんだろ。

もういいや。アズミ、ごめん。こんなことに付き合わせて。」



「せっかくだからもうちょっと頑張ってみようよ。

まだ20分くらいしか探してないじゃない。」



「20分なんて充分でしょ。1時間探したけどなかったって言うよ。」



「じゃあほんとに1時間探そうよ。

見つかるかもしれないじゃん。その子、楽しみにしてるんでしょ。」



「う~ん・・・・

はぁ。あんな約束するんじゃなかった。」



「家庭教師も楽じゃないねぇ。」



「うん、小学生はむずかしいんだよ。

中学とか高校の子なら、

こんなにあれこれモノで釣ったりしなくていいんだけどさぁ~、

勉強する気がまったくない子だから、ついつい・・・」



「『これ頑張ったら、四つ葉のクローバーとってきてあげるから~』

とかなんとか言ったの?」



「まったくそのとおり。

ホンモノ見たことないって言うんだもん。」



「んじゃ、見せてやろうじゃないの!

ほれ、もうひとがんばりじゃ。」



「はぁ~・・・・

がんばります・・・・」



それから40分ほどたった頃。

ちょうど1時間探して、約束どおり四つ葉のクローバーは見つかった。

見つけたのはノッコだった。

よかった、彼女で。




ノッコはそのクローバーを大事そうにそっとティッシュに挟み、

それをまた分厚い画集に挟んだ。  
   


そして二人とも、緑の絨毯の上に仰向けになった。




春休みのキャンパスは、人口密度がどーんと低下して、

どこもかしこもすいすいスムーズで、風通しがよくていい気持。

ほんと、いつもの混雑がうそみたいだ。



もともと超穴場のこの場所は、芸術系学科だけの裏庭のようなもの。

普段でも人があまり来ないが、春休みとなると、私たち独占の原っぱ状態だ。




発達心理学科なんて、いわばよそ者の私だけど、

ノッコのおかげで大きな顔してここに来ちゃう。

彼女は美術科で彫塑をやってる。



「はぁ~~~。疲れたぁ~~。」


「やったね、ノッコ。」


「アズミのおかげだよ。ありがとね。お礼しなきゃ。」


「おぅ!明日のお昼、ささみフライランチね。」


「なんで高いの言うんだよ。」


「んじゃあ、天ぷらうどん&かやくご飯&ポテトサラダでもいいぜ。」


「もう・・・その炭水化物好き、どうにかしなさいよね。

わかったよ。ささみフライランチで。

単品をいくつか合わせたほうが高くなるもんね。」


「ケチくさ・・・学食でそういうこと言うなよな。」


「わかった、わかった。なんでも言って。

こないだ作ってくれたキムチ鍋、おいしかったしね。」



「・・・・・」


「ん?・・・アズミ?・・・」




私は緑の絨毯からガバッと体を起こしたまま、

完全に固まっていたに違いない。



そして・・・・・全身が耳になっていたに違いない。




     だって・・・・・

     いきなり聞こえてきたんだ。

     あの曲が・・・

     
     ジムノペディー。

     それはただその曲だってことじゃなくて、


     ママのピアノだった。

     ママのジムノペディーだったんだから・・・・






走り出していた。

聞こえたのは、たぶんただひとつ開いていた二階の練習室の窓からだ。

階段を駆け上がって長い廊下を行く。

ここを通るといつも、独房が並んでいるようだと思う。

分厚くて重いドア、蝶番が壊れたものもあり、

30年は優にたっている古い設備は、防音と言っても音が漏れ放題だ。



40の練習室を抱えて、

芸術系学科棟から突堤のように出っ張っている建物。



もちろんピアノだけじゃない。

コントラバスを持ち込んでるオケのメンバーもいれば

アフリカ生まれのよく知らない打楽器を

ボンボコボンボコ叩いてる人もいる。

繊細な金管の音色も漏れてくる。


朝から晩までいろんな音が入り交じる。

雑多なミックスなのに、なぜか邪魔にならない。

遠い所から聞こえてくるようなこもった音たちが出会い、遠慮がちに混じり合って、

たぷたぷとした水面で、同じに揺れて浮かんでいる・・・・

いつもそんなイメージを抱く。



この廊下を歩くのが好きだった。
  
ただ歩くだけ。

一度もその小さな部屋に足を踏み入れることはなかったけど。

一度も、その部屋たちの主であるピアノに、

指を触れることはなかったけど。



自分の日常から、この長い廊下を通って違う世界にワープするような

そんな感じ。

ここが、あっちとこっちの境目だった。



同じ教育学部のなかにあって、

そこだけが独特で、どこか異端の匂いが漂う空間だった。

大学の敷地の一番端にある芸術系学科。

人が醸し出す空気も時間の流れも違っていた。

そしていつか、私の大切な場所になっていた。






   
     どこだった?

     確かこの辺り・・・・

     はめ込まれたガラス部分を覗いていく。

     あ・・・・

     窓が開いてる部屋があった。


     そこには、意外にも白衣を着た大柄な男性がいた。

     小さな窓から入り込む西日に照らされて、その人がいた。

     逆光で、輪郭しかわからない。

     でもだからこそ、その横顔の美しさは強烈で・・・・

     私は一瞬息を呑んだ。



     でもそれはほんとに一瞬だった。

     もっと大事なことがある。

     ママの・・・・



     ママのジムノペディー。



     一拍めをやたら間延びさせた、ちょっとだらしないような弾き方。

     幼い私を早く眠らせることだけを目的にしていたはず。

     催眠術をかける魔女のような弾き方。

     「サティーを冒涜している!」と誰かに怒鳴られそうな、

     今聴くと、もったいぶっててむかつくアレンジだ。



     でも、私はこれですぐに眠った。

     そしていつもこの弾き方を要求した。

     「ママのジムノン弾いてよ。」って。

     3才の私も、5才の私も、7才の私も、きっとそう言った。

     


 
     
ノックもせずに、いきなりドアを開けるなんて、

やっぱり私、かなり動揺していたんだな。



その人は、長い指を鍵盤の上に置いたまま、

さして驚いたふうでもなく、首をゆっくりと回して私を見た。



ひと目で感じた。

あぁ、私はこの人を知っている。



誰だかわからないけど、

たぶん、ずっと前から、私は知っている。

この、すこし目尻の下がったまぶしそうなまなざしを。






いきなり、「あなたは誰ですか?」と訊きそうになって、

ごくんと唾を飲み込んだ。

その人は、ただそのまま動かずに、座ったまま私を見あげている。



落ち着こう。




「私の名前は、高梨アズミです。

あなたは今、ジムノペディーを弾いていましたか?

そして、私を知っていますか?」


私がそう言い終えたら、その人はゆっくり立ち上がった。

私まで届いていた西日が大きな体に遮られて、目の前が暗くなった。

逆光の中で、今度は私を見下ろして微笑んでいる。

     

     
     きれいな人・・・・


     超美形ってわけじゃない。

     なのに、今こうして立っている、その姿全部がきれいな人だ。

     こんな人のこと、なんで私は知ってるって思うんだろう。

     この人、誰なんだろう。

     そして・・・なんでママのジムノンを・・・・





その人が、静かに口を開いた。

なんでだか知らないけど、予想通りの声だった。

深くて、低くて、すこし湿ったような声。

この声も、とてもよく知っていた。

「大好きだ」

そう思った。



     え? なんで?・・・




「はい、ジムノペディーを弾いていました。

そして、君を知っています。

アズ、大きくなった。

君のお母さんに・・・

とても、似ている。」





“アズ”と呼ばれて、体がビクンと反応した。




「あなたは・・・・

誰ですか?」




     私を“アズ”と呼ぶ

     あなたは誰?

     私を“アズ”と呼んだのは

     ママと・・・・

     それから・・・





「ちゅうにいちゃん・・・・ですか?」

するりと口から勝手に言葉がこぼれた。




     誰? 

     そんな人、知らないのに。




その人が、なんともいえない顔をした。

嬉しいような、悲しいような、

溢れる何かを、すんでのところで押さえるような・・・・

私をじっと見つめたまま。



そして、静かに一呼吸した。





「そうです。覚えていてくれたのか。

アズ・・・・

おめでとう。

さっきのは、誕生日プレゼントのつもり。」




「へっ?・・・

あ・・・誕生日?!・・・そうだった・・・」




そうだった。

私は、今日3月31日に、

やっとハタチになったんだった。

いつものように同級生たちのしんがりを務めて。



自分の誕生日、大学に入ってから2度とも忘れていた。

去年は・・・

まどかさんがいてくれたから、

その日のちょうど0時にパンパカパ~~ン!!ってケーキを出してきてくれた。

いつもどおりに。



まどかさんがいないと、とうとう完全に忘れちゃうのか、私。




だけど・・・この人が覚えていた。

“ちゅうにいちゃん”としか記憶に残っていないこの人が、

私の誕生日を知っていた。




そして、ママと私とまどかさん以外誰も知らないはずの、

特別な特別なジムノペディーを弾いてくれてしまった。





誰なんだろ・・・

この人。


なんなんだろ・・・・

“ちゅうにいちゃん”だなんて。



そして・・・

なんで私、泣いてるんだろう。



口をポカンと開けたまま盛大に涙してる私は

二歩近づいたその人の、大きな胸に抱きとめられた。



「まどかさん、お嫁にいっちゃったんだね。」

「うん。」

「寂しかった?」

「うん。」

     うん、うん、寂しくて、寂しくて・・・・

     寂しかったよ、ちゅーにいちゃん。



「アズ。ハタチだね。」

「うん。」


誰なのかと訊かれたら、自分ではまったく説明できない人の胸で

子どもみたいに泣いていた。



誰だか説明できないのに、

こんなにも懐かしくて恋しい気持ちになるその人と

不思議な不思議な再会を果たした

私、高梨アズミのハタチの誕生日だった。

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