Lusieta

 

ジムノペディーⅠ 第6章

 

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その人の言うとおり、荷物はほんの少しだった。



「これだけあれば十分だ。

あとは部屋にあるからな。」



ぜんぶ二階の廊下に運び上げて、その人がポケットから鍵を取り出した。



「アズが11年ぶりに入る僕の部屋だ。」



     ずっと知らないままでいた隣の部屋。

     いや、忘れていた部屋だ。



大きな手が、ゆっくりノブを回して扉を開けた。

二人とも、入り口に立ったまま中を見た。



「覚えてるか?」


「・・・はい・・・

知ってるような・・・・

気がします。

でも、よくわからない。」




締め切ったカーテンのせいで部屋はほの暗かった。

その中に、ぼわっと浮かび上がる白い物。

勝手に足が動いて、

なぜか吸い寄せられるように

私はまっすぐその天体望遠鏡をめざしていた。



そっと触れてなでてみる。

冷たくてなめらかだ。

こうしていつも触ってたんだろうか。



その人がカーテンを開けて、明るい午後の光が射しこんだ。


その途端、

セピア色の古い写真のようだった部屋に時間が戻った。



壁に立てかけたマウンテンバイク、

シューズと一緒に飾られたサッカーボール、

本棚の画集、小説、専門書・・・・



この部屋の全部が、今を呼吸し始めた。




この気持ち・・・

うまく言えない。

部屋の景色への懐かしいような感じも、

空気感のデジャヴも、

胸がぐっと詰まるような息苦しさの中にある。


でも、これだけはわかる。

感じる。

9才の私はこの部屋が大好きだったってこと。





望遠鏡の白いボディーが光を浴びて、

さっきから私を誘う。



でも位置がずいぶん低い。




後ろからその人が、静かに言った。


「9才のアズの身長に合わせて、

ずっとそのままだ。」





「こんなに、小さかった?・・・・」


「アズは1年から3年までずっと、

前から2番目だったからな。

ほんとに小さかった。」


「・・・・・・」



そんなことまで覚えてるの?


思わず振り返ると、

バチッと目が合ってうろたえた。





「アズ・・・」


「はい。」


「今夜、星見るか。」


「・・・はい。」



窓の外を見たままそう言った。


その人は、まだ私を見ているだろうか。




「ちゃんと・・・・見えるかな。」


「あぁ。

このまま晴れてるさ。

きっと、見える。」




    




     ーーーーーーー








片づけるその人のそばで、ぞうきんがけをした。



もう自分で自分の気持ちを認めるしかなかった。

嬉しい・・・

嬉しくてたまらない。




しおれていた庭の花が、

にわか雨のあとに息を吹き返して立ち上がるような・・・・

モノクロだった壁の絵に、

光が射してフルカラーになるような・・・




そんな胸がざわざわするようなうれしさを

気づかれたくなくて焦る。


だから、やたらせっせと立ち働いた。






桜八分咲きの春の午後。

ぞうきん洗いの水は、まだ少し冷たかった。








「アズ、腹減らないか?」


「ちょっと。」


「そうだろ。僕もだ。

こういう時は引っ越しそばだな。」


「権兵衛?」


「そのとおり!」


顔を見合わせて笑った。

こんなことがとてもうれしい。




権兵衛に出前の電話をかけようと、

二人階段を下りてきた時、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。








    ーーーーーーー








背が高くて、モデルみたいにきれいな人だった。

たまにいるんだ、こういう人。

“この人も私と同じ人間のはずだよな”って言いたくなるような

バランスが完璧な美しい人。

女優かモデルでもしなきゃもったいなすぎる・・・・

そんな気持ちにさせる人。




ぼーっと見てると、その人が言った。



「サナ・・・」





「ジュオン・・・」


「どうしたんだ。こんなところまで。

どうしてここがわかった・・・」


「ここがジュオンのうち?

そしてこの子がアズミちゃん?」




     まどかさん。

     冷静でいたいよ、私。





「サナ、一人で来たのか。

おじさんやおばさんは知ってるのか。」


「へぇ~、かわいい子ね。

小さい時からジュオンのお嫁さんになるってわめいてたんだってね。

もっとおバカっぽい女の子かと思ってたわ。」


「サナ!!」


「でもダメよ。

ジュオンは私のところに帰ってくるんだから。」




     でも、まどかさん。

     これってもしかして、

     絵に描いたような、そう、漫画チックな展開?

     つまり・・・これがこうして、あれがああして・・・・


     まどかさん、こんなはずじゃなかったでしょ。






「サナ! 

サナ、外で話をしよう。

アズ、ちょっと待っててくれ。」


「ふぅ~ん、あなた、アズって呼ばれてるの?

ねぇ、知ってる?

ジュオンはあなたへの罪滅ぼしのために、

せっかくの助教授の話を蹴って、ただの助手として日本に・・・」


「サナ!」






     なに?それ


     ツミホロボシ・・・

     ジョキョウジュ・・・

     タダノジョシュ・・・





「サナ、これから僕とアズには大事なことが待ってる。

アズは今がとても大事な時なんだ。

僕たちをそっとしておいてくれないか。

おじさんとおばさんには、ちゃんと話してわかってもらっている。

君にも何度も話しただろ。」



「“僕たち”だって。

“僕たち”・・・・ふふ・・・すっごく真剣ね。

まるで恋が始まるみたいじゃない。

私たちの時みたいに。」



「サナ・・・外で話をしよう。

アズ、待っててくれ。」

     

その人がぐっと彼女の肩をつかんで外に出ようとしたけど、

彼女はその腕をつかんで


「今度また抱きしめてキスしてくれる時までとっといて。」


なんて言って、そっと下ろしたかと思うと、

廊下で突っ立ってる私の正面20㎝まで顔を近づけた。



「ジュオンはね、むか~し昔にあなたに

とってもいけないことをしちゃったから、

もう会わないでっておばあさまに言われたんだって。

それって何なの?

知ってる?ねぇ・・・」




     トッテモイケナイコト・・・・




「サナ!やめろ!!

お前、何言ってるんだ!」



     その人がまた彼女の肩をつかんで引き離し、

     そのまま苦しそうにうつむいて言った。



「サナ・・・・

頼む・・・

頼む・・・」



     静かな声だった。

     心から願う・・・そんな声だった。


     彼女の顔が歪んだ。


    


「ここで待っててくれ。」



     その人が彼女にそう言って、

     今度は私を振り返った。

    

     こんなにドタバタの、慌てふためく展開なのに、

     その人が、こんなに苦しそうなのに、

     でもなぜか静かで・・・

     声も、動きも、切実さも・・・

     静かなんだ。



     そして私は、

     たぶん彼女も、

     彼の願いに応えて動いてしまう。、

         


     
「アズ、二階へ行こう。」



     私の手を握り、階段を上がろうとするその人。

     私は引っ張られるままに交互に足を出して・・・・





     トッテモイケナイコト・・・・

         トッテモイケナイコト・・・・・

             トッテモイケナイコト・・・・・





     いや、ちがう・・・・

           ちがうよ・・・・



     その腕をそっと解いて階段を下りた



「アズ・・・・」




彼女に向き直った。




「私はなにも覚えていません。

でも知っていることはあります。

それは、

その時この人が、ちゃんと私にほんとのことを

言おうとしたことです。

でも、祖母がとめたそうです。

それは、私がまだ小さくて

受け止められないと思ったから。」




     その人を見た。

     彼は眉間にかすかなシワをよせ、

     息を呑んで私をみつめてる。



     彼女は・・・・

     ぽかんと私を見ていた。




「私はおとといハタチになりました。

ちゃんと聞こうと思っています。

ほんとのことを。

それが・・・・

トッテモイケナイコトでも。


でも、それはきっと

あなたには関係のないことです。」




3人の間に、ほんのしばらくの沈黙が流れた。

ポカンとしていた彼女の顔が歪んで、「ふっ・・・」と笑った。




「ふふ・・・あはは・・・

あなた、思ったよりずいぶんしっかりしてるのね。

ハタチって、そんなことが言えるんだ。

あなたの言うとおりね。私には関係ない。

ジュオンが昔あなたにどんなことをして、

あなたが何を思い出せないかなんて、

全然関係ない。

いやなヤツでごめんね。

もっとストレートに言わないとね。

そうよ、関係ない。

でも関係あるの。

私はジュオンが好きだから。」



「・・・・・」



「サナ・・・」



「ねぇ、ほんの少しでいいわ。

ちゃんと話がしたい。」




その人がまた静かに言った。

「そうだな。そうしよう。」




「あなたの部屋に行きましょう。」


「ダメ!!・・・・」



     あ・・・私、何言ってる・・・



「え?・・・」


「アズ?・・・」


「あ・・・・いえ・・・

なんでもないです。」


「サナ、外に出よう。

アズ、待っててくれ。

すぐに帰ってくる。」   


「いえ、ゆっくりどうぞ。ちゃんと話してください。

私はこれから用事があるので出かけなきゃいけないんです。

ちょうどよかった。」



「アズ、何言ってる。

すぐに帰ってくるから。」



「まあ、ありがとう。

それじゃあゆっくり話させてもらうわ。」










作業で汚れたジーンズを脱いで、

これ見よがしな春らしいスカートをはいた。

ほんと、何やってるんだ、私。



バッグをつかんで部屋を出ると、

その人がいた。



「アズ、行くな。

サナとはほんとに何もないんだ。

ちゃんと説明するからここで待っててくれ。

外で話してくるから。」




     その目を見ればわかるのに、

     その人の言葉にうそがないこと。

     だけど、素直になれない。




「ちゃんと話してきてください。

私のことは気にしないで。

ほんとに用事を思い出したんです。」



「うそだろ。

用事なんてないんだろ。

ちゃんと話すから・・・」



「なんで決めるの?

ほんとに行くところがあるの。

今日は帰らないかもしれませんから。」



「ダメだ!行くな。

行くな、アズ。

今日、僕と君はちゃんと話をするんだから。

たくさん話して、

そしてここで・・・・

君はこの部屋で眠って、僕は隣の部屋で眠る。

そして、明日もいろいろなことを話して、

また夜になってここで眠るんだ。」


「・・・・・・・」


「な、そうしよう。

だからここで待っててくれ。」





大きな手に両肩をがっちりつかまれていた。

その人の目がまっすぐに私を見ていた。




     まどかさん、

     私、この人を信じるって決めたんだったね。

     でも・・・・

     苦しいんだよ。
     





見つめ合う時間を断ち切る声がした。


「もぉ~~、ジュオ~~ン、早くして!」





ゆるんでほどけかけていた糸が

またピンと引っ張られてもつれてしまう。




「あなたのシナリオどおりにしなくてごめんなさい。」




     こんなセリフがこぼれるなんて・・・




その人の胸を押し返しながら、

自分の気持ちも引き剥がした。


きっと今、その人の腕は

おとといの練習室の時と同じに、

宙に浮いてしまっただろう。



     ごめん・・・





階段を降り、

彼女の横をすり抜けて外に出た。









行くところは、

ひとつしか思いつかなかった。

携帯で「今から行っていい?」とそれだけ言った。

すこしの間があいて、

「いいよ!」とノッコが言った。







もう夜になるんだな。


駅までの道に桜が続く。

広がる薄闇の中に、あわいピンクが溶け出して、

昼間とは微妙に違うあでやかさの中を歩く。




短い命を懸命に咲く、いつわりのない花びらの下にいて、

自分の心にうそをつく私。

桜たちに責められながら、

泣きそうな顔でとぼとぼ歩くんだ。







     まどかさん、


     信じるって決めたのに、

     拒んだりするつもりなんてなかったのに。


     あの女の人だって、

     深い恋人とか、そんなんじゃないことくらい

     私にだってわかる。

     なのに、なんで冷静でいられないんだろ。




     あの部屋に、あの女の人が入るのはイヤだ。

     あの部屋で、二人きりになってほしくない。



     なのに・・・・

     私の方から飛び出してしまった。
 



     トッテモイケナイコト


     ツミホロボシ

     ジョキョウジュ

     タダノジョシュ




     トッテモイケナイコト・・・・

     



     まどかさん、

     教えて。


     あの人は、私に何をしたの?

     どんなイケナイことをしたの?



     あの人は・・・・


     いろいろなことを諦めてここに来た?

     いろいろなつながりを断ち切って?



     私のために・・・

        トッテモイケナイコトの

              ツミホロボシで・・・・

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