Lusieta

 

ジムノペディーⅠ 第10章

 

gym1_title.jpg




その人が・・・


呆然と立つ私の指を開いて錠剤を取り出し、

ゴミ箱に捨てた。


肩をつかんでダイニングのイスに座らせ、

コップを拾った。


ペーパータオルをくるくる巻き取って、

床にこぼれた水を拭いた。





私は・・・


放心したように

ただその人の動きを目で追っていた。





私はさっきから・・・

その人に目覚めてほしくて、気づいてほしくて、


わざとドンドンと床を踏みならして歩いたかもしれない。

引き出しの開け閉めを乱暴にして音をたてたかも。

必要以上に水の勢いを強くして手を洗った。

冷蔵庫をしばらく開けたままぼーっとして時間を稼いだ。




目覚めてほしくて・・・・

気づいてほしくて・・・・



ほんと、子どもみたいなアピールだ。




     ちゃんと気づいてくれたことが、
 
     間に合ってくれたことが、

     こんなにうれしいなんて・・・・

     やっぱりほんとに9才のままだ。






その人がイスをくっつけてきて

私の顔をのぞき込んだ。



「なんで僕を起こさない。」


「・・・・・」



髪が少しくしゃくしゃで、

寝る前よりうんと若く見えた。

ささやくように、その人が言った。



「アズは、どうしたかった?」




     私は・・・・


     どうしたかった?・・・




「・・・・疲れたから」


「うん。」


「夢を見ないで眠りたかった。」


「でも、眠れなかった?」


「うん。」


「そうか。」



またさっきみたいに抱き寄せられて、

胸にもたれて目を閉じる。



     はじめから、

     こんなふうにしてほしかったんだな、私。
    
  
  

「どうしたら眠れるかな。」




     もう隠せない。

     ほんとの言葉がこぼれていく。




「ちゅうにいちゃんといっしょなら眠れる。」


「・・・・・そうか。」


「・・・・・・」


「わかった。じゃあ、ずっと見ててやるからな。

さっきもそのつもりだったのに、

寝ちゃったんだ。すまん。

今度はもう寝ない。」


「違うよ。」


「ん?・・・・」


「一緒に寝てほしい。」


「・・・・え?・・」


「前みたいに。

枕持ってくから、一緒に・・・・」




私を抱き寄せた腕はそのままで、

その人の目は宙を見ている。



「思い出したのか。」


「うん。」



「そうか。

苦しくないか。」



「だいじょうぶ。」



「わかった。

いっしょに寝よう。」



「・・・・」




     ほんとにいいの?




その人が笑顔で言った。

「よし、そこの枕持ってこいよ。」








     ーーーーーーーーー








「二人だと、ちょっと狭いな。」


「うん。」


「昔はこんなじゃなかったのにな。

アズがでかくなるからだぞ。」


「ふふ・・・ごめん・・・」


「ふふ・・・・」





一つの毛布にくるまって、

今一緒に眠ろうとしてる私たち。



その人は、なんのためらいもなく、

私をギュッと胸に抱く。


私はその大きな胸に

鼻をこすりつけるようにしてくっついている。


9才の私も、きっとそうしていたんだろう。





「明日、花のタネ買いに行こうか。」


「庭に?」


「うん。テラスの東側の花壇。」


「あ・・・あそこ、アマリリスの球根が植わってるよ。」


「え? そうなのか。

アズが植えた?」


「うん。」


「いつ?」


「えっとね、ちょっと前。

3月の真ん中くらい。」


「そうか。アズはやっぱりエライな。」


「エッヘン!」


「ふふ・・・」


「じゃあ明日は草むしりだ。

アズは花は植えるけど、

草むしりはしないみたいだからな・・・・」


「あ・・・はい、わかりました。」


「ふふ・・・」


「星、見なかったね。」


「あぁ。そうだな。

明日見よう。」


「明日は雨だよ。」


「そうか。じゃああさってだ。

その次もその次も、ずっと僕はここにいる。」


その人がまた私の頭を抱え込むように抱く。






     急に眠くなる・・・






「・・・・で、明日の昼は、

    今度こそ権兵衛の・・・」





     眠くて・・・・







     “ちゅうにいちゃんてば、

      なんでそんなふうに

      いつもアズの髪をくしゃくしゃいじるの?”

      
     “お・・痛いか?”


     “ううん、ぜんぜん・・・”


     “サルの毛づくろいみたいなもんだな。”


     “ひどーい! アズはサルじゃない!”


     “あはは・・・・”






     もう怖くない。



     眠っても・・・

     起きてても・・・



     どっちも怖くない。     











    ーーーーーーーー









目覚めると、やっぱりその人はいなかった。



思い出していた。

その人のベッドに潜り込んで眠った朝、

私が起きたときに、いつも彼はいなかった。

サッカーの朝練だったり、大学の1限の授業だったり。




彼にその話をしようと、ちょっとわくわくしながら、

でもいなかったらどうしようって、ちょっとドキドキしながら

リビングに降りた。



その人がいた。



     あぁーよかった。




その人がどこにも行かないでここにいる。

それだけで、こんなにうれしいんだな。


私はどうかしてしまった。

9才の、心もとない小さな存在に戻ってしまったみたいに。

四六時中彼をさがして、みつけては安堵する・・・






でも、彼もおかしい。


キッチンで、変になってる。





シンクで、水をたくさん出しながら考え込んでる。

っていうか、ジャージャー流れる水をみつめたまま

心ここにあらずの状態みたいだ。

ボウルの中で、プチトマトがくるくる回ってる。



私が近づいても気づかない。



わざと大きな声で言ってみる。



「おはようございます!」



その人の体がビクッと揺れた。



「おぉーアズ!

びっくりさせるなよ。

今日はただのトーストとコーヒーとヨーグルトと・・・」



「何か、考えごと?」


「え?」


「なにか、ぼーっと考えてた。」


「あ・・・そうか?」


「私のこと?」


「いや・・・・」



口ごもるなんて、その人らしくなかった。



「なに?・・・」


「いや・・・」


「言って。」


「・・・・」


「なに?」



訊かれたくない?



「アズ・・・」


「はい・・・」


「カウンセリング、受けてみようか。」


「え?・・・」


「ちゃんと専門家のところに行ったほうが

いいのかもしれない。」


「・・・・・」



     カウンセリング・・・


     専門家・・・




     私・・・


     やっぱり?





「アズ・・・」


「迷惑ですか?」


「え?」


「私はあなたの手に負えない?」


「アズ・・・・」


「一緒に寝てなんて言ったから?・・・

そうだよね。迷惑だよね。

もうハタチなのに。」


「何言ってるんだ。

アズ、違うよ・・・・」



「行きます。病院に行く。

おかしいですよね。

あぶないよね、私。

ごめんなさい、迷惑かけて・・・

私、やっぱり病気ですよね。」



「ちょっと待て。

何言ってるんだ。

ちゃんと説明するから。」





     そうだよね・・・

     
     私は9才じゃない。


     20才だ。
     




     自慢じゃないけど、

     ハタチにもなるのに、

     私は男の子とキスのひとつもしたことがない。



     まどかさんに、国宝級だって言われてる。



     それなのに、いくらおむつを替えてくれたといっても、

     記憶がないかぎり初対面の30才の男の人と

     あんなにくっついて眠るなんてね・・・・




     やっぱりおかしいんだね。


     きっと、私はすごくおかしいんだ・・・・

     あの人は、きっとすごく困ったんだ。




     病院に行かなきゃの子なんだ、私・・・




     早く言ってくれてよかった。

     病院なら、

     ちゃんと薬を飲みなさいって言ってくれて、

     私は大きな顔をして毎晩飲める。





     病院、どこにだって行くよ。

     連れてって。

     いや、自分で行く。





「アズ・・・・」


「・・・・・・」



     
     そんなにせっぱ詰まった顔しないで・・・

     こっちが苦しくなっちゃうよ。

     そんなに見つめないで・・・


     
     見つめないで・・・






「アズ・・・・」


「・・・・・・」




     会わなきゃよかったかな。

     
     会わなかったら、

     こんなにいろんなこと思い出したりしなかった。


     こんなに苦しくなんかならなかった。



     いいじゃん!

     部屋を明るくして、テレビつけて、

     ピアノの下で寝たっていいじゃん!




     そうだよ・・・

     会いたくなかった。

     あなたなんかに・・・・


     ただ平和でいたかった。



     あなたのせい?

         

     わかってる。あなたのせいじゃない。

     きっと弱くてダメな私のせいだね。

     こんなに私が弱くてダメだから、

     まどかさんが一人にしておけないなんて思ったんだ。


     だからあなたが来ちゃった。

     大事なジョキョウジュのイス蹴って。

     タダノジョシュになっちゃった。

     きっと全部私がいけない。



     弱くてダメな私がいけないんだ。

     あなたの人生もダメにしちゃうよ。



     もうほっておいて。

     自分で病院行くから。



     私はあなたなんていなくても、

     強くならなきゃなんだから。



     強く・・・なるんだから・・・・




「大丈夫か。

悪かった。急にこんな話。

座ろう。顔が真っ白だ。」




     こっちに来ないで・・・・




「私は、大丈夫です。」



まるでにらみ合いみたいだ。

その人が近づいてきて、

なぜか私は、後ずさりする。




     来ないで・・・




「私は大丈夫です。

一人で、病院に行けます。」



「アズ、だから違うんだ。

そういうことじゃない。

行くのは病院じゃない。

ちゃんと僕の話を聞いてくれ。」





     来ないでよ・・・・






     “だれ?  だれですか?

      まどかさーん!

      知らないおにいちゃんがいるよー!!”



     “アズ! どうしたんだ。

      僕じゃないか。”



     “だれですか?

      なんでアズのおうちにいるの? 

      来ないでよ。”



     “アズ、ちゃんと僕を見て。

      ほら・・・わかるだろ? 僕だろ?”



     “知らない、知らない、知らない!

      こっちにこないで。

      あっちいってよ!!  

      まどかさん  まどかさーーん!”

      



        目の前にすーっと靄がかかって

             意識が遠のいていった。













    ーーーーーーーーーーーー










ソファに寝かされていた。

毛布にくるまる私の目の前に、

ラグに座ってじっと動かないその人がいた。



膝を立て、その膝の上に無造作に腕をのせて・・・

うつむいていた。

足の長さが際だつポーズだなぁなんて、

こんな時に思ってしまう。




自分がなんでこんなふうになってるのか

思い出すのにしばらくかかった。





私はこの人に多分すごくひどいことをした。


こんなに悲しい顔になるようなこと

言いまくってしまった。


ぼんやりしてて、よく思い出せないけど、 
    
でもわかる。

とてもひどいことをした。

 


     あぁ・・・


     ひどいよね。



     
もっと早くから病院に行って、

ちゃんと治せばよかったのかもしれない。
     

  
そしたらあのモヤモヤとした

得体のしれない記憶の断片と

つきあうこともなかったのかもしれない。



急にまどかさんがうらめしくなる。

私のこと、ずっとなんにも手だてをしないで、

今になって彼に丸投げしたんだ。



まどかさんが嫌う言葉

“もし・・・・だったら・・・”

“あの時こうしていれば・・・・・”

を、彼女に向かって山ほど言ってしまいたい気分だ。





     頭が痛い。




そうだ・・・

病院のことだけじゃなくて、

私、この人をひどく拒絶するようなこと、

言ったかもしれない。


思い出そうとすると、

頭が痛くて・・・・




     何を言った?


     何をした?





     もう、最悪だ・・・・






気配を感じたのか、

顔を上げたその人と目が合った。




「あ、アズ・・・」


「・・・・」


「気分、どうだ。」


「少し、頭が痛いです。」


大きな手が、そっと額に触れる。



「アズ、すまん。あんなこと言って。

もう言わない。

どこにも行かずに二人で思い出していこう。」



「・・・・」



「な、アズ。」



「私はあなたの負担になりたくないです。」



「そうじゃなくて・・・・

わかった。ちゃんと順番に話すよ。」



「・・・・」



「僕は、アズが僕のことを忘れてしまってから、

たくさんの本を読んだ。

心理学や、記憶喪失の関連や、カウンセリングの本も。

そして、この10年のあいだに頭のなかでシミュレーションし続けてきたんだ。

アズといっしょに過去に向き合うその時のことを。

でも、昨日アズが動揺するのを見て、僕自身も動揺してることを感じた。

そのことに、少しだけ迷いが生まれたんだ。

アズが乗り越えようとする過程で、

僕も僕自身の体験を乗り越えなくちゃいけない。

当事者同士のふたりだけでその作業をしていいのか、

ちょっと迷ってしまったんだ。」



「だから病院?」



「アズ、病院じゃない。

最初から病院に行く気はなかった。

僕はカウンセリングって言ったんだ。

専門家の存在があったほうがいいんじゃないかと。

それで、二人でカウンセリングを受けたらどうかと考えた。」



「・・・・」



「でもな、アズの目が覚めるまでいろいろ考えたんだ。

僕はやっぱり二人で向き合ってこの作業をしていきたい。

専門家の所へ行くのも一つの有効な方法だと思う。

それはわかってるし、この先まったくその方法をとらないとも思ってない。

でも、これからたどっていく過去の出来事は、

一つ一つをアズと二人で確かめていきたい。この家で。

あんなことを言って、辛い気持ちにさせて、

ほんとに悪かった。

ごめん。

あらためて言うよ。

アズ、

僕はそうしたい。

二人ならできると思う。

いっしょに、僕たちの過去と向き合おう。」




「・・・・」




とてもホッとした。

この人と二人だけでいられる。




「いくら時間がかかってもかまわないさ。

ゆっくり焦らずにいこう。

なっ・・・アズ。」




「アズ?」





「・・・・はい、

私も・・・そうしたい。」




お互いの目の中の決意を

確かめ合っていた。



うれしかった。



なのに・・・

なんなんだろう。




私自身が彼を激しく拒絶したという、そのリアルな実感が

胸にかかった靄を、そこに足止めさせていた。




彼をとても傷つけた・・・



それだけがわかっていて、

なにをしたのかわからなかった。

 ←読んだらクリックしてください。
このページのトップへ