Lusieta

 

ジムノペディーⅠ 第12章

 

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夕方から雲行きがあやしくなり、

夕食の片づけをしたころには本降りになっていた。




「雨が降る前に草むしりも寄せ植えも全部できてよかったね。」



「あぁ。よかった。」


「今日は星、無理だね。」


「あぁ。そうだな。」


「明日はどうかなぁ。」


「あぁ。」


「晴れるかなぁ。」


「あぁ。」


「ぐふふ・・・」


「ん?・・・」


「緊張してる?」


「あ・・・」


「そう?」


「緊張してるさ。悪いか。」


「楽しくって言ったのはあなたです。」


「はい、わかってます。」


「大丈夫?」


「大丈夫さ。」


「うん。」


「アズ、始めるか。」


「はい!

でも、その前にココアを作りましょう。」


「アズが?」


「私が作っちゃダメ?」


「いや、そんなことない・・・・」


「じゃあ、待っててね。」




その人が、なんとも言えない顔になってびっくりした。

泣きそうな、嬉しそうな・・・・

そう、練習室で会った時、「ポトフ」で向かい合ったとき、

その時と同じの。




「なに?」



「高校の時、サッカーで足を骨折したんだ。

アズは小学校1年生か2年生くらいだったと思う。

僕は大事な試合に出られなくなって、

すごく落ち込んでたんだ。

その時アズは、僕をなんとか励まそうとして

いろんなことをしてくれた。

こんなふうに言って、ココアを作ってくれた。

ほんとにこんなふうに・・・

“アズが作っちゃダメ?”って訊いた。

僕が“そんなことない”って言ったら、

“じゃあ待っててね”って言った。」




「・・・・」





泣きそうになる。




「絵本も読んでくれた。」



「絵本?」




「あぁ。

『ぐりとぐら』とか『14匹のねずみ』のシリーズとか、

『ぐるんぱのようちえん』

『めっきらもっきらどおんどん』・・・」




     あ・・・




「『はじめてのおつかい』『かばくん』は?」


「そうだ。」


「『もりのなか』『百万回生きた猫』・・・」


「『こんとあき』『ばばばあちゃん』」


「『すーちゃんとねこ』えっとぉ~『こぶたはなこさんのてがみ』・・・」


「・・・・・・」


「・・・・・・」




     じ~んとしてくる。





「アズは毎日毎日読んでくれた。

アズが小さい頃から一緒に読んでいた本を全部。」


「『がまくんとかえるくん』」


「『日曜日のパパとママ』」



「『ルドルフとイッパイアッテナ』」


「それ、アズが途中で挫折して、続きを僕が読んだ。

アズはそれを聴きながら、僕のギブスを枕にして寝てしまった。」


「なんてやつだ・・・」


「ハハ・・・」



「『なんじゃひなた丸』は?」


「それは最後まで読んでくれた。」


「字が大きくて短いもんね。」



「ハハ・・・、そうだな。」




     その笑い声を聞くと幸せな気持ちになる。


     私の想像を超えていたあなたの緊張が

     すこしずつ緩んでるといいな。





「そうそう『さむがりやのサンタ』は、

途中から黙って自分が見入ってしまうんだ。

“読んでくれよ”って言ったら“あっそうだった!”って。」



「ふふ・・・・」





胸がいっぱいになって、もう言葉を続けられなかった。
 
たぶん、その人も。





     二人、絶句したままこんなふうに

     潤んだ目で見つめ合ってたら、

     永遠にココアは飲めないね。





「終わらないね。この話。」


「あぁ。本棚の本、全部言い終わるまでな。」


「じゃあ、ココア作るね。」


「あぁ。」





スプーンを持つ手が、ちょっと震えた。









    ーーーーー











「おいしい?」



「あぁ。すごくおいしい。高梨家のココアの味です。」





言葉が途切れる。



昼間の買い物や土いじりの時の華やいだ会話が、

今はずいぶん遠く感じる。





ココアを飲み干してしばらくしてから、

やっとその人が言った。





「アズ、始めるぞ。」




     さっきからずっと心の準備は完了だよ。


     待機時間、長かったよ。





「はい。」




長いソファの端と端に座って、

二人とも同じ方向を向く状態で話が始まった。



最後まで泣かないでちゃんと聞くんだという、

私の気合いだけはすごかった。





「アズのおかあさんは、この家に初めて来た時、

音楽大学の1年生だった。

この家にはグランドピアノがあったから大喜びだった。

自分の家のピアノは手放したそうで。」





     ママが私くらいの時のことだね・・・




「とても優しくしてくれて、

僕は男兄弟しかいなかったし、ほんとの姉のように慕ってた。

僕は“シホねえさん”って呼んでいた。」




     ママの名前。

     この人の口から聞くとへんな感じ。

     なんか、ちょっとヤダ。

     なんだろう、この気持ち。




「大学2年の時、恋人が山で遭難して亡くなったんだ。

アズの父さんだ。」



「うん・・・・」



     そのことをまどかさんから聞いたのは、

     中学生のころだった。



「そして、3年になって、シホねえさんは赤ちゃんを産んだ。」



「・・・・・」




     だめだ、もう泣きそうだ。




「シホねえさんは、恋人の死のショックから立ち直るのに時間がかかった。

だから、アズの世話をするためには周りのサポートが必要だった。

まどかさんと僕と、親戚の人や、シホねえさんの友達や・・・

みんなで計画を立てて、いつも誰かがその親子のそばにいるようにした。」




     それ、知らなかった・・・・




「だから今でもアズのこと気にかけてくれる人、たくさんいるだろ。

アズが覚えてない人がいきなり抱きしめてくれたりしただろ。

それは、みんなアズが赤ちゃんの時、

アズたち親子のためにそばにいて見守ってくれた人たちだ。」



「・・・・・・」 




     もうダメじゃん・・・




気配を感じて、

その人がすぐ横に来て私の肩を抱いた。

かろうじて、しがみつくのを我慢した。

広い胸にもたれて、その深い静かな声を聞いた。




「僕はアズに夢中だった。

かわいくてしかたなかった。

サッカーをしてる時さえ、アズが今どうしてるかって気になった。

もちろんミルクも飲ませたし、おむつも替えたし、ご飯も食べさせた。」




     だから、おむつの話、しないでってば・・・・




「アズのお母さんが復学すると、まどかさんも仕事してたから、

僕が保育園の迎えに行ったりしたんだ。」



「え~~!?」



「ふふ・・・ベビーカー押して。」



「あぁ~~・・・」



「エライだろ。」



「はい。お世話になりました。」



「ハハ・・・」



笑ってるけど

     緊張したまんまだね・・・




「シホねえさんは、

学生の時からあの家でピアノ教室を始めたんだ。

アズが保育園から帰ってきてもまだレッスンは続いてることが多くて、

まどかさんの仕事も遅いし、

僕はアズを自分の部屋に連れていって、レッスンが終わるまで遊んでた。

中学の時、サッカーで遅くなった日なんか、

アズは暗い玄関で、ぽつんと座って僕を待ってることがあった。

アズにとっては、ママが保育園に迎えに来てくれても、

また生徒が来てレッスンが始まっちゃうんだ。

ママがレッスンしてて、まどかさんか僕が帰ってくるのを待つ夕方が

一日の中で一番寂しい時間だったと思う。

暗い中で僕を待ってて、

“ちゅうにいちゃん、おしょいよ”って泣いた。」



     その人の声が、ちょっとかすれたような気がした。


     暗いなかで誰かを待ってた。

     確かに、そんな気がする。


     小さくて、ちょっとかわいそうなアズ

     あなたがいてくれてよかった。
   



「そんな日は、レッスンが終わってもアズは僕にくっついたままだ。

ママに拗ねてたのかもしれないな。

寝るまでくっついてた。」




「大変だったね。」



「ほんとだ。大変な子だった。

風呂上がりに歯磨きをして

そして僕の膝の上で絵本を読んで、

シホねえさんがジムノペディーを弾いて、

気持ちよさそうに目を閉じる。

そのまま抱き上げてベッドに運んで、

アズの一日が終わる。」



「大変な子で、幸せな子だね、アズって・・・」



「あぁ。そうだ。幸せな子だ。」



「・・・・・」


「・・・・・」




どうしても涙をとめることができなかった。

その人の胸に顔をくっつけるのと同じタイミングで、

ぎゅっと強く抱き寄せられた。




「続き、話して。」


「いいか。」


「はい。」




いよいよだと思っても、もう気合いが入らない。

がっちりと守るようにまわされたその人の腕から

流れてくるぬくもりを頼りに、

これからの時間を過ごすのか。




「シホねえさんは一日の間に何時間もピアノを弾いていた。

家にはいつも音楽が流れていて、

いつか僕も、見よう見まねで弾いていた。

だからシホねえさんの最初の生徒は僕だな。」



「いつくらいから?」



「アズがまだ歩き出す前だったから、

アズは1才前後、僕は10才か11才くらい。

シホねえさんは、21才くらいかな。」



「まだちっちゃいね。

ママは若いね。きれいだった?」



「あぁ。とても・・・」


「・・・・・・」




     なんでだろう・・・


     胸が苦しい。




「アズは、よく似ている。」


「・・・・・」



「ママのこと・・・
     
     好きだったりした?」



「アハハ・・・

好きだったけど、男と女とかじゃない。

ねえさんだった。ほんとに。

優しくてきれいな、僕の自慢のねえさんだった。」



「・・・・」


     
「気になるのか?」



「違うよ。」



「あっ・・そうだ。

アズは、シホねえさんと僕がレッスンしてると、

やきもちを妬いた。」



「え?」



「休みの日に、僕がピアノを教えてもらっていると

アズはぷりぷり怒って拗ねて、

ハサミで、庭に咲いてる花をぜんぶ切っちゃったんだ。」



「わぁ。」



「シホねえさんは、すぐにアズの気持ちを察して、

“わぁ~これでおうちいっぱいにお花が飾れるね!”って言った。

アズを抱っこして、

“お花をいれるかびんをいっぱい出さなきゃね”って言った。

そしたらアズは、“ごめんなさい”って、わーわー泣いた。

花瓶だけじゃ足りないから、食器棚からもあれこれ動員して、

家じゅうに花が溢れた。」






     胸が震える。

     ちいさくて、やきもちやきで、おバカなアズ。

     優しくて、かしこいママ。



     その時のママを、覚えていたかった。

     






「シホねえさんが病気になった。」



「・・・・・」




     始まるんだね・・・





「アズは毎日学校の帰りに病院に行って、

そこで宿題をして、学校の話をして、

お母さんに本を読んであげたり、

体をさすったりした。

一生懸命だった。」



「少し、覚えてる。」



「そうか。覚えてるか。」


「“くまたくんのおるすばん”を読んでいて、お話の中でね、

最後にママがお出かけから帰ってきてね、

くまたくんがママにしがみついて『おかえり』って言うんだけど、

そこを読んだ時に私、急に泣き出した。」



「あぁ。そうだ。」



「そこにいたの?」



「あぁ。

その日から、アズは一人で眠れなくなった。」



「・・・・・・」





     一度壊れた涙腺は、

     今日中の復旧は無理だろう。

     
     たぶんこのまま・・・

     その人のシャツを濡らし続ける。





「毎日病院に行っていたけど、

途中から、アズはもう見舞いを止められた。

まどかさんと僕が相談してアズを病院に行かせないことにしたんだ。」



「なんで!?」



「シホねえさんの容態は急激に悪くなっていって、

痛みを止めるために大量にモルヒネを打っていたから、

幻覚や妄想が生まれて、普通の状態じゃなくなったんだ。」


「私には見せられないくらい?」


「あぁ。」


「あなたは見たんですか?」


「あぁ。」


「どんなだった?」


「・・・・・そうだな・・・

いろいろ見えるはずのないものが見えたり、

今日まで押さえていた思いが溢れて激しい言葉になったりする。」



「どんな言葉?」



「よく覚えていない。ただ叫ぶように出る言葉。」




     ほんとは覚えてるけど言えないの?



     でも・・・・

     私はきっと見た。


     ママがあなたにしがみついて・・・

     大声で・・・・




静かに体を起こして、その人から離れた。


その人が、“ん?・・・”と問いかけるように私を見た。

緊張した顔で。



「ママは、なんであなたにしがみついていたの?」


ゆうべ聞きそびれたことをもう一度聞く。




     でも、怖い。

     もしかして、これが核心のこと?




「アズ・・・・

今から一番大事なことを話す。」




     やっぱりそうなんだ。



「はい。」






「シホねえさんは、意識が正常な時は、

アズにとても会いたがった。

“会いたい、会いたい”と何度も言って、

なんで来てくれないんだろうと、しょんぼりしていた。

でも、モルヒネのせいで幻覚や妄想が出てくると、

違う人のようになってしまうから、

まどかさんは、意識が正常なときに短時間会わせたいと思ったんだ。」





またさっきみたいに並んでソファに座っている。

核心のところは、ちゃんと前を向いて座って聞きたい。

膝の上で組んだ両手に力が入る。




「まどかさんが付き添っているところに、

ぼくがアズを連れて行った。、

少しの時間だけど、シホねえさんはアズと話すことができた。

アズに“とっても会いたかったよ”って言った。

そしたらアズは“アズもだよ”って言った。

でも、アズは前みたいに抱きついたりしなかった。

お母さんが差し出した手を、そっと握っただけだった。

会話はそれだけだった。」




     私は何かを感じてたのかな。


     何を?




「その時に、急に痛みが来たんだ。」



「!・・・・」



「アズを外に連れ出そうとしたんだけど、

アズは絶対イヤだと言った。

“ここにいる!ここにいる!”って言って・・・・

それでも僕はアズを抱えて廊下に出た。

その姿を見たらショックを受けると思ったから。

でも、僕の手をはらって、

アズはまた病室に走って戻ってしまった。」



「・・・・」



「病室に戻ると、

シホねえさんは、叫びながら僕に手を伸ばして、

アズのお父さんの名前を呼んだ。」



「え?」



「シホねえさんは、混乱するとよく僕をアズのお父さんと間違えた。

まどかさんによると、背格好や顔立ちが似てたそうだ。」



「・・・・・・」



「そして・・・・

その日は、いつもとちがった。

シホねえさんの、最後の時だったんだ。」



「・・・・・・」



「そんなに早く来るとは誰も思っていなかった。

突然だった。」




     自分の体が小刻みに震えてるのがわかる。





「シホねえさんは、僕に“抱いて”って言った。」





     思わず両手で口をおおってしまった。


     

「そっと抱くと、

“違う!早くベッドに入って、ちゃんと抱いて!”って。」



   
     苦しい・・・




「僕はベッドに入って抱きしめた。

シホねえさんが、“キスして!キスして!”って叫んだ。

そして何度も、アズのお父さんの名前を呼んだ。

僕は・・・

何度もキスをした。」


 

    “いやだ・・・・”

    “ママ、どうしちゃったの?・・・・”

    “なにしてるの!?”

    “ちゅうにいちゃん、ママに何するの?・・”





「アズ、大丈夫か?・・・」



「・・・・・」



「アズ?・・・」



「続けて。」



「・・・・・」



「早く続けてください。」



「シホねえさんは、最後にすごい力で僕にしがみついて、

そのまま息をひきとった。」



「えっ!・・・・・」




「アズは、その全部を見てた。

全部を見たあと、気を失って倒れた。

そしてそのまま・・・・・

僕を忘れた。」





「・・・・・・・」






     あぁ・・・・


     どうしよう、震えがとまらない。




     その人の腕がのびてくる。


     私を包もうとして。

     私を温めようとして。

    

     でも、いやだ。

    

     今は私に触れないで。

     

     こんな話を聞いたばかりの私に、

     触れたりしないで。




     やめて・・・・


     サワラナイデ・・・・





     悲しいな・・・


     苦しいな・・・


     コッチニコナイデ・・・・

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