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再生-イタリア紀行 with J #1 <1日目 / ジェノバ、夜①>

 

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あと1時間ほどでミラノに着く。
久しぶりに仕事を離れてのイタリアで、といっても100%オフではないけれど、
それでもケイの気持ちは軽かった。
ただひとつ、出発前に受けたメールをきっかけに、8年前の記憶が時おりよみがえることを除いて。

私とイタリアの関係はあのときから始まった。
それは仕事に行き詰まってとった充電休暇だった。
迷った末に、大学の先輩であり恋人でもあったYとやっていた小さなデザイン会社をたたみ、
貯金をはたいて、初めてこの国を訪れたのだ。

5月のローマ、黄色のエニシダが目に浮かぶ。
遺跡の崩れた石壁も、こんもりと茂る松の枝も、スーツケースを引くのに苦労した石畳も、
なにもかもが私を歓迎してくれていた。

そして7月の終わりに、Aが来たのだ。
大学を出てから2年後に偶然出会って、別れて、そしてまたその3年後。

あそこから再び始まった。
裏切りが、待ちわびる夜が、胸をえぐる痛みが。
想いが深まるのと同時に、増大する苦い失望。
願っても叶わぬことを知っていたから、何も願おうとしなかった日々。
それでも押さえ切れなかったあの荒れ狂う嵐のような私の熱情を、なんと呼べばいいのだろうか。

『レディース・アンド・ジェントルマン…』と機内アナウンスが入って、ケイは我にかえった。
アナウンスは、天候不順のため飛行機がミラノのマルペンサ空港に着陸できないこと、
受け入れ先空港がジェノバになったことを告げていた。

『ジェノバか、私たち今回はラッキーなのかな』
少し心配そうに大きな目を見開いてリエが言った。
『そうかもね、リエちゃんの失恋旅行だからきっと神様が味方してくれたのよ。』
やさしい姉のような眼差しでハルエが答えた。

『だったらいいんだけどね。でもイタリアのことだからまだ安心できないわ。
とにかく無事到着してホテルに着くまではね。』
仕事モードの顔になり、ケイが応じる。
何が起こるかわからない、イタリアはそんな国なのだ。

ほぼ2時間後、飛行機は無事にジェノバに到着した。
ミラノへはバスが出るというが、目的地がジェノバだったケイたち三人はここで降りることになる。
ケイは係員をつかまえてそのことを確認し、
荷物が間違ってミラノ行きのバスに積まれないようにと念を押した。
『あなたたちラッキーだね、大丈夫、問題ないよ。』と、係員はニコニコと応じてくれた。

『あのー、すみません…』
日本語でケイに声をかけてきたのは背の高い東洋人の男だった。
アクセントから日本人ではないとわかる。年齢はケイよりすこし下だろうか。
すぐそばでケイと係員のやりとりを聞いていたようだ。
『ボクもここでで降りたいのですが、ミラノまでのチケットだからダメと言われました。
なんとかして欲しいとイタリア語で頼んでもらえませんか?』

英語でそう言うのを聞くと、係員は露骨にいやそうな顔をした。
『だからさっきも言ったように、ミラノ行きの荷物は別になっていて、
もう積んでしまったかもしれないんです。』
その男は困ったような顔になったが、どうやらこのまま引き下がるつもりはないらしい。
『バスに積んだのなら僕が自分で探して引き取ります。』

ケイはその係員のいかにも面倒くさそうな態度が気に食わなかった。
女には甘いくせに男には敵対心をむき出しにする、
特に自分よりハンサムな男にはぜったい余計な親切はしない、どうやらそんな輩らしい。

『何で私たちはOKで、この人はダメなの?
どうせバスの準備ができるまでずいぶん時間がかかるんでしょう?
どっちみち乗客の予定はがたがたなんだから、少しは便宜を考えてくれてもいいじゃないの。
イタリアって、もっと融通のきく国じゃなかったかしら。
これじゃまるで規則は絶対曲げないどこかの頭の固い国の人たちと変らな…』

イタリア語でまくしたてるケイの勢いに気おされたか、痛いところを付かれたからか、
いやきっと面倒をさけたかったのだろう、最後まで言う前に係員の態度が変った。
『わかりましたよ。荷物はこの先の駐車場で積み込みますので、そこで引き取って下さい。
それからカウンターの女性にミラノに行かないと告げて、リストからはずしてもらって下さい。
でもあとで文句を言わないで下さいよ。』

係員が行ってしまうと、男はケイに向き直って微笑んだ。
無精ひげのために顔のラインはぼやけており、
薄い色のサングラスに覆われて目の表情もよくわからない。おまけに目深に帽子をかぶっている。
しかし白い歯がこぼれるその微笑みは暖かく、感謝の気持ちに溢れていた。

『ありがとうございます。イタリアご、かっこよかったです。』
『日本語お上手ですね。』
『いえすこしだけです。でもたすかりました。おれいにあとでのみものでもごちそうしますよ。
じゃあしつれいします。』
去っていく男の後姿をみながら、ケイはその声を反芻していた。
聞き覚えのある声、それにあの微笑みも…

『ケイちゃん、どうしたの?』
『ああ、ハルさん、なんでもないのよ、ちょっと交渉の手伝いをネ。
それよりリエちゃんだいじょうぶ?』
『ええ、やっぱり日本を離れてよかったんじゃないかな。表情が少し明るくなったもの。』

リエはターンテーブルを前にぼんやりと立っている。
まだ詳しい話は聞いていないけれど、大人になってかかったはしかが重いように、
恋愛らしい恋愛もせずにずっときて、
30才を過ぎて初めて味わった失恋がことのほかこたえているようだった。

赤みの強い茶に染めた、ちりちりにパーマをかけた長い髪、
大きな目をさらに大きく見せる濃い化粧、紫と赤のプリントのシャツ。
何から何まで派手ないでたちだが、ケイの肩ほどにしかない身長のせいで、
まるで舞台に立った妖精のようだ。
その見かけと違って、内面に少女の純粋さと繊細さを隠し持っているのをケイは知っていた。
数年前、イタリア語のブラッシュアップのために通っていたトスカーナの田舎町の学校で知り合って、
それ以来のつきあいだった。

そのリエをあたたかく見つめるハルエはリエとはふたまわり、ケイとだって十何歳か歳が違うのに、
まるで気心がしれた少し年上の姉のように話があうひと。
リエが地元のイタリア語教室で知り合って、
いつの間にか時々三人でイタリア旅行をする仲になっていた。
長くイギリスに住んでいたせいか、さっぱりとした自己主張とすっとイタリアの雰囲気になじむ自然さ、
そして豊富な知識が旅の道ずれに最適のひとだった。

ターンテーブルから荷物が出てくるまで30分くらい待っただろうか、
スーツケースをころがしてEXITと表示のあるドアを出ればもうそこはタクシー乗り場だ。
イタリアの地方空港は、たとえジェノバのようにヨーロッパの他の国とダイレクトに結ばれた国際空港であっても、それほど大きくはないのだ。
タクシー乗り場のすぐ向こうは駐車場で、そこには自家用車がすきまなく並んでいる。

ミラノ行きのバスはここから出るって言ってたな。
周りを見回してバスを探している自分に気づいて、ケイは自嘲気味につぶやいた。
『ばかだな私。ご馳走してくれるって言ったの、期待したりして。』
『何の話?』リエが訊ねる。
『さっき、ちょっとお手伝いしてあげたのよ。
あとで飲み物をおごるって言ったくせに、さっさと消えたわ。恩知らずなやつね。』
すると建物の壁にもたれていた男が夕闇の中から声をあげた。

『おんしらずじゃありません。』
『あら、まだいたの?もしかして私たちを待ってた?』
『もちろんです。ぼくは、やくそくはまもります。
タクシーおおきいのでいっしょにいきましょう。』
『それはいいけど、あなたはどこまで行くのよ。』

『ケイちゃん、こちらは?』
『ああ、さっき少し通訳してあげたの、えーとお名前は?』
答えるまでの間合いが、ほんの少しだけ長いように、ケイは感じた。
『ジェイと呼んでください。』

『はじめまして、よろしく、ハルエです。どちらから?』
日本人ではないと見て取るとハルエは自然に英語を話す。
『こんにちは。リエです。』こちらは日本語だ。
『かんこくからきました。』
韓国、とするとやはり彼は…

彼が、自分をじっと見つめているケイに視線をもどした。
『ケイよ。よろしく。』
『よろしくおねがいします。』
彼はケイの視線をほんの数秒うけとめ、そしてさりげなくはずした。

『あ、おおきいタクシーがきました。さあのりましょう。』
運転手が荷物を積み終わると、彼は右手で後部座席のドアを開け、
左手をうながすように広げた。

まずハルエを乗せる。
リエが乗り、最後にケイが乗り込もうとしたとき、彼の左手が軽くケイの背中に触れた。
ほんの一瞬触れられただけなのに、その部分が熱を帯びたように熱くなった。
彼は静かにドアを閉め、助手席に乗り込んだ。

『ホテルC・・・へ、お願い。』とケイが後ろから運転手に告げた。
『あなたは?』
『ぼくもそこでおりて、のみもの、いえゆうしょくをごちそうします。』
『いいのよ、そんなこと。さっきのこと気にしないで。
それでもお礼をしたいって言うんだったら、タクシー代おごってくれればいいわ。』

背中の熱がゆっくりと全身に広がっていった。

『そうよ、ケイちゃんにとってはちょっと通訳するくらい仕事のうちにも入らないんだから。
気にすることないわ。』とハルも言葉を添える。
『いえ、それではぼくのきがすみません。』

『きれい』
つぶやくようにもらしたリエの言葉に、三人は話をやめて窓の外に目をむけた。

ちょうど車は港に沿った道路に入ったところだった。
車の左側と前方には灰色のビルが立ち並び、
世界中どこにでもあるような都市の風景が広がっているのに、一転して右は濃い藍色の海で、
両者は全く違う表情を見せていた。

その海のうえに、オレンジ色のおびただしい数の光がただよっている。
いやオレンジの光は海の上の船だけでなく、海の手前の港の建物をも飾り立てていた。
その光は落ち着いていてけっしてきらびやかではない。それなのに心を騒がせる力があった。

ジェノバは地中海ではマルセーユと並び称される規模の港だ。
全長は30キロメートルにも及ぶ。
タクシーがかなりのスピードで走っているにもかかわらず、港は全く途切れるそぶりを見せない。

不思議なのは夜の闇にかくされているからか、港特有の無機質な色が一切ないことだった。
イタリアのどの街の夜とも同じオレンジの光が、それがローマなら遺跡を照らし出すのを、
ジェノバでは船と海と、舞台の上の書き割りのような建物を照らしていた。

やがてタクシーは左折して、港は背後に失われていったが、
ケイの心にばらまかれたように灯るオレンジの光が、
背中から全身に広がった熱に呼応して、点滅していた。

ビルの谷間を抜け、しばらく走ると、急に街の色合いが変る。
コンクリートの色から古い石の色へ。
車は大きな噴水を廻りこみ、バロックのごてごてした装飾でかざりたてられた二つの建物の脇をぬけ、
ファサードに巨大な柱の何本かで回廊をおいた建物を過ぎる。
旧市街に入ったのだ。

『フェッラーリ広場。そして劇場。』
運転手がぶっきらぼうにつぶやく。

大通りから細い道を左折するともうそこがホテルだった。
ジェイから代金を受け取ると、運転手は当然のように全員の荷物をおろした。
ホテルのボーイが気づいてすぐに出てくる。
荷物は自分が運ぶから、とうなづき、ドアを開けてくれる。

ケイはチェックインのためレセプションに向かいながら、彼の荷物はここで預かってもらい、
飲み物の一杯でもおごってもらおうと決めていた。
彼はどうやら言い出したことをあとにはひかないタイプのようだから。
それに、もしかしたら、という疑問を確かめてみたかった。

そう、そのときはただそれだけのことだと、思っていた。

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